5月15日Jリーグの日にまつわる思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.05.17 21:45 Mon
twitterfacebookhatenalinegplus
photo
©︎CWS Brains, LTD.
5月15日は「Jリーグの日」と言われている。今から28年前の93年5月15日、国立競技場でヴェルディ川崎(現東京V)対横浜マリノス(現横浜FM)の試合が開催された(2-1でマリノスの勝利)。

当時は翌16日の日曜日に残りの4試合がデーゲームとナイトゲームで開催された。昨日のJ1リーグではガンバ大阪と浦和レッズの試合が17時から開催されたが、奇しくも93年の開幕戦と同一カードだった。

この「Jリーグの日」、93年から制定されていたわけではない。2017年にJリーグが初めて制定して数々のイベントを開催するようになった。たぶん村井チェアマンの発案ではないだろうか。

というのも、初代の川淵チェアマン以降、歴代のチェアマンである鈴木氏(鹿島)、鬼武氏(C大阪)、大東氏(鹿島)の3氏はいずれもJクラブの社長経験者だった。このため「5月15日」は身近なため特別な感情を抱いていなかったのではないだろうか。その点、村井氏は一サッカーファンだったため、「5月15日」に特別な思いがあったと推測される。

28年前の開幕戦は、ヴェルディ川崎のマイヤーのJリーグ初ゴールに始まり、同年の得点王になったラモン・ディアスの決勝点、翌日の鹿島対名古屋戦でのジーコのハットトリックなど話題満載の2日間だった。

当時について、JSL(日本サッカーリーグ)時代は日産でプレーし、Jリーグの創設に伴い出身地の清水エスパルスへ加入した長谷川健太氏(現FC東京監督)は、「一番は我々がどうすればいいのか困った」と回顧する。

それもそうだろう。昨日まではアマチュアでプレーしていたのが、明日からはプロとしてプレーする。しかし「Jリーグができたからといって、すぐに上手くなるわけではない」からだ。

そこで長谷川監督は「とりあえず気持ち、姿勢だけはお客さんに満足してもらおうと開幕を迎えたと思います。戸惑いはあったが、逆にそれで注目していただいて、何か変わらなきゃ、技術はすぐに上手くならないので、気持ちでやろうと。そういう意味で大きく変わったと思います」と当時の心境を述懐した。

当時の試合を見返すと、技術・戦術のレベルは低いものの、行き来の激しい試合を90分以上も続けていた。球際での競り合いは現在より激しく、このため大けがをする選手もいた。そうした激しさ、肉弾戦がファン・サポーターの熱狂を呼び、Jリーグブームを巻き起こしたのだろう。

当時のチケットは「プラチナチケット」と呼ばれ、チケット欲しさに殺人事件が起きる悲しい出来事もあった。

ちなみに当時のサッカーダイジェストはJSL時代もJリーグが誕生してからも、選手インタビューに金銭を支払っていなかった。しかし清水エスパルスの広報から謝礼を要求された際にその理由を聞くと、「選手はプロなので」という返事だった。「プロとは何か」、誰もが試行錯誤の時代だったのかもしれない(もちろん取材は遠慮した)。

「Jリーグの日」に話を戻すと、万博で開催されたG大阪対浦和戦は19時04分キックオフのため、開幕を特集したダイジェストに掲載することはできなかった。なぜかというと、当時はまだデジタル化は到来していないのと、インターネットも現在のように普及していなかったからだ。

撮影はフィルムで行い、現像する必要がある。デーゲームなら新幹線で当日に持ち帰ることができるが、ナイトゲームでは締め切りに間に合わない。そこで掲載を断念しなければならなかった。

今から10数年ほど前のことである。縁あって浦和のムック本を制作することになった。そこで93年の開幕戦のチーム集合写真を国内最大手の写真エージェントに探しに行った。ポジフィルムで撮影された試合だったが、写真の総数は20点くらいで、いずれも選手は豆粒のように小さかった。

当時のカメラは今と違い、オートフォーカスではなく手動でピントを合わせなければならないため技術が要求される。加えて300ミリ以上の望遠レンズも欠かせない。しかし、目の前にある写真はどう考えても素人が撮影したものとしか思えなかった。

