東京V永井監督のコメント力。FC東京はミスから自滅/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.04.12 21:40 Mon
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先週末の10日は久しぶりにJ2リーグの東京V対山口戦を取材した。昨シーズンまで山口の監督を務めた霜田氏(元JFA技術委員長)は、古くからの知人である。このため山口の監督に就任以来、機会があれば試合を見に行くようにしていた。

ただし昨シーズンも、この日の対戦相手である東京Vの永井監督が「非常にボールを大事にして、(ボールを)保持しながらいいサッカーをやられている。監督が代わっても同じ方向性の素晴らしいチーム」と言ったように、ポゼッションにこだわっていた。そして、そこを対戦相手に狙われてもいた。

DF陣でのパス交換からボランチを経由してサイドに展開しようとしても、ボランチが狙われてボールを失いショートカウンターを食らったり、DF陣がプレスを受けてミスから失点したりしていた。

しかし東京V戦ではベテランCB菊地が今シーズン初スタメンを飾り、柏や仙台、神戸でプレーした渡部とコンビを組んだことで、ピンチとみるや無理してパスをつながずロングキックで逃げるなどリスク管理を優先していた。

それでも東京Vの両サイドハーフの攻め上がりによる素早い攻撃を防ぎきれず、1-3の逆転負け。渡邉監督も「内容もフラストレーションのたまる試合で申し訳ない」とファン・サポーターに謝っていた。

一方、勝った東京Vで興味深かったのが、永井監督の次のコメントだ。誰かに質問されたのではなく、会見の最後の方で自ら発言した。

「あえて反省と言うと、後半に3対1で山下が運んで行って、最終的に山下がシュートを打った。我々の目的は崩すのではなく、最終的にはゴール。もう1度真剣に考えたい。今後につなげるためにも大事なプレーだった」

問題のシーンは後半36分、山口陣内でCB菊地にFW佐藤凌とFW山下がプレスをかけてボールを奪い、山下がドリブルで突進してGKと1対1からシュートを放った場面だ。シュートはゴールの枠を捕らえることができず、右上に大きく外れた。

ドリブルで突進する山下の右側にはプレスをかけた佐藤凌と、後半から出場したMF石浦の2人がフリーでいたため、山下はGKを引きつけてから2人にパスを出すという選択肢もあった。その際に注意するのはオフサイドだけ。そうすればダメ押しの4点目を奪うことができた。

もしも山下がシュートを決めていれば、永井監督もあえて指摘しなかっただろう。それでも3-1と快勝しながら、決定的な1プレーにこだわった。

かつて日本代表の監督を務めていた岡田武史氏は「勝負の神様は細部に宿る」と言ったことがある。永井監督も、勝敗はもちろんのこと、1プレー1プレーのディテールにこだわるタイプの“勝負師"かもしれない。

そして翌日のJ1リーグでは、首位の川崎FがFC東京を4-2と退けた。堅守速攻を武器にするFC東京なら、破壊的な攻撃力を誇る川崎Fに一矢報いることはできるのではないか。ディエゴ・オリベイラとアダイウトンならゴールをこじ開けられるのではないかと期待したが、残念ながら開始早々のミスによる失点でFC東京は大敗した。

FC東京はCB渡辺剛が札幌戦でのレッドカードから出場停止。右SBの中村帆高も負傷と台所事情の苦しさはあった。このためアンカーで存在感を発揮していた森重をCBに下げ、ボランチに青木と安部を置き、永井を今シーズン初スタメンに起用する4-4-2を採用した。この2トップは優勝争いを演じた一昨シーズンの布陣である。

しかし永井は肩の負傷から当時の輝きを取り戻してはいないし、移籍したばかりの青木と、夜の会食が発覚して謹慎処分の解けた安部(前節の札幌戦ではイージーなパスミスが目立った)のコンビは、やはり急造の感は否めなかった。せめてもの救いは今シーズン出番の少ない高萩のクロスから内田がJ1初ゴールを決めたこと。

それにしても、川崎Fの強さは別格と感じないではいられない。5月2日は現在2位の名古屋と対戦するが、この1戦の勝敗にかかわらず独走の予感が早くも漂っている。あまりにも強すぎるチームの出現は、個人的にはリーグをつまらなくすると思っている。

そういう意味では圧倒的な強さを誇るバイエルンやパリSG、ユベントス(今シーズンは例外)などヨーロッパのリーグに近い存在になりつつあるのかもしれない。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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日本サッカー殿堂掲額者の横顔/六川亨の日本サッカーの歩み

