アルゼンチンとW杯決勝は名勝負の系譜/六川亨の日本サッカーの歩み

2022.12.19 22:30 Mon
twitterfacebookhatenalinegplus
photo
Getty Images
日本時間24時キックオフのカタールW杯決勝、アルゼンチン対フランス戦を見終わった後は、深夜にもかかわらず「お腹がいっぱい」になったサッカーファンも多いのではないだろうか。それほど見応えのある、W杯決勝の歴史に残る好勝負だった。

正直に言うと、試合前の予想では強力3トップを擁するフランスがボールを支配して攻勢に出ると思っていた。それをアルゼンチンが球際の厳しさと激しい当たりで食い止め、得意のカウンターから反撃するのではないかと。
アルゼンチンにとって警戒しなければならないのは、エムベパはもちろんだが、オランダ戦のようにエキサイトしてのイエローカードにも注意が必要だと思った。ところがポーランド人のシュモン・マルチニアク主審はそのあたりをよく心得ていたようで、余計なイエローカードの乱発で試合を“壊す"ことはしなかった。好勝負の“影の演出家"と言っていいだろう。

ところがだ。試合は予想に反してアルゼンチンが主導権を握ってフランスを攻め立てた。久々にスタメンに戻ったディ・マリアが左サイドをドリブルで脅かしたせいもあるが、フランスの攻撃に、これまでのような“のびやかさ"がない。

それを象徴していたのが開始早々、何でもないパスをデンベレがトラップできずタッチラインを割ったシーンだ。

4年前の決勝ではクロアチアを『飲んで』かかっていた。今回は相手がアルゼンチンだから、メッシだから『気後れ』したのか。それともこれが、「連覇の重圧」なのかと思ったものだ。

「W杯連覇」といっても、第1回は遙か昔、第二次世界大戦前の1934年と38年のイタリアだ(主力はアルゼンチン人だった)。その後はブラジルが初優勝を果たした1958年と62年の2回しかない。達成すれば60年ぶり3度目の偉業ではあるが、そんな“過去の亡霊"に取り憑かれてしまったのだろうかと訝しんだものだ。

メッシのPKと、鮮やかなカウンターからのディ・マリアのゴールにより0-2とされたディディエ・デシャン監督の決断は早かった。前半42分にジルーとデンベレを下げるとは、誰も予想していなかったのではないか。しかし交代で投入されたコロ・ムアニとテュラムが後半はサイド攻撃を活性化する。

さらにアルゼンチンは前半の守備でのオーバーワークがたたったようで、後半20分過ぎより運動量が激減。このためフランスの反撃に守勢一方となる。

そしてPKに続き、こちらも見事なカウンターからエムバペが2ゴールを連取して試合を振り出しに戻した。

劣勢のデシャン監督は先に先にと交代カードを切った。一方のリオネル・スカローニ監督は延長戦に入ってから動く。そして延長後半3分に高く浮いたクロスからチャンスをつかんだアルゼンチンがメッシのゴールで再び勝ち越しに成功し、これで勝負あったかに見えた。

このまま試合が終わったとしても、フランスは「グッドルーザー」として賞賛されただろう。しかし彼らには“異次元"のストライカーがいた。延長戦に入ってもスピードの衰えないエムバペである。

アルゼンチンの守備陣もよく対応していたが、彼のシュートがDFのハンドを誘発。このPKをエムバペは確実に左スミに決めて再びタイスコアに持ち込んだ。

W杯は古来、「準決勝が面白い」と言われてきた。決勝へ進むためには『勝たなければならない』ため、どこかでリスクを冒さないといけないからだ。それに対し決勝は『負けたくない』心理から、オープンな打ち合いよりも守備に軸足を置いた試合展開になりやすい。

