トニーニョ・セレーゾ TONINHO CEREZO

ポジション 監督
国籍 ブラジル
生年月日 1955年04月21日(69歳)
利き足
身長
体重
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鹿島が功労賞3名を発表! 本山雅志氏、岩政大樹監督、青木剛氏が認定され合計24名に…9月のC大阪戦で記念盾授与式

鹿島アントラーズは15日、本山雅志アカデミースカウト、岩政大樹監督、青木剛氏の3名にアントラーズ功労賞に認定された。認定者は合計24人目となった。 本山氏は東福岡高校から1998年に鹿島に入団。2015年までプレーすると、その後ギラヴァンツ北九州、マレーシアのクランタン・ユナイテッドでプレーし、2022年に現役を引退した。 鹿島ではJ1通算365試合38得点、リーグカップ57試合9得点、天皇杯で53試合12得点。 岩政監督は東京学芸大学から2004年に入団。2013年までプレーし、2014年にタイのテロ・サーサナ(現:ポリス・テロFC)へ移籍。2015年からはファジアーノ岡山、2017年からは東京ユナイテッドFCでプレーし、2018年に現役を引退した。2022年からトップチームのコーチに就任。シーズン途中から監督に就任していた。 鹿島ではJ1通算290試合35得点、リーグカップで49試合4得点、天皇杯で27試合4得点を記録していた。 ちなみに、岩政監督は2022年の功労選手賞が発表された際に「なぜいただけないのか」と投稿していたが、見事に受賞となった。 青木氏は前橋育英高校から2001年に鹿島に入団。2016年途中まで鹿島でプレーし、2016年途中にサガン鳥栖へ移籍。その後ロアッソ熊本、南葛SCでプレー。現在はフットゴルフ選手として活躍している。 鹿島ではJ1通算376試合に出場し8得点、リーグカップで73試合、天皇杯44試合3得点を記録していた。 アントラーズ功労賞は、クラブの発展に寄与した人物をたたえるため2008年に制定されたもの。認定者の記念品は、カシマサッカーミュージアム内のメインスペースに展示される。 なお、3名に関しては、9月16日のセレッソ大阪戦で記念盾授与式&スペシャルトークショーが実施される。 ◆アントラーズ功労賞認定者(五十音順) 青木剛 秋田豊 新井場徹 アルシンド 岩政大樹 内田篤人 小笠原満男 オズワルド・オリヴェイラ 黒崎久志 ジーコ ジョルジーニョ 相馬直樹 曽ヶ端準 ダニー石尾 トニーニョ・セレーゾ 中田浩二 名良橋晃 野沢拓也 長谷川祥之 ビスマルク 本田泰人 宮本征勝 本山雅志 柳沢敦 2023.08.15 16:45 Tue

