西澤明訓 Akinori NISHIZAWA
ポジション | FW |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1976年06月18日(47歳) |
利き足 | |
身長 | 180cm |
体重 | 71kg |
ニュース | クラブ |
ニュース一覧
これを見ると金縛りに遭ってしまうかもしれない恐怖のリスト?! の巻/倉井史也のJリーグ
香川真司が復帰初ゴール!! おお!! もう決めたか!! って感じなんだけどさ。実は決められた鳥栖のサポーターから「嫌な予感がする」って聞いてたんですよ。昔、さんざんやられた記憶があって、それが怖いって。 もしかして、あれくらいの選手になったらその雰囲気だけで相手を金縛りにさせることが出来るんじゃね?でもって、まだまだゴールを挙げるんじゃね?ってことで、今回は香川がデビューした2006年からドルトムントに移籍する2010年まで、どのチームからゴールを奪っていたか調べてみたよ!! みんな、ビビりながら見るべし。 札幌:4 仙台:1 山形:2 水戸:9 鹿島:1 栃木:2 群馬:3 浦和:1 東京V:2 横浜FC:1 湘南:5 富山:1 甲府:4 岐阜:1 京都:2 神戸:1 岡山:3 広島:1 愛媛:5 福岡:2 鳥栖:2 熊本:2 なんと、2006年は出てないし、2011年はシーズン途中で海外移籍したから11試合しか出てないし、2007年から2009年はJ2だったし、というところでも合計55ゴール。結構みんなやられてますな。鳥栖って2失点しかしてないのにビビってたって、よっぽどひどいやらレ方したんでしょ。10年以上経っても悪い記憶って残ってるから、これは今年対戦する札幌、鹿島、浦和、横浜FC、湘南、京都、神戸、広島、福岡あたりは気を付けて!! それにしても、その当時のC大阪って、香川はいるわ、乾貴士、清武弘嗣、家長昭博、山口蛍、茂庭照幸、柿谷曜一朗、西澤明訓とか、とんでもないメンバーがゴロゴロいるんですけど、対戦相手はイヤだったろうなぁ。 <div id="cws_ad"><hr>【倉井史也】</br>試合当日は、はやる気持ちを抑えられずスタジアムに受け付け開始と同時に駆けつけ、選手のバスが両方行ってしまうまで名残を惜しむ。自慢は対戦カードの因縁をよく覚えていること。特にサポーター寄りのネタが得意。パッと見は若いが実は年齢不詳のライター。</div> 2023.03.18 12:30 Satスペイン戦振り返りとラウンド16展望/六川亨の日本サッカー見聞録
グループリーグが終わってみれば、“波乱の主役”は日本だったと言っても過言ではないだろう。フランスがチュニジアに、ブラジルがカメルーンに負けたのも意外だったが、すでにグループリーグ突破を決めており、両チームともスタメンを9人も入れ替えたのだから「必然」とも言える。 同じ過ちは日本もコスタリカ戦で犯したが、同じミスを結果的にスペインも犯した。左SBジョルディ・アルバに代えて19歳のアレハンドロ・バルデを初スタメンに起用した。若返りに積極的なルイス・エンリケ監督だけに、バルセロナでの実績からバルデを起用したのも頷ける。 しかし後半3分、トラップが大きくなったところを伊東純也に突かれ、こぼれ球を拾った堂安律に同点弾を叩き込まれる。さらに3分後、堂安のタテへの突破から逆転ゴールを許すことになった。 以前の堂安は、カットインしてからも相手を完全に抜き去ろうとボールを持ちすぎる傾向が強かった。久保建英と違い、タテに突破する回数が少ないことでカットインを読まれることも多かった。 しかし今シーズンの彼は、タテへ持ち出して右足でクロスを上げることも増え、シュートのタイミングも以前より早くなった。コースさえあれば、相手を抜き去る前に打つなど、すでにフライブルクでも欠かせない戦力になっている。 W杯でのゴールは、その後のサッカー人生を変える。それは稲本潤一や鈴木隆行、本田圭佑らが証明しているだろう。