駒大のロングボール・サッカーの効果/六川亨の日本サッカー見聞録

2021.12.30 09:40 Thu
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先週末は25日のインカレ決勝、駒澤大対阪南大(3-2)を取材し、週明けの28日は第100回を迎える全国高校選手権の開幕戦、関東第一高校対中津東(6-0)の試合を取材した。その間には27日に鹿島の“常勝軍団”の礎を築いた鈴木満FD(フットボールダイレクター)の、今シーズン限りの退任によるオンライン会見も取材した。

鈴木氏は鹿島の前身である住金サッカー部の選手や監督を務め、Jリーグ誕生後も強化スタッフとして30年もの長きに渡りチームの栄光を下支えしてきた。いわゆる「オリジナル10」で、93年のJリーグ開幕から今日まで同一チームの現場で活躍してきたのは鈴木氏しかいない。鈴木氏は来年3月まで現職にとどまるので、機会があったら彼の功績を紹介したい。

さて28日に開幕した高校選手権、関東第一対中津東の試合は洗練されたパスサッカーの関東第一が6-0の大差で圧勝した。決定機を確実に決めていれば、もう2~3点は入っていただろう。一方の中津東は、パスをつないで攻めようにも関東第一の素早いプレスに後手に回り、早い時間に失点したこともあり本領を発揮できなかった。
そこで改めて考えたのが、インカレで06年の第55回大会以来14大会ぶり7度目の優勝を果たした駒澤大のサッカーだ。昔も今も変わらず、ボールポゼッションではなく、マイボールになれば迷わず前線の2トップにロングパスを出して大型FWを走らせるサッカーだ。現チームの左SBの桧山悠也は、ボールを持つと迷うことなく左クロスを送っていた。

SBが攻撃参加しても、タテに突破を仕掛けるわけでもなく、ボールをキープしては相手を引きつけて、サポートに寄ったボランチやCBにバックパスを出すシーンをよく目にする。それはそれで、ボールキープの時間を増やし、相手DFをワイドに広げようという狙いがあるのだろう。

しかし見ている方としては、時として歯がゆく感じるものだ。せっかく攻め込んだのに、いつの間にかボールは味方GKまで戻っていることも1回や2回ではない。

その点、桧山のプレーはシンプルでわかりやすいため、見ていて気持ちよかった。前線で待ち構えるFWとしても、せっかくゴール前でマーカーと駆け引きをしているのに、クロスがなかなか入らず、ボールが自陣GKまで戻っていては、またイチから動き直さなければならずフラストレーションも溜まるのではないか。

駒澤大学の秋田浩一監督は「10回つないで1点くれるなら考えも変わりますが、サッカーは点を取るゲーム」と割り切っている。これはこれで的を射ている“真理”だろう。

試合は阪南大が2度のリードを奪いながら、そのたびに駒澤大がアーリークロスや右CKからのヘディングシュートで追いつき、最後は左サイドからのアーリークロスが風上で右に流れるところ、右サイドから詰めていた交代出場の島崎翔輝が押し込んで決勝点とした。

駒澤大の伝統でもあるキック・アンド・ラッシュとフィジカルを鍛えたサッカーは、それはそれで“あり”だと思う。チーム戦術に合った前線のFW起用など、他校にはないストロングポイントを持っているからだ。

ポゼッション・スタイルが全盛の現在、どこを切っても同じような“金太郎飴”のスタイルを否定する駒澤大のサッカーは、むしろ新鮮ですらある。

そして高校選手権に話を戻すと、中津東は攻め手がなかった。ならばパスをつなぐポゼッション・スタイルではなく、キック・アンド・ラッシュに活路を見いだすべきではなかったか。そこまで練習していないため無理だったかもしれないが、そうした柔軟性、戦術の多様性は高校年代から身につけておいた方がいいと思う。

日本代表は、アジアではポゼッション・スタイルで勝ち抜けても、W杯では難しい。かつて日本は、「フィジカルで欧州や南米の列強に劣っているのだから、技術で対抗すべきだ」という意見が大勢を占めた。それを否定したのがアルベルト・ザッケローニ監督でありヴァイッド・ハリルホジッチ監督だった。「インテンシィティ」や「デュエル」である。