しかしカタールW杯決勝は違った。その一因としては、アルゼンチンが前半から“飛ばしすぎ"とも思えるほどアグレッシブな守備でフランスの個人技を封じつつ、チャンスと判断したら果敢に攻撃したこと。これまでの試合と違い、守備にも奮闘するキャプテンのタイトルに賭ける思いに、チーム一丸となって応えようとした“気持ち"が随所に感じられた。

それに対しデシャン監督も早め早めの交代で攻勢を強めて反撃に転じたことが、近年稀に見る好勝負となった。

これほど「手に汗を握る」決勝戦は……前回2018年はフランスがクロアチアに4-2と圧勝。2014年と10年は延長戦までもつれたが、ドイツとスペインが1-0でアルゼンチンとオランダに競り勝った。

1998年と02年はそれぞれフランスとブラジルが圧勝し、PK決着となった1994年と06年の試合は0-0、1-1からのPK戦と試合そのものは盛り上がりに欠けた。1990年はアルゼンチンが決勝までたどり着いたもののチームはボロボロで、西ドイツのブレーメのPK一発に沈んだ。

こうして振り返ると、決勝戦が白熱したのはアルゼンチンが2度目の戴冠を果たした1986年メキシコ大会まで遡る。奇しくもアルゼンチンが2-0とリードしながら、“ゲルマン魂"の反撃に遭い後半36分に2-2の同点に持ち込まれた。

W杯にPK戦が導入されたのは1978年アルゼンチン大会からだが、実際に実施されたのは82年スペイン大会の準決勝、西ドイツ対フランス戦が初めてだった(3-3から5PK4で西ドイツの勝利)。

しかし、86年大会の決勝をアステカ・スタジアムで取材していて、記者席には誰が言うでもなく「決勝戦に限りPK戦ではなく翌日に再試合」という噂が流れた。翌日には日本へ帰る飛行機を予約している。このまま延長戦でも決着がつかなければ、ホテルを延泊し、フライトもキャンセルしなければならない。

そんな不安を一掃してくれたのが“神の手"でチームを決勝まで導いたマラドーナだった。フェラーの同点ゴールから3分後、スルーパスでブルチャーガの決勝点をアシストし、母国に2度目のW杯をもたらした。

思えば78年のアルゼンチンの初戴冠もオランダとの延長戦を制してのものだった(3-1)。アルゼンチンとW杯決勝は“名勝負"の系譜があるのかもしれない。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた



