アルゼンチンとW杯決勝は名勝負の系譜/六川亨の日本サッカーの歩み

2022.12.19 22:30 Mon
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日本時間24時キックオフのカタールW杯決勝、アルゼンチン対フランス戦を見終わった後は、深夜にもかかわらず「お腹がいっぱい」になったサッカーファンも多いのではないだろうか。それほど見応えのある、W杯決勝の歴史に残る好勝負だった。

正直に言うと、試合前の予想では強力3トップを擁するフランスがボールを支配して攻勢に出ると思っていた。それをアルゼンチンが球際の厳しさと激しい当たりで食い止め、得意のカウンターから反撃するのではないかと。
アルゼンチンにとって警戒しなければならないのは、エムベパはもちろんだが、オランダ戦のようにエキサイトしてのイエローカードにも注意が必要だと思った。ところがポーランド人のシュモン・マルチニアク主審はそのあたりをよく心得ていたようで、余計なイエローカードの乱発で試合を“壊す"ことはしなかった。好勝負の“影の演出家"と言っていいだろう。

ところがだ。試合は予想に反してアルゼンチンが主導権を握ってフランスを攻め立てた。久々にスタメンに戻ったディ・マリアが左サイドをドリブルで脅かしたせいもあるが、フランスの攻撃に、これまでのような“のびやかさ"がない。

それを象徴していたのが開始早々、何でもないパスをデンベレがトラップできずタッチラインを割ったシーンだ。

4年前の決勝ではクロアチアを『飲んで』かかっていた。今回は相手がアルゼンチンだから、メッシだから『気後れ』したのか。それともこれが、「連覇の重圧」なのかと思ったものだ。

「W杯連覇」といっても、第1回は遙か昔、第二次世界大戦前の1934年と38年のイタリアだ(主力はアルゼンチン人だった)。その後はブラジルが初優勝を果たした1958年と62年の2回しかない。達成すれば60年ぶり3度目の偉業ではあるが、そんな“過去の亡霊"に取り憑かれてしまったのだろうかと訝しんだものだ。

メッシのPKと、鮮やかなカウンターからのディ・マリアのゴールにより0-2とされたディディエ・デシャン監督の決断は早かった。前半42分にジルーとデンベレを下げるとは、誰も予想していなかったのではないか。しかし交代で投入されたコロ・ムアニとテュラムが後半はサイド攻撃を活性化する。

さらにアルゼンチンは前半の守備でのオーバーワークがたたったようで、後半20分過ぎより運動量が激減。このためフランスの反撃に守勢一方となる。

そしてPKに続き、こちらも見事なカウンターからエムバペが2ゴールを連取して試合を振り出しに戻した。

劣勢のデシャン監督は先に先にと交代カードを切った。一方のリオネル・スカローニ監督は延長戦に入ってから動く。そして延長後半3分に高く浮いたクロスからチャンスをつかんだアルゼンチンがメッシのゴールで再び勝ち越しに成功し、これで勝負あったかに見えた。

このまま試合が終わったとしても、フランスは「グッドルーザー」として賞賛されただろう。しかし彼らには“異次元"のストライカーがいた。延長戦に入ってもスピードの衰えないエムバペである。

アルゼンチンの守備陣もよく対応していたが、彼のシュートがDFのハンドを誘発。このPKをエムバペは確実に左スミに決めて再びタイスコアに持ち込んだ。

W杯は古来、「準決勝が面白い」と言われてきた。決勝へ進むためには『勝たなければならない』ため、どこかでリスクを冒さないといけないからだ。それに対し決勝は『負けたくない』心理から、オープンな打ち合いよりも守備に軸足を置いた試合展開になりやすい。

しかしカタールW杯決勝は違った。その一因としては、アルゼンチンが前半から“飛ばしすぎ"とも思えるほどアグレッシブな守備でフランスの個人技を封じつつ、チャンスと判断したら果敢に攻撃したこと。これまでの試合と違い、守備にも奮闘するキャプテンのタイトルに賭ける思いに、チーム一丸となって応えようとした“気持ち"が随所に感じられた。

それに対しデシャン監督も早め早めの交代で攻勢を強めて反撃に転じたことが、近年稀に見る好勝負となった。

これほど「手に汗を握る」決勝戦は……前回2018年はフランスがクロアチアに4-2と圧勝。2014年と10年は延長戦までもつれたが、ドイツとスペインが1-0でアルゼンチンとオランダに競り勝った。

1998年と02年はそれぞれフランスとブラジルが圧勝し、PK決着となった1994年と06年の試合は0-0、1-1からのPK戦と試合そのものは盛り上がりに欠けた。1990年はアルゼンチンが決勝までたどり着いたもののチームはボロボロで、西ドイツのブレーメのPK一発に沈んだ。