長身選手をターゲットにするロングパスも戦術の1つである。高校年代ではかつて国見や市立船橋が得意としていた戦法だ。これをポゼッション・スタイルも含め、対戦相手やピッチ状況に応じて使い分ける。これは高校年代や大学年代では難しいことだろうか。

そんなことを、インカレ決勝後に取材した高校選手権の初戦を見て思った。インカレ決勝のカードは、正直期待していなかったが、予想外の好ゲームに興奮したことを記しておきたい。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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フットボールカンファレンスからオランダの凄さを実感/六川亨の日本サッカー見聞録

今週の「見聞録」は月曜のコラムに引き続き、第13回フットボールカンファレンスから興味深い報告があったので紹介したい。 まずは反町康治技術委員長の報告だ。同氏はカタールW杯の“指標"として「ハイ・インテンシティとコンパクトネス」を掲げた。 「ハイ・インテンシティ」とは時速20㎞以上のスピードでプレーすることを指し(スプリントは時速25㎞以上)、GKを除くフィールドプレーヤーは90分間での走行距離の目標を「10%以上」とした。実際の試合では、9月のアメリカ戦(2-0)が10・8%、カタールW杯のドイツ戦(2-1)が9・8%と目標に近い数値を出した。 ただしJ1リーグの平均値となると10%に届かないため、こちらの底上げの必要性も反町技術委員長は指摘した。 続いて「コンパクトネス」である。ボールを持っていないとき(非保持時)のチーム全体の面積(㎡、平方メートル)を指し、その数値が低ければ低いほど「コンパクト」な試合ができているという指標である。 実際はどうだったかというと、アメリカ戦が982㎡、カナダ戦(1-2)が1137㎡、ドイツ戦が998㎡、コスタリカ戦(0-1)が1135㎡、スペイン戦(2-1)が860㎡、そしてクロアチア戦(1-1)が1009㎡だった。これらの数値を踏まえて反町技術委員長は「3桁だと勝っている」と説明。コスタリカ戦のようにメンバーを入れ替えた場合は、「コンパクトネス」を維持できない可能性もあっただけに、こちらの分析は今後も継続する必要があるだろう。 これらの報告のあと、森保一監督は「コンパクトにして相手が嫌がる守備と、ボールを奪った瞬間にボールをつなげる距離」の重要性を指摘しつつ、次のように総括した。 「忘れてはいけないのは、1対1の本質で勝っていける。個々の局面で勝っていけるようにしないといけない。その先にコンパクトがある。コンパクトで上手くいかないときは基本に立ち返り、個で勝てるようにしないといけない」 勝ったとはいえドイツ戦やスペイン戦では、簡単にマイボールを失って守勢を強いられた。「個でも組織でもボールを簡単に失わない」で、「相手のボールを奪う技術」の向上が求められていることは、改めて指摘するまでもないだろう。 ちなみにクロアチア戦の前日の12月4日の練習では、最後にPKの練習もしたと報告された。ただし各自1本で、もっと蹴りたい選手は自主トレにしたそうだ。 2007年にベトナムなどで開催されたアジアカップで、当時のイヴィチャ・オシム監督は選手全員にPK練習を課したことがあった。時間にして45分くらいあっただろうか。