ベテランの活躍も目立つ今シーズン/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.11.10 18:25 Tue
11月8日のJ1リーグでは、いわゆる“ベテラン"と呼ばれる選手の活躍が目立った。ニッパツ三ツ沢での横浜FC対神戸戦(2-1)では、後半42分にカズ(三浦知良)が交代出場して自身が持つJ1最年長出場記録を53歳8か月13日に更新した。
そしてピッチでは、スタメン出場のイニエスタ(36歳)との競演が実現。プレー時間こそ短かったが、試合後は肩を組んで会話するシーンを観られた三ツ沢のファンは幸せだったに違いない。
一方、仙台で行われた仙台対鳥栖戦(0-3)では、後半34分に“鳥栖の"梁勇基がユアスタでのデビュー戦を飾った。仙台一筋に16シーズンを過ごした梁勇基も、もう38歳。いつユニホームを脱いでもおかしくなかったが、鳥栖に新天地を求め、初めて帰還した古巣でのプレー後は選手・サポーターから暖かく迎えられた。
仙台ではレジェンドだった梁勇基だが、北朝鮮代表ではついにW杯出場の夢はかなわなかった。東アジア選手権などでは新潟、名古屋、大宮などで活躍した安英学(42歳)とともにチームの主力として活躍。試合後のミックスゾーンでも2人は直立不動の姿勢で記者からの質問に、ていねいに答えていたのが印象的だった。
その安英学は鄭大世(36歳。清水)とともに10年南アW杯に出場した。そして同じ南アでの大会でW杯デビューを飾ったのがGK川島だった。
ここで当時の状況を簡単に説明しておこう。川島が初めて日本代表に招集されたのは川崎F時代の06年3月のキリンチャレンジ杯だった。監督はイビチャ・オシム氏で、彼の指導を受けたのも現チームでは川島1人だけとなった。
しかしGKには川口と楢崎という巨大な壁があり、川島にはなかなか出番が回ってこなかった。07年にベトナムなど東南アジア4カ国で開催されたアジア杯でも出番はなし。初めてキャリを積んだのは08年2月の東アジア選手権(現EAFF E-1選手権)だった。
オシム監督から岡田監督になってもGK3人の顔ぶれに変わりはなく、南アW杯最終メンバーは川口(116試合出場)、楢崎(同75試合)、川島(同8試合)の3人が選出された。ただ、川口は相次ぐ負傷によりブランクがあり、岡田監督はチームのまとめ役としてキャプテンを託すなど、第3GKとしての選出であり、川口自身もそれを受け入れての4度目のW杯参加だった。
このため第1GKは楢崎と思われた。ところが高地トレーニングとしてスイスのサースフェー入りした4日後の5月30日、オーストリア・グラーツへ移動してのイングランド戦では川島がスタメンに抜擢された。
日本は開始6分に田中マルクス闘莉王のゴールで先制すると、後半8分にはランパードのPKをGK川島がストップ。その後も川島はルーニーの決定的なシュートをCKに逃げるなど堂々としたプレーを見せたが、イングランドのサイドからのライナー性のクロスに田中マルクス闘莉王と中澤が相次いでOGを献上して逆転負けを喫した。
しかし川島は続くコートジボワールとのテストマッチ(0-2)と、W杯では全4試合にスタメンで出場し、日本のベスト16進出に貢献した。その後もW杯は14年ブラジル、18年ロシアと3大会連続出場し、11試合出場は長友、長谷部と並んで最多出場記録である。
24歳の時に代表へ初招集された川島も、いまでは37歳と立派なベテランだ。
グラーツには、当時も今もオシム氏が住んでいる。森保監督も機会があれば会って話を聞きたいと楽しみにしているし、川島も「(フランスから)ここに来る時に考えていたのは、イングランド戦ではなくオシムさんのことでした。試合に出させてもらうことはなかったですが、色んな意味で大きなことを考えさせられ、刺激をくれた人でした」と再会を熱望している。
かつてオシム氏は「ベテラン」という言葉を嫌った。「私のチームにベテランはいません。ベテランとは戦争から帰ってきた者に使う言葉であり(本来は退役軍人や老兵のことを指す。熟練者を意味するベテランは和製英語で、日本でしか通用しない)、サッカーは戦争ではありません。まだプレーできる選手の集まりです」とのことだ。
川島を始め、梁勇基もイニエスタも、そしてカズも「まだプレーできる選手」に変わりはないということである。