ジャンルカ・ヴィアッリの訃報に接して/六川亨の日本サッカー見聞録

「訃報は続く」と言われるが、昨年末のペレに続いて1月8日には元ブラジル代表のストライカー、ロベルト・ディナミッチが腸癌のためリオデジャネイロの病院で死去した。68歳での他界は、やはり早いと言っていいだろう。 彼の名を初めて知ったのは78年アルゼンチンW杯だった。登録名(本名)はロベルト・ジ・オリヴェイラだったが、「ダイナマイトのような強烈なシュートを放つ」ことからジャーナリストがつけたニックネームがロベルト・“ディナミッチ(英語でダイナマイト)”だった。 ただ、78年アルゼンチン大会はCFにレイナウドがいて、ジーコもFW起用されるなど出場機会は限られ、スタメンに定着したのは2次リーグに入ってからだった(ブラジルは無敗だったが3位に終わる)。 そして4年後の82年スペインW杯もエースのカレッカ(元柏レイソル)の負傷により代表に招集されたものの、長身FWセルジーニョの控えに甘んじて、W杯ではニックネーム通りの活躍はできなかった。 そんな彼の訃報より衝撃的だったのが、1月6日に膵癌で死去した元イタリア代表FWのジャンルカ・ヴィアッリだ。まだ58歳という若さだった。 彼のプレーを初めて見たのは86年メキシコW杯の開幕戦、イタリア対ブルガリ戦の後半22分過ぎだった。ブルーノ・コンティに代わって出場したが、ポジションはCFではなく4-3-3の右ウイングだった。 まだ21歳と若く、荒削りな選手という印象を受けた。テクニックがあるわけではなく、どちらかというと屈強なフィジカルを生かし、相手をブロックしながら強引なドリブルでボールを運んでいた。 「イタリア人にしては下手な選手だな」というのが彼のプレーを見た最初の印象で、それは撮影していたカメラマンら同業者も同じ印象だった。そして誰が言うともなく、フリーライターの富樫洋一さん(2006年2月にアフリカ選手権を取材中にカイロで死去。54歳)の強引なプレーと「似ている」と意見が一致。 それを本人に伝えると褒められたと思ったのか、セリエA好きとも相まって後年は自ら『ジャンルカ・トト・富樫』と名乗るようになった。 前回覇者のイタリアは、グループリーグこそアルゼンチンに次いで2位で突破したものの、ノックアウトステージ1回戦でミシェル・プラティニ率いるフランスに0-2で敗れて姿を消した。そしてヴィアッリもこれといった印象を残すことなくメキシコを後にした。 しかしサンプドリアでは、FWロベルト・マンチーニやMFトニーニョ・セレーゾ(元鹿島監督)、DFペーター・ブリーゲルら実力者を揃え、ジェノバのプロビンチャを2シーズン連続して(87―88、88―89)コッパ・イタリア優勝に導いた。 さらに89-90シーズンはUEFAカップ・ウィナーズ・カップで優勝すると、90-91シーズンには初のスクデットを獲得すると同時に得点王にも輝いた。 ところが自国開催の90年イタリアW杯ではサルバトーレ(トト)・スキラッチやロベルト・バッジョらの台頭により活躍の場も少なく、その真価を発揮することはできなかった。 その後はユベントスやチェルシーといった名門クラブに移籍してチームにタイトルをもたらし、チェルシーではプレイングマネジャーとしても活躍。2020年には長年の友人であるマンチーニ代表監督のコーディネーターを務めてEUROの優勝に貢献。1968年の第3回大会の優勝以来、実に52年ぶりとなる欧州制覇だった。 しかし2018年に癌で闘病生活を送っていることを告白。19年には治療のため代表チームのコーディネーターからも外れて治療に専念したものの、残念ながら帰らぬ人となってしまった。 現役時代、全盛時を知っている選手の訃報に接すると心が痛むが、これも時の流れなのだろう。改めて2人の選手が安らかな眠りにつかれるようお祈りしたい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.13 16:30 Fri