そして浦和の集合写真はない。ホームのG大阪の集合写真はあるため、そちらを優先したことで浦和の集合写真は撮り損ねたのだろう。そこでクラブを始め共同通信社などに確認したところ、判明したのはどこも93年の開幕戦の浦和の集合写真は「ない」ということだった。ちょっと衝撃的な事実である。

最後に思いついたのは、地元である埼玉新聞だった。新聞社のためモノクロかもしれないが、知人のサッカー担当記者に電話したところ、結果は「ビンゴ!」だった。ネガフィルムではあるがカラー写真で集合を撮影していた。

これもJリーグが掲げた「地域密着」のおかげかもしれない。


【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた


関連ニュース
thumb

東京五輪、アメリカ対カナダ戦のPKは疑問/六川亨の日本サッカーの歩み

早いもので五輪の男女サッカーもあと4日間を残すのみとなった。ここらあたり、参加チーム数が少なく過密日程の五輪は2週間ほどで閉幕するのに比べ、1ヶ月近く開催されるW杯との大きな違いだ。 そして2日は女子の準決勝が行われ、スウェーデンとカナダはそれぞれオーストラリアとアメリカを1-0で下して決勝戦進出を決めた。スウェーデンは2大会連続の決勝戦で、カナダは初となる(ロンドンとリオは銅メダル)。 その準決勝で気になったのがカナダ対アメリカ戦のPKの判定だ。試合は前半30分、ハイクロスを処理した際に右膝を傷めたGKアリッサ・ネイハーが負傷交代を余儀なくされる。 そして後半29分、ペナルティエリア内でのプレーがVARとオンフィールドレビューの結果、ファウルと判定されPKに。これをMFジェシー・フレミングが決めてカナダが逃げ切った。 問題のプレーは、アメリカDFがクリアしようとモーションを起こしているところにカナダの選手が足を出したため、結果としてカナダの選手の足を蹴ってしまった。蹴ったことは事実だが、カナダの選手からすれば「クリアをブロックできればいい」くらいの気持ちだったはずだ。 これが正当にボールにアタックして、マイボールにできる可能性があるならPKのジャッジは正しいだろう。しかし、カナダの選手はほとんど“死に体"なので、「蹴られ得」のような判定(PK)だった。 VARは、ジャッジの公平さを担保するテクノロジーだと思う。しかし最後はオンフィールドレビューによる主審の判断に委ねられる。今回のように、ある事象だけを切り取ればファウルと思うかもしれないが、その前後のプレーも含めて俯瞰すればPKという判断はミスジャッジではないだろうか。 ただし、「ミスジャッジもサッカーのうち」という考え方もある。アメリカは、五輪では96年アトランタ、04年アテネ、08年北京、12年ロンドンで金メダルを獲得。W杯でも15年と19年に連覇するなど"女王"として君臨してきた。それがカナダ戦では1点も取れなかったところに女王の“凋落"を感じずにはいられない。 そしてそれは、初戦でスウェーデンに0-3と完敗した時から始まっていたのかもしれない。44試合続いていた無敗記録が途絶え、グループリーグ最終戦ではオーストラリアと0-0のドローでベスト8進出を決めた。 8月5日の3位決定戦では、そのオーストラリアと銅メダルを争う。過去の戦績ではアメリカがリードしているものの、前回のリオ五輪は両チームともベスト8で敗退と、実力は拮抗している。古豪アメリカが意地をみせるのか。それともオーストラリアが初のメダルを獲得するのか。 五輪は競技数が多いため、日本戦以外の試合をテレビで見られないのが残念でならない。パソコンで、見たい試合を選べたらいいと思っているサッカーファンも多いことだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.08.04 21:00 Wed
twitterfacebook
thumb

