日本サッカー殿堂掲額者の横顔/六川亨の日本サッカーの歩み

2022.08.02 21:00 Tue
twitterfacebookhatenalinegplus
photo
Getty Images
ちょっと早いけれど、今年も日本サッカーの発展に貢献・寄与したJFA(日本サッカー協会)の「殿堂掲額者」が決定した。掲額式は9月10日にJFAハウス1Fのバーチャルスタジアムで開催される予定だが、JFAハウスはすでに売却先が決まっているため、同ハウスでの「殿堂掲額式」は今年が最後になる。

記者などの投票による「投票選考」には8人の候補者(国際Aマッチ50試合以上出場、JSLまたはJ1リーグの通算出場が200試合以上、W杯出場などが条件)がいたものの、得票率で75%以上を獲得できなかったため、「該当者なし」として選出が見送られた(5%以上75%未満なら次回投票の候補になるが、5%未満だと名簿から外れる)。

今年の候補は碓井博行氏(藤枝東高、早稲田大、日立で活躍。JSL得点王2回で、通算85得点は釜本邦茂氏に次いで2位)。金田喜稔氏(広島県工、中央大学、日産で活躍。日本代表では19歳119日という史上最年少得点記録の保持者)。原博実氏(アジアの核弾頭と言われたストライカーで、JFA技術委員長や専務理事を歴任。現大宮フットボール本部長)。森下申一氏(静岡学園高で高校選手権準優勝。ヤマハや磐田でGKとして活躍し、現在は磐田アカデミーGKコーチ)。
彼ら以外にも柱谷幸一氏や都並敏史氏らは解説者としても活躍しているし、吉田光範氏と松永成立氏は指導者として現場に携わっている。

しかしながら各氏とも75%以上を獲得できなかったのは、候補者が多くて票が割れてしまった可能性が高い。昨年はW杯予選・日韓戦での伝説のFKや、横浜F・マリノスの30周年の記念イベントにも元気な姿を見せた“ミスター・マリノス”こと木村和司氏が受賞した。

碓井氏や金田氏、原氏、森下氏、柱谷氏、都並氏らは木村氏と一緒にロス五輪予選やメキシコW杯予選を戦ったチームメイトでもあるが、やはり木村氏は日本代表や日産時代のFKのインパクトが強かったのだろう。

一方、特別選考では次の4氏が選出された。

イヴィチャ・オシム氏については、今さら説明は不要だろう。20年のフィリップ・トルシエ氏に続く外国人の日本代表監督の選出である。

元国見高校の小嶺忠敏氏は島原商業や国見高校を率いて全国制覇を達成しただけでなく、高木琢也氏や大久保嘉人氏ら多くの日本代表選手を育て上げた。

高校選手権やインターハイでの全国制覇や代表選手の育成という点では、帝京高校の古沼貞雄監督や元清水商業(現清水桜が丘高校)の大滝雅良監督も負けてはいない。

彼らと小嶺監督との大きな違いは、小嶺監督が1993 年に日本で開催された FIFA U-17 世界選手権(現FIFA U-17W杯)にU-17 日本代表監督としてチームを率い、FIFA主催大会で日本サッカー史上初となるベスト8進出を果たしたことだろう。

残る2人は、サッカーファンにとってもあまり馴染みのない名前かもしれない。綾部美知枝さんは、清水FCの監督として長谷川健太、大榎克己、堀池巧らを指導して第1回の全日本少年サッカー大会で優勝するなど、清水のサッカーの発展に寄与した。それまで静岡の“サッカーどころ”と言えば藤枝だったが、堀田哲爾氏との二人三脚で清水を今日の地位に引き上げた功労者である。

JFAでは第4種(少年)や女子の理事や特任理事を担当して少年サッカーや女子サッカーの普及・発展に努めた。

最後に北山朝徳氏である。アルゼンチン在住のJFA国際委員で、南米の各国協会との強固なパイプから、約40年にわたりキリンカップなどのマッチメイクや日本チームと日本人選手の留学などのサポートを行ってきた。彼がいなければキリンカップなどで簡単に南米のチームは呼べなかったし、トヨタカップで来日するチームの取材のアテンドもしてきた。99年に日本が初めてパラグアイでのコパ・アメリカに参加できたのも、北山氏の功績が大きい。