【文・六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
そしてピッチでは、スタメン出場のイニエスタ(36歳)との競演が実現。プレー時間こそ短かったが、試合後は肩を組んで会話するシーンを観られた三ツ沢のファンは幸せだったに違いない。
仙台ではレジェンドだった梁勇基だが、北朝鮮代表ではついにW杯出場の夢はかなわなかった。東アジア選手権などでは新潟、名古屋、大宮などで活躍した安英学(42歳)とともにチームの主力として活躍。試合後のミックスゾーンでも2人は直立不動の姿勢で記者からの質問に、ていねいに答えていたのが印象的だった。
その安英学は鄭大世(36歳。清水)とともに10年南アW杯に出場した。そして同じ南アでの大会でW杯デビューを飾ったのがGK川島だった。
日本代表は現在テストマッチのため、海外組がオーストリアのグラーツに集結している。9日はすでにグラーツ入りした川島と浅野がリモートでの会見に臨んだ。そこで川島は、記者から「グラーツは南アW杯の前にレギュラーとなった場所」と教えられても、「それは全然覚えていなかったです。あの時はどこの街でやるかとか、どのスタジアムでやるかとかを考える余裕はなくて、まったく記憶になかった」と驚いていた。
ここで当時の状況を簡単に説明しておこう。川島が初めて日本代表に招集されたのは川崎F時代の06年3月のキリンチャレンジ杯だった。監督はイビチャ・オシム氏で、彼の指導を受けたのも現チームでは川島1人だけとなった。
しかしGKには川口と楢崎という巨大な壁があり、川島にはなかなか出番が回ってこなかった。07年にベトナムなど東南アジア4カ国で開催されたアジア杯でも出番はなし。初めてキャリを積んだのは08年2月の東アジア選手権(現EAFF E-1選手権)だった。
オシム監督から岡田監督になってもGK3人の顔ぶれに変わりはなく、南アW杯最終メンバーは川口(116試合出場)、楢崎(同75試合)、川島(同8試合)の3人が選出された。ただ、川口は相次ぐ負傷によりブランクがあり、岡田監督はチームのまとめ役としてキャプテンを託すなど、第3GKとしての選出であり、川口自身もそれを受け入れての4度目のW杯参加だった。
このため第1GKは楢崎と思われた。ところが高地トレーニングとしてスイスのサースフェー入りした4日後の5月30日、オーストリア・グラーツへ移動してのイングランド戦では川島がスタメンに抜擢された。
日本は開始6分に田中マルクス闘莉王のゴールで先制すると、後半8分にはランパードのPKをGK川島がストップ。その後も川島はルーニーの決定的なシュートをCKに逃げるなど堂々としたプレーを見せたが、イングランドのサイドからのライナー性のクロスに田中マルクス闘莉王と中澤が相次いでOGを献上して逆転負けを喫した。
しかし川島は続くコートジボワールとのテストマッチ(0-2)と、W杯では全4試合にスタメンで出場し、日本のベスト16進出に貢献した。その後もW杯は14年ブラジル、18年ロシアと3大会連続出場し、11試合出場は長友、長谷部と並んで最多出場記録である。
24歳の時に代表へ初招集された川島も、いまでは37歳と立派なベテランだ。
グラーツには、当時も今もオシム氏が住んでいる。森保監督も機会があれば会って話を聞きたいと楽しみにしているし、川島も「(フランスから)ここに来る時に考えていたのは、イングランド戦ではなくオシムさんのことでした。試合に出させてもらうことはなかったですが、色んな意味で大きなことを考えさせられ、刺激をくれた人でした」と再会を熱望している。
かつてオシム氏は「ベテラン」という言葉を嫌った。「私のチームにベテランはいません。ベテランとは戦争から帰ってきた者に使う言葉であり(本来は退役軍人や老兵のことを指す。熟練者を意味するベテランは和製英語で、日本でしか通用しない)、サッカーは戦争ではありません。まだプレーできる選手の集まりです」とのことだ。
川島を始め、梁勇基もイニエスタも、そしてカズも「まだプレーできる選手」に変わりはないということである。
【文・六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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