まだ大会は途中だが、年明けの移籍マーケットで堂安やブンデスリーガ2部の田中碧、さらには快足ドリブラーの三笘薫にどのようなオファーが届くのか楽しみでもある。 ドイツに続きスペインも撃破したことで、日本はグループEを首位で通過した。前半30分過ぎからの日本は、最終ラインを高く保ち、ガビやアルバロ・モラタらが下がってボールを受けようとしても、谷口彰悟と吉田麻也らがマンマークで食らいついてティキ・タカを封じようとした。 前半終了間際には2人ともイエローカードを受けたが、これくらいしないとティキ・タカは止められない。ドイツが試合の流れを引き寄せるため、スペイン戦の後半開始直後に見せたプレーでもあった。 日本がグループリーグを首位で突破したのは02年日韓大会以来2度目の快挙である。当時の日本は、第3戦のチュニジア戦を大阪で戦った。グループリーグを「2位通過」と想定し、ラウンド16ではグループC1位のブラジルとの対戦が濃厚だが、それもやむを得ないとして決戦の会場を神戸にした。大阪から神戸なら移動のストレスがないからだ。 ところが日本はグループHを首位で通過したため、ラウンド16は仙台でトルコと対戦することになった。FW柳沢敦を体調不良で起用できなかったことも痛かったが、フィリップ・トルシエ監督はノルマのグループリーグ突破を果たしたことでトルコ戦は「ボーナス」と言い、西澤明訓とアレックス(後の三都主アレサンドロ)を初スタメンに起用。しかし“奇策”は実らず0-1で敗退した。 幸いカタールW杯はほとんどがドーハ市内か近郊の都市で開催されているため、移動のストレスはない。そして当コラムでも指摘していたが、ドイツ戦とスペイン戦の行われたハリファ国際スタジアム(厳密にはドーハ郊外のアル・ラーヤンにある)は11年のアジアカップ決勝で、延長戦の末にオーストラリアを倒した縁起のいいスタジアムでもある。 当時のハリファ国際スタジアムは開催国のカタールがグループリーグで使用したため、日本は決勝までプレーすることはなかった。今大会ではラウンド16の1試合と3位決定戦しか使用されないため、日本がここでプレーするにはクロアチアとブラジル対韓国の勝者を撃破しなければならない。 そんなスタジアムの“験担ぎ”に頼らず、まずは実力でクロアチアを倒して欲しいところ。会場は初めてプレーするアル・ジャヌーブだが、条件はクロアチアも同じ。ノックアウトステージは延長、PK戦もあるだけに総力戦の戦いになることは間違いない。 唯一の気がかりは、前回のロシアW杯でクロアチアは決勝以外の3試合で3度の延長戦を経験していることだ(うち2試合はPK戦の勝利)。できれば日本は90分間で決着をつけたい。<hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.12.03 17:00 Sat【引退会見全文】J史上最高のストライカー、大久保嘉人「本当に最高のサッカー人生」「今は整理もついてスッキリした気持ち」
セレッソ大阪の元日本代表FW大久保嘉人(39)が22日、引退記者会見を実施した。 19日にクラブから今季終了をもって引退することが発表された大久保。JリーグではプロデビューしたC大阪をはじめ、ヴィッセル神戸や川崎フロンターレ、近年ではジュビロ磐田や東京ヴェルディなど6チームを渡り歩いた。また、2005年から2006年にかけてはスペインのマジョルカ、2009年1月から半年間はヴォルフスブルクでプレーするなど、20代半ばに海外挑戦も果たした。 J1通算191ゴール(11/22時点)の最多ゴール記録を誇り、3年連続でのJ1得点王と、成し遂げることが困難な記録を作り続けた大久保。引退発表には各方面から惜しむ声が届く中、記者会見に臨んだ大久保は冒頭から涙を流し、時折言葉を詰まらせながら、引退決断の経緯や、これまでのキャリア、引退後のこと、そして家族のことなどを語った。 