ちょっと早いけれど、今年も日本サッカーの発展に貢献・寄与したJFA(日本サッカー協会)の「殿堂掲額者」が決定した。掲額式は9月10日にJFAハウス1Fのバーチャルスタジアムで開催される予定だが、JFAハウスはすでに売却先が決まっているため、同ハウスでの「殿堂掲額式」は今年が最後になる。 記者などの投票による「投票選考」には8人の候補者(国際Aマッチ50試合以上出場、JSLまたはJ1リーグの通算出場が200試合以上、W杯出場などが条件)がいたものの、得票率で75%以上を獲得できなかったため、「該当者なし」として選出が見送られた(5%以上75%未満なら次回投票の候補になるが、5%未満だと名簿から外れる)。 今年の候補は碓井博行氏(藤枝東高、早稲田大、日立で活躍。JSL得点王2回で、通算85得点は釜本邦茂氏に次いで2位)。金田喜稔氏(広島県工、中央大学、日産で活躍。日本代表では19歳119日という史上最年少得点記録の保持者)。原博実氏(アジアの核弾頭と言われたストライカーで、JFA技術委員長や専務理事を歴任。現大宮フットボール本部長)。森下申一氏(静岡学園高で高校選手権準優勝。ヤマハや磐田でGKとして活躍し、現在は磐田アカデミーGKコーチ)。 彼ら以外にも柱谷幸一氏や都並敏史氏らは解説者としても活躍しているし、吉田光範氏と松永成立氏は指導者として現場に携わっている。 しかしながら各氏とも75%以上を獲得できなかったのは、候補者が多くて票が割れてしまった可能性が高い。昨年はW杯予選・日韓戦での伝説のFKや、横浜F・マリノスの30周年の記念イベントにも元気な姿を見せた“ミスター・マリノス”こと木村和司氏が受賞した。 碓井氏や金田氏、原氏、森下氏、柱谷氏、都並氏らは木村氏と一緒にロス五輪予選やメキシコW杯予選を戦ったチームメイトでもあるが、やはり木村氏は日本代表や日産時代のFKのインパクトが強かったのだろう。 一方、特別選考では次の4氏が選出された。 イヴィチャ・オシム氏については、今さら説明は不要だろう。20年のフィリップ・トルシエ氏に続く外国人の日本代表監督の選出である。 元国見高校の小嶺忠敏氏は島原商業や国見高校を率いて全国制覇を達成しただけでなく、高木琢也氏や大久保嘉人氏ら多くの日本代表選手を育て上げた。 高校選手権やインターハイでの全国制覇や代表選手の育成という点では、帝京高校の古沼貞雄監督や元清水商業(現清水桜が丘高校)の大滝雅良監督も負けてはいない。 彼らと小嶺監督との大きな違いは、小嶺監督が1993 年に日本で開催された FIFA U-17 世界選手権(現FIFA U-17W杯)にU-17 日本代表監督としてチームを率い、FIFA主催大会で日本サッカー史上初となるベスト8進出を果たしたことだろう。 残る2人は、サッカーファンにとってもあまり馴染みのない名前かもしれない。綾部美知枝さんは、清水FCの監督として長谷川健太、大榎克己、堀池巧らを指導して第1回の全日本少年サッカー大会で優勝するなど、清水のサッカーの発展に寄与した。それまで静岡の“サッカーどころ”と言えば藤枝だったが、堀田哲爾氏との二人三脚で清水を今日の地位に引き上げた功労者である。 JFAでは第4種(少年)や女子の理事や特任理事を担当して少年サッカーや女子サッカーの普及・発展に努めた。 最後に北山朝徳氏である。アルゼンチン在住のJFA国際委員で、南米の各国協会との強固なパイプから、約40年にわたりキリンカップなどのマッチメイクや日本チームと日本人選手の留学などのサポートを行ってきた。彼がいなければキリンカップなどで簡単に南米のチームは呼べなかったし、トヨタカップで来日するチームの取材のアテンドもしてきた。99年に日本が初めてパラグアイでのコパ・アメリカに参加できたのも、北山氏の功績が大きい。 アルゼンチン在住のジャーナリスト、藤坂ガルシア千鶴氏がアルゼンチンに渡って最初にお世話になったのも北山氏で、彼の事務所で働きながらサッカージャーナリストとして日々研さんした。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.08.02 21:00 Tue
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PSGと浦和では「大人と中学生?」、大きな差があるメンタル/六川亨の日本サッカーの歩み

