5月15日Jリーグの日にまつわる思い出/六川亨の日本サッカーの歩み
2021.05.17 21:45 Mon
5月15日は「Jリーグの日」と言われている。今から28年前の93年5月15日、国立競技場でヴェルディ川崎(現東京V)対横浜マリノス(現横浜FM)の試合が開催された(2-1でマリノスの勝利)。
というのも、初代の川淵チェアマン以降、歴代のチェアマンである鈴木氏(鹿島)、鬼武氏(C大阪)、大東氏(鹿島)の3氏はいずれもJクラブの社長経験者だった。このため「5月15日」は身近なため特別な感情を抱いていなかったのではないだろうか。その点、村井氏は一サッカーファンだったため、「5月15日」に特別な思いがあったと推測される。
28年前の開幕戦は、ヴェルディ川崎のマイヤーのJリーグ初ゴールに始まり、同年の得点王になったラモン・ディアスの決勝点、翌日の鹿島対名古屋戦でのジーコのハットトリックなど話題満載の2日間だった。
それもそうだろう。昨日まではアマチュアでプレーしていたのが、明日からはプロとしてプレーする。しかし「Jリーグができたからといって、すぐに上手くなるわけではない」からだ。
そこで長谷川監督は「とりあえず気持ち、姿勢だけはお客さんに満足してもらおうと開幕を迎えたと思います。戸惑いはあったが、逆にそれで注目していただいて、何か変わらなきゃ、技術はすぐに上手くならないので、気持ちでやろうと。そういう意味で大きく変わったと思います」と当時の心境を述懐した。
当時の試合を見返すと、技術・戦術のレベルは低いものの、行き来の激しい試合を90分以上も続けていた。球際での競り合いは現在より激しく、このため大けがをする選手もいた。そうした激しさ、肉弾戦がファン・サポーターの熱狂を呼び、Jリーグブームを巻き起こしたのだろう。
当時のチケットは「プラチナチケット」と呼ばれ、チケット欲しさに殺人事件が起きる悲しい出来事もあった。
ちなみに当時のサッカーダイジェストはJSL時代もJリーグが誕生してからも、選手インタビューに金銭を支払っていなかった。しかし清水エスパルスの広報から謝礼を要求された際にその理由を聞くと、「選手はプロなので」という返事だった。「プロとは何か」、誰もが試行錯誤の時代だったのかもしれない(もちろん取材は遠慮した)。
「Jリーグの日」に話を戻すと、万博で開催されたG大阪対浦和戦は19時04分キックオフのため、開幕を特集したダイジェストに掲載することはできなかった。なぜかというと、当時はまだデジタル化は到来していないのと、インターネットも現在のように普及していなかったからだ。
撮影はフィルムで行い、現像する必要がある。デーゲームなら新幹線で当日に持ち帰ることができるが、ナイトゲームでは締め切りに間に合わない。そこで掲載を断念しなければならなかった。
今から10数年ほど前のことである。縁あって浦和のムック本を制作することになった。そこで93年の開幕戦のチーム集合写真を国内最大手の写真エージェントに探しに行った。ポジフィルムで撮影された試合だったが、写真の総数は20点くらいで、いずれも選手は豆粒のように小さかった。
当時のカメラは今と違い、オートフォーカスではなく手動でピントを合わせなければならないため技術が要求される。加えて300ミリ以上の望遠レンズも欠かせない。しかし、目の前にある写真はどう考えても素人が撮影したものとしか思えなかった。
そして浦和の集合写真はない。ホームのG大阪の集合写真はあるため、そちらを優先したことで浦和の集合写真は撮り損ねたのだろう。そこでクラブを始め共同通信社などに確認したところ、判明したのはどこも93年の開幕戦の浦和の集合写真は「ない」ということだった。ちょっと衝撃的な事実である。
最後に思いついたのは、地元である埼玉新聞だった。新聞社のためモノクロかもしれないが、知人のサッカー担当記者に電話したところ、結果は「ビンゴ!」だった。ネガフィルムではあるがカラー写真で集合を撮影していた。
これもJリーグが掲げた「地域密着」のおかげかもしれない。