こうして振り返ると、決勝戦が白熱したのはアルゼンチンが2度目の戴冠を果たした1986年メキシコ大会まで遡る。奇しくもアルゼンチンが2-0とリードしながら、“ゲルマン魂"の反撃に遭い後半36分に2-2の同点に持ち込まれた。

W杯にPK戦が導入されたのは1978年アルゼンチン大会からだが、実際に実施されたのは82年スペイン大会の準決勝、西ドイツ対フランス戦が初めてだった(3-3から5PK4で西ドイツの勝利)。

しかし、86年大会の決勝をアステカ・スタジアムで取材していて、記者席には誰が言うでもなく「決勝戦に限りPK戦ではなく翌日に再試合」という噂が流れた。翌日には日本へ帰る飛行機を予約している。このまま延長戦でも決着がつかなければ、ホテルを延泊し、フライトもキャンセルしなければならない。

そんな不安を一掃してくれたのが“神の手"でチームを決勝まで導いたマラドーナだった。フェラーの同点ゴールから3分後、スルーパスでブルチャーガの決勝点をアシストし、母国に2度目のW杯をもたらした。

思えば78年のアルゼンチンの初戴冠もオランダとの延長戦を制してのものだった(3-1)。アルゼンチンとW杯決勝は“名勝負"の系譜があるのかもしれない。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた



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序盤戦のJリーグ総括/六川亨の日本サッカーの歩み

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U-20W杯のエピソード/六川亨の日本サッカーの歩み

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都心のサッカー専用スタジアムは風が強い?/六川亨の日本サッカーの歩み

先週末のJリーグの取材は、強風・寒風との戦いでもあった。 25日の土曜はNACK5スタジアム大宮でのJ2リーグ大宮対金沢戦を取材した。14時2分キックオフ時の気温は11.1度。しかし後半に入ると10度に下がり、試合終了間際には9.3度まで下がった。気温自体はそれほどでもないが、吹き付ける寒風のため体感温度はかなり低い。 記者を始めメインスタンドのファンもマフラーを首に巻いたり、フード付きのコートを着ている人はフードをかぶったりして防寒対策をしていた。それでも試合後のワーキングルームでは、指先がかじかんでパソコンをうまく打てない記者が多かった。 試合は大宮が、新加入選手のCB浦上仁騎やサイドアタッカー高柳郁弥、柏からレンタル移籍のアンジェロッティらの活躍で2-0と今シーズン初勝利をあげ、昨シーズンの開幕9試合未勝利という悪夢を払拭した。 翌日はJ1リーグの柏対FC東京戦を取材。こちらは15時3分キックオフ時の気温は17.3度と高く、メインスタンドは陽も当たるため、風さえなければ暖かかった。ご存じのように三協フロンテア柏スタジアムは、日本では珍しくメインスタンドに直射日光が当たる(日本はもちろん世界のスタジアムもメインスタンドは日光を背にするように造られている)。このためデーゲームではサングラスなどの用意も必要だ。 ところが後半は16.6度と気温が下がると同時に、15時過ぎのキックオフのため日も陰り、強風も吹き付けてきた。前日同様、取材ノートはスマホで抑えながらの観戦だ。それでも前日の試合を教訓に、アンダータイツ着用で膝掛けを持参するなど防寒対策をしたため凍えることはなかったが、やはり寒風は身体に厳しい。 そして本題である。試合後のFC東京のアルベル監督のコメントが印象的だった。開口一番に語ったのが次のコメントだ。 「今日の試合において、風が大事な要素になると思った。風の影響が大きかった。このスタジアムはサッカー専用で好きだが、屋根が少ないので風が影響します。向かい風の前半はなかなかスペースを見いだすことができず、柏は追い風を生かしてプレスをかけてきたので、我々は長いボールを使いました」 サッカー専門誌の記者の頃は柏を担当したので何度もこのスタジアムに足を運んだが、「風の影響が大きい」と聞いたのは初めてだった。ニカノール監督や西野朗監督に確かめたこともなかったし、カレッカやストイチコフに聞いたこともなかった。取材不足を痛感した次第でもある。 そして思ったのは、三協フロンテア柏スタジアムと同様にNACK5スタジアム大宮もメインスタンドの上方に短い屋根があるものの、それ以外に風を遮るもののない。似たようなスタジアムであるということだ。都心ではニッパツ三ツ沢球技場も屋根がないため同じスタジアムと言うことができる。 NACK5スタジアム大宮(旧大宮サッカー場)とニッパツ三ツ沢球技場(旧三ツ沢球技場)は64年の東京五輪の際に造られたスタジアムのため、現在の基準からすれば見劣りするのは仕方がない。それでも雨天の際に屋根があるかないかは観戦者にとって重要だろう。 そして先週末の取材で痛感したのは、屋根はもちろんのこと、屋根を支える障壁が両ゴール裏とバックスタンドにあれば、吹き付ける寒風をいくらかでも防げたのではないかということだ。これは改修された等々力陸上競技場に当てはまるかもしれない。 Jリーグの野々村芳和チェアマンは、春秋制から秋春制への変更を検討すると明言している。そのためには豪雪地にドームスタジアムと、ドーム型の練習グラウンドが必要になるだろう。しかし豪雪地でなくとも、チーム数がJ1からJ3まで20チームに増え、シーズンが厳冬期をまたぐのであれば、スタジアムの寒風対策も必要になると感じた週末のJリーグ取材だった。もちろん、そのためにはスタジアム改築費など各自治体との密な協力体制が欠かせないのは言うまでもない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.02.27 21:30 Mon
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開幕戦完敗で「どうする浦和」/六川亨の日本サッカーの歩み