シュートに失敗したら罰走としてグラウンドを1周してから再び練習に加わったが、最後まで罰走を免れたのが稀代のレフティー中村俊輔、コロコロPK遠藤保仁、そして左右両足で正確なキックの蹴られる駒野友一だった。 その駒野でさえ10年南アW杯ではPKをクロスバーに当てている。『覆水盆に返らず』ということなのだろう。 次に興味深かったのは、オランダ代表のGKコーチだったフランス・フック氏の報告だ(W杯の舞台裏オランダ編)。 0-2から2-2の同点に追いついた準々決勝のアルゼンチン戦を例に、プランAで上手くいかないときには「プランBで明確な意図を持たないといけない」と強調した。この場合の「プランB」とは、空中戦によるパワープレーかセットプレーということになる。 同氏によると、「クリアなプランを立てて3回練習した。右クロスか左クロスか、アウトスイングかインスイングか、どちらがいいか選手に聞いた。早い段階でクロスを入れる。ヘディングを予測して、ゴール前ではセカンドボールに備える」ということ。 この言葉どおりオランダは78分に巨漢FWヴェルホルストを起用して、右クロスからヘッドで反撃の狼煙をあげた。 そしてアディショナルタイムの同点弾。直接シュートや右サイドに控えた選手に出すと見せかけて、ゴール前の密集地帯にいたヴェルホルストへグラウンダーのパス。ヴェルホルストは巨漢を利して相手をブロックし、長いリーチで同点ゴールを流し込んだ。 このトリックプレーは「クラブでやっているセットプレーを聞いて代表に取り入れました」ということで、実際にはブンデスリーガのヴォルフスブルクのセットプレーからのゴールの映像後、オランダ代表の練習風景が映し出された。 壁の間に入った選手たちはアルゼンチン側の注意をそらすため、右サイドに控える選手たちを指してクロスを送るよう指示するなど“演技"も実演していた。 さらにオランダは、4人目のGKとしてPK戦専用のGKも選考した。候補は6人で、リーチの長さ、ジャンプ力、敏捷性(スピード)、キッカーが蹴った後に動く動作などをテストしたという。結果としてU―21代表のGKが選ばれたもののケガで辞退を余儀なくされ、次の候補のベテラン選手は「PK戦のためだけにW杯に行きたくはない」と断ったため、その意見を尊重したとのことだった。 もしもPK戦用のGKが帯同していたら、アルゼンチン戦の結果はどうなっていたか。こちらはそれこそ「神のみぞ知る」だろう。ただ、オランダでもここまで準備して『ベスト8』だった。 パワープレー要員の長身FWの育成は日本サッカーにとって喫緊の課題である。それはCBも同様だ。「日本人だからフィジカルが劣っても技術で勝てばいい」という時代は過去のものだ。そしてW杯は、通常のリーグ戦とは違う戦いになることを今回のカタールW杯で日本も認識したのではないだろうか。国内リーグの結果も重要だが、W杯を経験した監督でしかマネジメントできない部分もあるだろう。 それを森保監督と反町技術委員長はどう次につなげていくのか。森保監督の役割は決まっているだけに、今後の反町技術委員長の発信には注目したいところでもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.19 22:00 Thu
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ジャンルカ・ヴィアッリの訃報に接して/六川亨の日本サッカー見聞録

