EAFF E-1選手権の歴史をおさらい/六川亨の日本サッカーの歩み
2022.07.19 09:30 Tue
いよいよ19日からEAFF-E1選手権がスタートする。日本は初戦で香港とカシマスタジアムで対戦するが、18日には谷口彰俉や宮市亮ら4選手がズームによる会見に応じ、キャプテンに指名された谷口は「寄せ集めのチームなので普段通りにはできないでしょう。ピッチ内はもちろんのこと、ピッチ外でもいろんな話をしようと選手には伝えています」と難しいチーム状況であることを認識していた。
そして森保一監督は「できるだけ多くの選手を起用しながら大会に臨むつもりです」と話したが、そうなると「寄せ集めのチーム」だけに一抹の不安を感じてしまう。それでも今大会はW杯や五輪の予選と違い、特別な大会ではないだけに、“Jリーグ選抜”が東アジアの3カ国を相手にどれだけできるのか、それはそれで楽しみでもある。
このEAFF-E1選手権だが、02年の日韓W杯後の03年に東アジア選手権として第1回大会がスタートした。日本と韓国、それに中国を加えた3カ国の持ち回りで、残り1チームは香港、北朝鮮、オーストラリアら7チームがセントラルの予選を戦い、上位1チームが本大会に出場できるシステムとして今日まで続いてきた。
大会の趣旨としては、東アジアのレベルアップにあった。歴史的に日本と韓国は「日韓定期戦」でレベルアップを図ってきたが、“永遠のライバル”のため、時として親善試合の結果が監督の進退に影響することもあり、1991年を最期に自然消滅した。
その代わりということではないが、90年に東アジア4カ国によるダイナスティカップが始まり、スポンサー(マールボロ)が撤退したことと、日韓W杯を契機に東アジアサッカー連盟(EAFF)が02年に設立されたことで(初代会長は岡野俊一郎JFA会長)、今大会はスタートした。
第1回大会がスタートした90年当時はサッカー専門誌の記者として、イタリアでW杯を取材中だったが、帰国したらすぐに中国で開催される大会を取材するように命じられて苦労した覚えがある。
アジアは東西に長く、生活習慣はもちろんのこと、宗教など様々な違いがある。サッカーにおいても中東の8カ国(サウジアラビア、クウェート、イラク、UAE、カタール、バーレーン、オマーン、イエメン)は1970年に中東の大会であるガルフカップをスタートさせて切磋琢磨してきた。
最多優勝は70年代に強さを誇ったクウェートで10回だ。これに続くのがサウジアラビアと近年は成長著しいカタール、古豪のイラクの3回。そして逆に石油と天然ガスといった自然資源を保たない“中東の最貧国”と言われるイエメンはベスト4にすら入ったことがない。
ちなみにイランは文化圏が違うので(話す言語も中東はアラビア語に対しイランはペルシャ語)、アラビア半島の国々とは一線を画している。
このガルフカップから遅れること四半世紀、96年にはタイガービールの協賛から東南アジア選手権とも言うべき「タイガーカップ」がスタートしている。大会は08年に日本企業のスズキがスポンサーになり、AFF(ASEANサッカー連盟)スズキカップと名称が変更されたが、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東ティモールの11カ国が参加。
東南アジアの盟主とも言うべきタイが最多6回の優勝を果たしているが、近年は監督に韓国人のパク・ハンソ氏を迎え、もう引退したがJリーグでもプレーしたストライカーであるレ・コン・ビン氏を擁したベトナムが急成長を見せている。
ガルフカップやスズキカップに遅れて始まったEAFF E-1選手権。過去の政治的な状況を踏まえれば、東アジアの4カ国(日本、韓国、中国、北朝鮮)がいくら政治とは関係のないサッカーとはいえ足並みを揃えるのは難しいことであることは容易に想像できる。その突破口となったのが、アジアで初めて開催された日韓W杯でもあることは間違いないだろう。
改めて言うまでもないが、今大会はAFC(アジアサッカー連盟)のAマッチと認定されていないため、参加国は海外組を招集できない。AFCが認定するAマッチはW杯予選とアジアカップだけだからだ。しかし、それはそれで今大会は面白いのではないだろうか。
