1993年のエポック③U-17W杯日本大会/六川亨の日本サッカーの歩み

2020.06.02 17:00 Tue
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1993年、ソロモン諸島ガダルカナル島でのU-17W杯オセアニア最終予選を取材したことは先週のコラムで紹介した。当時、現地で出会ったソロモン諸島の監督は青年海外協力隊で現地に赴任していた日本人の渡邊和典(わたなべ かずのり)さんだった。彼とは現地で別れて以来音信不通だったが、ふとしたことで同業者が彼と知り合いになり、携帯の番号だけは聞いていた。しかし電話をかけることも、メールを送ることもしないまま27年が過ぎた。帰国した93年はJリーグがスタートするなど慌ただしい日々を過ごしたこともあるが、それは言い訳に過ぎない。

彼の消息を知った時は、時が経っていたため僕のことを覚えてくれているか臆病になっていたのが正直なところだ。

それが、先週初めにコラムで彼を紹介したところ、木曜日の28日にメッセンジャーで連絡が来た。「1993年のエポック読みました!なんだかとても懐かしくなり、連絡した次第です。お元気ですか?」という文面だった。

すぐに電話して、27年ぶりに近況を聞いた。「こんな再会もあるのだな」と、改めてネット社会の影響力を実感した。僕の書いた原稿を、どこで誰が読んでいるのか、そしてつながっているのか、楽しくもあり、身の引き締まる思いでもある。

さて本題に戻ろう。93年、日本で初めて開催されたU-17W杯は8月21日から9月4日にかけて日本各地で開催された。最終予選を取材したオーストラリアは選手とも親しくなったので会いたかったが、試合は関西が多かったため一度も取材に行けなかったのが残念だった。

そして日本代表である。監督は国見高校の名将である小嶺忠敏さん。そしてコーチは東京ヴェルディの小見幸隆さんという異色の組み合わせだった。というのも当時のメンバーは松田直樹(前橋育英高)、中田英寿(韮崎高)、船越優蔵(国見高)ら高校生と、宮本恒靖(G大阪ユース)、財前宣之(読売クラブ。中田ら誰もが認めた天才だった)らクラブ育ちの選手の混成チームだったため、監督は「教育的な配慮」から高校の監督、そしてコーチにはクラブ出身という指導体制になった。

日本はグループAで1勝1分け1敗で2位となり決勝トーナメントに進出する。1勝もできずグループAで最下位に終わったのはイタリアだったが、この時のチームにはジャンルイジ・ブッフォン、フランチェスコ・ココ、フランチェスコ・トッティらがいた。

残念ながら日本は準々決勝で優勝したナイジェリアに1-2で敗れてしまう。準優勝はグループリーグで日本と同じA組のガーナで、後にバイエルン・ミュンヘンなどで活躍したサミュエル・クフォーがチームを牽引した。そして優勝したナイジェリアにはヌワンコ・カヌ、セレステン・ババヤロら3年後のアトランタ五輪で金メダルを獲得するメンバーが揃っていた。

大会後、カヌらナイジェリアの選手は、誕生したばかりのJリーグの“あるチーム”に売り込みをかけたが、当時はアフリカのティーンエイジャーよりも、ヨーロッパで実績を残したベテラン選手の方が重宝されたため、移籍は実現しなかった。たぶん格安で獲得できたはずだが、当時のJリーグの異常な盛り上がり方を考えれば仕方がなかったかもしれない。

3年後のアトランタ五輪で、28年ぶりに出場した日本は初戦でブラジルを倒し「マイアミの奇跡」を演出する。しかし1勝1分け1敗ながら得失点差でグループリーグ3位になり敗退を余儀なくされた。グループリーグで日本から勝利を奪ったナイジェリアが金メダル、日本に敗れたブラジルが銅メダルを獲得した。

2大会とも、グループリーグの対戦相手が違っていれば、結果も変わっていたのではないかと当時は思ったものだ。それもW杯に出たことのない僻みだったかもしれない。そして、メディアもファンもこの大会のことはすぐに忘れたと記憶している。なぜなら1週間後には、オフト・ジャパンが初のW杯出場に向けてスペイン合宿をスタートしたからだった。(以下、次週のアメリカW杯アジア最終予選に続く)

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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浦和のリカルド監督はジンクスを払拭できるか/六川亨の日本サッカーの歩み