アルゼンチン在住のジャーナリスト、藤坂ガルシア千鶴氏がアルゼンチンに渡って最初にお世話になったのも北山氏で、彼の事務所で働きながらサッカージャーナリストとして日々研さんした。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

関連ニュース
thumb

Jリーグの役割/六川亨の日本サッカーの歩み

残念なことだが、カタールW杯で2ゴールの堂安律も、ブライトンでチームをEL圏内に導きそうな三笘薫も、そしてCLの可能性が高い久保建英も、今冬の移籍はなくなった。 しかし、それはそれでいいことではないだろうか。まずは現在のチームでしっかりと結果を残すことを優先するべきだと思うからだ。三笘が次に行くだろうチームはアーセナルやマンチェスター・シティなどであり、久保も同様にリーガ・エスパニョーラならレアルかバルサしかないだろう。 5大リーグに視野を広げても、バイエルンやパリSGなど優勝争いをしているチームしか考えられない。とはいえ、いま現在移籍してもレギュラーの保証はない。ここはじっくりと腰を据えて、自分自身の価値を高める方が得策だろう。 そんな海外の話のあとで恐縮だが、昨日はJリーグの理事会が開催され、来シーズンのJ1リーグ優勝チームの賞金が2億5千万円、ACL出場チームには1億円、J2リーグ優勝チームには1億円の賞金が出されることが発表された。 当たったことはないものの、サッカーくじでさえ7~8億円の賞金の時代に、優勝チームの賞金が3億円にも満たないことに正直驚いた。野々村チェアマンの「5~6倍にしたい」というのは偽らざる本音だろう。とはいえ、原資がなければ「ない袖は振れない」のも事実である。 そこで一つの提案だ。JFA(日本サッカー協会)は文京区本郷にある自社ビルを売却して飯田橋に移転する。売却益は50億円近くになるだろう。同時にJリーグは大手町の明治安田生命保険へと移転する。元々Jリーグとしては、JFAハウスの「家賃が高い」ことがネックになっていたので、お互いにウインウインの関係になれるだろう。 で本題である。Jリーグの会見でも広報の方以外に多くの方々がズーム会見に出席していた。それぞれ役割があるのだろうが、同じことはJFAにも当てはまるのではないだろうか。組織の肥大化である。実際、誰がなんの役割をしているのか、すべてを把握している人がいるのだろうか。 Jクラブはスリム化を求められているものの、本体はどうなのか。ちょっと立ち止まって考えてもいいような気がしてならない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.02.01 21:30 Wed
twitterfacebook
thumb

「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」元チェアマン村井満氏がバドミントン協会に/六川亨の日本サッカーの歩み