関連ニュース
thumb

大幅に若返った日本代表。42年前にも大幅な若返りがあった/六川亨の日本サッカーの歩み

3月のキリンチャレンジカップ2023で招集された25名(前田大然は左ヒザの負傷で途中離脱)のうち、最年長はGKシュミット・ダニエルの31歳、最年少はバングーナガンデ佳史扶と半田陸の21歳で、ウルグアイ戦のスタメンの平均年齢は25.8歳、25名の平均年齢も24.6歳という若さだった。 カタールW杯のメンバーだった40歳のGK川島永嗣と34歳の権田修一、さらにDF陣も長友佑都(36歳)、吉田麻也(34歳)、酒井宏樹(32歳)といったベテランの招集が見送られたため、一気に若返った印象が強い。 代表チームは常に「最強」を求められるが、過去にも日本代表が大幅に若返ったことがある。1980年3月に監督に就任した渡辺正氏(故人)だったが、10月にくも膜下出血で倒れて指揮を執ることができなくなった。そこで日本サッカー協会(JFA)の強化本部長だった川淵三郎氏(初代Jリーグチェアマン)が監督を兼任することになったのだ。 初陣は80年12月に始まるスペインW杯予選だったが、当時の日本にとってW杯は「夢のまた夢」。当面の目標は1984年のロサンゼルス五輪に出場することだった。そこで川淵監督は「25歳以下の選手」という方針を打ち出した。漫画『赤き血のイレブン』のモデルになったFW永井良和氏やGK田口光久氏(故人)、JSL(日本サッカーリーグ)で16シーズン、260試合連続出場という大記録を打ち立てたDF落合弘氏らベテラン勢は代表からの引退を余儀なくされた。 当時のチームで最年少は枚方FCというクラブ育ちで天才少年と呼ばれた佐々木博和(松下)の18歳。彼以外にも読売クラブの都並敏史氏(現ブリオベッカ浦安監督)、戸塚哲也氏、筑波大学の学生だった風間八宏氏(現C大阪スポーツクラブ技術委員長)は19歳という若さ。最年長は前田秀樹氏(東京国際大学監督)の26歳で、24歳の岡田武史氏(元日本代表監督)、22歳で国士舘大学に所属していた山本昌邦氏(現JFAナショナルチームダイレクター)、同じく22歳の原博実氏(現大宮フットボール本部長)も“新生・日本"のメンバーだった。 ところがスペインW杯アジア予選前に行われた日本代表シニアとの壮行試合では、釜本邦茂氏や西野朗氏、藤口光紀氏(現日本フットサルトップリーグ代表理事)らを擁するチームに2-3と競り負けてしまう。そして予選でも、2年前にFIFAに復帰した中国に0-1、マカオには3-0で勝ったものの、準決勝で北朝鮮に延長の末に0-1と敗れて敗退が決まった。 翌81年に川淵監督は14試合の指揮を執り、3勝3分け8敗という成績。敗れた試合では、マレーシアに0-1、タイ・ユース代表に1-2、インドネシアに0-2とアジアでもなかなか勝てない時代だった。川淵監督最後の試合は日韓定期戦で、こちらも0-1で敗れ、直後に開かれた強化本部会で川淵監督の退任と、森孝慈(故人)コーチの監督就任が正式に決まった。 森監督は若手主体のチームに190センチの長身FW松浦敏夫氏(26歳)やDF加藤久氏(25歳)の中堅選手に加えてベテランGKの田口氏を復帰させるなど柔軟な選手起用を見せた。82年11月にインドで開催されたアジア大会では、国外で初めて韓国を2-1と破った(決勝点は岡田氏のロングシュート)。 しかしロス五輪アジア最終予選では、それまで一度も負けたことのないタイに初戦で2-5と大敗。その後もマレーシアに1-2、イラクに1-2、カタールに1-2と連敗して、16年ぶりの五輪出場は夢と消えたのだった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.28 17:00 Tue
twitterfacebook
thumb