天皇杯とルヴァン杯決勝に出た4チーム以外は12月中旬にオフに突入したため、新シーズンに向けて始動を開始したチームも出始めた。17日は浦和がリカルド・ロドリゲス監督の就任会見をリモートで取材し、18日は西、田中、金子ら新加入選手の会見を同じくリモートで取材した。 浦和だけでなく、先週末はACLの出場権を獲得して川崎Fから齋藤、C大阪から柿谷ら即戦力を補強した名古屋や、初めて2年連続してJ1で戦う横浜FC、7年ぶりのJ1復帰を果たした徳島なども新入団会見を実施するなど各チームは動き出している。 話を浦和に戻すと、西野TD(テクニカルダイレクター)は「ACLの出場」を最低限の目標にしつつ、リカルド監督を招聘した理由に次の3点をあげた。 クラブの作ってきたコンセプトに合致している。 戦術家、戦略家としての能力が高く、いくつかのフォーメーションと戦い方を使い分けられ、試合中に柔軟に戦い方を変化させられる。 野心家である。J1リーグの経験はないが、J1リーグとACLで優勝すること。個人の野心とクラブの野心が合致した。 これに対しリカルド監督は、初めてのJ1リーグにも「経験はないが自信はある」と胸を張り、「浦和という偉大なクラブで指揮を執る機会を与えてくれて感謝している。熱いファン、サポーターがいる。そういう人に楽しんでもらえるサッカーをしたいし、監督として成長したい」と抱負を述べた。 そして昨シーズンの徳島では試合中にシステムの変更などをして点についても、「一番大事なのは、どういうサッカーをするかというアイデアだ。攻撃も守備もアイデア。相手の攻撃の意図、守備の意図をどう相殺し突破するか。システムが大事なのではなく、いまいる選手の組み合わせでシステムは決まる。まず、いまいる選手が大事になる」と持論を語った。 好きな日本食は寿司と即答したリカルド監督が浦和でどんなサッカーを構築するか。2月27日の開幕戦はカウンターを武器にするFC東京とホームで激突する。 そしてリカルド監督の抜けた徳島には、同じスペイン人のポヤトス新監督を招聘したものの、新型コロナの影響で来日のめどが立っていないのは気がかりだろう。同じことは外国人選手にも当てはまるが、こればかりは待つしかないのが現状だ。 さて、リカルド監督と、新シーズンから清水の指揮を執るロティーナ監督、そしてポヤトス監督と新シーズンは3人のスペイン人監督が指揮を執ることになる。3人ともスペイン国内での実績はほとんどないが(ロティーナ監督はコパ・デル・レイ1回優勝の他、昇格請負人として活躍する一方、降格の憂き目も何回か経験)、ロティーナ監督は守備の構築から東京Vを2年連続して昇格プレーオフに導き、ロドリゲス監督は徳島をJ1に導くなど日本での実績を評価されての監督就任である。 かつて90年代後期のJ1リーグには4人のスペイン人監督がいた。横浜FMにはアスカルゴルタ(97~98年)とデ・ラ・クルス(98~99年)の2人だ。元々横浜FMはアルゼンチンの選手が多く、スペイン語での意思疎通が可能だし、当時はサリナスとゴイコエチェアというスペイン人選手もいたから納得できる。 ところが横浜フリューゲルスのレシャック(98年)、神戸のフローロ(98~99年)は所属選手との関係はほとんどない(フリューゲルスはブラジル人選手、神戸は韓国人選手が主力だった)。そして4人とも実績を残すことができないまま日本を去った。 同様に神戸のリージョ(18~19年)、千葉のエスナイデル(17~18年)、鳥栖のカレーラス(19年)の3人も、それぞれクラブとの諸事情があったのだろうが短期間で日本を離れている。 こうしてみると、かつてリーガ・エスパニョーラは日本人選手にとってハードルの高いリーグだったが、同様にスペイン人監督にとってもJリーグ(もしくは日本)は監督として成功するのに難しいリーグだったのかもしれない。 しかし時代は移り、乾や久保がプリメーラ・ディビジョンでチャレンジしているように、日本ではロティーナ監督が突破口を開き、リカルド監督が新シーズンはJ1リーグに足跡を残そうとしている。 過去のJ1リーグでブラジル人監督以外の優勝経験者は浦和のブッフバルト(ドイツ人)、名古屋のストイコビッチ(セルビア人)、横浜FMのポステゴグルー(オーストラリア人)の3人しかいない。ここにスペイン人監督が加わるのかどうか。いろいろな意味でリカルド監督に注目してみたい21年シーズンである。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.01.19 20:50 Tue
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高校サッカー選手権アラカルト/六川亨の日本サッカーの歩み