「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」とは、前チェアマンの村井満氏の口癖である。このフレーズを1月22日に久しぶりに耳にした。 すでにネットや新聞紙上で報道されたように、日本バドミントン協会は1月22日、都内で臨時評議員会と理事会を開き、Jリーグ第5代チェアマンの村井氏を理事に選任すると同時に、全会一致で副会長に承認した。今後は6月の役員改選で新会長に就く見通しだ。 「なぜ村井氏がバドミントンに?」と思われるかもしれないので、バドミントン会の内情を簡単に紹介しよう。 22年3月、元職員が18年度に選手の賞金や合宿時の負担金など約680万円を私的に流用した。これを受けてバドミントン協会は元職員による横領の組織的な隠蔽などの不祥事を受けて、関根義雄前会長と銭谷欽治前専務理事が引責辞任。この不祥事には他にも6人の理事と2人の監事が関わったとされ、元選手からは抜本的な改革を求める意見も出されていた(22日の臨時評議員会では、不祥事に関わった6人の理事と2人の監事を解任しないことを決めた)。 こうした背景からバドミントン協会は、昨年12月初旬に組織改革のためには「(新会長には)外部理事を招へいしないといけない」として、候補に元Jリーグチェアマンの村井氏に今後の改革を託したというわけだ。 村井氏は「サッカー界からバドミントン界に大きな転身となりますが、スポーツ界に恩返しをしたい」という思いから、職務を引き受けたという。 会長職を引き受けた村井氏は、臨時理事会後に会見に臨み「バドミントンは世界的に競技レベルが高い。その競技力を持ちながら選手には苦しい思いを強いていたのではないか。(協会が)隠ぺい体質と言われていることを目にしました。あらゆる不祥事の多くは密室で起こると思っています。“魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる”と言ってきましたが、徹底して透明性を高めていきたい」と抱負を語った。 村井氏の功績は、あらためて紹介する必要もないだろう。昨年、退任するまで4期8年の任期は、初代チェアマンの川淵三郎氏を別にすれば最長だ。それだけ実績を重ねてきた。チェアマン就任早々に浦和の無観客試合の開催を決定した。 その他にも明治安田生命とタイトルパートナー契約を締結したり、イギリスのパフォーム・グループ「DAZN」と10年間で約2100億円の大型契約を結んだりして経営の安定化を図った。しかし、こうした目に見える改革だけが同氏の功績ではない。 例えば豪華な『チェアマン室』をはじめ役員の個室を撤廃して、『大部屋制』を導入した。JFA(日本サッカー協会)にはいまもJFAハウスに広大な会長室があるのとは対照的だ。 自分専用のデスクに座り、パソコンと向き合っていれば誰もが“仕事をしている”と思うだろう。連絡手段はメールやLINEで済む。こうした風潮に対しても固定席を持たない“フリーアドレス”を採用して仕事の効率化と、職員同士の“声掛け”によるコミュニケーションを図った。 ある意味、『アナログ化』と言ってもいい。その原点が冒頭のコメントにある「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」に端的に表われている。 リクルート・エージェントという人材をマンハントするグローバル企業の出身だからこそ、人材の“生かし方”を熟知した証左である。 村井氏と接したことがあるなら、誰もが「人当たりはソフトで謙虚」という印象を受けただろう。しかし浦和の無観客試合の開催を決定したことなど、決断力に迷いはない。 それは、埼玉県出身で浦和高校時代はサッカー部に所属し、Jリーグ誕生以前は浦和にプロチームを誘致する活動をして、93年5月15日のJリーグ開幕戦(ヴェルディ川崎対横浜マリノス戦)には何枚ものハガキを書いて応募したものの落選して落ち込んだように、生粋のサッカーファンだからこそできたからだ。 彼のサッカー愛は半端ではない。 チェアマンを野々村氏に譲ってからは、ワンボックスカーを購入して改造し、車中泊をできるようにして全国各地のJクラブの試合を観戦するのを楽しみにしていると聞いた。久しぶりに会った際は「サスペンションがあまりよくないんですよ」と言っていたが、今年はサッカー観戦の機会も少なくなるのは寂しいかもしれない。 村井氏は、それだけ求められている人材であり、サッカー界はそうした人材を輩出したことを誇らしく思っていいのではないか。そして同時に、バドミントンは世界的に日本選手が男女ともトップレベルでも、協会は旧態依然とした体質を知ったのは驚きだった。 今後は注目される組織改革だけに、村井氏には6月以降、プレッシャーがかかるだろう。しかし、プレッシャーがかかればかかるほど村井氏は底力を発揮するはず。サッカー界からは一時離れると思うが、バドミントン協会の組織改革に注目したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.24 12:00 Tue
twitterfacebook
thumb

