ボスニア・H新監督、負傷中のミランMFクルニッチを招集 「間に合うかもしれないという知らせを聞いている」
2023.09.30 14:32 Sat
負傷しているミランのボスニア・ヘルツェゴビナ代表MFラデ・クルニッチは10月の代表ウィークで試合に出場する可能性があるようだ。イタリア『ガゼッタ・デッロ・スポルト』が伝えた。
今シーズンはリーグ開幕からミランで定位置を掴んでいたものの、23日に行われたセリエA第5節エラス・ヴェローナ戦で負傷交代してしまったクルニッチ。検査の結果、右ハムストリングを損傷していることが判明し、少なくとも1カ月の離脱になると見込まれていた。
そんな中、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟は29日にサボ・ミロシェビッチ氏の監督就任を発表。ボスニア・Hはユーロ2024予選でアイスランド代表に敗れて本戦出場が絶望となったことを受け、8月に就任していたメホ・コドロ前監督を解任していた。
新指揮官となったミロシェビッチ監督は早速10月の代表ウィークに向けた招集リストを発表し、その中には代表ウィーク後の復帰が目標になるとみられていたクルニッチも含まれていた。ミロシェビッチ監督は「彼がその日程に間に合うかもしれないという知らせを聞いている」というコメントを残しているようだ。
ボスニア・H代表は10月13日にリヒテンシュタイン代表、16日にポルトガル代表と対戦。クルニッチはいずれかの試合でプレーすることができるのだろうか。
今シーズンはリーグ開幕からミランで定位置を掴んでいたものの、23日に行われたセリエA第5節エラス・ヴェローナ戦で負傷交代してしまったクルニッチ。検査の結果、右ハムストリングを損傷していることが判明し、少なくとも1カ月の離脱になると見込まれていた。
そんな中、ボスニア・ヘルツェゴビナサッカー連盟は29日にサボ・ミロシェビッチ氏の監督就任を発表。ボスニア・Hはユーロ2024予選でアイスランド代表に敗れて本戦出場が絶望となったことを受け、8月に就任していたメホ・コドロ前監督を解任していた。
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