7月23日に埼玉スタジアムで開催された浦和対パリ・サンジェルマン(SG)の試合は、メッシとネイマールをベンチに温存(後半13分から出場)しながらも、PSGがムバッペの来日初ゴールなどで3-0の勝利を収めた。浦和は得点源のキャスパー・ユンカーを負傷で欠くなどベストの布陣ではなかったが、両チームの実力差からすれば順当な結果だった。 浦和にとって惜しかったのは、立ち上がりにつかんだ2回の決定機だった。恐らくPSGは、浦和についての事前情報はいっさいなかった可能性が高い。このため相手の出方をうかがいながら、自陣からパスをつないで攻めようとした。 そこに浦和の攻撃陣が襲いかかった。前線から複数の選手がプレスをかけてパスコースを限定し、インターセプトからPSG陣内で試合を進めた。 3分にはスルーパスに抜け出たFW松尾佑介がドリブルで持ち込み、CBディアロのチャージにバランスを崩しながらもGKケイラー・ナバスを左にかわした。しかしシュートは腰が回りきらなかったためゴール枠を外してしまう。 6分にはペナルティーエリア内でボールを奪うと、最期は伊藤敦樹が右足で強シュートを放つ。しかしこれもGKナバスのディフレクトにで左CKに変わった。 浦和がこの試合でつかんだ決定機は7回だった。そのうちGKナバスに防がれたのが4回、DFのブロックに遭ったのが1回、ゴール枠を外したのと右ポストに阻まれたのが各1回だった。とりわけ惜しかったのが前半33分、ダヴィド・モーベルグが右サイドをタテに突破してクロスを送ったシーンだ。 クロスはゴール前でクリアされたが、これを拾った伊藤がワントラップして至近距離からシュート。ところがDFのブロックに遭い、PSGのゴールネットを揺らすことはできなかった。そして、このシーン以外にも、浦和攻撃陣のシュートはPSGの選手によって何度となくブロックされた。 試合後の公式記録でも、PSGのシュートが12本なのに対し、浦和は14本ものシュートを放った。にもかかわらずノーゴールだったのは、前述したGKナバスやセルヒオ・リコの好セーブに加え、フィールドプレーヤーのシュートブロックの巧さだろう。 危険地帯でのシュートにもかかわらず、PSGの選手は少しも慌てることなく、しっかりとシュートコースを見極め、足や身体でブロックした。「後手に回った」と思って、慌てて足を出したり身体をぶつけたりして、逆にPKを与えてしまうことはよくあるプレーだが、PSGの選手は慌てることなく冷静に対処していた。 それだけプレーに余裕があったということだろう。 彼らのそんなプレーを見ていて思い出したのが、都並敏史氏(現ブリオベッカ浦安監督)の言葉だった。 Jリーグが開幕して3年後の1995年11月1日、カシマスタジアムでの鹿島対横浜フリューゲルス戦で、鹿島MFレオナルドは3人の選手に囲まれるとボールを浮かし、左足でリフティングしながら突破。最期はボレーシュートをゴール左上に突き刺した。 2013年にJリーグ創設20周年を記念して行われたサポーター投票による「Jクロニクルベスト」という企画では、ベストゴール部門の1位に選出された伝説的なプレーだ。 このプレーについて、都並氏は、「自分だったら」と断ってから、「中学生が相手なら、同じプレーができたかもしれない。つまり当時のレオナルドにとって、Jリーガーは中学生を相手にプレーしているようなものだったのかもしれません」とコメントした。 PSGの選手に確認したわけではないが、もしかしたらPSGの選手にとって、浦和攻撃陣がシュートを放つ際の冷静さには、「大人と中学生」ほどではないにしても、それだけメンタル的な余裕の違いがあったのかもしれない。そしてこれは、一朝一夕では解決できない致命的な差でもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.07.25 11:45 Mon
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PSGが27年前は東京ドームで試合~野球場でサッカーが開催された/六川亨の日本サッカー見聞録