ペットボトルのラベル問題は14年W杯でも発生/六川亨の日本サッカーの歩み

ちょっと古いが、7月19日の朝日新聞デジタルの記事を以下に引用する。佐々木凌記者の署名原稿である。 茨城県鹿嶋市内の小学校が、茨城県立カシマサッカースタジアム(同市)で東京五輪の試合を観戦する児童の保護者に向けて、会場にペットボトルを持ち込む場合は出来るだけ大会公式スポンサーのコカ・コーラ社製とするように文書で求めていたことがわかった。 市教委は「市として特定のメーカーを勧めた事実はない」とし、どのメーカーでも持ち込めることを学校に改めて伝えたという。 スタジアムでは22日からサッカーがおこなわれる。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、県は、学校連携観戦チケットを持つ児童・生徒に観客を限っている。 市教委によると、市内の小中学校16校が参加した説明会が9日にあった。大会組織委員会の担当者から、コカ・コーラ社のペットボトルはそのまま会場に持ち込めるが、他社製品の場合はラベルをはがすようにと指導があったという。「スポンサーに配慮をお願いしたい」との発言もあった。 市教委は、飲料メーカーでラベルの扱いを変えると混乱をもたらしかねないとして、12日に各校へ配ったマニュアルでは、すべてのラベルをはがすように記していた。 保護者向けの文書を出した小学校は、説明会に参加したうちの1校だった。市教委は「学校が、組織委の趣旨を正直に受け取った結果、誤解を招いてしまった」と説明している。 簡単に説明すると、7月22日の男子サッカーの初戦を前に、観戦に招待された小中学生が熱中症対策に「スタジアムにペットボトルを持ち込む際は、五輪スポンサーのコカ・コーラ社の飲料水にして下さいね」と忖度したわけだ。 その後、「他社製品も持ち込んでいいけど、その際はラベルをはがしてね」と変わった。しかし市教委は混乱するので「すべてのラベルをはがしましょう」という結論に達した。 もちろん五輪スポンサーのコカ・コーラ社がそんな独占的なことを指示するわけがない。そんなことをしたら逆に不買運動につながりかねないからだ。 指示した“大会組織委員会の担当者"とは、おそらく大手広告代理店の電通のコカ・コーラ社担当者だろう。 86年メキシコW杯でのことだった。旧知の知人で電通のW杯担当者は1週間前くらいからメキシコシティに乗り込んでいた。市内の高級ホテルの1フロアを借り切っての一大イベントである。 その彼が神経を尖らせていたのが、スポンサーの権利を守ることだった。いまから35年も前のことである。当時はスポンサーの権利に関して今とは比較にならないくらい認識・管理はルーズだった。メインメディアセンターを始め各地のメディアセンターのテレビはすべてスポンサーであるJVC(日本ビクター)でなければならない。 しかしメキシコシティのメインメディアセンターに設置されているのはアメリカ製のテレビだった。開幕までにテレビを総入れ替えしている時間はない。そこで彼は、全部のテレビのロゴマークに黒のマジックテープを貼ることで難を逃れた。 86年メキシコ大会はJVCの他にキヤノン、フジフィルム、セイコーと日本の4社がオフィシャルスポンサーだった。当然、彼らの権利も彼は守らなければならないし、4社が招待した観戦者のチケット確保と食事会の手配など、のんびりサッカー観戦している余裕はなかった。 そして話は変わり14年ブラジルW杯である。日本の初戦が行われるレシーフェでのこと、プレス入り口で入場する際に手荷物検査があり、コカ・コーラ社以外のペットボトルはすべて没収された。おまけにバナナ(安価で腹持ちがいい)も取り上げられた。 対応しているのは学生ボランティアのため、彼らに文句を言っても自己判断はできない(こちらもポルトガル語はできない)。 ただ、それはどの会場でもトラブルになったようで、第2戦が行われるナタウでは、コカ・コーラ社以外のペットボトルはラベルをはがせば持ち込みオーケーなので事前にはがし、スナック類の持ち込みも認められた。 今回、カシマスタジアムで起きたことは、すでに7年前にも起きていた。スポンサーの権利を守ることが彼らの仕事でもあることは理解できる。ただし、物事にはすべて“適度"というものがある。度を超した場合は、かえってマイナスのイメージにつながってしまう。その判断を誤り、辞任・解任を余儀なくされた関係者が多いのも、東京五輪の特徴かもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.07.27 23:05 Tue
twitterfacebook
thumb

