対策連絡会議での斉藤コミッショナーの鋭い指摘/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.09.08 22:30 Wed
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カタール・ドーハで行われたW杯アジア最終予選の中国対日本戦は、日本が大迫のゴールで初勝利を奪った。前半は5BKで守備を固める中国に手こずったものの、伊東の突破から大迫が最終予選初ゴールを奪取。1-0のスコアには物足りなさが残ったものの、いまの森保ジャパンでは勝点3がなりよりの“良薬"になるに違いない。

さて今回は9月6日に開催されたNPB(日本野球機構)とJリーグによる対策連絡会議の話題をお届けしたい。第38回目となる会議だったが、東京五輪・パラリンピック前の同会議は、NPBとJリーグはともに「やるべきことはやり尽くした」感が強かった。

ところが昨日の会議は、久々に建設的(?)な意見を聞くことができた。
口火を切ったのはNPBの斉藤惇コミッショナーだった。

「フランスはイベントの際にワクチンを2回接種した証明書か、72時間以内のPCR検査の陰性証明がないと入れない。MLB(メジャーリーグ)でもテスト的に似たようなことが行われている。球団によって違うが、ワクチンを2回打った人と、72時間以内にPCR検査を受けた人のゾーンがあり、データ作りをしている。プロ野球はすでにチケットを売ってしまっているが、2度のワクチン接種かPCR検査の陰性証明を導入したい。しかし政府は宣言を先延ばしするだけで、着地点はなく、同じ政策を繰り返しているだけ。これでは政策ではない」と大谷翔平もビックリするような“直球"を投げ込んだ。

現職の総理大臣が「コロナの感染拡大の防止に専念したい」と続投を断念するやいなや、総裁の後継者争いに奔走している政権政党。その最有力候補がコロナ対策の“ワクチン担当"で後手を踏んだ当人なのだから、斉藤コミッショナーならずとも呆れるところだろう。

この提案に、座長の賀来満夫(東北医科薬科大学)ドクターは「ワクチンは効果があるものの、ブレイクスルー、(2回)打っても感染したり、感染しても症状が出ない人もいたりする。このため打ったとしても注意が必要」と警鐘をならした。

一方、オリ・パラの検査を担当した愛知医科大学の三鴨廣繁ドクターは、「オリ・パラはNPBとJを参考に、毎日厳しく検査をしたことで感染を制御できた」と報告しつつ、「陰性かワクチンの証明が経済的にも有効だ」という見解を示した。さらに東邦大学の舘田一博ドクターは「NPBとJの1年半のエビデンスを元に提案して社会経済を再生すべきである」とさたに一歩踏み込んだ発言もあった。

ワクチンを2回接種した証明書か、PCR検査による陰性証明書で、現状の5000人か収容率の50%の少ない方という現行の入場制限を緩和することができれば、これはこれで一歩前進と言えるのではないだろうか。

しかしながら賀来ドクターはメリットとデメリットの両方を指摘した。まずメリットは「安心安全な観戦ができること。ワクチンもPCRも100%ではないが、感染リスクを下げるメリットはある」と言う。一方のデメリットとしては「PCRか抗原か抗体か、いろいろな検査がある。それらの証明書をスタジアムで管理する難しさがある」と指摘した。同じように舘田ドクターも「ワクチンを打ちたくない人、受けたくても受けられない人もいるので、差別的な風潮が起きるのもデメリット」と危惧した。

さらに三鴨ドクターも「実際に検査体制を作るのは各自治体になるだろうが、誰がその費用を負担するのか。PCR検査よりはワクチン証明の方が現実的だが、ワクチンの有効期間をどうするかという問題もある」と実現に向けてのハードルを指摘した。

村井チェアマンは常々上限5000人ではなく、スタジアムのキャパに応じての50%を提言している。ニッパツ三ツ沢や浦和駒場の5000人と、日産スタジアムや埼玉スタジアムの5000人では密集度がケタ外れに違うため、一律に制限するのは整合性を欠いているからからだが、実現するのはやはりそう簡単ではなさそうだ。

そして、これらの結論として、再び斉藤コミッショナーに登場してもらったほうがいいだろう。

「これは国の制度として、イベントを認可しようという方向にはなっていない。検討しているものの、発表を恐れている。批判されることを恐れているので、我々NPBも動けない。(プラスして試合の)興行権は各球団が持っているので、よほどルールから逸脱しないとNPBも介入できないのが現状です」

