アジア杯でモルテンが公式試合球に/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.01.07 15:00 Mon
みなさん、明けましておめでとうございます! 本年もよろしくお願いいたします。
そんな今回のアジアカップでは、大会を始め2019年はAFCカップや男女年代別国代表の大会、フットサルイベントなどの大会で、日本のボールメーカー大手モルテンのサッカーボールが公式試合球として使用されることになった。AFCが主催する大会にモルテンが試合球を提供するのは初の試みでもある。
日本代表は昨年末の練習初日から、今大会の公式球であるモルテンのサッカーボールを使い、その感触を確認していた。GK東口によると「使っているのと違うので、早く慣れないといけない。結構、表面が硬い。アディダスは芯を食いやすいけど、ちょっと薄いかな」と感想を漏らしていた。
モルテン社の躍進については別の機会に紹介するとして、今回は日本代表とサッカーボールにまつわるトリビアを紹介しよう。
1984年のロス五輪最終予選前まで、日本代表は国産メーカーのヤスダ(昨年、クラウドファンディングでスパイクが復活)やミカサのサッカーボールを練習で使用していた。しかし五輪やW杯予選では、82年スペインW杯のために開発されたアディダス社の「タンゴ」が公式試合球だった。
このため当時の代表監督だった森孝慈(故人)はJFA(日本サッカー協会)に掛け合い、練習から「タンゴ」の使用を訴えて実現させた。いまから思えば当たり前のことだが、当時はそんなことすら思いつかないほど、日本と世界の距離は遠かった。
同様に、当時の代表ユニホームにとスパイクは、アディダス、プーマ、アシックスの3社が交代でオフィシャルサプライヤーを務めていた。日本代表がアディダスなら、学生選抜とユニバーシアード代表はプーマ、ユース代表はアシックスで、翌年は順番が入れ替わるといった具合だ。
余談だが、この循環はナイキの台頭により1999年にアディダスが日本代表と包括契約を結ぶことで終結する。ナイキのオファーに対し、プーマとアシックスの両社はナイキを上回るオファーを出せず、アディダスだけが近い金額を提示できたからだった。
話を森ジャパンに戻すと、当時の代表選手だった木村和司や金田喜稔らは、個人的な契約があったかどうか不明だが、アディダスのコパ・ムンディアルというスパイクを愛用していた。しかし日本代表との契約でアディダス社のスパイクを履くことができない年もあった。そんな時に彼らはスアディダスのパイクのラインを黒く塗っていた。
そこで森監督はサッカーボールと同様に、「選手が能力を発揮しやすいスパイクを履けるようにして欲しい」とJFAに提案し、当時の長沼専務理事(故人)も理解を示した。それ以降、サッカーボールは国際基準のボールを練習から使用するようになり、選手は個人契約しているメーカーのスパイクを履けるようになった。
いずれも、いまでは当たり前のことだが、それが当たり前ではない時代もあったのが1980年代の日本サッカー界だった。
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といったところで、高校選手権はベスト4が決定し、優勝候補の青森山田と流経大柏が接戦を制して勝ち上がった。この2校に尚志と瀬戸内がどんな戦いを挑むのか楽しみだが、残年ながらUAEで開催中のアジアカップ取材のため試合を観戦することはできない。そのアジアカップだが、5日に開幕戦が行われ、地元UAEはバーレーンと1-1で引き分けた。W杯もそうだが、国際大会の初戦で敗退するとグループリーグ突破はいきなりピンチを迎える。このため両チームとも失点のリスクを恐れて腰の引けたような試合の入り方だったのは致し方ないだろう。翌日には優勝候補の一角であるオーストラリアがヨルダンに0-1で敗れたように、簡単に勝てないのがアジアカップでもある。日本代表は昨年末の練習初日から、今大会の公式球であるモルテンのサッカーボールを使い、その感触を確認していた。GK東口によると「使っているのと違うので、早く慣れないといけない。結構、表面が硬い。アディダスは芯を食いやすいけど、ちょっと薄いかな」と感想を漏らしていた。
現在、日本で発売されているアディダスブランドのサッカーボールの多くは、モルテンからOEM供給がなされている。アディダスブランドの名の下でモルテンのサッカーボールは世界中のプレーヤーに認められた製品となっているのが現状だが、それでもボールの品質には微妙な違いがあるのかもしれない。
モルテン社の躍進については別の機会に紹介するとして、今回は日本代表とサッカーボールにまつわるトリビアを紹介しよう。
1984年のロス五輪最終予選前まで、日本代表は国産メーカーのヤスダ(昨年、クラウドファンディングでスパイクが復活)やミカサのサッカーボールを練習で使用していた。しかし五輪やW杯予選では、82年スペインW杯のために開発されたアディダス社の「タンゴ」が公式試合球だった。
このため当時の代表監督だった森孝慈(故人)はJFA(日本サッカー協会)に掛け合い、練習から「タンゴ」の使用を訴えて実現させた。いまから思えば当たり前のことだが、当時はそんなことすら思いつかないほど、日本と世界の距離は遠かった。
同様に、当時の代表ユニホームにとスパイクは、アディダス、プーマ、アシックスの3社が交代でオフィシャルサプライヤーを務めていた。日本代表がアディダスなら、学生選抜とユニバーシアード代表はプーマ、ユース代表はアシックスで、翌年は順番が入れ替わるといった具合だ。
余談だが、この循環はナイキの台頭により1999年にアディダスが日本代表と包括契約を結ぶことで終結する。ナイキのオファーに対し、プーマとアシックスの両社はナイキを上回るオファーを出せず、アディダスだけが近い金額を提示できたからだった。
話を森ジャパンに戻すと、当時の代表選手だった木村和司や金田喜稔らは、個人的な契約があったかどうか不明だが、アディダスのコパ・ムンディアルというスパイクを愛用していた。しかし日本代表との契約でアディダス社のスパイクを履くことができない年もあった。そんな時に彼らはスアディダスのパイクのラインを黒く塗っていた。
そこで森監督はサッカーボールと同様に、「選手が能力を発揮しやすいスパイクを履けるようにして欲しい」とJFAに提案し、当時の長沼専務理事(故人)も理解を示した。それ以降、サッカーボールは国際基準のボールを練習から使用するようになり、選手は個人契約しているメーカーのスパイクを履けるようになった。
いずれも、いまでは当たり前のことだが、それが当たり前ではない時代もあったのが1980年代の日本サッカー界だった。
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