日本が6-0という大会最多ゴールで香港を下したEAFF E-1選手権。試合会場となったカシマスタジアムで観戦したファン・サポーターは4980人だった。平日のナイター(19時20分キックオフ)で、鹿嶋での開催となると宿泊施設も限られる。さらに当の日本代表には鹿島の選手が1人もいない。よく5000人近くも集まったと言っていいだろう。 横浜F・マリノスの選手が多く招集されているのだから、いっそ準ホームであるニッパツ三ツ沢球技場(約1万5000人収容)か、交通の便がいい都内の味の素フィールド西が丘(約7000人収容)で開催したほうが、まだ集客は見込めたかもしれない。 その一方で翌20日の川崎F対パリ・サンジェルマン(SG)戦が開催された国立競技場には6万4992人ものファン・サポーターが詰めかけ、6月の日本対ブラジル戦を上回る最多観客記録を更新した。 メッシはアルゼンチン代表やバルセロナ(クラブW杯)で来日しているし、ネイマールも11年のクラブW杯ではサントス(バルセロナに0-4で敗退)で、15年にはバルセロナの一員として来日しており、先月もブラジル代表の一員として来日している。 その一方でキリアン・ムバッペはイベント出演での来日はあるものの、日本でプレーするのは初めて。そして、この3人が前線に顔を揃えるだけでなく、彼ら以外にも各国の代表選手がいるだけに、多くの観客が“真夏の夜の夢"をエンジョイしようと国立に足を運んだに違いない。 そんなPSGの来日は27年ぶりだという。1995年6月に来日し、名古屋と西京極総合運動公園で、鹿島と東京ドームで対戦している。たしか「ペプシカップ1995」という名称の大会で、西京極の試合には取材に行かなかったが、東京ドームでの試合は人工芝の上に天然芝を敷いたものの、天然芝の土の部分についている肥料の匂いがとても臭く、それがドーム内に充満したことを覚えている。 来日メンバーもダビド・ジノラ、ジョージ・ウェア、ライー、パトリック・エムボマら主力選手はほとんど来日しなかった。にもかかわらず、鹿島に3-2で逆転勝ちしたはずだ。 サッカーの試合が東京ドームで行われるのは、当時としてもかなり珍しかった。当時の首都圏にはサッカー専用スタジアムというと西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)、大宮サッカー場(現NACK5スタジアム)、三ツ沢球技場(現ニッパツ三ツ沢球技場)の3つしかなかった。しかし、どのスタジアムもキャパシティが限られる。 駒沢公園オリンピック競技場は2万人を収容できるが、ナイター設備がなく、道路を挟んで病院もあるため大がかりなイベントとなると騒音の問題もあった。このため国立競技場(旧)以外となると首都圏には大人数を収容できるスタジアムは皆無に近い。このため当時は東京ドームでの開催となった。 ただ、野球場でサッカーの試合が開催されたのは95年が初めてではない。まだ大学生だった1979年8月、東京12チャンネル(現テレビ東京)開局記念10周年だったと思うが、前年のアルゼンチンW杯で優勝したアルゼンチンと、準優勝のオランダを招待して「ワールドサッカー79」という大会が、東京ドームの前身である後楽園球場で開催された。 しかしながら、いまでもアルゼンチン代表とオランダ代表を同時に招待することは、かなりハードルが高いだろう。 実際に来日したのはオランダのFCアムステルダムとアルゼンチンのCAウラカン(1940年代にはアルフレッド・ディ・ステファノが所属)。そして、なんとか78年のW杯得点王であるマリオ・ケンペスを呼ぶためスペインのバレンシアを招待し、これに日本代表と日本ユニバーシアード代表、釜本邦茂氏やラモス瑠偉氏、ジョージ与那城氏ら日本リーグ選抜の6チームによる大会が広島、大阪、東京で開催された。 東京では後楽園球場で2試合が開催されたが、大阪も試合会場は大阪球場で、かつてはプロ野球の南海ホークス、近鉄パールズ、大洋松竹ロビンスが本拠地として使用していたらしい。現在は大規模複合商業施設の「なんばパークス」として賑わっていることからもわかるように、日本において歴史のある野球場は都心のど真ん中に造られているのは羨ましい限りだ。 その後も1989年8月にはマンチェスター・ユナイテッドが来日し(主力はクラブのレジェンドで、代表ではキャプテンを務めたブライアン・ロブソン)、神宮球場で日本代表(横山ジャパン)と対戦し、1-0の勝利を収めている。 こうして振り返ると、Jリーグ誕生以前は野球場がサッカーの試合に意外と利用されていることがわかるだろう。それだけ多くの観衆を収容できるスタジアムがなかったことの裏返しでもある(さすがに甲子園球場は使用できていない)。 試合を観戦した印象としては、どの野球場も傾斜が少なく開放感があるので、サッカーの試合を見ていてもノンビリしてしまった記憶がある。攻守がはっきり分かれていて、インターバルのある野球を観戦するのには、開放感のあるボール・パークが適しているのかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.07.22 22:30 Fri
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EAFF E-1選手権の歴史をおさらい/六川亨の日本サッカーの歩み