6月の4試合に出場した日本代表の海外組、いわゆるレギュラー組が海外から帰国して試合に出場したとしても、正直代わり映えしないメンバーに食傷気味なのは僕だけではないだろう。固定メンバーの森保ジャパンに風穴を開ける意味でも、今大会の“国内組”の活躍に期待しているJチームのファン・サポーターは多いと思うがいかだだろうか。
【文・六川亨】
そして森保一監督は「できるだけ多くの選手を起用しながら大会に臨むつもりです」と話したが、そうなると「寄せ集めのチーム」だけに一抹の不安を感じてしまう。それでも今大会はW杯や五輪の予選と違い、特別な大会ではないだけに、“Jリーグ選抜”が東アジアの3カ国を相手にどれだけできるのか、それはそれで楽しみでもある。
このEAFF-E1選手権だが、02年の日韓W杯後の03年に東アジア選手権として第1回大会がスタートした。日本と韓国、それに中国を加えた3カ国の持ち回りで、残り1チームは香港、北朝鮮、オーストラリアら7チームがセントラルの予選を戦い、上位1チームが本大会に出場できるシステムとして今日まで続いてきた。
基本的に2年に1回の大会だったが、アジアカップや五輪の関係で必ずしも「2年に1回」のサイクルが守られてきたわけではない。今年の大会も、本来は中国で昨年開催予定が新型コロナウイルスの影響で延期され、さらに日本開催へと変更された(日本→韓国→中国という開催サイクルで、前回19年は12月に韓国の釜山で開催された)。
大会の趣旨としては、東アジアのレベルアップにあった。歴史的に日本と韓国は「日韓定期戦」でレベルアップを図ってきたが、“永遠のライバル”のため、時として親善試合の結果が監督の進退に影響することもあり、1991年を最期に自然消滅した。
その代わりということではないが、90年に東アジア4カ国によるダイナスティカップが始まり、スポンサー(マールボロ)が撤退したことと、日韓W杯を契機に東アジアサッカー連盟(EAFF)が02年に設立されたことで(初代会長は岡野俊一郎JFA会長)、今大会はスタートした。
第1回大会がスタートした90年当時はサッカー専門誌の記者として、イタリアでW杯を取材中だったが、帰国したらすぐに中国で開催される大会を取材するように命じられて苦労した覚えがある。
アジアは東西に長く、生活習慣はもちろんのこと、宗教など様々な違いがある。サッカーにおいても中東の8カ国(サウジアラビア、クウェート、イラク、UAE、カタール、バーレーン、オマーン、イエメン)は1970年に中東の大会であるガルフカップをスタートさせて切磋琢磨してきた。
最多優勝は70年代に強さを誇ったクウェートで10回だ。これに続くのがサウジアラビアと近年は成長著しいカタール、古豪のイラクの3回。そして逆に石油と天然ガスといった自然資源を保たない“中東の最貧国”と言われるイエメンはベスト4にすら入ったことがない。
ちなみにイランは文化圏が違うので(話す言語も中東はアラビア語に対しイランはペルシャ語)、アラビア半島の国々とは一線を画している。
このガルフカップから遅れること四半世紀、96年にはタイガービールの協賛から東南アジア選手権とも言うべき「タイガーカップ」がスタートしている。大会は08年に日本企業のスズキがスポンサーになり、AFF(ASEANサッカー連盟)スズキカップと名称が変更されたが、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東ティモールの11カ国が参加。
東南アジアの盟主とも言うべきタイが最多6回の優勝を果たしているが、近年は監督に韓国人のパク・ハンソ氏を迎え、もう引退したがJリーグでもプレーしたストライカーであるレ・コン・ビン氏を擁したベトナムが急成長を見せている。
ガルフカップやスズキカップに遅れて始まったEAFF E-1選手権。過去の政治的な状況を踏まえれば、東アジアの4カ国(日本、韓国、中国、北朝鮮)がいくら政治とは関係のないサッカーとはいえ足並みを揃えるのは難しいことであることは容易に想像できる。その突破口となったのが、アジアで初めて開催された日韓W杯でもあることは間違いないだろう。
改めて言うまでもないが、今大会はAFC(アジアサッカー連盟)のAマッチと認定されていないため、参加国は海外組を招集できない。AFCが認定するAマッチはW杯予選とアジアカップだけだからだ。しかし、それはそれで今大会は面白いのではないだろうか。