「訃報は続く」と言われるが、昨年末のペレに続いて1月8日には元ブラジル代表のストライカー、ロベルト・ディナミッチが腸癌のためリオデジャネイロの病院で死去した。68歳での他界は、やはり早いと言っていいだろう。 彼の名を初めて知ったのは78年アルゼンチンW杯だった。登録名(本名)はロベルト・ジ・オリヴェイラだったが、「ダイナマイトのような強烈なシュートを放つ」ことからジャーナリストがつけたニックネームがロベルト・“ディナミッチ(英語でダイナマイト)”だった。 ただ、78年アルゼンチン大会はCFにレイナウドがいて、ジーコもFW起用されるなど出場機会は限られ、スタメンに定着したのは2次リーグに入ってからだった(ブラジルは無敗だったが3位に終わる)。 そして4年後の82年スペインW杯もエースのカレッカ(元柏レイソル)の負傷により代表に招集されたものの、長身FWセルジーニョの控えに甘んじて、W杯ではニックネーム通りの活躍はできなかった。 そんな彼の訃報より衝撃的だったのが、1月6日に膵癌で死去した元イタリア代表FWのジャンルカ・ヴィアッリだ。まだ58歳という若さだった。 彼のプレーを初めて見たのは86年メキシコW杯の開幕戦、イタリア対ブルガリ戦の後半22分過ぎだった。ブルーノ・コンティに代わって出場したが、ポジションはCFではなく4-3-3の右ウイングだった。 まだ21歳と若く、荒削りな選手という印象を受けた。テクニックがあるわけではなく、どちらかというと屈強なフィジカルを生かし、相手をブロックしながら強引なドリブルでボールを運んでいた。 「イタリア人にしては下手な選手だな」というのが彼のプレーを見た最初の印象で、それは撮影していたカメラマンら同業者も同じ印象だった。そして誰が言うともなく、フリーライターの富樫洋一さん(2006年2月にアフリカ選手権を取材中にカイロで死去。54歳)の強引なプレーと「似ている」と意見が一致。 それを本人に伝えると褒められたと思ったのか、セリエA好きとも相まって後年は自ら『ジャンルカ・トト・富樫』と名乗るようになった。 前回覇者のイタリアは、グループリーグこそアルゼンチンに次いで2位で突破したものの、ノックアウトステージ1回戦でミシェル・プラティニ率いるフランスに0-2で敗れて姿を消した。そしてヴィアッリもこれといった印象を残すことなくメキシコを後にした。 しかしサンプドリアでは、FWロベルト・マンチーニやMFトニーニョ・セレーゾ(元鹿島監督)、DFペーター・ブリーゲルら実力者を揃え、ジェノバのプロビンチャを2シーズン連続して(87―88、88―89)コッパ・イタリア優勝に導いた。 さらに89-90シーズンはUEFAカップ・ウィナーズ・カップで優勝すると、90-91シーズンには初のスクデットを獲得すると同時に得点王にも輝いた。 ところが自国開催の90年イタリアW杯ではサルバトーレ(トト)・スキラッチやロベルト・バッジョらの台頭により活躍の場も少なく、その真価を発揮することはできなかった。 その後はユベントスやチェルシーといった名門クラブに移籍してチームにタイトルをもたらし、チェルシーではプレイングマネジャーとしても活躍。2020年には長年の友人であるマンチーニ代表監督のコーディネーターを務めてEUROの優勝に貢献。1968年の第3回大会の優勝以来、実に52年ぶりとなる欧州制覇だった。 しかし2018年に癌で闘病生活を送っていることを告白。19年には治療のため代表チームのコーディネーターからも外れて治療に専念したものの、残念ながら帰らぬ人となってしまった。 現役時代、全盛時を知っている選手の訃報に接すると心が痛むが、これも時の流れなのだろう。改めて2人の選手が安らかな眠りにつかれるようお祈りしたい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.13 16:30 Fri
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インファンティーノ会長の見当違い/六川亨の日本サッカー見聞録