FC東京の右SBに小川諒也?/六川亨の日本サッカーの歩み

日本代表は左SB長友の後継者探しが急務だが、FC東京は右SBが人材難に陥っているようだ。6月27日に行われた大分戦では、6月の代表戦で長友の代わりに起用された小川が右SBにコンバートされ、後半2分には19年5月18日の札幌戦以来となるゴール(チームの3点目、小川自身にとってはJ1通算2点目)を決めた。 FC東京の右SBといえば、2016年の加入以来、室屋が主力を務めてきた。しかし昨シーズン途中にハノーファーに移籍。それを見越して東福岡高校から中村拓海を、昨シーズンは明治大から中村帆高を補強した。 しかし今シーズンの4月3日、第7節の名古屋戦で中村帆高は右膝半月板を損傷し、全治6ヶ月の重傷と診断された。そこで右SBは中村拓か清水からレンタルバックした岡崎が候補になるが、大分戦では小川がスタメン起用された。 その理由は後述するが、伏線は6月19日の横浜FC戦(1-0)にあった。この試合で中村拓がスタメンに起用されたものの、前半だけで小川と交代させられている。小川自身も過去に長谷川監督から右SBで起用されたこともあるだけに、違和感なく監督の采配に応えた。 1-0とリードした試合で指揮官は、終盤に疲れの見えた19歳の左SBバングーナガンデ佳史扶に変わり岡崎を右SBに投入し、小川を本来の左SBに戻す采配で逃げ切りに成功した。 続く23日、水曜の徳島戦では右SBに明治大に在学中の岡庭をスタメン起用し、小川は本来の左SB、そして後半から岡庭に代えて岡崎という交代策で前半の1点を守り切った。 こうして迎えた大分戦で、小川の右SBについて長谷川監督は「慶吾(東)との関係で、上手く立ち位置が被らないようにしてくれて、つなぎのところで上手くプレーしてくれた。(192センチの)長沢はしっかりと抑えないといけない。(小川は)ヘディングの強い選手なので、剛(渡辺)と連係して相手のストロングポイントに対応してくれた」と起用した理由を明かした。 中村拓もスピードのある突破が魅力ではあるが、空中戦やフィジカルコンタクトとなると小川や岡崎にはかなわないだろう。 小川自身のプレーについては、左利きのためタテへの突破は右足でクロスを送らなければならないため極力避けていた。そして「慶吾(東)さんになるべく幅を取ってもらい、自分は中に入っていく。中に入ることで慶吾さんがフリーになったり、攻撃の幅が広がったりしたと思う」と冷静に分析していた。 彼の言葉通り、前半45分の2点目は安部のパスを右サイドに開いていた東がワンタッチでクロス。その時に小川はペナルティエリア右でフリーになっていた。そして中央でディエゴ・オリベイラが滞空時間の長いヘディングシュートを決めた。 さらに3点目はバングーナガンデ佳史扶のクロスをGKが弾いたところ、右から詰めていた小川がボレーで決めたもの。プレーのイメージとしては川崎Fの山根を彷彿させる動きだった。 日本代表の右SBは浦和に移籍した酒井を筆頭に室屋、山根に加え五輪世代では橋岡もいる激戦区だ。そこに小川が加わるよりも、やはり本来の左SBで長友と競争できるパフォーマンスをJリーグで発揮してもらいたいと思う。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.29 19:30 Tue
twitterfacebook
thumb