いろいろと勉強になった対策連絡会議だった。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」元チェアマン村井満氏がバドミントン協会に/六川亨の日本サッカーの歩み

「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」とは、前チェアマンの村井満氏の口癖である。このフレーズを1月22日に久しぶりに耳にした。 すでにネットや新聞紙上で報道されたように、日本バドミントン協会は1月22日、都内で臨時評議員会と理事会を開き、Jリーグ第5代チェアマンの村井氏を理事に選任すると同時に、全会一致で副会長に承認した。今後は6月の役員改選で新会長に就く見通しだ。 「なぜ村井氏がバドミントンに?」と思われるかもしれないので、バドミントン会の内情を簡単に紹介しよう。 22年3月、元職員が18年度に選手の賞金や合宿時の負担金など約680万円を私的に流用した。これを受けてバドミントン協会は元職員による横領の組織的な隠蔽などの不祥事を受けて、関根義雄前会長と銭谷欽治前専務理事が引責辞任。この不祥事には他にも6人の理事と2人の監事が関わったとされ、元選手からは抜本的な改革を求める意見も出されていた(22日の臨時評議員会では、不祥事に関わった6人の理事と2人の監事を解任しないことを決めた)。 こうした背景からバドミントン協会は、昨年12月初旬に組織改革のためには「(新会長には)外部理事を招へいしないといけない」として、候補に元Jリーグチェアマンの村井氏に今後の改革を託したというわけだ。 村井氏は「サッカー界からバドミントン界に大きな転身となりますが、スポーツ界に恩返しをしたい」という思いから、職務を引き受けたという。 会長職を引き受けた村井氏は、臨時理事会後に会見に臨み「バドミントンは世界的に競技レベルが高い。その競技力を持ちながら選手には苦しい思いを強いていたのではないか。(協会が)隠ぺい体質と言われていることを目にしました。あらゆる不祥事の多くは密室で起こると思っています。“魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる”と言ってきましたが、徹底して透明性を高めていきたい」と抱負を語った。 村井氏の功績は、あらためて紹介する必要もないだろう。昨年、退任するまで4期8年の任期は、初代チェアマンの川淵三郎氏を別にすれば最長だ。それだけ実績を重ねてきた。チェアマン就任早々に浦和の無観客試合の開催を決定した。 その他にも明治安田生命とタイトルパートナー契約を締結したり、イギリスのパフォーム・グループ「DAZN」と10年間で約2100億円の大型契約を結んだりして経営の安定化を図った。しかし、こうした目に見える改革だけが同氏の功績ではない。 例えば豪華な『チェアマン室』をはじめ役員の個室を撤廃して、『大部屋制』を導入した。JFA(日本サッカー協会)にはいまもJFAハウスに広大な会長室があるのとは対照的だ。 自分専用のデスクに座り、パソコンと向き合っていれば誰もが“仕事をしている”と思うだろう。連絡手段はメールやLINEで済む。こうした風潮に対しても固定席を持たない“フリーアドレス”を採用して仕事の効率化と、職員同士の“声掛け”によるコミュニケーションを図った。 ある意味、『アナログ化』と言ってもいい。その原点が冒頭のコメントにある「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」に端的に表われている。 リクルート・エージェントという人材をマンハントするグローバル企業の出身だからこそ、人材の“生かし方”を熟知した証左である。 村井氏と接したことがあるなら、誰もが「人当たりはソフトで謙虚」という印象を受けただろう。しかし浦和の無観客試合の開催を決定したことなど、決断力に迷いはない。 それは、埼玉県出身で浦和高校時代はサッカー部に所属し、Jリーグ誕生以前は浦和にプロチームを誘致する活動をして、93年5月15日のJリーグ開幕戦(ヴェルディ川崎対横浜マリノス戦)には何枚ものハガキを書いて応募したものの落選して落ち込んだように、生粋のサッカーファンだからこそできたからだ。 彼のサッカー愛は半端ではない。 チェアマンを野々村氏に譲ってからは、ワンボックスカーを購入して改造し、車中泊をできるようにして全国各地のJクラブの試合を観戦するのを楽しみにしていると聞いた。久しぶりに会った際は「サスペンションがあまりよくないんですよ」と言っていたが、今年はサッカー観戦の機会も少なくなるのは寂しいかもしれない。 村井氏は、それだけ求められている人材であり、サッカー界はそうした人材を輩出したことを誇らしく思っていいのではないか。そして同時に、バドミントンは世界的に日本選手が男女ともトップレベルでも、協会は旧態依然とした体質を知ったのは驚きだった。 今後は注目される組織改革だけに、村井氏には6月以降、プレッシャーがかかるだろう。しかし、プレッシャーがかかればかかるほど村井氏は底力を発揮するはず。サッカー界からは一時離れると思うが、バドミントン協会の組織改革に注目したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.24 12:00 Tue