1月2日と3日、85歳で死去したペレの葬儀がサントスのホームスタジアムで行われ、数千人のファン・サポーターが弔問に訪れて別れを惜しんだ。その後は家族葬が営まれ、同スタジアムを見下ろせるメモリアル・ネクロポール・エキュメニカ墓地に埋葬された。 ただ、葬儀の際に参列したFIFA(国際サッカー連盟)のジャンニ・インファンティーノ会長(52歳)が、棺のすぐ側で自撮りをしていたことに非難が殺到。取材した海外メディアから糾弾されたという報道を読んだ。 彼が産まれたのは1970年3月だから、ペレが3度目のW杯を制したメキシコW杯をライブで見られていない。リスペクトの気持ちより有名人とツーショット――そんな感覚だから、不謹慎な行為ができたのではないかと品性を疑いたくなる。 パキスタンやバングラデシュなど中央アジアからの出稼ぎ労働者の過労死や、LGBTQへの偏見や差別が問題視されたカタールでのW杯では、自らドーハに住むなどして大会の正当性をアピールした(と本人は思っているのだろうが、傍から見れば「癒着」でしかない)。 さらにペレの死去に伴い、「世界のすべての国に対して、サッカー・スタジアムのひとつにペレ氏の名前をつけるよう要請するつもりだ」とコメントしたという。こちらは、「開いた口がふさがらない」といったところだ。永遠のライバルである隣国アルゼンチンが、マラドーナではなくペレの名を冠したスタジアムを創るとでも本気で思っているのだろうか。 スタジアムの名称を決めるのはクラブであり、所有する地元自治体であって、各国FA(サッカー協会)ではない。このためFIFAにも、もちろんインファンティーノ会長にも権限はない。にもかかわらず、こうした非現実的な提案や発言をするのは「スタンドプレー」以外の何ものでもないだろう。 古い話で恐縮だが、FIFA第7代会長のジョアン・アベランジェは74年から98年まで、24年間という長期に渡って会長職を務めた。その間にはW杯の出場国を増やしたり、アジアやアフリカの出場枠を増加したりするなど緩やかながら拡大策を採用。しかし発展途上国への普及・発展を優先したため、W杯の放映権はかなり“安価"に設定した。 だが長期政権に対してUEFA(欧州サッカー連盟)が反発。レンナート・ヨハンソンUEFA会長との確執は、ちょうど02年のW杯招致で争っていた日本と韓国の“代理戦争"にもなった。日本開催を推すアベランジェ会長と韓国開催を推すヨハンソン会長。結果として02年のW杯開催国は、FIFA理事の投票ではなくアベランジェ会長の提案により初の“日韓共催"という結果になった(事前に両国が共催を受け入れたため)。 そして98年フランスW杯後、アベランジェ体制に終止符が打たれ、第8代会長には事務総長だったスイス人のゼップ・ブラッターが就任した。ヨハンソンとの選挙ではアフリカの弱小国にお金をばらまいて票を買ったとの噂がたった。そして彼の実態は『ミニ・アベランジェ』であり、“理想"より“金儲け"に長けていたため汚職と贈収賄の容疑で、最後はFIFAのスポンサー各社から辞任を求められ、FIFAからも活動禁止を命じられた。 ブラッターと、彼とは79年に日本で開催されたワールドユース(現U―20W杯)で親しくなった元電通の高橋理事がW杯の「放映権の高騰」の元凶と見る向きもある。そして第9代会長のインファンティーノもブラッター以上に“金儲け"に熱心なようだ。 スイス生まれでUEFAの法務やクラブライセンス部門など実務を担当し、事務局長も務めていたためFIFAの改革に期待した。ところがブラッター時代に決まったとはいえカタールW杯を正当化し、26年のアメリカ・カナダ・メキシコ大会では参加国を48に拡大した。W杯のスポンサー4社である中国市場と、人口増加のインド市場を開拓したいのだろう。 インファンティーノは16年に会長に就任して現在2期7年目だが、他に有力な会長候補がいないため、最長3期12年となる27年まで務める可能性が高い。その間にはW杯が2年に1回の隔年開催になるかもしれないし、45分間の前後半ではなく、30分×3クォーター制に変わるかもしれない。「何でもあり」の近年のFIFAだけに、何があっても驚かないが、もう少し良識のある会長の出現を期待したいところだ。 14年ブラジルW杯を取材中のときのこと。空港から市内まで、AP通信のカメラマンのレンタカーに便乗させてもらった。その際、「寄りたいところがあるけどいいか」と聞かれたのでオーケーすると、モルンビー墓地の近くの路上にクルマを止めた。 彼は、サッカーはもちろんF1レースもカバーしていて、「アイルトン・セナの墓参りをしたかったんだ」と言った。レース前か後の、セナとアラン・プロストのプライベートな2ショットをこっそり撮ったことがあると自慢した。 入口で献花用の花を買って案内板に従って奥に進むと、花束に囲まれたお墓はすぐに見つかり、日本人ファンからのメッセージも添えられていた。もしも再びサンパウロへ行くことがあれば、今度はペレのお墓もぜひ訪ねてみたいと思っている。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.06 23:25 Fri
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森保監督契約延長に見る忖度は? 気になる具体的事例のレポート/六川亨の日本サッカー見聞録