田中碧が移籍濃厚のデュッセルドルフにまつわる思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

川崎Fの田中碧がブンデスリーガ2部のデュッセルドルフへ移籍することが濃厚となっている。契約は1年間の期限付き移籍とのことだ。チームは6月26日から始まるACL1次リーグの集中開催地ウズベキスタンへ移動したが、田中碧は帯同せず、チームから離脱したと川崎Fは発表した。 遅かれ早かれというか、田中碧と三笘は東京五輪後に移籍すると思っていた。しかし五輪を目前に移籍を決めたのは意外だった。スポーツ紙などの報道によると、近日中にドイツへ渡るらしい。恐らくメディカルチェックなどの検査のためだろう。 そこで問題になるのは、田中碧は東京五輪に出るのかどうかだ。ブンデスリーガ2部は7月23日に開幕する。キャンプやプレシーズンマッチに参加するには、渡独してそのまま居残ることになるだろう。そうなれば、7月22日の五輪開幕戦、南アフリカ戦は欠場となる。 ただし、期限付き移籍で合意しても、「東京五輪のメンバーに選ばれたら五輪を優先する」という契約になっていれば問題はない。18名のメンバー発表は明日の14時なので、その時点で田中碧の今後が判明するだろう。 その田中碧が移籍するデュッセルドルフは、過去にも原口や宇佐美がプレーしたが、日本企業が多数進出し、日本人学校もあるヨーロッパでも有数の“日本人街”だ。 過去に2度ほど取材のベースキャンプとして滞在したことがある。最初は1988年のEUROを取材した際に滞在し、ここをベースにケルンやフランクフルト、ミュンヘン、ハンブルグなどへ足を伸ばした。 当時のEUROは8チームの大会だったため、かなりのんびりと取材できた思い出がある。とはいえ試合はいつも“緊張感”を伴っていた。なぜかというと「フーリガニズム」が全盛時代だったからだ。 グループA(西ドイツ、イタリア、スペイン、デンマーク)の初戦で地元西ドイツはイタリアと1-1で引き分けたが、試合会場のデュッセルドルフと駅周辺は平穏そのもの。ところがグループB(イングランド、オランダ、ソ連、アイルランド)の初戦でイングランドはアイルランドに、オランダはソ連にいずれも0-1で敗れた。 当日はケルンでのオランダ対ソ連戦を取材したが、試合後に少し遅れてケルン駅に向かうと、駅のガラスは粉々に砕け、路上にはいたるところに血痕がある。オランダのフーリガンが暴れた結果だとすぐにわかった。 そこで西ドイツはイングランドとオランダの試合になると、ハーフタイムにはビートルズの「愛こそはすべて」や「イエローサブマリン」など牧歌的なメドレーを流し、試合後は両チームのサポーターは会場に止め、先に対戦相手や地元のファン・サポーターを退場させる。スタンドが空席になってから、一角にまとめられたイングランドとオランダのファン・サポーターは駅への帰路につくが、その際も両脇を騎馬警官が囲んで商店を壊されないよう、寄り道をしないよう目を光らせていた。 イングランドのファン・サポーターからしてみれば、2年前のメキシコW杯ではガリー・リネカーが得点王になったし、ベスト8でアルゼンチンに敗れたものの1点はマラドーナの“神の手ゴール”による不正な得点だった。このため88年のEUROでは優勝を期待していた。しかし結果は3連敗の最下位で西ドイツを後にしなければならなかった。 ちなみに優勝したのはフリット、ファン・バステン、ライカールトを擁するオランダ。ソ連との決勝では後方からのロングボールをそのままボレーでGKダサエフを破ったファン・バステンの2点目は、いまなお20世紀最高のビューティフルゴールとして語り草になっている。 そして2度目の滞在は05年のコンフェデレーションズカップだった。なぜデュッセルドルフに滞在したかというと、隣国オランダでワールドユースが開催されていて(大熊監督で、GK西川周作、本田圭祐、家長昭博、平山相太らがいた)、日本の試合会場であるケルクラーデはデュッセルドルフとは目と鼻の先だった。このためレンタカーで両都市間を行き来した。 現在もあるかどうか不明だが、デュッセルドルフの繁華街には三越デュッセルドルフがあり、そこの1階にある昔ながらの床屋で髪の毛を切った記憶がある。日本人駐在員の主婦が談笑しながら街を歩き、日本の食材専門のスーパーマーケットもあった。鉄板焼きや寿司屋、定食屋に加え、当時は「なにわ」というラーメン屋がオープンしたばかりで、人気になっていると聞いて並んだものだ。 日本人にとって過ごしやすい都市がデュッセルドルフでもある。ただし、だからといってドイツ語や英語など語学を学んで監督やチームメイトと意思の疎通を図らないと、ヨーロッパで長くプレーすることはできないことをGK川島やDF吉田が証明している。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.21 21:00 Mon
twitterfacebook
thumb