「大久保嘉人は…今シーズンをもって…引退します」 「20年間という長い間でしたけど、本当に最高のサッカー人生でした」 「まだ、伝えたいことが本当にたくさんあるんですけど、皆様に感謝したいと思います。ありがとうございました」 ー(司会)今日はどんな引退会見にしたいと思っていますか 泣かない予定でしたが、速攻で泣いてしまいました。すいません。本当に素晴らしい会見にできたらと思います ー(代表質問)まだまだプレーできると見ているが、今回引退を決断した理由は 自分はプロになった時に引退はこういう引退がしたいなというプランがありまして、そうなるかは自分次第でわからないと思っていましたが、自分が動けるうちに、まだまだできるだろうと言われるうちに辞めたいと思っていて、それが今なのかなと思い決断しました ーJ1通算200ゴールまであともう少しだが、もったいないなと思うことは それは結構言われるんですけど、取りたいという気持ちはやっぱりありました(涙) だけど、まだまだ自分の力が足りなかったのかなと思っています ー今回の引退を決断された時に誰かに相談したか 特には相談しなかったです。自分がこういう性格で、決めたことは曲げないので、気持ちは固めて、すぐ妻に伝えました ー引退を伝えたときの奥様のご様子は 本当にそれで良いの?という感じでした。まだ整理がついていない感じでした ー子供たちにはどう伝えたか 決めて、発表する前日に横浜に帰りまして、長男も部活、次男もサッカーで帰ってくるのが夜10時過ぎで、帰りを待っていて椅子に座らせました 伝えようとした時に察したと思うんですが、自分がサッカーを辞めることではなく、5人目?女の子?と言われまして、そうじゃなくて、サッカーを辞めると伝えました ー伝えた時の子供たちのの反応はいかがでしたか 長男はもう分かっていると思うので、隠しながら、「お疲れさん」と言っていました。一緒に暮らしていないので、また一緒に暮らせる嬉しさと、サッカー選手じゃなくなる寂しさがあったように僕は見えました 三男は一緒に住んでいるので、大阪の友達ができて、もう別れるのという寂しさと、また家族で住める嬉しさを、今もどう表現して良いかわからない感じです ーお母様にはどう報告をされたか 辞めると決めていたので、今シーズンで辞めるねと電話しました ーその時の反応はいかがでしたか ダメとか、戸惑った感じは自分には見せていなかったです。ただ、妻と電話で話した時は寂しさはあったと思います ー最後はセレッソの選手として終わることとなりました。その気持ちは それについては、自分が最初に入ったチームがセレッソ大阪で、セレッソ大阪がなければ、自分がサッカー選手としてここまでやれていなかったと思いますし、このセレッソ大阪で全てを学び、移籍して色々なことを伝えられるようにもなりました まさか1回移籍して、色々なチームを渡り歩いて、またセレッソ大阪に戻してもらえたことは感謝しかないです 自分にはセレッソ大阪しかないんだなと。今、そういう思いでいっぱいです ー大久保嘉人にとってサッカーとはどんなものか 小さい時からサッカーをしてきて、自分がプロになり、子供たちに夢を与えられる仕事だと思っていました ー改めてファンへメッセージを 自分はこのサッカー選手になって、自分という、こういう汚いプレーヤーでしたけど、その中でも全然悔いはないですし、サッカーの時と普段の時の性格は全く違いますけど、サッカーで自分を貫き通せたことはあり、ここまでよくやってこれたなと自分でも誇りに思います そういうのは真似しない方が良いことはたくさんありましたが、それもサッカーだと思っていたので、悔いなくサッカー人生を終えられると。今は幸せです ー今回引退を決断されたタイミング、最大の理由は 引退を決断した時は、11月16日です。