年末も押し迫った12月28日、JFA(日本サッカー協会)は午前中に臨時の技術委員会と臨時理事会を立て続けに開催し、森保一氏に26年アメリカ・カナダ・メキシコ共催のW杯までサムライブルーの監督の契約延長を提示。森保氏も受諾したため仮契約を済ませ、17時30分から緊急の記者会見を開催した。 唐突な記者会見ではあったが、森保監督が継続して代表監督を務めるのは規定路線だったとも言える。 田嶋幸三JFA会長は契約延長について「ベスト8という新しい景色は見られなかったが、ベスト8の新しい景色を見るために一番ふさわしい監督であること。そして日本社会へポジティブな影響を与え、国際的に日本サッカーの地位を高めてくれた」とその理由を語った。 日本代表の監督決定権は理事会にある。理事会の決議により決定し、本契約となる。その前に『反町技術委員長および田嶋会長・会長が指名する者』によって監督の選定・交渉が行われる。さらにその前段階として、技術委員会(もしくは委員長)が複数の候補者を選任して事前交渉に当たるのが通例だった。 ただし、反町氏が技術委員長に就任したのは20年3月だったので、すでに森保ジャパンはスタートして1年半が経過していたため、反町技術委員長が任命したわけではなかった。 そして反町技術委員長は、日本がW杯で敗退後の12月12日に開かれた技術委員会では「勝利を収めた評価と、日本の戦い方の議論で、いろんな見方があった」と明かしつつ、今後は「団長としてインサイドレポートを出す、TSG(テクニカル・スタディ・グループ)がアウトサイドレポートを出す」と話した。 しかし28日の会見ではどちらのレポートも報告はなく、「臨時の技術委員会を開いて森保監督をサムライブルーの監督として推挙する。理事会で承認された」とあっさりしたものだった。 それもそうだろう。日本がクロアチアにPK戦で負けた後のこと、すでに田嶋会長は「間違いなく次の監督の候補の1人」と、森保監督の契約延長を示唆した。もちろん会長には代表監督の選定権があれば、解任・契約解除の権利もある。 しかし組織として技術委員会の“頭ごなし”に監督人事について発言するのはいかがなものだろう。周りが忖度して、田嶋会長に“おもねる”ことにもつながりかねないのではないか。 ここで森保監督の契約延長にケチをつけるつもりは毛頭ない。ドイツ戦とスペイン戦では、それまであまり採用しなかった3バック(5バック)で結果を出した。「ロングカウンターもタレントがいなければできない」と反町技術委員長が指摘したように、浅野拓磨と前田大然は前線からのプレスだけでなくゴールという結果を出した。 その一方で、いわゆる“マリーシア”のあるコスタリカやクロアチアには、試合運びの妙という点で日本は「歯がゆい思い」を今回もさせられた。「越すに越せない」ベスト8の壁でもある。 コスタリカ戦もベストメンバーで連勝してノックアウトステージ進出を決め、スペイン戦でターンオーバーすべきではなかったか。選手が試合中に自己判断できるよう余計な口出しはせずに成長を促すのはいいが、PK戦のキッカーは自主申告ではなく森保監督がキッカーと順番を指名すべきではなかったか。 目標としていたカタールW杯ベスト8、東京五輪の金メダル、19年アジアカップは準優勝と3大会連続して結果を残していないことの評価は、などなど――こうした具体的な事例について技術委員会のレポート(評価と課題)を知りたかったのは私だけだろうか。 「能力の高いCFの発掘」であり、「攻撃に違いを作れる選手の育成」と「受動的ではなく能動的なボールを握るサッカー」は、日本の長年の課題であり、理想でもある。さらに今回のW杯では「190センチ台の長身CBの発掘」と、「前線でのストロングヘッダーの育成」が必要なこともわかった。 代表チームは強化の時間が限られているため、手っ取り早く結果を出すには時間をかけてサイドをえぐるより、早めのアーリークロスで空中戦から勝負――に日本は2失点した。これについては鎌田大地の守備察知能力の低さも改善の余地は大いにあるだろう。 しかし若手選手の発掘と育成は森保監督の仕事ではない。このため、28日の会見で森保監督や反町技術委員長が指摘した日本サッカー界の課題は、カタールW杯で改めて明らかになったものの本質的に根深いものだ。 カタールW杯の一番の成果は、「日本人にはできない」と最初から諦めていたことを、直視して見直さざるを得ないきっかけになったこと、“世界の潮流”を直視できたことかもしれない。 こうした反省点は過去のW杯でもたびたびあったが、代表監督が代わり、技術委員長が代わり、技術委員会のメンバーが代わるたびにリセットされて反省や経験が次代に生かされてこなかった。森保監督の契約延長の一番の“メリット”は、日本サッカーの問題点を継続して同じメンバー(各年代)で共有し、解決策を模索することになることではないだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.12.30 20:00 Fri
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W杯のMVPミニヒストリーとOB会/六川亨の日本サッカー見聞録