浦和にとってFC東京は“お得意さん”のはずだった。直近の2シーズンは2勝2分けと負け知らず。過去の対戦成績でも22勝11分け9敗とホーム(13勝4分け4敗)はもちろんアウェイ(9勝7分け5敗)でも勝ち越してきた。 そんな浦和が開幕戦でFC東京に完敗したのだから“ただ事”ではない。 前半こそ前線からの献身的で連動したプレスと、アンカーの東慶悟を潰すことでFC東京のビルドアップを封じた。開始4分には東にイエローカードが出され、シュートも1本に抑え込んだ。ここまでは、これまでのパターン通りと言えた。 ところが後半、アルベル監督は警告を受けた東に代えて安部柊斗をトップ下に起用し、新加入の小泉慶と松木玖生をボランチに下げる[4-2-3-1]に変更。すると試合はFC東京のワンサイドゲームになった。 FC東京の攻撃がスムーズになったのは、松木がボールに触る回数が増えたのと、小泉が状況に応じて最善のプレーを選択してリスクヘッジしたからだ。さらに仲川輝人に代えて渡邊凌磨を昨シーズンまでの右サイドではなく、左サイドに投入したのも効果的だった。 とはいえ、FC東京の選手がそこまでスーパーなプレーをしたわけでもない。前半のオーバーワークが影響したのか、明らかにペースダウンした後半でもあった。 浦和はダヴィド・モーベルグの動きが緩慢で、シュートもスローモーで簡単にブロックされるなど調整不足は明らか。このため後半11分にはベンチに下がった。昨シーズンはケガで長期欠場を余儀なくされたブライアン・リンセンもシュートは1本も放てず後半24分に交代した。 名古屋へレンタル移籍したキャスパー・ユンカーが開幕戦で先制ゴールを決めたのとは対照的な結果である。 チームには昨シーズンからの継続性があるのは強みかもしれない。しかし左SB明本考浩、ボランチの伊藤敦樹と岩尾憲、トップ下の小泉佳穂と左FWに起用された大久保智明は、確かに“仕事人”と言っていい選手たちである。しかし、浦和というビッグクラブのリーダーとして“顔”となる選手かと問われれば首を捻らざるを得ない。 唯一存在感を発揮したのは、アダイウトンのドリブル突破を身体で弾き飛ばしてボールを奪い、そのまま持ち上がってカウンターを仕掛けた酒井宏樹くらいだ。 補強にしても、レンタルバックの興梠慎三は別にして、主力クラスはCBマリウス・ホイブラーテンの1人だけ。これでは江坂任の抜けた穴を埋められたとは到底思えない。ビッグクラブを自認するには寂しい補強である。果たしてさらなる外国人選手の獲得はあるのかどうか。「どうする」のか注目したい。 次節はディフェンディング・チャンピオンで開幕戦を白星スタートの横浜FM、さらには大型補強のC大阪と難敵が続く。マチェイ・スコルジャ監督には「待ったなし」の連続だが、無事に乗り切れるのかどうか、こちらも他人事ながら心配である。 それでも試合後、帰路を一緒にした浦和担当記者は、「こういう試合をした後にマリノスに勝つのが浦和なんですよ」と胸を張っていた。これが“レッズ愛”なんだろうと実感した次第である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】FC東京が浦和を開幕戦で粉砕</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="QC3ly0QTYBs";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2023.02.21 14:00 Tue
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ロシアがAFCへ? イスラエル転籍の歴史/六川亨の日本サッカーの歩み