本当に最近なんですが、ふと車の中だったり、家に帰ったり、1人の時間が多い時に、ここ最近は引退しようかなと思っていた時もありましたし、そう思っていた時にメンタル的なこともそうですが、20年間苦しい思いの方が非常に強くて、それを見せないようにしないといけないなとずっと思っていたので、ずっと細い糸がギリギリ繋がっている状態でやっていました その中で1人になった時に、ここで辞めた方が良いのかなとふと思い、家でその場で決めて、すぐ妻に伝えました ー選手やOB、ファン・サポーターはまだやれる、寂しいという声もある。尊重するという前提がありながら、そういった声に関してはどういう思いが 一緒に戦った仲間だったり、ファン・サポーター、対戦したチームの関係者、選手だったり、皆さんには、自分としては感謝しかないです 一緒に戦っている選手たちには、これからサッカーを楽しんで欲しいなという気持ちと、もっともっと上を目指して、やって欲しいなというのを、これから伝えていきたいかなと思っています ープロ1年目の自身から考えて、J1最多得点、3年連続得点王を経て、今の姿はどう写っているか 1年目からメチャクチャで、長くサッカーはできないだろうと思われていたでしょうし、自分でも長くサッカーはできないと思っていました まさか39歳までやれるとは思っていなかったですし、得点王を3年連続取ることも想像していなかったので、思っていた以上のサッカー人生を送れました。幸せのまま終われると思います ー今後のことについてはどう考えているのか シーズンが終わっていないので、まだですが、シーズンが終わってこれから話し合いながら、色々なことにチャレンジしたいなと思っています 今すぐ言える目標はゴルフで90切りをやりたいなと。早めに切れたら良いなと今は思っています ーこの20年間、どう自分と向き合ってきたのか 自分は逆境に立ち向かっていかないと力が出ないタイプの選手だったので、このまま行ったら這い上がれないと思った時は、記者の皆様に自分にプレッシャーをかけるようなことを言って、そのように色々書いてもらったり、そうなると自分にプレッシャーがかかりますし、そこで立ち向かっていくということを20年間やってきました ーヒザのケガを抱えていた時期もあり、ケガとの戦いもあったと思う サッカー選手である以上はケガはつきものだと思いましたし、痛みに強く、ケガしていても弱いところは見せたくなかったです 大きなケガの時以外は、あまり休むことなく、やり続けてきました ー一番印象に残っている場面、シーンは いっぱいあります。入団した時のジュビロ磐田戦の初ゴールは自分のキャリアがスタートしたなと思いますし、その場面がすぐ浮かんできます ーやんちゃなプレー。色々と、そう言われてきたことについてはどう思っているか そういった選手がなかなかいなかったので、そういう選手でありたいと思っていましたし、やんちゃだとか、退場も多かったですし、言ってくださったことは自分らしいと思ってもいました それはサッカーの時だけですけど、突き通せたことは自分らしいかなと思いましたし、そこは誇りに思って辞めていけるかなと思います ーまだまだやれると言われることへの気持ちの整理は 200得点は誰よりも思いが強かったですし、そのチャンスがあるのは自分だけだったので、取れるまでやれとしか言われませんでした 自分の中でも良かったら取れるだろうし、悪かったら何年かかるかわからないので、今やめた方がスッキリするのかなと思っていました 皆さんに伝えたときは本当にスッキリして、言われることもないという気持ちで、今は整理もついてスッキリした気持ちです ー今後の日本サッカーについてどういう期待をしているか これからは日本サッカー界も色々な外国籍選手だったり、スーパースターも来たりすると思います。もっともっと盛り上げて、みんなが目標とするリーグになって欲しいと思っています ー息子(三男)と一緒に暮らして子供の成長、自身の成長はどうだったか 三男と2人暮らしで、今まで洗濯も家事も何もしてこなかった自分がやらないと、三男が可哀想だなとか、ご飯食べさせないと痩せていくなと考えて、それを考えるだけでも成長したなと自分は思います 自分が思ったことで行動ができるようになったかなと思います。