W杯出場5度(06年〜22年)はローター・マテウス(82年〜98年)らと並んで最多タイ、そして通算出場試合数はマテウス(ドイツ)を抜いて1位の26。10代、20代、30代の各年代でゴールを決めたのも史上初。そしてW杯通算得点は、1位のミロスラフ・クローゼ(ドイツ)の16点に3点及ばず13ゴールだが、それでもペレを抜いて4位タイ――これがカタールW杯でリオネル・メッシが達成した個人記録である。 2位のロナウド(ブラジル/15点)、3位のゲルト・ミュラー(西ドイツ/14点)ら上位3人は純粋なストライカー(セントラルFW)のため、当然と言えば当然だし、むしろメッシの記録は際だっていると言っていい。 今大会は1点及ばず“ゴールデン・ブーツ(得点王)"をキリアン・ムバッペ(フランス)に譲ったものの、7ゴールならその資格は十分にあった。 そして“ゴールデン・ボール(MVP)"を14年ブラジルW杯に続いて受賞したが、2度の受賞も史上初。そして35歳での受賞は、06年ドイツW杯のジネディーヌ・ジダン(フランス)の34歳を抜いて最年長記録を更新した。 まさにカタールW杯は「メッシの大会」だったと言っていい。 この“ゴールデン・ボール"だが、FIFA(国際サッカー連盟)が正式に制定したのは参加チームが24に拡大された1982年スペインW杯からだった。 当時もいまも、決勝戦を前に記者の投票によって決まるシステムは同じだ。このため決勝の試合内容や結果が反映されることはないため、必ずしも優勝チームから選出されるとは限らない。 近年の結果を見ても、前回ロシアW杯は準優勝に終わったクロアチアのモドリッチだったのは周知の通り。14年ブラジルW杯も準優勝だったメッシで、10年南アW杯は4位に躍進した古豪ウルグアイのディエゴ・フォルランだった。 06年ドイツW杯は決勝戦でPK戦により準優勝に終わったジダン(初優勝した98年自国開催のW杯でMVPを獲得していないのも驚きである)。02年日韓W杯も準優勝ドイツのGKオリバー・カーン(33歳)である。そして98年フランスW杯も準優勝のロナウド(ブラジル)だった。 逆に優勝チームから選出されたのが、初めて導入された82年スペインW杯のパオロ・ロッシ(イタリア)、86年メキシコW杯のディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)、94年アメリカW杯のロマーリオ(ブラジル)の3人だ。90年イタリアW杯は自国開催で3位に食い込み、得点王も獲得したサルバトーレ・スキラッチが受賞している。 ちなみにロッシも得点王とのダブルタイトルで、ロッシ、マラドーナ、スキラッチとも25歳と全盛時でのタイトル獲得だった。 話をカタールW杯に戻そう。今大会には世界各国から過去のW杯に出場した名選手がゲストとして招待された。VIP席にいる様子をテレビカメラが映したことで、往年の名選手の現在の姿を目撃したファンも多かったのではないだろうか。 古くは78年アルゼンチンW杯の得点王マリオ・ケンペスから、最多出場記録の保持者だったマテウス、フランスW杯MVPで、かなり恰幅の良くなったロナウドやロベルト・カルロス、ロナウジーニョ、ジダンに頭突きを見舞われたマルコ・マテラッツィもいたようだ。 残念ながら“キング"ペレは入院中のため、その姿を見ることはできなかった。そしてもう1人、「メッシと一緒にワールドカップをピッチで掲げられたら最高だな」と思わずにいられなかったのが、10年南アW杯では監督としてメッシを指導したマラドーナだった。 試合後の表彰式で、ワールドカップのトロフィーを表彰台まで運んだのは、かつて鳥栖フューチャーズ(現サガン鳥栖)や福岡ブルックス(現アビスパ福岡)で監督やコーチを務めたセルヒオ・バチスタだった。さすがに日本でもプレーした経験があるのでテレビの解説者は紹介していたが、一緒にトロフィーを運んだグレーのスーツ姿のGKネリー・プンピードについては一切紹介がないのは寂しかった。 2人とも86年メキシコW杯の優勝メンバーということで選ばれたと思われるが、もしもマラドーナが存命なら、間違いなく彼がトロフィーを運んだことだろう。 そしてローマ経由の特別機がブエノスアイレスの空港に着き、飛行機のドアが開いた瞬間にワールドカップのトロフィーを持って最初に現れるのもマラドーナとメッシの2人だったに違いない。 500万人とも言われる大群衆が集まったブエノスアイレスでの凱旋パレードや、共和国広場のオベリスク周辺の様子をテレビで見ながら、36年前を思い出して感傷に浸ってしまった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.12.22 22:00 Thu
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