いよいよ19日からEAFF-E1選手権がスタートする。日本は初戦で香港とカシマスタジアムで対戦するが、18日には谷口彰俉や宮市亮ら4選手がズームによる会見に応じ、キャプテンに指名された谷口は「寄せ集めのチームなので普段通りにはできないでしょう。ピッチ内はもちろんのこと、ピッチ外でもいろんな話をしようと選手には伝えています」と難しいチーム状況であることを認識していた。 そして森保一監督は「できるだけ多くの選手を起用しながら大会に臨むつもりです」と話したが、そうなると「寄せ集めのチーム」だけに一抹の不安を感じてしまう。それでも今大会はW杯や五輪の予選と違い、特別な大会ではないだけに、“Jリーグ選抜”が東アジアの3カ国を相手にどれだけできるのか、それはそれで楽しみでもある。 このEAFF-E1選手権だが、02年の日韓W杯後の03年に東アジア選手権として第1回大会がスタートした。日本と韓国、それに中国を加えた3カ国の持ち回りで、残り1チームは香港、北朝鮮、オーストラリアら7チームがセントラルの予選を戦い、上位1チームが本大会に出場できるシステムとして今日まで続いてきた。 基本的に2年に1回の大会だったが、アジアカップや五輪の関係で必ずしも「2年に1回」のサイクルが守られてきたわけではない。今年の大会も、本来は中国で昨年開催予定が新型コロナウイルスの影響で延期され、さらに日本開催へと変更された(日本→韓国→中国という開催サイクルで、前回19年は12月に韓国の釜山で開催された)。 大会の趣旨としては、東アジアのレベルアップにあった。歴史的に日本と韓国は「日韓定期戦」でレベルアップを図ってきたが、“永遠のライバル”のため、時として親善試合の結果が監督の進退に影響することもあり、1991年を最期に自然消滅した。 その代わりということではないが、90年に東アジア4カ国によるダイナスティカップが始まり、スポンサー(マールボロ)が撤退したことと、日韓W杯を契機に東アジアサッカー連盟(EAFF)が02年に設立されたことで(初代会長は岡野俊一郎JFA会長)、今大会はスタートした。 第1回大会がスタートした90年当時はサッカー専門誌の記者として、イタリアでW杯を取材中だったが、帰国したらすぐに中国で開催される大会を取材するように命じられて苦労した覚えがある。 アジアは東西に長く、生活習慣はもちろんのこと、宗教など様々な違いがある。サッカーにおいても中東の8カ国(サウジアラビア、クウェート、イラク、UAE、カタール、バーレーン、オマーン、イエメン)は1970年に中東の大会であるガルフカップをスタートさせて切磋琢磨してきた。 最多優勝は70年代に強さを誇ったクウェートで10回だ。これに続くのがサウジアラビアと近年は成長著しいカタール、古豪のイラクの3回。そして逆に石油と天然ガスといった自然資源を保たない“中東の最貧国”と言われるイエメンはベスト4にすら入ったことがない。 ちなみにイランは文化圏が違うので(話す言語も中東はアラビア語に対しイランはペルシャ語)、アラビア半島の国々とは一線を画している。 このガルフカップから遅れること四半世紀、96年にはタイガービールの協賛から東南アジア選手権とも言うべき「タイガーカップ」がスタートしている。大会は08年に日本企業のスズキがスポンサーになり、AFF(ASEANサッカー連盟)スズキカップと名称が変更されたが、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東ティモールの11カ国が参加。 東南アジアの盟主とも言うべきタイが最多6回の優勝を果たしているが、近年は監督に韓国人のパク・ハンソ氏を迎え、もう引退したがJリーグでもプレーしたストライカーであるレ・コン・ビン氏を擁したベトナムが急成長を見せている。 ガルフカップやスズキカップに遅れて始まったEAFF E-1選手権。過去の政治的な状況を踏まえれば、東アジアの4カ国(日本、韓国、中国、北朝鮮)がいくら政治とは関係のないサッカーとはいえ足並みを揃えるのは難しいことであることは容易に想像できる。その突破口となったのが、アジアで初めて開催された日韓W杯でもあることは間違いないだろう。 改めて言うまでもないが、今大会はAFC(アジアサッカー連盟)のAマッチと認定されていないため、参加国は海外組を招集できない。AFCが認定するAマッチはW杯予選とアジアカップだけだからだ。しかし、それはそれで今大会は面白いのではないだろうか。 6月の4試合に出場した日本代表の海外組、いわゆるレギュラー組が海外から帰国して試合に出場したとしても、正直代わり映えしないメンバーに食傷気味なのは僕だけではないだろう。固定メンバーの森保ジャパンに風穴を開ける意味でも、今大会の“国内組”の活躍に期待しているJチームのファン・サポーターは多いと思うがいかだだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div 2022.07.19 09:30 Tue
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気になる陽性者の増加とチーム作りの難しさ/六川亨の日本サッカーの歩み