6月の4試合に出場した日本代表の海外組、いわゆるレギュラー組が海外から帰国して試合に出場したとしても、正直代わり映えしないメンバーに食傷気味なのは僕だけではないだろう。固定メンバーの森保ジャパンに風穴を開ける意味でも、今大会の“国内組”の活躍に期待しているJチームのファン・サポーターは多いと思うがいかだだろうか。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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スコルジャ監督の割り切りとWEリーグを取材しての比較/六川亨の日本サッカーの歩み
先週末の18日はJ1リーグの浦和対新潟戦を、19日はWEリーグの日テレ・ベレーザ対INAC神戸の試合を取材した。 新潟に先制点を許した浦和だったが、前半のうちに右SB酒井宏樹と左SB明本考浩の両サイドバックのゴールで逆転。特に明本のジャンピングシザースボレーは圧巻だった。そして興味深かったのは後半の浦和の戦い方だ。新潟躍進の原動力であるトップ下の伊藤涼太郎を、岩尾憲と伊藤敦樹のダブルボランチがサンドイッチする形で持ち味を封じにかかった。 さらに新潟が前線からプレスをかけると、アレクサンダー・ショルツとマリウス・ホイブラーテンの両CBは、無理をしてビルドアップせずロングボールを選択。酒井を右サイドのハーフライン辺りに上げて、彼の頭に合わせて長いボールを送り、こぼれ球を回収して時計の針を進めた。 新潟の松橋力蔵監督は「空中戦が苦手なわけではないが、長いボールに対するセカンドボールを回収できなかった。拾えれば景色もがらりと変わったと思う」と悔やんだが、マチェイ・スコルジャ監督のスカウティング勝ちといったところか。 スコルジャ監督自身も「すべての要素を変えないといけない。まだチームを作っている段階」と言いながらも、現状で打てる手をすべて打ちながら結果を残している。後半24分には右MFダヴィド・モーベルグとCFブライアン・リンセン、31分にはトップ下の安居海渡と左SB荻原拓也を同時起用し、明本を左MFに上げた。その理由を「ハイプレスをやるために前線の4人を代えた」と狙いもシンプルで明確だ。 若手にチャンスを与えつつ、コンディションが万全ではない外国人選手の出場時間をしっかり確保しているだけに、プラス材料しか見当たらない浦和と言える。 そして翌日の上位対決となった日テレ・ベレーザ対INAC神戸戦である。この2チームに浦和レッズレディースを加えた3強に、なでしこジャパンの選手も数多く所属している(海外組をのぞけば2月のアメリカ遠征に9選手が参加)。 試合は両チームとも前線からのプレスの掛け合いと、インテンシティの高い“個の戦い”が見られたものの、ミドルサードでの潰し合いの多い試合でもあった。お互いに連動してプレスを掛けるため、そのプレスをかいくぐって敵ゴール前までなかなかボールを運べないからだった。 そんなとき、前日の浦和ではないが、前線に長身選手か俊足の選手がいれば、ロングボールは局面を打開する有効な手段になる。しかし残念ながら日テレ・ベレーザにも、INAC神戸にも、そして現在のなでしこジャパンにもそうした選手はいない。辛うじて元なでしこで浦和レッズレディースのCF菅澤優衣香が長身のポストプレーヤーだが、彼女にしても国際舞台で通用したとは言い難い。 それを思うと、日本が初優勝した11年の女子W杯や、銀メダルを獲得した12年ロンドン五輪のメンバーには、オールラウンダーで危機察知能力の高い澤穂希がいた。前線には体幹が強くてスピードもあり、シュートにパンチ力のあった永里優季がいた。宮間あやは稀代のパサーだったし、川澄奈穂美は無尽蔵のスタミナを誇るドリブラーだった。そして控えには準々決勝のドイツ戦で決勝点を決めたスピードスターの丸山桂里奈がいた。個性豊かなタレントが一堂に会す、奇跡的なチームだったと言える。 それに引き換え現状はというと、19日の観衆は1,777人。1月の皇后杯決勝(日テレ・ベレーザ対INAC神戸戦)が1,939人、昨年10月のWEリーグ、日テレ・ベレーザ対浦和レッズレディース戦が2,210人だったから、WEリーグの観客動員は2,000人前後がアッパーといったところか。