去る2月1日、バーレーンのマナマで第33回AFC(アジアサッカー連盟)コングレス2023が開催され、JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長がアジア選出のFIFAカウンシル(理事会)メンバーに再選された。 任期は2027年までの4年間で、3選は元JFA会長の小倉純二氏の2選を抜いて最多。2016年にJFA会長に就任した田嶋氏は、来年で4期8年の任期を終え、その後は名誉会長に就任予定だが、FIFAカウンシルのメンバーとしての公式活動は今後4年間続くことになる。 アジア選出のFIFA理事選には定員5名に対し7名が立候補した。満票は45票で、過半数を取らないと理事として認められない。田嶋会長は39票を獲得して7人中2番目で当選した。他にはカタール、サウジアラビア、フィリピン、マレーシアの4人が理事に選出され、中国と韓国の2人は過半数に届かず落選した。 このAFCコングレスには、UEFA(欧州サッカー連盟)からAFCへの転籍が噂されるロシアサッカー協会の会長も出席したことを田嶋会長は明らかにした。その上で「まだ最終的な議論をするまでには至っていません。かつてイスラエルの例もあったが、同じにしていいとは思わない。スポーツと政治は分けて考えるべきだと思う」と私見を述べた。 そのイスラエル、現在はUEFAに所属しているが、かつてはAFCに属していた。 アジアのチームがW杯に出場したのは54年スイス大会の韓国が初めてだった(38年フランス大会のオランダ領東インド=現在のインドネシアは除く)。次が66年イングランド大会の北朝鮮で、グループリーグでイタリアを倒してベスト8に進出したのは長らくアジアの最高成績だった。 そして3番目にW杯に出場したのがイスラエルで、70年メキシコ大会ではイタリアと0-0、スウェーデンと1-1で引き分ける健闘を見せたがグループリーグで敗退した。 そのイスラエルと日本は73年の西ドイツW杯予選で初めて対戦。ソウルでの集中開催だったが、組分け予選で1-2と負けたものの南ベトナムに4-0で勝って準決勝に進出。しかしイスラエルとの再戦となった準決勝では延長戦の末0-1で敗れた。アジア予選を勝ち抜いたのは韓国だったが、オセアニアとの最終予選でオーストラリアに敗れてW杯出場はならなかった。 このイスラエル、本来なら中東のグループに所属するはずだった。しかし67年の第三次中東戦争でイスラエル軍がパレスチナ自治区を占領したことで起こったパレスチナ問題やその後の中東戦争などにより周辺のアラブ諸国との関係が悪化。アラブ諸国はもちろん北朝鮮や中国、イスラム教徒の多いインドネシアなどもイスラエルとの対戦を拒否したため、消去法から予選は東アジアと対戦することになった。 彼らは64年に自国開催のアジアカップで初優勝を飾ったが、72年のタイ大会から出場辞退を余儀なくされ、74年にはクウェートの主導による投票の結果、賛成17、反対13、棄権6によりAFCから除名され、地域連盟に未加盟の状態が続いた。 それでも76年3月のモントリオール五輪予選、77年3月のアルゼンチンW杯予選で日本はイスラエルと対戦。いずれも韓国との3か国によるホーム・アンド・アウェーの対戦だったが、日本はイスラエルの来日に際して安全を保証できないとの理由から、モントリオール五輪予選のホーム・ゲームはソウル(0-3、1-4)で、W杯アルゼンチン予選は2試合ともテルアビブ(0-2、0-2)で開催され、完敗を喫したのだった(通算対戦成績は7戦7敗)。 その後、“さまよえる"イスラエルは一時期UEFA(82年スペインW杯予選)やOFC(オセアニアサッカー連盟)の暫定メンバーとなり、86年メキシコW杯と90年イタリアW杯の予選はオセアニアで戦った。90年大会ではオセアニア代表としてコロンビアとのプレーオフに臨んだものの2試合合計0-1で敗れてオセアニア代表としてのW杯出場はかなわなかった。 そんなイスラエルが長年望んでいたのが、距離的にも近いUEFAに加盟することだった。ようやく92年にUEFAに受け入れられると、94年からは正式なメンバーとして昨年のカタールW杯まで8度の欧州予選に参加。EUROにも96年イングランド大会から参加しているものの、いずれも予選で敗退している。 果たしてウクライナ侵攻によりヨーロッパで孤立しているロシアのサッカーがアジアに転籍してくるのか。パリ五輪の参加資格も含めて注視したい。そして3月24日に国立競技場で開催されるキリンチャレンジカップ2023の対戦相手はウルグアイに決まったが、日本代表のレベルアップのためには日本がUEFAに転籍することも一考ではないだろうか。 2023.02.13 23:00 Mon
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