J1リーグは折り返しの後の第21節を終え、攻守にスキのない横浜F・マリノスが首位をキープ。これを2位の鹿島と3位の川崎Fが追う展開に変わりはないが、鹿島と川崎Fは勝ちきれない試合も目立つ。この3チームを猛追していのが、攻撃陣の歯車がかみ合ってきた広島とC大阪だ。 広島は第20節で横浜F・マリノスに0-3と完敗したものの、前半の決定機を確実に決めていれば逆のスコアになってもおかしくないほど横浜F・マリノスを圧倒した。その第20節ではC大阪も鹿島相手にアウェーで3-2とリードしながら終了間際のゴールで3-3のドローにおいつかれた。さらにC大阪は第21節の横浜F・マリノス戦でも2-0と優位に試合を進めながら、後半アディショナルタイムの失点で2-2と勝点3をつかみ損ねたのは悔やまれるところ。 すでにC大阪は上位3強との対戦を終えているが、広島は鹿島と川崎F戦を残しているだけに、波乱を起こす可能性を秘めていると言っていいだろう。 そんな佳境を迎えつつあるJリーグだが、ここ1~2週間はどのチームにも選手や監督、スタッフに新型コロナウイルスの陽性者が出たことがリリースされている。それはJリーグに限らず大学リーグや高校年代も同様で、試合が延期されることは珍しくない。 今月15日には移籍ウインドウがオープンになる。このため下位に沈むチームは外国人選手の補強など積極的に動いている。しかし、負傷に加えて新型コロナウイルスに感染した主力の離脱というダブルパンチはどのチームにとっても想定外だったに違いない。 Jリーグは公式試合における声出し応援を段階的に導入して検証を重ねているが、選手に感染者が増えているのは残念な結果と言わざるを得ない。個人情報の保護から感染者の実名は報道されないものの、スタメンはもちろんリザーブからも名前が消えて3~4試合くらい欠場したら、新型コロナウイルスの感染者と判断して間違いないだろう。というのも、負傷の際はチームから負傷箇所と全治までの期間が発表されるからだ。 「ない袖は振れない」と言うが、主力が長期欠場したら代役に誰を起用するか。これはこれで、指揮官の意図を探る楽しみでもある。おしなべて外国人監督は元日本代表といったベテランより、経験は浅くても若い選手を起用する傾向が強いようだ。自分自身の“色"を出しやすいこともあるのだろう。 例えば10日の第21節で、苦手の浦和に0-3と完敗したFC東京は、6月26日の鳥栖戦を最期にMF安部柊斗の名前がスタートリストから消えたままだ。浦和戦でアルベル監督は18歳の梶浦勇輝をスタメンで起用したものの、彼のバックパスミスから先制点を与えてしまった。このため指揮官は後半開始から梶浦に代えてFW紺野和也をピッチに送り出した。大胆な采配がいつも的中するとは限らないということだ。 そしてアルベル監督になってから出場機会の激減したFW永井謙佑は古巣の名古屋へ完全移籍。MF高萩洋次郎も栃木SCへ期限付き移籍することが11日に発表された。元日本代表とはいえ、起用されなければ出場機会を求めて移籍を選択するのは当たり前。彼ら2人の放出が“吉"と出るか、それとも“凶"と出るのか。監督と選手の両者にとって難しい選択でもあっただろう。 そしてこの原稿を書いているとJFA(日本サッカー協会)からリリースが届き、13日の天皇杯4回戦、磐田対東京V(味の素スタジアム)は東京Vに複数名の新型コロナウイルス感染症の陽性者が出たため、管轄の保健所よりチーム活動の停止を勧告されたため中止となった。代替日は7月20日(水)で、19時より味の素スタジアムで開催される。 今後も同様のケースが起きる可能性があるものの、東京Vの選手には早期の回復を願わずにはいられない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.07.11 21:00 Mon
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