オナイウと坂元がアピールしたキルギス戦/六川亨の日本サッカーの歩み

15日のW杯アジア2次予選のキルギス戦は、日本代表が順当に5-1の勝利を収めた。そして代表初ゴールを含めハットトリックを達成したオナイウ阿道がクローズアップされたのは当然だろう。 今シーズンのJ1リーグでも、特に右サイドからのクロスに対し、最初はニアに走り込んでマーカーの注意を引きつけつつ、回り込むようにマーカーの裏をとってファーに流れてフリーになり、右クロスを決めるシーンを何度か目撃した。キルギス戦の31分の2点目がこのパターンだ。 そして3点目、バイタルエリアで簡単にボールを処理するとペナルティーエリア左へと侵入する。原口が左サイドの小川に展開すると、すーっと右サイドに流れた。これはボール保持者の小川、敵GKとDFの3者を同一視野に入れる「アザーサイド」と呼ばれるポジショニングで、南アW杯得点王のディエゴ・フォルランやJ1得点王の大久保嘉人が得意とするプレーである。 そして小川のクロスにフリーで落下点に走り込み、余裕を持ってヘディングシュートを決めた。 今シーズンのオナイウは、ストライカーとして“基本的な動き"を繰り返している。ついボールにつられて飛び出したい気持ちを押さえ、マーカーとの駆け引きや基本的な動きを入れることで有利な状況を作り出している。 これまでオールラウンドなストライカーとして大迫の後継者はなかなかいなかった。浅野、伊東、古橋に加え田川や前田など、スピード系の選手は多いものの、オールラウンダーとなると上田くらいしか候補はいなかった。 そこに名乗り出たのがキルギス戦のオナイウだった。今シーズンのリーグ戦でどこまでゴールを伸ばすのか楽しみでもある。 そしてオナイウと同じくアピールに成功したのが右MFの坂元だろう。今年3月に初めて代表に招集されたがケガで途中離脱したため、今回が代表デビューになる。 「代表は世代別の代表にも手が届く選手ではなかった。プロになれるかどうかもわからなかったのに、代表に選ばれたのはうれしい。いま燻っている選手に夢を与えられたのではないかと思う」と正直な感想を述べていた。 レフティーならではのカットインはもちろん、タテに抜け出しての右足のクロスも精度は高い。A代表では伊東とのポジション争いになるが、ストライカータイプの伊東とは違うスタイルだけに、起用法によっては試合のリズムを変えられる選手として面白い存在になるかもしれない。 今シーズン、浦和に加入した小泉とはFC東京U-15むさしでチームメイトだった。そして2人ともユースチームに進めず前橋育英高に進学。今シーズン、FC東京に加入した渡辺凌磨も前橋育英高のチームメイトで、高校3年生の時は高校選手権で準優勝を果たした。 しかし3人とも大学を経由して加入したのはJ2チーム。しかし坂元は昨シーズンから、小泉と渡辺凌も今シーズンからJ1に活躍の舞台を移した。そんな経緯を話しつつ、坂元は「みんな高校の時からライバルとして切磋琢磨して、お互いに抜いたり抜かれたりした。いま代表だからとリードしていると思わない。自分も負けられないと思うし、一緒にプロとしてやれていることは大きいと思う」とライバルの存在の重要性を口にした。 オナイウの活躍に、当然横浜FMのチームメイトである前田は刺激を受けたことだろう。そして坂元の代表でのプレーに小泉も闘志を燃やしているかもしれない(渡辺凌は負傷治療中)。19日に再開されるJリーグでは、U-24日本の代表候補を含めて彼らのプレーに注目してみるのもいいだろう。22日には東京五輪の代表18名が発表されるため、19、20日は最後のアピールの場になる。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.17 18:30 Thu
twitterfacebook
NEWS RANKING
Daily
Weekly
Monthly