スコルジャ監督の割り切りとWEリーグを取材しての比較/六川亨の日本サッカーの歩み

先週末の18日はJ1リーグの浦和対新潟戦を、19日はWEリーグの日テレ・ベレーザ対INAC神戸の試合を取材した。 新潟に先制点を許した浦和だったが、前半のうちに右SB酒井宏樹と左SB明本考浩の両サイドバックのゴールで逆転。特に明本のジャンピングシザースボレーは圧巻だった。そして興味深かったのは後半の浦和の戦い方だ。新潟躍進の原動力であるトップ下の伊藤涼太郎を、岩尾憲と伊藤敦樹のダブルボランチがサンドイッチする形で持ち味を封じにかかった。 さらに新潟が前線からプレスをかけると、アレクサンダー・ショルツとマリウス・ホイブラーテンの両CBは、無理をしてビルドアップせずロングボールを選択。酒井を右サイドのハーフライン辺りに上げて、彼の頭に合わせて長いボールを送り、こぼれ球を回収して時計の針を進めた。 新潟の松橋力蔵監督は「空中戦が苦手なわけではないが、長いボールに対するセカンドボールを回収できなかった。拾えれば景色もがらりと変わったと思う」と悔やんだが、マチェイ・スコルジャ監督のスカウティング勝ちといったところか。 スコルジャ監督自身も「すべての要素を変えないといけない。まだチームを作っている段階」と言いながらも、現状で打てる手をすべて打ちながら結果を残している。後半24分には右MFダヴィド・モーベルグとCFブライアン・リンセン、31分にはトップ下の安居海渡と左SB荻原拓也を同時起用し、明本を左MFに上げた。その理由を「ハイプレスをやるために前線の4人を代えた」と狙いもシンプルで明確だ。 若手にチャンスを与えつつ、コンディションが万全ではない外国人選手の出場時間をしっかり確保しているだけに、プラス材料しか見当たらない浦和と言える。 そして翌日の上位対決となった日テレ・ベレーザ対INAC神戸戦である。この2チームに浦和レッズレディースを加えた3強に、なでしこジャパンの選手も数多く所属している(海外組をのぞけば2月のアメリカ遠征に9選手が参加)。 試合は両チームとも前線からのプレスの掛け合いと、インテンシティの高い“個の戦い”が見られたものの、ミドルサードでの潰し合いの多い試合でもあった。お互いに連動してプレスを掛けるため、そのプレスをかいくぐって敵ゴール前までなかなかボールを運べないからだった。 そんなとき、前日の浦和ではないが、前線に長身選手か俊足の選手がいれば、ロングボールは局面を打開する有効な手段になる。しかし残念ながら日テレ・ベレーザにも、INAC神戸にも、そして現在のなでしこジャパンにもそうした選手はいない。辛うじて元なでしこで浦和レッズレディースのCF菅澤優衣香が長身のポストプレーヤーだが、彼女にしても国際舞台で通用したとは言い難い。 それを思うと、日本が初優勝した11年の女子W杯や、銀メダルを獲得した12年ロンドン五輪のメンバーには、オールラウンダーで危機察知能力の高い澤穂希がいた。前線には体幹が強くてスピードもあり、シュートにパンチ力のあった永里優季がいた。宮間あやは稀代のパサーだったし、川澄奈穂美は無尽蔵のスタミナを誇るドリブラーだった。そして控えには準々決勝のドイツ戦で決勝点を決めたスピードスターの丸山桂里奈がいた。個性豊かなタレントが一堂に会す、奇跡的なチームだったと言える。 それに引き換え現状はというと、19日の観衆は1,777人。1月の皇后杯決勝(日テレ・ベレーザ対INAC神戸戦)が1,939人、昨年10月のWEリーグ、日テレ・ベレーザ対浦和レッズレディース戦が2,210人だったから、WEリーグの観客動員は2,000人前後がアッパーといったところか。これでプロの興行として成り立つのか疑問である。 さらに、女子の日本代表の愛称が“なでしこジャパン”なのに、“なでしこリーグ”はアマチュアのトップリーグなのだから男子ならJFLといったところ。ここらあたりもWEリーグが一般のファンに浸透していない理由の1つではないだろうか。そして秋春制によるウインターブレイクと、11チームによる2回戦制のため試合数が絶対的に少なく、試合間隔が大きく空いているため、いつリーグ戦が開催されているのかわかりにくいという弊害もある。 名称とシーズン制をどうするのかも含めて、女子リーグは再検討する必要があるのではないか。強い“なでしこジャパン”を復活させるためにも、関係者の英断に期待したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.22 12:50 Wed
twitterfacebook
thumb