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フットボールカンファレンスから思いついた提案/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)が主催する指導者向けの講習会、「第13回フットボールカンファレンス」が1月14、15日の両日、横浜市内の会場でヨーロッパやアジアからゲストを招いて開催された(アーセン・ベンゲル氏やユルゲン・クリンスマン氏もズームで参加)。 田嶋幸三JFA会長の挨拶に続いてJFAのTSG(テクニカルスタディグループ)リーダーの木村康彦氏が、カタールW杯の分析を報告。ゴールに関しては、トータル172ゴールは過去最多で(32チームとなった98年フランス大会以降)、そのうちカウンターからは40ゴール、さらに92%がペナルティーエリア内のシュートだったことなどが報告された。 そして守備では「カウンターをやらせないカウンタープレスの高い意識とハードワーク」に加え、ボランチやアンカーの守備範囲の広さとインテンシティの強さを指摘しつつ、半分以上の選手がCLかELの出場チームに所属していたとのことだった。 大会全体としては、ヨーロッパのインシーズン中での開催と、全8会場が距離的に近いコンパクトな大会だったため、選手も試合ごとの移動がなく、気候も一定していて「レベルの高い大会」と位置づけた。 コンパクトな大会の利点は取材したメディアや観戦に訪れたファン・サポーターも大いに感じたはずだ。 登壇した反町技術委員長も「コロナでマッチメイクも中止になり、苦しい日々を過ごした」と振り返りつつ、カタールでのキャンプ地はアジア最終予選を突破する前に視察して予約していたこと。練習中にドローンを飛ばして、その映像をピッチで選手がすぐに見られるよう映像モニター付きのカートを用意したことなどを紹介した。 これまでのW杯なら、本大会の組分け抽選が終わり、グループステージの日程と試合会場が決まってからキャンプ地選びとなるが、カタールのスタジアムはほとんどがドーハ市内か近郊のため抽選会を待つ必要がなかった。そして選手はずっと同じ施設にステイして試合に集中できるだけに、ストレスもあまり感じなかったのではないだろうか。 前回のロシア大会も日本はグループステージで3会場に比較的近いカザンをベースキャンプ地にしたが、大変だったのが14年ブラジルW杯だ。キャンプ地のイトゥはサンパウロ市内からバスで1時間ほどかかる。さらにイトゥ市内からもキャンプ地までは徒歩で30分以上かかるというアクセスの悪さ。 初戦(コートジボワール戦)の行われたレシフェとサンパウロの距離はというと、沖縄から札幌に移動するのと同距離だ。アルベルト・ザッケローニ監督(今回のカンファレンスにも参加)は「選手に試合後、しっかりと食事を摂らせたい」との考えから1泊することを選んだが、多くのチームは遅くなってもキャンプ地まで戻り、翌日のクールダウンや練習に備えた。短期決戦での“一日"をどう使うかの考え方の相違だろう。 話をカタールW杯に戻すと、移動がないため「レベルの高い大会」だったと総括した。ならば、48チームに増える次回の大会こそ、98年フランス大会以前のグループステージ制に戻すべきである。 例えば86年メキシコW杯では、各グループの4か国は同一市内もしくは近郊の2会場で試合を行った。地元メキシコは3試合ともメイン会場のアステカ2000スタジアムだったし、ジーコ率いるブラジルは温暖なグァダラハラ市、イングランドはメキシコシティから最も遠く、アメリカ・テキサス州に近いモンテレイ市だった。 4年後のイタリアW杯も同じように、ローマとフィレンツェ、ミラノとボローニャ、トリノとジェノバ、ナポリとバーリなどが同一グループの試合会場となり、イタリアは3試合ともオリンピコで戦った。さらにローター・マテウスらインテルで3人がプレーしている西ドイツはミラノのサン・シーロで、ディエゴ・マラドーナのアルゼンチンは当然ナポリのサン・パオロでの試合となった(開幕戦だけはミラノ)。 試合会場が近ければ、グループステージ中の移動は少なくてすむ。その日のうちにキャンプ地に戻ることも可能だ。そして、利点は他にもある。 カタールW杯では大会期間中、現地で暮らす日本人の子供たちを練習に招待した。それと同じことが86年のW杯でもあった。ずっと同じキャンプ地にいるため、代表チームがお礼に地元の少年少女を練習に招待したのだ。こうした触れ合いもW杯ならではの素敵な経験となるのではないだろうか(各会場のボールボーイも地元の少年少女だった)。 ところが98年フランスW杯で、ミシェル・プラティニは「地元のファンがより多くのチームの試合を見られるようにしたい」と“グループ制"をやめて、チームが試合のたびに都市間を移動するシステムに変更した。 百歩譲って交通網の発達した(なおかつ時間に正確な)フランスやドイツ、日本ならまだしも、アメリカ、カナダ、メキシコと時差もあり3か国にまたがる大会で、さらにチーム数も増やすのだから、選手のコンディションを考慮しても移動のリスクは極力減らすべきである。監督、選手はもちろんのこと、それは誰もが歓迎すると思うのだが、いかがだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.16 22:00 Mon
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岡山学芸館の巧妙なゲーム運びに感動/六川亨の日本サッカーの歩み