フットボールカンファレンスから思いついた提案/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)が主催する指導者向けの講習会、「第13回フットボールカンファレンス」が1月14、15日の両日、横浜市内の会場でヨーロッパやアジアからゲストを招いて開催された(アーセン・ベンゲル氏やユルゲン・クリンスマン氏もズームで参加)。 田嶋幸三JFA会長の挨拶に続いてJFAのTSG(テクニカルスタディグループ)リーダーの木村康彦氏が、カタールW杯の分析を報告。ゴールに関しては、トータル172ゴールは過去最多で(32チームとなった98年フランス大会以降)、そのうちカウンターからは40ゴール、さらに92%がペナルティーエリア内のシュートだったことなどが報告された。 そして守備では「カウンターをやらせないカウンタープレスの高い意識とハードワーク」に加え、ボランチやアンカーの守備範囲の広さとインテンシティの強さを指摘しつつ、半分以上の選手がCLかELの出場チームに所属していたとのことだった。 大会全体としては、ヨーロッパのインシーズン中での開催と、全8会場が距離的に近いコンパクトな大会だったため、選手も試合ごとの移動がなく、気候も一定していて「レベルの高い大会」と位置づけた。 コンパクトな大会の利点は取材したメディアや観戦に訪れたファン・サポーターも大いに感じたはずだ。 登壇した反町技術委員長も「コロナでマッチメイクも中止になり、苦しい日々を過ごした」と振り返りつつ、カタールでのキャンプ地はアジア最終予選を突破する前に視察して予約していたこと。練習中にドローンを飛ばして、その映像をピッチで選手がすぐに見られるよう映像モニター付きのカートを用意したことなどを紹介した。 これまでのW杯なら、本大会の組分け抽選が終わり、グループステージの日程と試合会場が決まってからキャンプ地選びとなるが、カタールのスタジアムはほとんどがドーハ市内か近郊のため抽選会を待つ必要がなかった。そして選手はずっと同じ施設にステイして試合に集中できるだけに、ストレスもあまり感じなかったのではないだろうか。 前回のロシア大会も日本はグループステージで3会場に比較的近いカザンをベースキャンプ地にしたが、大変だったのが14年ブラジルW杯だ。キャンプ地のイトゥはサンパウロ市内からバスで1時間ほどかかる。さらにイトゥ市内からもキャンプ地までは徒歩で30分以上かかるというアクセスの悪さ。 初戦(コートジボワール戦)の行われたレシフェとサンパウロの距離はというと、沖縄から札幌に移動するのと同距離だ。アルベルト・ザッケローニ監督(今回のカンファレンスにも参加)は「選手に試合後、しっかりと食事を摂らせたい」との考えから1泊することを選んだが、多くのチームは遅くなってもキャンプ地まで戻り、翌日のクールダウンや練習に備えた。短期決戦での“一日"をどう使うかの考え方の相違だろう。 話をカタールW杯に戻すと、移動がないため「レベルの高い大会」だったと総括した。ならば、48チームに増える次回の大会こそ、98年フランス大会以前のグループステージ制に戻すべきである。 例えば86年メキシコW杯では、各グループの4か国は同一市内もしくは近郊の2会場で試合を行った。地元メキシコは3試合ともメイン会場のアステカ2000スタジアムだったし、ジーコ率いるブラジルは温暖なグァダラハラ市、イングランドはメキシコシティから最も遠く、アメリカ・テキサス州に近いモンテレイ市だった。 4年後のイタリアW杯も同じように、ローマとフィレンツェ、ミラノとボローニャ、トリノとジェノバ、ナポリとバーリなどが同一グループの試合会場となり、イタリアは3試合ともオリンピコで戦った。さらにローター・マテウスらインテルで3人がプレーしている西ドイツはミラノのサン・シーロで、ディエゴ・マラドーナのアルゼンチンは当然ナポリのサン・パオロでの試合となった(開幕戦だけはミラノ)。 試合会場が近ければ、グループステージ中の移動は少なくてすむ。その日のうちにキャンプ地に戻ることも可能だ。そして、利点は他にもある。 カタールW杯では大会期間中、現地で暮らす日本人の子供たちを練習に招待した。それと同じことが86年のW杯でもあった。ずっと同じキャンプ地にいるため、代表チームがお礼に地元の少年少女を練習に招待したのだ。こうした触れ合いもW杯ならではの素敵な経験となるのではないだろうか(各会場のボールボーイも地元の少年少女だった)。 ところが98年フランスW杯で、ミシェル・プラティニは「地元のファンがより多くのチームの試合を見られるようにしたい」と“グループ制"をやめて、チームが試合のたびに都市間を移動するシステムに変更した。 百歩譲って交通網の発達した(なおかつ時間に正確な)フランスやドイツ、日本ならまだしも、アメリカ、カナダ、メキシコと時差もあり3か国にまたがる大会で、さらにチーム数も増やすのだから、選手のコンディションを考慮しても移動のリスクは極力減らすべきである。監督、選手はもちろんのこと、それは誰もが歓迎すると思うのだが、いかがだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.16 22:00 Mon
twitterfacebook
thumb