子供のためにやらないといけない。やらないといけないけど、面倒なのでゴロゴロしていたものが動くようになりました。そこは成長しました 三男は妻とかと住んでいた時は何も自分のことはできませんでしたが、今はしないとついていけない、やっていけないので、自分で洗濯物を干したりするようになりました 2人で苦しい環境に置けば成長するんだなとつくづく思いました ー今後は指導者の可能性もあるのか 今までの経験を伝えなきゃいけないと思います。指導者ということも、どう指導するか、ライセンスゼロなので分からないですが、もっともっとサッカーのことも知りたいし、勉強したいということもあります 他にも違うことにチャレンジしていきたいというのもありますので、少しゆっくりして考えていきたいと思います ーセレッソに復帰するときに森島寛晃社長も大きかったと思う。背番号20を背負うときは西澤明訓への思いもあったと思うが引退はどう伝えたのか 自分の中で決めて、お伝えしました。辞めますと セレッソに戻ってこれたことに感謝していますし、恩返しという気持ちできたと伝えました ー2人からの言葉は まだできるだろうと言われました ー引退後の一番の楽しみは 今はゴルフに毎日行きたいぐらい、チャレンジしたいと思います まずは90切りを狙っていきたいなと。それを達成できたら、次の目標を立てて色々やっていきたいです 今のベストスコアは「91」です。あとちょっとです ーJリーガーを目指す全国の子供たちへメッセージを 今はサッカーを本当に好きになってもらって、これから大きくなっていくにつれて、大変なこと、上手くいかないことも出てくると思います そんな時にも投げやりにならずに、少しずつでも良いので、努力して、コツコツやることで後で大きくなり、自信につながる。諦めずに苦しいことにも立ち向かって、頑張って欲しいなと思います そうすると夢が叶うと僕は思っています ーライバル視していたDFの方、影響を受けた攻撃の選手は ディフェンスの選手は特にライバルという風に全く見たことがないです。凄い選手は一杯いましたが、僕はどう崩して点を取ることしか考えていなかったので、ライバルはいません 前の選手は森島さんに憧れてセレッソを選びましたし、森島さんを抜かないと試合に出られないと思っていたので、森島さんから全てを学んで、いつか抜ければ良いなと思って頑張ってきました ー天国のお父さんににどんなことを伝えたか (涙が止まらない大久保)やっぱり凄く厳しい父でしたけど、父が居なければ、サッカー選手になれていないかなと思います 報告したら、よくやったなと言われると思います ーストライカーとしての矜持。191ゴール以外にも海外でもゴールを決めた。自分でどういうストライカーだったと思うか。嗅覚という言葉で表現してきたが、今だから言えるゴールの極意があれば 野生的と言われてきましたけど、動くところとかは野生的だったと思います ゴールを取るために、確率を求めていましたし、その中でも、自分は元々ストライカーではなく中盤の選手だったので、パスの出し手の気持ちも分かることもあり、逆算をしながら、常にプレーをしていました FWのところから後ろに下がって行ったりしましたし、それはボールを触りたいからではなく、DFを見ながらプレーをすることで、DFがついてくれば、空いたスペースを他の選手が使ったりすれば得点のチャンスが増えると思ったり、パスを出す、センタリングを出す選手の位置、ここにボールを置いたらこっちにしか来ないと思った時は、どう相手のことを動かすべきか、考えることが多かったです 野生的と言われましたが、凄く色々考えていましたと今は伝えたいです ーそんな中での会心のゴールは プロになる前からスペインリーグでやりたいと思った時に、プロに入って4年後にマジョルカからオファーをもらい、行って、開幕戦。