1月9日の第101回全国高校サッカー選手権、岡山学芸館(岡山県)対東山(京都府)の決勝戦には5万868人の大観衆が観戦に訪れた。 すでに前売りの段階で完売していたと聞いていたので、決勝戦のカードに関係なく老若男女、高校サッカーファンがチケットを買い求めたのだろう。 平成25年度(決勝戦は2014年)、第92回大会の富山一(富山県)対星稜(石川県)の決勝戦(3-2)を最後に旧国立競技場は大規模改修工事に入った。その後は決勝の舞台を埼玉スタジアムに移して令和2年度の前々回まで開催されてきた。 しかし、やはり交通のアクセスの良さは新国立競技場に勝るものはないのだろう。前回大会から国立開催となり、ファンも戻ってきたようだ。そして9年前と同様に初の日本一を目ざす両チームの激突は、最後まで目の離せない好ゲームとなった。 今大会は岡山学芸館の試合を見る機会が多かった。3回戦の國學院久我山(東京)との試合こそテレビ観戦となったが、準々決勝、準決勝、決勝と取材した。理由は簡単で、今大会は神村学園を追いかけていたため、隣のブロックにいる岡山学芸館と試合会場が重なったからだ。 そして彼らの、ピッチをワイドに使った攻撃的なサッカーに魅了された。敵のバイタルエリアに入ると、忠実にパス&ムーブを繰り返す。このため攻撃をブロックされても、こぼれ球を拾っては攻撃を組み立て直し、サイドからブ厚い攻めを展開した。 神村学園のFW福田師王やMF大迫塁のような年代別代表選手や、卒業後にJリーガーとなるような選手もいない。しかし“穴"もなく、2年生ながらGK平塚仁はハイボールに安定したキャッチングを見せ、1トップの今井拓人は献身的なポストプレーとチェイシング、そしてトップ下の田口裕真は気の利いたパス出しで攻撃陣を牽引した。 ところが東山との決勝戦の前半は、これまで見て来たサッカーとはまったく違うスタイルを選択した。 記録上のスタメンの平均身長と体重で、両チームに差はほとんどない。しかし東山は昨年の大会の準々決勝で、優勝した青森山田(青森県)に1-2と敗れた際、フィジカルコンタクトの差を痛感したそうだ。その反省を生かして選手権の大舞台に戻ると、決勝戦では体幹の強さや巧妙な身体や手の使い方で岡山学芸館を圧倒した。 見事だったのは、それを見越したのか岡山学芸館は前半、ほとんどパスをつなごうとせず、自陣からロングパスを1トップの今井に当てるカウンターに徹したことだ。 高原良明監督は「前半は単調な攻撃が多くてマイボールを失っていた」と語ったが、東山のCKやロングスローに対し、GK平塚がキャッチするとすかさずライナー性のキックを前線に残る田口裕に出してカウンターを狙った。その割り切り方はカタールW杯の森保ジャパンを彷彿させるほどだった。 そして25分にはカウンターから単身ボールを運んだ今井がOGを誘発して先制に成功する。前半終了間際に追いつかれた岡山学芸館が後半はどんなサッカーを見せるのか期待したところ、やはりスタイルを変えてきた。 ロングキックから一変、本来のパスをつなぐスタイルで東山にプレッシャーをかけに行った。後半7分の木村匡吾の決勝点、ヘディングシュートはまったくのフリーだったが、準決勝の神村学園との試合で先制点を決めた田口裕もフリーで決めたように、2列目からの走り込みによるゴールも岡山学芸館の得意とするところ。 そして東山の反撃に一進一退の攻防を繰り広げつつ、岡山学芸館は後半20分過ぎになるとCKやロングスローのチャンスに両CBがゴール前に攻め上がり、貪欲に3点目を狙いにいった。その姿勢からは、『このまま2-1で逃げ切るのではなく3点目を取らないと勝てない』という決意を感じた。 実際、東山は14分にはゴール前の決定機にシュートを上に外したり、29分には阪田澪哉がクロスバー直撃のヘディングシュートを放ったりするなど、同点のチャンスは2度ほどあった。 そんな東山に対し、後半40分に右ロングスローから木村匡がダメ押しの3点目を奪って勝利を決定づける。 印象的だったのはタイムアップの瞬間で、勝った岡山学芸館の選手がピッチに倒れ込んだ。12月29日の1回戦から、ほぼ同じスタメンで戦ってきただけに、疲労困憊だったのだろう。そして試合後の表彰式では普通の高校生に戻っていた。 今大会のPK戦での左右上スミを狙った精度の高いキックも驚きだった。例えGKが読んだとしても弾けないコースである。指導した平清孝GMは、かつては東海大五(現東海大学付属福岡高)の監督として東福岡と火花を散らした名将でもある。かつては一見すると、かなり怖い監督だったが、実際はとても腰の低い紳士的な指導者だった。長年の苦労が、こうした形で報われたことは嬉しい限りだ。 そして岡山学芸館の初優勝で、岡山県のサッカー勢力図に変化がもたらされるのか。それはまた、来年の楽しみということにしよう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.10 20:45 Tue
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ペレさんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