序盤戦のJリーグ総括/六川亨の日本サッカーの歩み

今シーズンのJ1リーグは第4節を終えた段階で、無敗チームはたったの1チーム。それもJ2リーグから昇格してきた新潟だから驚きだ。 開幕前は昨シーズンの覇者・横浜FMの評価が高かった。FW仲川輝人とレオ・セアラ、DF岩田智輝、GK高丘陽平が抜けたとはいえ、各ポジションに実力者を揃え、穴はないかに見えた。しかし第4節で札幌に初勝利を献上して6位に後退。ただ、まだ序盤戦のため1勝すれば首位に返り咲ける可能性もあるだけに、そう悲観する必要はないだろう。 深刻なのは川崎Fだ。ここ数年は主力選手の流出が続いただけでなく、レアンドロ・ダミアンと小林悠はケガで長期離脱中。さらに第4節の新潟戦では開始19分にMF大島僚太が負傷交代すると、前半でDF山村和也もピッチを去った。これで最終ラインの負傷者は登里享平、車屋紳太郎、ジェジエウと4人に増えた。こうもケガ人が続出しては、鬼木達監督も手の打ちようがないだろう。1勝1分け2敗の14位は不本意な結果と言わざるを得ない。 その川崎Fを倒して3位に浮上したのが新潟(2勝2分け)で、昨シーズンからの主力が26人も残ったのが彼らのアドバンテージだ。とはいえ、新潟と同じく昨シーズンの主力が残留した3位の広島(ルヴァンカップ優勝、天皇杯準優勝)が12位に沈んでいるところを見ると、新潟の躍進には別の理由があるようだ。 同じ昇格組の横浜FCは1分け3敗で最下位に沈んでいる。主力選手の大量流出は防いだものの、第4節のFC東京戦(3-1)ではスタメン11人中6人が今シーズン獲得した選手。攻守にチームの骨格ができあがるまで、いましばらく時間がかかるだろう。 同じく未勝利で17位のG大阪も、ダニエル・ポヤトス新監督を迎え、攻撃的なサッカーに舵を切っているものの勝ちきれない試合が続いている。得点源として期待されているチュニジア代表FWイッサム・ジェバリも、この時期の他チームの外国籍選手の多くが同じように、まだ身体が重く3月4日の第3節・神戸戦で80分間プレーしたもののシュートは1本だけ。彼の復調を待つまでG大阪の試練は続きそうだ。 J2リーグに目を転じると、22チーム中J3リーグからの昇格2チームを含めて8チームが新監督を迎えた。その中で注目は、青森山田高校の監督から町田の監督に就任した黒田剛氏だ。ヘッドコーチに鳥栖を好チームに仕上げた金明輝氏がいるとはいえ、多くの選手を入れ替えながら3勝1分けの首位に立っているのは驚異的。磐田、徳島、千葉、水戸、甲府ら新監督を迎えたチームがいずれも二桁順位に甘んじているだけに、町田の躍進はかえって目を引く。昨シーズン15位のチームがJ2リーグ優勝を達成するか。いましばらくは町田から目が離せない。 最後にJ3リーグだが、今シーズンは20チーム中13チームが監督を交代した。その中で、J2リーグから降格したFC琉球が首位の鳥取と同勝点の2位というのは頷ける。そして田坂和昭監督率いる北九州が3位、霜田正浩監督の松本が4位と健闘している。彼ら以外にも、戸田和幸監督の相模原が9位、中山雅史監督の沼津が初勝利をあげて11位に浮上するなど今年のJ3リーグは話題も多い。今シーズンはJFLへの降格もあるだけに、残留争いも激しさを増すことだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.14 13:30 Tue
twitterfacebook
thumb