デビュー戦でのゴールは、いつも緊張しない自分が試合前に緊張しました その中でのアシストとゴールは今でも本当に忘れられないゴールになっています ーサッカーという仕事で、よくあそこまでキレられるなと。ピッチの近くで見ていても、口に出せないようなことを言ったりしていた。なかなか感情を仕事の場では出せないものだが、それをやっていた。どこからその感情を出していたのか まずは一番負けず嫌いなところがあります。サッカーを始めた頃は負けても全く何も思わず、声を出さないことばかりで、声を出さないから試合に使わないと言われたこともあります どこかで自分に自信がついた時に、自分は発言することは自信がなければできませんでした。サッカーをやって自信がついてきたと思います 自分のために言っているのではなく、その人のため、チームのために言うことで後々響くと思っていました 伝えないといけないという。黙っていても伝えないとわからないこともあったので、言ってしまいました 言わなくて良いこともいっぱいありましたけど、それは自分の中で消化できないので、一応伝えておこうと言うことで、伝えていました それが自分の強みにもなりました 伝え方はキレているので悪かったかもしれないですが、伝えることで自分のプレーができるんですが、もっと落ち着けば良くなると言われましたが、大人しくなればプレーも大人しくなったり、力を出せなくなるとわかっていたので、感情を出して力、エネルギーを出していました それは出してやって行って良かったなと今になっても悔いはないですし、良かったです 2021.11.22 23:01 Mon引退する大久保嘉人へ偉大なC大阪の先輩、森島寛晃&西澤明訓がメッセージ「こんなに愛されたサッカー選手はいない」
22日、今シーズン限りで現役を引退する元日本代表FW大久保嘉人(39)が引退会見を行った。 19日にクラブから今季終了をもって引退することが発表された大久保。Jリーグではプロデビューしたセレッソ大阪をはじめ、ヴィッセル神戸や川崎フロンターレ、近年ではジュビロ磐田や東京ヴェルディなど6チームを渡り歩いた。また、2005年から2006年にかけてはスペインのマジョルカ、2009年1月から半年間はヴォルフスブルクでプレーするなど、20代半ばに海外挑戦も果たした。 現役最後のクラブは、自身がルーキーとして入団したC大阪。当時のチームメイトだった森島寛晃氏はクラブの社長となり、大久保を復帰させた。 引退会見の最後に森島社長が花束を贈呈。最後に大久保へエールを送った。 「嘉人、20年間、今シーズンは終わってないですが長い間現役生活お疲れ様でした」 「18歳、高校卒業してC大阪に入って、久しぶりにというか、初めてこんなに負けず嫌いで、常にゴールを目指す選手は見たことないなと言うのが、最初の入ってきた時の印象です」 「時には試合の中で、西澤選手に凄く怒られたり、レフェリーの皆さんに勝ちたいという思いから色々ご指導意頂くことも多々ありましたが。勝負に対して最後まで諦めない姿勢を出せる選手だなと思います」 「日本から世界で活躍して、191ゴールという素晴らしい日本のサッカー界を引っ張っていっている、改めて素晴らしい選手だったなと思います」 「選手は引退しますが、日本のサッカー界を今までの経験を是非とも色々な形で伝えて行って欲しいなと思います」 「今日の会見を見ても、やんちゃなピッチでの一面じゃない、嘉人の良さが非常に伝わってきて、最後残り試合もあるので、是非そこで思い切ってみんなにその姿を見せてもらいたいと思います。長い間お疲れ様でした」 また、当時のエースであった西澤明訓氏も登場。今季の大久保が背負う「20」は西澤氏が現役時代につけていた番号であり、偉大な先輩からもエールをもらった。 「大久保嘉人、これほどまでに色々な方々に迷惑をかけて、批判され、それでもこんなに愛されたサッカー選手は多分今までいなかったんじゃないかなと思います」 「今シーズンのプレーを見ていても、ルヴァン決勝、川崎フロンターレ戦もまだまだやれるんじゃないかという思いもありますが、必要とされる中で、自分で決断して引退すると。そういう選手は数が限られると思うので、本当に嘉人の決断を尊重したいと思います」 「長い間、お疲れ様でした」 2021.11.22 21:43 Mon存続危機の2クラブに明暗…中田英寿も所属したボルトンは14日間の猶予を獲得、ベリーは脱退決定