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当時は翌16日の日曜日に残りの4試合がデーゲームとナイトゲームで開催された。昨日のJ1リーグではガンバ大阪と浦和レッズの試合が17時から開催されたが、奇しくも93年の開幕戦と同一カードだった。この「Jリーグの日」、93年から制定されていたわけではない。2017年にJリーグが初めて制定して数々のイベントを開催するようになった。たぶん村井チェアマンの発案ではないだろうか。28年前の開幕戦は、ヴェルディ川崎のマイヤーのJリーグ初ゴールに始まり、同年の得点王になったラモン・ディアスの決勝点、翌日の鹿島対名古屋戦でのジーコのハットトリックなど話題満載の2日間だった。
当時について、JSL(日本サッカーリーグ)時代は日産でプレーし、Jリーグの創設に伴い出身地の清水エスパルスへ加入した長谷川健太氏(現FC東京監督)は、「一番は我々がどうすればいいのか困った」と回顧する。
それもそうだろう。昨日まではアマチュアでプレーしていたのが、明日からはプロとしてプレーする。しかし「Jリーグができたからといって、すぐに上手くなるわけではない」からだ。
そこで長谷川監督は「とりあえず気持ち、姿勢だけはお客さんに満足してもらおうと開幕を迎えたと思います。戸惑いはあったが、逆にそれで注目していただいて、何か変わらなきゃ、技術はすぐに上手くならないので、気持ちでやろうと。そういう意味で大きく変わったと思います」と当時の心境を述懐した。
当時の試合を見返すと、技術・戦術のレベルは低いものの、行き来の激しい試合を90分以上も続けていた。球際での競り合いは現在より激しく、このため大けがをする選手もいた。そうした激しさ、肉弾戦がファン・サポーターの熱狂を呼び、Jリーグブームを巻き起こしたのだろう。
当時のチケットは「プラチナチケット」と呼ばれ、チケット欲しさに殺人事件が起きる悲しい出来事もあった。
ちなみに当時のサッカーダイジェストはJSL時代もJリーグが誕生してからも、選手インタビューに金銭を支払っていなかった。しかし清水エスパルスの広報から謝礼を要求された際にその理由を聞くと、「選手はプロなので」という返事だった。「プロとは何か」、誰もが試行錯誤の時代だったのかもしれない(もちろん取材は遠慮した)。
「Jリーグの日」に話を戻すと、万博で開催されたG大阪対浦和戦は19時04分キックオフのため、開幕を特集したダイジェストに掲載することはできなかった。なぜかというと、当時はまだデジタル化は到来していないのと、インターネットも現在のように普及していなかったからだ。
撮影はフィルムで行い、現像する必要がある。デーゲームなら新幹線で当日に持ち帰ることができるが、ナイトゲームでは締め切りに間に合わない。そこで掲載を断念しなければならなかった。
今から10数年ほど前のことである。縁あって浦和のムック本を制作することになった。そこで93年の開幕戦のチーム集合写真を国内最大手の写真エージェントに探しに行った。ポジフィルムで撮影された試合だったが、写真の総数は20点くらいで、いずれも選手は豆粒のように小さかった。
当時のカメラは今と違い、オートフォーカスではなく手動でピントを合わせなければならないため技術が要求される。加えて300ミリ以上の望遠レンズも欠かせない。しかし、目の前にある写真はどう考えても素人が撮影したものとしか思えなかった。
そして浦和の集合写真はない。ホームのG大阪の集合写真はあるため、そちらを優先したことで浦和の集合写真は撮り損ねたのだろう。そこでクラブを始め共同通信社などに確認したところ、判明したのはどこも93年の開幕戦の浦和の集合写真は「ない」ということだった。ちょっと衝撃的な事実である。
最後に思いついたのは、地元である埼玉新聞だった。新聞社のためモノクロかもしれないが、知人のサッカー担当記者に電話したところ、結果は「ビンゴ!」だった。ネガフィルムではあるがカラー写真で集合を撮影していた。
これもJリーグが掲げた「地域密着」のおかげかもしれない。
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