岡山学芸館の巧妙なゲーム運びに感動/六川亨の日本サッカーの歩み

1月9日の第101回全国高校サッカー選手権、岡山学芸館(岡山県)対東山(京都府)の決勝戦には5万868人の大観衆が観戦に訪れた。 すでに前売りの段階で完売していたと聞いていたので、決勝戦のカードに関係なく老若男女、高校サッカーファンがチケットを買い求めたのだろう。 平成25年度(決勝戦は2014年)、第92回大会の富山一(富山県)対星稜(石川県)の決勝戦(3-2)を最後に旧国立競技場は大規模改修工事に入った。その後は決勝の舞台を埼玉スタジアムに移して令和2年度の前々回まで開催されてきた。 しかし、やはり交通のアクセスの良さは新国立競技場に勝るものはないのだろう。前回大会から国立開催となり、ファンも戻ってきたようだ。そして9年前と同様に初の日本一を目ざす両チームの激突は、最後まで目の離せない好ゲームとなった。 今大会は岡山学芸館の試合を見る機会が多かった。3回戦の國學院久我山(東京)との試合こそテレビ観戦となったが、準々決勝、準決勝、決勝と取材した。理由は簡単で、今大会は神村学園を追いかけていたため、隣のブロックにいる岡山学芸館と試合会場が重なったからだ。 そして彼らの、ピッチをワイドに使った攻撃的なサッカーに魅了された。敵のバイタルエリアに入ると、忠実にパス&ムーブを繰り返す。このため攻撃をブロックされても、こぼれ球を拾っては攻撃を組み立て直し、サイドからブ厚い攻めを展開した。 神村学園のFW福田師王やMF大迫塁のような年代別代表選手や、卒業後にJリーガーとなるような選手もいない。しかし“穴"もなく、2年生ながらGK平塚仁はハイボールに安定したキャッチングを見せ、1トップの今井拓人は献身的なポストプレーとチェイシング、そしてトップ下の田口裕真は気の利いたパス出しで攻撃陣を牽引した。 ところが東山との決勝戦の前半は、これまで見て来たサッカーとはまったく違うスタイルを選択した。 記録上のスタメンの平均身長と体重で、両チームに差はほとんどない。しかし東山は昨年の大会の準々決勝で、優勝した青森山田(青森県)に1-2と敗れた際、フィジカルコンタクトの差を痛感したそうだ。その反省を生かして選手権の大舞台に戻ると、決勝戦では体幹の強さや巧妙な身体や手の使い方で岡山学芸館を圧倒した。 見事だったのは、それを見越したのか岡山学芸館は前半、ほとんどパスをつなごうとせず、自陣からロングパスを1トップの今井に当てるカウンターに徹したことだ。 高原良明監督は「前半は単調な攻撃が多くてマイボールを失っていた」と語ったが、東山のCKやロングスローに対し、GK平塚がキャッチするとすかさずライナー性のキックを前線に残る田口裕に出してカウンターを狙った。その割り切り方はカタールW杯の森保ジャパンを彷彿させるほどだった。 そして25分にはカウンターから単身ボールを運んだ今井がOGを誘発して先制に成功する。前半終了間際に追いつかれた岡山学芸館が後半はどんなサッカーを見せるのか期待したところ、やはりスタイルを変えてきた。 ロングキックから一変、本来のパスをつなぐスタイルで東山にプレッシャーをかけに行った。後半7分の木村匡吾の決勝点、ヘディングシュートはまったくのフリーだったが、準決勝の神村学園との試合で先制点を決めた田口裕もフリーで決めたように、2列目からの走り込みによるゴールも岡山学芸館の得意とするところ。 そして東山の反撃に一進一退の攻防を繰り広げつつ、岡山学芸館は後半20分過ぎになるとCKやロングスローのチャンスに両CBがゴール前に攻め上がり、貪欲に3点目を狙いにいった。その姿勢からは、『このまま2-1で逃げ切るのではなく3点目を取らないと勝てない』という決意を感じた。 実際、東山は14分にはゴール前の決定機にシュートを上に外したり、29分には阪田澪哉がクロスバー直撃のヘディングシュートを放ったりするなど、同点のチャンスは2度ほどあった。 そんな東山に対し、後半40分に右ロングスローから木村匡がダメ押しの3点目を奪って勝利を決定づける。 印象的だったのはタイムアップの瞬間で、勝った岡山学芸館の選手がピッチに倒れ込んだ。12月29日の1回戦から、ほぼ同じスタメンで戦ってきただけに、疲労困憊だったのだろう。そして試合後の表彰式では普通の高校生に戻っていた。 今大会のPK戦での左右上スミを狙った精度の高いキックも驚きだった。例えGKが読んだとしても弾けないコースである。指導した平清孝GMは、かつては東海大五(現東海大学付属福岡高)の監督として東福岡と火花を散らした名将でもある。かつては一見すると、かなり怖い監督だったが、実際はとても腰の低い紳士的な指導者だった。長年の苦労が、こうした形で報われたことは嬉しい限りだ。 そして岡山学芸館の初優勝で、岡山県のサッカー勢力図に変化がもたらされるのか。それはまた、来年の楽しみということにしよう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.10 20:45 Tue
twitterfacebook
thumb

ペレさんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

新年、明けましておめでとうございます。 といったところで恐縮だが、やはり昨年末の29日に死去した“キング"ペレに触れないわけにはいかないだろう。 選手としてただ一人3度のW杯に優勝し、当時の優勝トロフィーだったジュール・リメ杯を永久保持する原動力となったことや、初めて1000ゴールを達成するなど「記録にも記憶にも残る」偉大なストライカーだった。 ブラジルは過去すべてのW杯に出場している唯一の国だが、グループリーグで敗退したことが3度ある。第1回の1930年ウルグアイ大会はグループリーグでユーゴスラビアに負け、続く34年イタリア大会はトーナメント方式で行われたため初戦でスペインに敗退した。 そして現行の形に近い参加16チームが4チームずつのリーグ戦を行い、各グループの上位2チーム計8チームがトーナメント形式で争う58年スウェーデン大会以降で、ブラジルがグループリーグで敗退したのは66年イングランドW杯しかない。 このイングランドW杯はブラジルの3連覇がかかっていたが、ペレはヨーロッパ勢の悪質なファウルに苦しめられた。初戦のブルガリア戦(2-0)で負傷すると、続くハンガリー戦(1-3)は欠場を余儀なくされた。そしてポルトガル戦(1-3)で復帰したものの、またも激しいタックルを受けてピッチ外へと運び出され、ブラジルはグループリーグで敗退した。 当時のW杯では選手交代が認められていなかった。ところがペレの負傷によりブラジルの戦力は明らかにダウンしたため、70年メキシコ大会から2人まで選手交代ができるようになった。 さらにイングランドW杯は、ヨーロッパ・スタイルのラフプレーまがいのタックルを主審が反則として取らなかったため南米勢は苦しめられたが、アルゼンチンはラフプレーにはラフプレーで応酬。このため準々決勝のイングランド戦は「まるで戦争だ」とも言われ、英国人はアルゼンチン人を「アニマル」と揶揄した。 35分にはアルゼンチンのラティン主将が退場を命じられたが、執拗に主審に食い下がったため試合が中断された。そこでメキシコ大会からは観衆やテレビの視聴者にも分かりやすいように、警告にはイエローカードが、退場にはレッドカードが採用されることになった。もちろん選手に反論は許されなかった。 話を“キング"に戻そう。90年代の頃、友人から1本のビデオをダビングしてもらった。タイトルはポルトガル語で『isso é pele』(英語だとthis is pele)といい、60~70年代のペレの全盛期のゴールシーンを集めたビデオだった。 このビデオを見て腰を抜かした。当時の90年代までヨーロッパや南米の名選手が使っているフェイントのほとんどを、すでに30年前のペレが実践していたからだ。「ありとあらゆるフェイントの原型はペレにあった」と言ってもいい。それほど多彩なフェイントとトップスピードで対戦相手を幻惑し、いとも簡単に抜いては次々とゴールを決めていった。 残念ながらこのビデオは友人に貸したところ、よくあるパターンでその後は所在不明となってしまった。 