これでプロの興行として成り立つのか疑問である。 さらに、女子の日本代表の愛称が“なでしこジャパン”なのに、“なでしこリーグ”はアマチュアのトップリーグなのだから男子ならJFLといったところ。ここらあたりもWEリーグが一般のファンに浸透していない理由の1つではないだろうか。そして秋春制によるウインターブレイクと、11チームによる2回戦制のため試合数が絶対的に少なく、試合間隔が大きく空いているため、いつリーグ戦が開催されているのかわかりにくいという弊害もある。 名称とシーズン制をどうするのかも含めて、女子リーグは再検討する必要があるのではないか。強い“なでしこジャパン”を復活させるためにも、関係者の英断に期待したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.22 12:50 Wed序盤戦のJリーグ総括/六川亨の日本サッカーの歩み
今シーズンのJ1リーグは第4節を終えた段階で、無敗チームはたったの1チーム。それもJ2リーグから昇格してきた新潟だから驚きだ。 開幕前は昨シーズンの覇者・横浜FMの評価が高かった。FW仲川輝人とレオ・セアラ、DF岩田智輝、GK高丘陽平が抜けたとはいえ、各ポジションに実力者を揃え、穴はないかに見えた。しかし第4節で札幌に初勝利を献上して6位に後退。ただ、まだ序盤戦のため1勝すれば首位に返り咲ける可能性もあるだけに、そう悲観する必要はないだろう。 深刻なのは川崎Fだ。ここ数年は主力選手の流出が続いただけでなく、レアンドロ・ダミアンと小林悠はケガで長期離脱中。さらに第4節の新潟戦では開始19分にMF大島僚太が負傷交代すると、前半でDF山村和也もピッチを去った。これで最終ラインの負傷者は登里享平、車屋紳太郎、ジェジエウと4人に増えた。こうもケガ人が続出しては、鬼木達監督も手の打ちようがないだろう。1勝1分け2敗の14位は不本意な結果と言わざるを得ない。 その川崎Fを倒して3位に浮上したのが新潟(2勝2分け)で、昨シーズンからの主力が26人も残ったのが彼らのアドバンテージだ。とはいえ、新潟と同じく昨シーズンの主力が残留した3位の広島(ルヴァンカップ優勝、天皇杯準優勝)が12位に沈んでいるところを見ると、新潟の躍進には別の理由があるようだ。 同じ昇格組の横浜FCは1分け3敗で最下位に沈んでいる。主力選手の大量流出は防いだものの、第4節のFC東京戦(3-1)ではスタメン11人中6人が今シーズン獲得した選手。攻守にチームの骨格ができあがるまで、いましばらく時間がかかるだろう。 同じく未勝利で17位のG大阪も、ダニエル・ポヤトス新監督を迎え、攻撃的なサッカーに舵を切っているものの勝ちきれない試合が続いている。得点源として期待されているチュニジア代表FWイッサム・ジェバリも、この時期の他チームの外国籍選手の多くが同じように、まだ身体が重く3月4日の第3節・神戸戦で80分間プレーしたもののシュートは1本だけ。彼の復調を待つまでG大阪の試練は続きそうだ。 J2リーグに目を転じると、22チーム中J3リーグからの昇格2チームを含めて8チームが新監督を迎えた。その中で注目は、青森山田高校の監督から町田の監督に就任した黒田剛氏だ。ヘッドコーチに鳥栖を好チームに仕上げた金明輝氏がいるとはいえ、多くの選手を入れ替えながら3勝1分けの首位に立っているのは驚異的。磐田、徳島、千葉、水戸、甲府ら新監督を迎えたチームがいずれも二桁順位に甘んじているだけに、町田の躍進はかえって目を引く。昨シーズン15位のチームがJ2リーグ優勝を達成するか。いましばらくは町田から目が離せない。 最後にJ3リーグだが、今シーズンは20チーム中13チームが監督を交代した。その中で、J2リーグから降格したFC琉球が首位の鳥取と同勝点の2位というのは頷ける。そして田坂和昭監督率いる北九州が3位、霜田正浩監督の松本が4位と健闘している。彼ら以外にも、戸田和幸監督の相模原が9位、中山雅史監督の沼津が初勝利をあげて11位に浮上するなど今年のJ3リーグは話題も多い。今シーズンはJFLへの降格もあるだけに、残留争いも激しさを増すことだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.14 13:30 TueU-20W杯のエピソード/六川亨の日本サッカーの歩み