新年、明けましておめでとうございます。 といったところで恐縮だが、やはり昨年末の29日に死去した“キング"ペレに触れないわけにはいかないだろう。 選手としてただ一人3度のW杯に優勝し、当時の優勝トロフィーだったジュール・リメ杯を永久保持する原動力となったことや、初めて1000ゴールを達成するなど「記録にも記憶にも残る」偉大なストライカーだった。 ブラジルは過去すべてのW杯に出場している唯一の国だが、グループリーグで敗退したことが3度ある。第1回の1930年ウルグアイ大会はグループリーグでユーゴスラビアに負け、続く34年イタリア大会はトーナメント方式で行われたため初戦でスペインに敗退した。 そして現行の形に近い参加16チームが4チームずつのリーグ戦を行い、各グループの上位2チーム計8チームがトーナメント形式で争う58年スウェーデン大会以降で、ブラジルがグループリーグで敗退したのは66年イングランドW杯しかない。 このイングランドW杯はブラジルの3連覇がかかっていたが、ペレはヨーロッパ勢の悪質なファウルに苦しめられた。初戦のブルガリア戦(2-0)で負傷すると、続くハンガリー戦(1-3)は欠場を余儀なくされた。そしてポルトガル戦(1-3)で復帰したものの、またも激しいタックルを受けてピッチ外へと運び出され、ブラジルはグループリーグで敗退した。 当時のW杯では選手交代が認められていなかった。ところがペレの負傷によりブラジルの戦力は明らかにダウンしたため、70年メキシコ大会から2人まで選手交代ができるようになった。 さらにイングランドW杯は、ヨーロッパ・スタイルのラフプレーまがいのタックルを主審が反則として取らなかったため南米勢は苦しめられたが、アルゼンチンはラフプレーにはラフプレーで応酬。このため準々決勝のイングランド戦は「まるで戦争だ」とも言われ、英国人はアルゼンチン人を「アニマル」と揶揄した。 35分にはアルゼンチンのラティン主将が退場を命じられたが、執拗に主審に食い下がったため試合が中断された。そこでメキシコ大会からは観衆やテレビの視聴者にも分かりやすいように、警告にはイエローカードが、退場にはレッドカードが採用されることになった。もちろん選手に反論は許されなかった。 話を“キング"に戻そう。90年代の頃、友人から1本のビデオをダビングしてもらった。タイトルはポルトガル語で『isso é pele』(英語だとthis is pele)といい、60~70年代のペレの全盛期のゴールシーンを集めたビデオだった。 このビデオを見て腰を抜かした。当時の90年代までヨーロッパや南米の名選手が使っているフェイントのほとんどを、すでに30年前のペレが実践していたからだ。「ありとあらゆるフェイントの原型はペレにあった」と言ってもいい。それほど多彩なフェイントとトップスピードで対戦相手を幻惑し、いとも簡単に抜いては次々とゴールを決めていった。 残念ながらこのビデオは友人に貸したところ、よくあるパターンでその後は所在不明となってしまった。 年末にはネットでもペレの功績が多くのメディアで取り上げられた。その中にはディエゴ・マラドーナと比較する論調もあった。 