U-20W杯のエピソード/六川亨の日本サッカーの歩み

現在、ウズベキスタンで開催中のU-20アジアカップで、日本は第2戦のキルギスに3-0と快勝。2連勝でグループDの首位に立ち、決勝トーナメント進出をほぼ手中に収めた。日本は9日にサウジアラビアとの対戦を控えていて、引き分け以上で首位通過が決まる。11日から始まる決勝トーナメント初戦の準々決勝ではC組との対戦が決まっていて、現在は日本と同様に韓国が連勝して首位に立っている。このため2位はヨルダンになる可能性が高く、この試合に勝ってベスト4に進出すれば、5月20日からインドネシアで開催されるU-20W杯の出場権を獲得できる。 初戦でサウジアラビアに0-1で敗れたキルギスだったが、日本はなかなかゴールをこじ開けられずに苦しんだ。後半28分、やっと佐野航大(岡山)のPKで先制すると、2分後に熊田直紀(FC東京)が左足で追加点を決めて勝利を確実なものにした。 熊田はOGから先制を許した初戦の中国戦で交代出場すると、いきなり2ゴールの活躍で逆転勝利に貢献。2試合連続ゴールで存在感をアピールした。181センチの大型ストライカーは今シーズン、FC東京U-18からの昇格組で、潜在能力の高さは「アカデミー史上最高」と評価されている。Jリーグのデビューこそ同期の高速ドリブラー俵積田晃太に先を越されたが、2人ともパリ五輪世代の有力候補でもある。 チームにはディエゴ・オリヴェイラという絶対的なエースがいるものの、彼とのポジション争いに勝てば将来は日本代表も夢ではない。上田綺世、町野修斗、小川航基らライバルは多いが、まずはU-20W杯の出場権を獲得し、世界の舞台で活躍することを期待したい。 そのU-20W杯だが、前回の19年ポーランド大会は決勝トーナメント1回戦で韓国に0-1と敗退。17年の韓国大会も決勝トーナメント1回戦でベネズエラに負けて2大会連続してベスト16の壁に阻まれている。その前の09年から15年までは4大会連続してアジア予選で敗退。05年オランダ大会と07年カナダ大会も決勝トーナメント1回戦で敗退しているだけに、サムライブルー同様、本大会では「ベスト8」が目標になる。 そんな日本が初めてU-20W杯(当時はワールドユースと言われていた)に出たのは、いまから44年前の1979年に日本で開催された第2回大会だった。2分け1敗でグループリーグで敗退したものの、水沼貴史(横浜FMの水沼宏太の父)が日本の初ゴールを決めてメキシコと1-1で引き分けた。 この第2回大会は、優勝したアルゼンチンのディエゴ・マラドーナの大会とも言えた。得点王は後に横浜FMでプレーするラモン・ディアスが獲得し、三菱でプレーしたオズワルド・エスクデロも優勝メンバーだった(弟のセルヒオは浦和でプレーしたがJリーグ開幕前に引退)。 この第2回大会は、別の意味でも興味深い大会だった。チュニジアで開催された第1回大会は、成功したと言えるような大会ではなかった。サッカーの発展途上国での開催という条件のため、それも仕方なかっただろう。1974年にFIFAの会長に就任したジョアン・アベランジェにとって、この大会は何としても成功させたかった。その思いはゼップ・ブラッターも同様で、ワールドユースの責任者として来日したブラッターが会ったのが、2年前に「ペレ・サヨナラ・ゲーム」を成功させた電通の高橋治之(東京五輪・パラリンピック組織委員元理事。受託収賄罪で逮捕)だった。 高橋はペレ・サヨナラ・ゲームではサントリーをスポンサーにつけ、ピッチサイドには広告の看板を置き、キーホルダーやプログラムの販売を導入して利益をあげた。 ワールドユースでは話題作りのために抽選会をショーとして見せた。出場国の女性に着物を着せて、高輪プリンスホテルで公開抽選会を実施。それをテレビ局に依頼して取り上げてもらった。後にブラッターが透明なボールの中に手を入れて、丸いカプセルをピックアップして開き、国名の入った紙を広げるというW杯の抽選会のアイデアは79年のワールドユースにあったのだった。 2年後の81年、ブラッターは事務局長に昇格している。これはワールドユースの成功が評価されたとも言われた。決勝には5万を超える観衆が集まり、試合後はファンがピッチに乱入した。マラドーナに優勝トロフィーを渡すアベランジェ会長にすれば、大会の成功を確信したことだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.07 22:45 Tue
twitterfacebook
thumb