現在、ウズベキスタンで開催中のU-20アジアカップで、日本は第2戦のキルギスに3-0と快勝。2連勝でグループDの首位に立ち、決勝トーナメント進出をほぼ手中に収めた。日本は9日にサウジアラビアとの対戦を控えていて、引き分け以上で首位通過が決まる。11日から始まる決勝トーナメント初戦の準々決勝ではC組との対戦が決まっていて、現在は日本と同様に韓国が連勝して首位に立っている。このため2位はヨルダンになる可能性が高く、この試合に勝ってベスト4に進出すれば、5月20日からインドネシアで開催されるU-20W杯の出場権を獲得できる。 初戦でサウジアラビアに0-1で敗れたキルギスだったが、日本はなかなかゴールをこじ開けられずに苦しんだ。後半28分、やっと佐野航大(岡山)のPKで先制すると、2分後に熊田直紀(FC東京)が左足で追加点を決めて勝利を確実なものにした。 熊田はOGから先制を許した初戦の中国戦で交代出場すると、いきなり2ゴールの活躍で逆転勝利に貢献。2試合連続ゴールで存在感をアピールした。181センチの大型ストライカーは今シーズン、FC東京U-18からの昇格組で、潜在能力の高さは「アカデミー史上最高」と評価されている。Jリーグのデビューこそ同期の高速ドリブラー俵積田晃太に先を越されたが、2人ともパリ五輪世代の有力候補でもある。 チームにはディエゴ・オリヴェイラという絶対的なエースがいるものの、彼とのポジション争いに勝てば将来は日本代表も夢ではない。上田綺世、町野修斗、小川航基らライバルは多いが、まずはU-20W杯の出場権を獲得し、世界の舞台で活躍することを期待したい。 そのU-20W杯だが、前回の19年ポーランド大会は決勝トーナメント1回戦で韓国に0-1と敗退。17年の韓国大会も決勝トーナメント1回戦でベネズエラに負けて2大会連続してベスト16の壁に阻まれている。その前の09年から15年までは4大会連続してアジア予選で敗退。05年オランダ大会と07年カナダ大会も決勝トーナメント1回戦で敗退しているだけに、サムライブルー同様、本大会では「ベスト8」が目標になる。 そんな日本が初めてU-20W杯(当時はワールドユースと言われていた)に出たのは、いまから44年前の1979年に日本で開催された第2回大会だった。2分け1敗でグループリーグで敗退したものの、水沼貴史(横浜FMの水沼宏太の父)が日本の初ゴールを決めてメキシコと1-1で引き分けた。 この第2回大会は、優勝したアルゼンチンのディエゴ・マラドーナの大会とも言えた。得点王は後に横浜FMでプレーするラモン・ディアスが獲得し、三菱でプレーしたオズワルド・エスクデロも優勝メンバーだった(弟のセルヒオは浦和でプレーしたがJリーグ開幕前に引退)。 この第2回大会は、別の意味でも興味深い大会だった。チュニジアで開催された第1回大会は、成功したと言えるような大会ではなかった。サッカーの発展途上国での開催という条件のため、それも仕方なかっただろう。1974年にFIFAの会長に就任したジョアン・アベランジェにとって、この大会は何としても成功させたかった。その思いはゼップ・ブラッターも同様で、ワールドユースの責任者として来日したブラッターが会ったのが、2年前に「ペレ・サヨナラ・ゲーム」を成功させた電通の高橋治之(東京五輪・パラリンピック組織委員元理事。受託収賄罪で逮捕)だった。 高橋はペレ・サヨナラ・ゲームではサントリーをスポンサーにつけ、ピッチサイドには広告の看板を置き、キーホルダーやプログラムの販売を導入して利益をあげた。 ワールドユースでは話題作りのために抽選会をショーとして見せた。出場国の女性に着物を着せて、高輪プリンスホテルで公開抽選会を実施。それをテレビ局に依頼して取り上げてもらった。後にブラッターが透明なボールの中に手を入れて、丸いカプセルをピックアップして開き、国名の入った紙を広げるというW杯の抽選会のアイデアは79年のワールドユースにあったのだった。 2年後の81年、ブラッターは事務局長に昇格している。これはワールドユースの成功が評価されたとも言われた。決勝には5万を超える観衆が集まり、試合後はファンがピッチに乱入した。マラドーナに優勝トロフィーを渡すアベランジェ会長にすれば、大会の成功を確信したことだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.03.07 22:45 Tue都心のサッカー専用スタジアムは風が強い?/六川亨の日本サッカーの歩み