“サッカーの神様”と呼ばれたジーコ、W杯での輝きと苦しみ

サッカー界に数多く存在してきたスター選手。その中でも、異名を持つ選手はそこまで多くない。 際たるものは"サッカーの王様"と呼ばれたキング・ペレ。ブラジルの英雄であり、ワールドカップ(W杯)で3度も優勝を経験しているレジェンド中のレジェンドだ。そして、そのペレにも例えられ"白いペレ"と呼ばれ、"サッカーの神様"として知られているのが、ジーコだ。 日本でも住友金属、鹿島アントラーズとプレーし、その後に日本代表監督を務めたことからも、知らない人はいないほどの知名度だろう。サッカー界でも指折りの偉大なレジェンドだ。 <span class="paragraph-subtitle">◆実力も世界でトップの1人</span> ジーコは愛称であり、本名は「アルトゥール・アントゥネス・コインブラ」、172cmと大きくない身体でありながら、ゴールやパスでチームに貢献した。 18歳でブラジルの名門・フラメンゴでファーストチームに昇格した。元々は体が小さく、線も細かったために、あまり期待はされていなかったが、その才能を高く評価され、体を鍛えることでチャンスを手にした。 フラメンゴでは12年プレーし4度のリーグ優勝を経験。その後ウディネーゼに移籍しセリエAでプレー。フラメンゴに戻ると、38歳で来日。Jリーグ2年目の1994年に41歳で現役を引退した。 クラブチームでも偉大な成績を残し、Jリーグでは初年度の開幕戦で圧巻のハットトリックを記録。これはJリーグ史上初のハットトリックであり、相手の名古屋グランパスには元イングランド代表FWのギャリー・リネカーがいた。リネカーも大きな注目の的となったが、神様の前ではただの脇役になってしまったのだ。 <span class="paragraph-subtitle">◆ワールドカップでの輝きと挫折</span> そのジーコは、当然ブラジル代表でも輝いた。W杯には1978年、1982年、1986年と3大会連続で出場。残念ながら、ブラジル代表にジュール・リメ杯(W杯のトロフィー)をもたらすことはできなかったが、運のなさもあった。 初めてのW杯となった1978年のアルゼンチン大会。初戦のスウェーデン代表戦では、試合終了間際にCKからゴールを決めたが、取り消しに。シュートを打つ前に笛が吹かれたという、今では考えられない状況で試合が終わることとなった。 ただ、ジーコはあまり出場機会を得られず、さらに大会中に負傷。チームも決勝にたどり着けずに終わっていた。 その4年後の1982年、スペイン大会ではソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとの「黄金のカルテット」と呼ばれる中盤を形成。巧みなパスワーク、そして圧倒的な攻撃力で優勝候補となっていた。 ジーコも4年前の悔しさを晴らそうと、1次リーグで3ゴールを挙げる活躍。2次リーグもアルゼンチン戦で1ゴール2アシスト、イタリア戦でもアシストを記録したが、チームは敗退。結果は伴わなかったが、この時のブラジル代表のパフォーマンスは世界で称賛され、「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」とも称えられている。 そして3度目となる1986年のメキシコ大会だったが、今度は大会前にケガ。ヒザを負傷した状態で臨み、チームに貢献できず。"サッカーの神様"に本当の神様は微笑むことはなかった。 <span class="paragraph-subtitle">◆監督としてもW杯では悔しい思い</span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1200/img/2022/zico20221124_tw1.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Image<hr></div> サッカー王国ブラジルにおいても、数多のスター選手の中でトップクラスの評価を受けるジーコ。選手としてW杯では良い思い出はないが、監督としても苦い思いをした。 現役時代の「黄金のカルテット」は、日本代表でも実現。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一が大きな注目を集めた。 しかし、W杯では稲本や小野はベンチに座ることに。日本代表として個々の能力や特徴が突出した選手が多く集まっていたが、逆に一体感をチームに作り上げることができず、1分け2敗で敗退。監督としても、W杯で結果を残せず、クラブチームはその他の代表戦とは異なり、ジーコにとっては苦い思い出となってしまった。 それでも、ジーコが現役時代に見せた華やかなプレー、そしてクラブチームで残した功績は数知れず。日本でもギリギリでJリーグ入りを果たし、オリジナル10となった鹿島に対し、常勝軍団となるべく改革したのはジーコ本人。それは、今でも"ジーコ・スピリット"として、鹿島の中で生き続けている。"サッカーの神様"と呼ばれる選手は、この先に生まれることはないのかも知れない。 <span class="paragraph-title">【動画】現役時代の“神様”ジーコの輝き、圧巻プレー集</span> <span data-other-div="movie"></span> <div class="dugout-video dugout-embed-eyJrZXkiOiJMSTU2Vm9ZNSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0="></div><script type="text/javascript" src="https://embed.dugout.com/v3.1/ultrasoccer.js"></script> ブラジル代表で活躍し、Jリーグでも活躍した"サッカーの神様"ジーコが大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』(サカつくRTW)に登場! 現役時代に魅せたプレーが『サカつくRTW』でも再現。是非一度チェックしてみよう。 <a href="https://ryan.onelink.me/C7cD/5uev4c53" target="_blank"><div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1200/img/2022/sega20221124.jpg" style="max-width:100%;"></div></a> 2022.11.24 21:00 Thu