都心のサッカー専用スタジアムは風が強い?/六川亨の日本サッカーの歩み

先週末のJリーグの取材は、強風・寒風との戦いでもあった。 25日の土曜はNACK5スタジアム大宮でのJ2リーグ大宮対金沢戦を取材した。14時2分キックオフ時の気温は11.1度。しかし後半に入ると10度に下がり、試合終了間際には9.3度まで下がった。気温自体はそれほどでもないが、吹き付ける寒風のため体感温度はかなり低い。 記者を始めメインスタンドのファンもマフラーを首に巻いたり、フード付きのコートを着ている人はフードをかぶったりして防寒対策をしていた。それでも試合後のワーキングルームでは、指先がかじかんでパソコンをうまく打てない記者が多かった。 試合は大宮が、新加入選手のCB浦上仁騎やサイドアタッカー高柳郁弥、柏からレンタル移籍のアンジェロッティらの活躍で2-0と今シーズン初勝利をあげ、昨シーズンの開幕9試合未勝利という悪夢を払拭した。 翌日はJ1リーグの柏対FC東京戦を取材。こちらは15時3分キックオフ時の気温は17.3度と高く、メインスタンドは陽も当たるため、風さえなければ暖かかった。ご存じのように三協フロンテア柏スタジアムは、日本では珍しくメインスタンドに直射日光が当たる(日本はもちろん世界のスタジアムもメインスタンドは日光を背にするように造られている)。このためデーゲームではサングラスなどの用意も必要だ。 ところが後半は16.6度と気温が下がると同時に、15時過ぎのキックオフのため日も陰り、強風も吹き付けてきた。前日同様、取材ノートはスマホで抑えながらの観戦だ。それでも前日の試合を教訓に、アンダータイツ着用で膝掛けを持参するなど防寒対策をしたため凍えることはなかったが、やはり寒風は身体に厳しい。 そして本題である。試合後のFC東京のアルベル監督のコメントが印象的だった。開口一番に語ったのが次のコメントだ。 「今日の試合において、風が大事な要素になると思った。風の影響が大きかった。このスタジアムはサッカー専用で好きだが、屋根が少ないので風が影響します。向かい風の前半はなかなかスペースを見いだすことができず、柏は追い風を生かしてプレスをかけてきたので、我々は長いボールを使いました」 サッカー専門誌の記者の頃は柏を担当したので何度もこのスタジアムに足を運んだが、「風の影響が大きい」と聞いたのは初めてだった。ニカノール監督や西野朗監督に確かめたこともなかったし、カレッカやストイチコフに聞いたこともなかった。取材不足を痛感した次第でもある。 そして思ったのは、三協フロンテア柏スタジアムと同様にNACK5スタジアム大宮もメインスタンドの上方に短い屋根があるものの、それ以外に風を遮るもののない。似たようなスタジアムであるということだ。都心ではニッパツ三ツ沢球技場も屋根がないため同じスタジアムと言うことができる。 NACK5スタジアム大宮(旧大宮サッカー場)とニッパツ三ツ沢球技場(旧三ツ沢球技場)は64年の東京五輪の際に造られたスタジアムのため、現在の基準からすれば見劣りするのは仕方がない。それでも雨天の際に屋根があるかないかは観戦者にとって重要だろう。 そして先週末の取材で痛感したのは、屋根はもちろんのこと、屋根を支える障壁が両ゴール裏とバックスタンドにあれば、吹き付ける寒風をいくらかでも防げたのではないかということだ。これは改修された等々力陸上競技場に当てはまるかもしれない。 Jリーグの野々村芳和チェアマンは、春秋制から秋春制への変更を検討すると明言している。そのためには豪雪地にドームスタジアムと、ドーム型の練習グラウンドが必要になるだろう。しかし豪雪地でなくとも、チーム数がJ1からJ3まで20チームに増え、シーズンが厳冬期をまたぐのであれば、スタジアムの寒風対策も必要になると感じた週末のJリーグ取材だった。もちろん、そのためにはスタジアム改築費など各自治体との密な協力体制が欠かせないのは言うまでもない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.02.27 21:30 Mon
twitterfacebook
NEWS RANKING
Daily
Weekly
Monthly