先週末のJリーグの取材は、強風・寒風との戦いでもあった。 25日の土曜はNACK5スタジアム大宮でのJ2リーグ大宮対金沢戦を取材した。14時2分キックオフ時の気温は11.1度。しかし後半に入ると10度に下がり、試合終了間際には9.3度まで下がった。気温自体はそれほどでもないが、吹き付ける寒風のため体感温度はかなり低い。 記者を始めメインスタンドのファンもマフラーを首に巻いたり、フード付きのコートを着ている人はフードをかぶったりして防寒対策をしていた。それでも試合後のワーキングルームでは、指先がかじかんでパソコンをうまく打てない記者が多かった。 試合は大宮が、新加入選手のCB浦上仁騎やサイドアタッカー高柳郁弥、柏からレンタル移籍のアンジェロッティらの活躍で2-0と今シーズン初勝利をあげ、昨シーズンの開幕9試合未勝利という悪夢を払拭した。 翌日はJ1リーグの柏対FC東京戦を取材。こちらは15時3分キックオフ時の気温は17.3度と高く、メインスタンドは陽も当たるため、風さえなければ暖かかった。ご存じのように三協フロンテア柏スタジアムは、日本では珍しくメインスタンドに直射日光が当たる(日本はもちろん世界のスタジアムもメインスタンドは日光を背にするように造られている)。このためデーゲームではサングラスなどの用意も必要だ。 ところが後半は16.6度と気温が下がると同時に、15時過ぎのキックオフのため日も陰り、強風も吹き付けてきた。前日同様、取材ノートはスマホで抑えながらの観戦だ。それでも前日の試合を教訓に、アンダータイツ着用で膝掛けを持参するなど防寒対策をしたため凍えることはなかったが、やはり寒風は身体に厳しい。 そして本題である。試合後のFC東京のアルベル監督のコメントが印象的だった。開口一番に語ったのが次のコメントだ。 「今日の試合において、風が大事な要素になると思った。風の影響が大きかった。このスタジアムはサッカー専用で好きだが、屋根が少ないので風が影響します。向かい風の前半はなかなかスペースを見いだすことができず、柏は追い風を生かしてプレスをかけてきたので、我々は長いボールを使いました」 サッカー専門誌の記者の頃は柏を担当したので何度もこのスタジアムに足を運んだが、「風の影響が大きい」と聞いたのは初めてだった。ニカノール監督や西野朗監督に確かめたこともなかったし、カレッカやストイチコフに聞いたこともなかった。取材不足を痛感した次第でもある。 そして思ったのは、三協フロンテア柏スタジアムと同様にNACK5スタジアム大宮もメインスタンドの上方に短い屋根があるものの、それ以外に風を遮るもののない。似たようなスタジアムであるということだ。都心ではニッパツ三ツ沢球技場も屋根がないため同じスタジアムと言うことができる。 NACK5スタジアム大宮(旧大宮サッカー場)とニッパツ三ツ沢球技場(旧三ツ沢球技場)は64年の東京五輪の際に造られたスタジアムのため、現在の基準からすれば見劣りするのは仕方がない。それでも雨天の際に屋根があるかないかは観戦者にとって重要だろう。 そして先週末の取材で痛感したのは、屋根はもちろんのこと、屋根を支える障壁が両ゴール裏とバックスタンドにあれば、吹き付ける寒風をいくらかでも防げたのではないかということだ。これは改修された等々力陸上競技場に当てはまるかもしれない。 Jリーグの野々村芳和チェアマンは、春秋制から秋春制への変更を検討すると明言している。そのためには豪雪地にドームスタジアムと、ドーム型の練習グラウンドが必要になるだろう。しかし豪雪地でなくとも、チーム数がJ1からJ3まで20チームに増え、シーズンが厳冬期をまたぐのであれば、スタジアムの寒風対策も必要になると感じた週末のJリーグ取材だった。もちろん、そのためにはスタジアム改築費など各自治体との密な協力体制が欠かせないのは言うまでもない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.02.27 21:30 Mon
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