プレーした時代が違うため、比較すること自体、あまり意味はないと思う。アルゼンチン人ならペレよりマラドーナが上だときっと言うだろう。国によって、世代によって変わるものだからだ。 しかし、2000年の暮れ、まだサッカー専門誌に勤務していた頃、1年近くかけて『20世紀のベストプレーヤー100』という増刊号を無謀にも出した。きっかけはイングランドのサッカー専門誌『ワールドサッカー』が読者や識者アンケートで20世紀のベスト100を人をランキングしたからだった。 『ワールドサッカー』のランキングを参考にしつつ(記事の翻訳・転載契約は断られたが自由に使っていいと言われたため)、日本ならどんな順位になるのか、編集部で意見をぶつけあった。そこで問題となるのはベスト10、さらに言うならベスト4の順位をどうするかということだった。 基本的にアルフレッド・ディ・ステファノ(6位)、フェレンツ・プスカシュ(9位)、スタンレー・マシューズ(10位)といった、編集者がプレーをライブで見ていない選手は『ワールドサッカー』誌の順位を踏襲した。 問題となったのは、ペレかマラドーナ――に加えてトータル・フットボールを具現化したヨハン・クライフと、リベロという概念を確立したフランツ・ベッケンバウアーをどう扱うかということだった。 結論から言うと、1位はペレ、2位がクライフ、3位がマラドーナ、そして4位がベッケンバウアー(5位がプラティニ)ということになった。たぶん、選んだスタッフの世代(年齢)がクライフを2位に “推し"たのだと思う。ペレが『10』をエースナンバーにしたように、クライフの『14』もある年代には特別な番号となったからだろう。 そしてペレは、72年にサントスFCでの初来日以来、77年のニューヨーク・コスモス(引退試合でベッケンバウアーらと来日)、84年には釜本邦茂の引退試合(ヤンマー対日本リーグ選抜)と国立競技場で3回プレーした。さらにサッカー教室や2002年W杯の招致活動などでも来日するなど大の親日家だった。 前述の増刊号の巻頭にも選出されたことに対する感謝のメッセージに加え、Jリーグと日韓W杯の成功を祝うレターを送ってくれた。 そんな“キング"と仕事で会うと、日系人の通訳が気をきかせてくれて、いつも「ロクカワさん」と低音ながら温かみのある声で呼びかけてくれた。そうした細やかな気配りの人柄が、世界中のファンから愛された一番の理由であることは疑う余地はない。 サッカー界に語り継がれる“巨星"は墜ちてしまった。しかし、彼の逝去を悼む声の多さに救われたのは私だけではないだろう。“キング"は“永遠"になった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/pele20230102_tw.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.02 22:00 Mon
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森保監督続投で歴代最長監督はというと…/六川亨の日本サッカーの歩み