消滅危機が報じられていたリーグ1(イングランド3部)のボルトン・ワンダラーズとベリーFCだが、それぞれの処分が決定した。イングランド・フットボールリーグ(EFL)が声明を発表した。 ボルトンとベリーの両クラブは、財政的な問題を抱えており、クラブの存続危機に陥っていた。そんな中、EFLからは現地時間27日(火)の17時までに売却先が決定することが求められていた。 かつてはプレミアリーグにも在籍し、元日本代表MF中田英寿も所属した経験のあるボルトンは、クラブ売却の交渉が期限までに間に合わず。しかし、交渉中ということで、EFLの破産ポリシーに従って発行された撤回通知が解除された。 なお、リーグの定款により、14日間の猶予が与えられ、9月12日の23時59分までに問題を解決できない場合は、リーグからの脱退が宣告されることとなる。ボルトンは、期限までにクラブの売却を完了させるか、2019-20シーズンの残りのシーズンを戦えるだけの資金調達を証明する必要がある。 一方で、ベリーに関しては、EFLからの脱退が宣告されることとなった。 ボルトンと同じ27日の17時が期限とされていた中、データ分析会社『C&Nスポーティング・リスク』が売却に名乗り。ボルトンよりも状況は良いものと見られていたが、売却先との交渉がまとまらずに破談。さらに、その後にも売却先の可能性を探ったものの、十分な解決策がないとEFL理事会が判断。全会一致で脱退が決定した。 ボルトンは、EFLの創設メンバーであり、2001-02シーズンから2011-12シーズンまではプレミアリーグに所属。2005-06シーズンには中田が在籍し、サム・アラダイス監督の下で一定の成果を残した。また、中田以外にも、西澤明訓、宮市亮(現ザンクト・パウリ)が在籍した経験がある。 プレミアリーグから降格後は、成績もさることながら財政面で大きな問題を抱えており、2016年にも破産危機に。しかし、その際はクラブOBのディーン・ホールズワース氏が率いる『スポーツ・シールド・コンソーシアム』が買収していた。 ベリーは、1885年に創設され、1894年にEFLに昇格。1900年、1903年にはFAカップを制覇し、1925-26シーズンは1部で4位の成績を収めていた。2018-19シーズンはリーグ2(イングランド4部)に在籍するも、2位でシーズンを終え、リーグ1に昇格。しかし、経営難の影響で開幕から5試合を開催できずにいた。 なお、ベリーは期限日となった27日に、ファンに対して本拠地でのボランティア活動を要請。ベンチを拭くなどの清掃活動を実施していたが、その願いは届かなかった。 両クラブが所属するリーグ1は、24チームで構成されていたが、ベリーの脱退により23チームに減少してシーズンを開催。そのため、降格枠が1つ減り、3チームが4部に降格することも決定した。 2019.08.28 12:53 Wed移籍履歴
移籍日 | 移籍元 | 移籍先 | 種類 |
2010年1月1日 | C大阪 | 引退 | - |
2009年1月1日 | 清水 | C大阪 | 完全移籍 |
2007年1月1日 | C大阪 | 清水 | 完全移籍 |
2002年1月1日 | ボルトン | C大阪 | 完全移籍 |
2001年7月1日 | エスパニョール | ボルトン | 完全移籍 |
2001年1月1日 | C大阪 | エスパニョール | 完全移籍 |
1995年12月1日 | FCフォレンダム | C大阪 | レンタル移籍終了 |
1995年7月1日 | C大阪 | FCフォレンダム | レンタル移籍 |
1995年1月1日 | C大阪 | 完全移籍 |