2020年引退の内田篤人、曽ヶ端準、野沢拓也が「アントラーズ功労賞」を受賞…通算21人

鹿島アントラーズは9日、2020シーズンで現役を引退した曽ヶ端準氏、野沢拓也氏、内田篤人氏の3名にアントラーズ功労賞を授与することを発表した。授賞者は合計21人目となった。 曽ヶ端氏は、鹿島ユースから1998年にトップチーム昇格。小笠原満男氏、中田浩二氏、本山雅志氏らと同期入団となった。 2001年に正守護神となると、その後は長年鹿島のゴールを守り、J1通算533試合に出場。7度のリーグ優勝など多くのタイトル獲得に貢献。現在は、GKアシスタントコーチを務めている。 野沢氏は、1999年に鹿島ユースから昇格。高いキックの技術と天才的なゲームメイク力でチームの主軸に定着した。 その後、ヴィッセル神戸やベガルタ仙台、オーストラリアのウーロンゴン・ウルブスでプレー。キャリア最後は関西サッカーリーグ1部のFCティアモ枚方でプレーしていた。 内田氏は、清水東高校から2006年に鹿島に入団。クラブ史上初となる高卒ルーキーの開幕スタメン起用。右サイドバックとして君臨すると、その後にはシャルケへと渡りここでもファンに愛される選手となる。 その後、ウニオン・ベルリンを経て、2018年に鹿島に復帰。しかし、ケガの影響もあり、2020年で現役をしていた。日本代表通算74試合2得点。現在は日本サッカー協会(JFA)のロールモデルコーチを務めている。 アントラーズ功労賞は、クラブの発展に寄与した人物をたたえるため2008年に制定されたもの。功労賞受賞者はカシマサッカーミュージアム内にある「アントラーズ殿堂」に掲額される。 ◆過去の受賞者(五十音順) 秋田豊 新井場徹 アルシンド 内田篤人 オズワルド・オリヴェイラ 黒崎久志 ジーコ ジョルジーニョ 相馬直樹 曽ヶ端準 ダニー石尾 トニーニョ・セレーゾ 中田浩二 名良橋晃 野沢拓也 長谷川祥之 ビスマルク 本田泰人 宮本征勝 柳沢敦 2022.06.09 15:40 Thu

かつて鹿島や大宮を指揮した石井正忠氏が心機一転! タイ1部の監督に就任

かつて鹿島アントラーズや大宮アルディージャの指揮を執った石井正忠氏(52)が23日、サムットプラカーン・シティFC(タイ)の監督に就任した。 現役時代にNTT関東や、住友金属工業、鹿島、アビスパ福岡でプレーした石井氏は1998年の現役引退後、指導者に転身。古巣鹿島のユースからコーチとして指導者業をスタートさせ、2015年7月にトニーニョ・セレーゾ氏の解任に伴い、トップチーム監督に就任した。 その鹿島監督時代の2015〜2016シーズンにかけてJリーグカップやJ1リーグ、天皇杯のタイトルを獲得したが、2017年5月に成績不振で退任。2017年11月から大宮監督の座に就いたが、2018シーズン終了後に指揮官を辞した。 サムットプラカーン・シティFCはタイ1部クラブ。今シーズンは1月にクラブダイレクターに就任したサンフレッチェ広島元強化部の村山哲也氏(45)が6月から監督として指揮を執り、6位でフィニッシュした。 2019.12.23 18:05 Mon
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