まだ正式決定ではないが、森保一監督の『2年間の』続投が決まったようだ。正式には来年のJFA(日本サッカー協会)理事会での承認待ちになる。その頃にはコーチ陣などのスタッフの詳細も決定しているだろう。 93年のJリーグ誕生以降、日本代表の監督は基本的にW杯の4年サイクルで交代してきた。例外は94年のアジア大会で韓国に敗れたロベルト・ファルカン氏、97年のアウェー中央アジア2連戦で更迭された加茂周氏、07年に病に倒れたイヴィチャ・オシム氏、15年に契約解除されたハビエル・アギーレ氏、そして18年に解任されたヴァイッド・ハリルホジッチ氏の5人しかいない。 そうした過去30年の歴史のなかで、初めて『続投』が決定的となったのが森保監督である。目標としていた「ベスト8」には届かなかったものの、大国ドイツとスペインに逆転勝ちを収めたことが高く評価されたことは言うまでもない。 そこで過去の歴代監督の任期を振り返ると、上には上がいるもので、長沼健氏(元JFA会長)は1962年から69年までの7年間と、さらに72年から76年までの4年間、トータル11年間も日本代表の監督を務めた。「時代が違う」と言ってしまえばそれまでだが、おそらく2度と破られることのない記録と言っていいだろう。 長沼氏が“長期政権"を担うことになったのには理由がある。64年に東京五輪があったからだ。このため62年に33歳の若さで監督に抜擢された。そして東京五輪ではグループリーグでアルゼンチンを倒して決勝トーナメントに進出。準々決勝で銀メダルに輝いたチェコスロバキアに0-4で敗れたが、ベスト8進出で日本に“第1次サッカーブーム"を巻き起こした。 さらに4年後のメキシコ五輪では、アジア勢初となる銅メダル獲得の快挙を達成。その再現を半世紀後の21年東京五輪で森保監督は期待されたが、残念ながらメダルにはあと一歩届かなかった。 長沼氏は69年のメキシコW杯アジア1次予選で、韓国とオーストラリアの後塵を拝したことで監督の座をコーチだった岡野俊一郎氏(元JFA会長)に譲る。しかし岡野氏が71年のミュンヘン五輪予選で韓国とマレーシアに負けたことで、日本サッカーの復権は再び長沼氏に託されることになった。 ところが73年の西ドイツW杯アジア予選はイスラエル(当時はアジアに所属し、中東勢が対戦を拒否したため予選は東アジアに組み込まれた)とマレーシアに敗れ、76年のモントリオール五輪アジア予選も韓国とイスラエルに敗れて監督から退くことになった。 当時の日本サッカーは、「W杯予選は負けても当たり前」であり、五輪予選で敗退するたびに監督は交代していた。Jリーグ開幕以前では、92年のバルセロナ五輪アジア最終予選で敗れた横山謙三総監督、88年ソウル五輪アジア最終予選で中国に逆転負けを喫した石井義信氏(故人)、80年モスクワ五輪アジア予選で韓国とマレーシアに及ばなかった下村幸男氏らである。 しかし96年のアトランタ五輪に28年ぶりに出場して以来、五輪出場は7大会連続して出場。その間には12年ロンドン五輪と21年東京五輪ではメダルまであと一歩に迫った。もう五輪は出場するのは当たり前で、次の24年パリ五輪は「メダル獲得」がノルマになるだろう。 同じようにW杯も98年以降7大会連続して出場中で、さらに2026年のアメリカ・カナダ・メキシコ大会は出場国が48に増えるため、出場権を失うことはまず考えられない。森保監督にとっては「ベスト8」への再チャレンジになるが、その前に横内昭展ヘッドコーチは磐田の監督に、上野優作コーチはFC岐阜の監督に転身するなどスタッフの陣容は一新せざるを得ない。 果たして新たなスタッフの顔ぶれはどうなるのか。そこに外国人コーチが入るのかどうかなどは楽しみなところ。 そして森保監督は、23年こそ秋まで親善試合しかない“静かな"一年になるものの、21年東京五輪は「金メダル」を目標に掲げながらも4位に終わり、カタールW杯も「ベスト8」が目標だったがラウンド16で敗退した。このため、まだ先の話ではあるが、24年のアジアカップでは『優勝』がW杯まで続投するためのノルマにすべきではないだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.12.26 22:00 Mon
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