ホームタウン制を再考する/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.10.19 21:52 Tue
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©︎J.LEAGUE
「ホームタウン制撤廃」――日曜日のスポーツ紙の一面を飾った記事に驚いたサッカーファンも多かっただろう。インターネットへの書き込みも相当数だった。そのほとんどは、報道に批判的な書き込みだった。

折しも日本代表はW杯予選で苦戦している。チームを率いる森保一監督や、田嶋幸三JFA(日本サッカー協会)会長の責任を問う声も多い。

2つは別問題であるが、ファン・サポーターに「一石を投じた」という意味で意義があるのではないだろうか。

スポーツ紙の報道に関して、問題となったのは次の2点だ。まずは「ホームタウン制の廃止」である。そして「クラブ名にネーミングライツを認めることを検討する」ということだ。

すぐにJリーグは村井満チェアマン名で『JリーグではJクラブの本拠地を「ホームタウン」と呼び、Jクラブはホームタウンと定めた地域で、その地域社会と一体となったクラブづくりを行いながらサッカーの普及、振興に努めなければならないと定めています。このホームタウン制度について撤廃・変更の事実は一切なく、今後、Jクラブの営業、プロモーション、イベント等のマーケティング活動における活動エリアに関する考え方の方向性について議論しているものです。Jリーグが創設当初から掲げている地域密着の思想が揺らぐものでは全くありません』との声明を出した。

「ホームタウン制」はJリーグの根幹であるだけに、撤廃という表現はあまりにも“過激”だった。この言葉は、Jリーグの掲げる「地域密着」と同義語でもある。これがなければ三菱や日立といった親会社を持たない地方のクラブは存続できなかっただろう。

その一方で、数々のタイトルを獲得した鹿島は新日鐵住金からフリマアプリのメルカリにスポンサーが変わり、FC東京も来シーズンから親会社の東京ガスからミクシイに経営権が変わるなど、“変革”を余儀なくされているのが現状でもある。

ホームタウン制は揺るぎがないだろう。これがなければJリーグの存続意義も問われるからだ。その一方で、かつて存在した横浜フリューゲルスが鹿児島などを「準ホーム」にしたケースは今後もないにしても、Jリーグ誕生時に川淵チェアマンが「東京をホームにするチームはない」としながら、その後にFC東京や東京Vがホームにしたように、“東京都”では変革が起こりえる可能性は十分にある。

以前にもコラムで書いたが、FC東京と東京V、さらには町田も23区内にホームタウンを拡大したい動きがある。こうした動きは葛飾区や江戸川区、北区、新宿区などでも将来のJリーグ入りを目指して活動しているクラブがあるのが現状だ。

いずれも大企業に支えられたクラブではない。そのためには試合会場の確保のため地元自治体の支援が不可欠になる。そこで「地域密着」は絶対条件だ。その上で、クラブの存続のためには将来的にスタジアムだけでなくチームにも「ネーミングライツ」を認めざるをえなくなるかもしれない。

そうした事柄を考え、意見を出し合い、議論する。緊急事態宣言が解かれたので、酒場で意見を交わしてもいい。それこそがサッカーとJリーグが持つ「地域密着」による「コミュニティ」ではないだろうか。その一石を投じたという意味で、スポーツ紙の報道は価値があったと思うが、みなさんはいかがだろう。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた



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