年末にはネットでもペレの功績が多くのメディアで取り上げられた。その中にはディエゴ・マラドーナと比較する論調もあった。 プレーした時代が違うため、比較すること自体、あまり意味はないと思う。アルゼンチン人ならペレよりマラドーナが上だときっと言うだろう。国によって、世代によって変わるものだからだ。 しかし、2000年の暮れ、まだサッカー専門誌に勤務していた頃、1年近くかけて『20世紀のベストプレーヤー100』という増刊号を無謀にも出した。きっかけはイングランドのサッカー専門誌『ワールドサッカー』が読者や識者アンケートで20世紀のベスト100を人をランキングしたからだった。 『ワールドサッカー』のランキングを参考にしつつ(記事の翻訳・転載契約は断られたが自由に使っていいと言われたため)、日本ならどんな順位になるのか、編集部で意見をぶつけあった。そこで問題となるのはベスト10、さらに言うならベスト4の順位をどうするかということだった。 基本的にアルフレッド・ディ・ステファノ(6位)、フェレンツ・プスカシュ(9位)、スタンレー・マシューズ(10位)といった、編集者がプレーをライブで見ていない選手は『ワールドサッカー』誌の順位を踏襲した。 問題となったのは、ペレかマラドーナ――に加えてトータル・フットボールを具現化したヨハン・クライフと、リベロという概念を確立したフランツ・ベッケンバウアーをどう扱うかということだった。 結論から言うと、1位はペレ、2位がクライフ、3位がマラドーナ、そして4位がベッケンバウアー(5位がプラティニ)ということになった。たぶん、選んだスタッフの世代(年齢)がクライフを2位に “推し"たのだと思う。ペレが『10』をエースナンバーにしたように、クライフの『14』もある年代には特別な番号となったからだろう。 そしてペレは、72年にサントスFCでの初来日以来、77年のニューヨーク・コスモス(引退試合でベッケンバウアーらと来日)、84年には釜本邦茂の引退試合(ヤンマー対日本リーグ選抜)と国立競技場で3回プレーした。さらにサッカー教室や2002年W杯の招致活動などでも来日するなど大の親日家だった。 前述の増刊号の巻頭にも選出されたことに対する感謝のメッセージに加え、Jリーグと日韓W杯の成功を祝うレターを送ってくれた。 そんな“キング"と仕事で会うと、日系人の通訳が気をきかせてくれて、いつも「ロクカワさん」と低音ながら温かみのある声で呼びかけてくれた。そうした細やかな気配りの人柄が、世界中のファンから愛された一番の理由であることは疑う余地はない。 サッカー界に語り継がれる“巨星"は墜ちてしまった。しかし、彼の逝去を悼む声の多さに救われたのは私だけではないだろう。“キング"は“永遠"になった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/pele20230102_tw.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.02 22:00 Mon
twitterfacebook
NEWS RANKING
Daily
Weekly
Monthly