第99回全国高校サッカー選手権大会は、山梨学院が2-2からのPK戦を4-2で制して11大会ぶり2度目の優勝を飾った。 山梨学院からすれば、狙い通りのPK戦だったかもしれない。総合力で上回る相手の猛攻に耐え、準決勝に続いてのPK戦での勝利。ただ、それを支えたのはGK熊倉のファインセーブがあったからでもある。 開始6分の松木の至近距離からのシュートや、後半15分にもニアサイドへの決定的なシュートを足でブロック。彼の存在が、青森山田の選手から余裕を奪い、それがシュートミスにもつながったのではないだろうか。 青森山田は2回戦から決勝までの4試合で15ゴールを奪った。準決勝では堅守を誇る矢板中央を5-0と粉砕したのだから、決勝戦でも優勢が予想された。しかし「好事魔多し」とはよく言ったもので、油断したわけではないだろうが、苦しみながら勝ち上がってきたチームに負けることは往々にしてある。 過去の選手権でも、戦後の最多得点記録を持つ鹿児島城西(08年の第87回大会)は、1回戦で青森山田に4-3と苦しみながらも競り勝つと、2回戦では大阪桐蔭に5-2、3回戦は宇都宮白楊に7-1、準々決勝は滝川第二に6-2と圧勝。準決勝も前橋育英を5-3と粉砕したが、決勝では広島皆実に2-3と競り負け初優勝を逃した。 鹿児島城西が6試合で奪ったゴールは実に29。1試合平均で約5ゴールと驚異的な得点力である。その鹿児島城西のエースストライカーで、10ゴールを決めて得点王となったのが大迫勇也(ブレーメン)だった。 10ゴールは1大会の最多得点記録であり(通算最多ゴールは国見の平山相太が3年間で記録した17ゴール)、全試合ゴールは第75回大会で優勝した市立船橋の北嶋秀朗(決勝では中村俊輔率いる桐光学園に2-1と勝利。北嶋は第73回大会でも優勝し、高校通算16ゴール。卒業後は柏に入団)以来の快挙でもあった。 準々決勝で敗れた滝川第二のキャプテンが「大迫半端ないって」と泣きながら絞り出した言葉はロシアW杯でも使われた。 この鹿児島城西に続く最多ゴール記録を持っているのが、最近は出場機会がめっきり減った帝京である。1981年の第60回記念大会では、3試合で24ゴールの荒稼ぎをした。 この第60回の記念大会は、いまでこそ当たり前だが、1県に1校の出場枠が与えられ、東京都は2校の出場が認められ、全48校が出場した。 それまでの高校選手権は、例えば東北なら青森と岩手(北奥羽代表)、秋田と山形(西奥羽代表)、宮城と福島(東北代表)で各1校の出場枠を争った。県によって実力差があったことは確かだが、滋賀は京都(京滋代表)に、奈良は和歌山(紀和代表)に阻まれてなかなか全国大会に出られないなど、その実力差はさらに広がるばかりだった。 しかし第60回大会の成功で、翌年こそ32校に戻されたものの、第62回大会から現行の全48校出場に変更されて現在まで続いている。 話を帝京に戻すと、1回戦で高松南に9-0、2回戦で仙台向山に8-1、3回戦で高崎に7-1と圧勝した。しかし準々決勝では韮崎に0-2と敗れ、ベスト8で姿を消した。 チームを率いる古沼貞雄監督は、「点が取れるからといって、たくさん取ろうとして、気付かないうちに疲れが溜まっていた」と反省の弁を述べた。そしてこの教訓を生かし、48校出場となった第62回大会では手堅いサッカーで勝ち上がり、準決勝では韮崎を1-0で破って2年前の雪辱を果たすと、決勝でも前年優勝校の清水東を破って4度目の全国制覇を成し遂げた。 今大会で優勝した山梨学院の総監督は、かつて韮崎を率いた横森巧元監督である。韮崎時代は天才的ドリブラー羽中田昌(高校卒業後に交通事故で脊椎を損傷し下半身不随になるが指導者として活躍)を擁しながら、第58回大会から5大会連続ベスト4で、3度の準優勝と全国制覇の悲願は達成できなかった。 しかし第88回大会では監督として、そして今大会は総監督として2度目の優勝を果たした。一方、準決勝で青森山田に敗れた矢板中央のアドバイザーは、かつて帝京を率いて6度(両校優勝を含む)の優勝を果たした古沼氏である。全国各地の名門校の監督は代替わりしているものの、お二人のように高校サッカーのベテラン指導者もまだまだ健在である。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.01.12 21:55 Tue
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ルヴァン杯決勝で五輪のテスト/六川亨の日本サッカーの歩み

全国高校サッカー選手権はこれから佳境を迎えるが、4日のルヴァン杯決勝でJリーグの20年シーズンはすべて終了した。柏対FC東京の決勝戦は、ブラジル人コンビのゴールでFC東京が柏を2-1で退け、09年以来11大会ぶり3度目の優勝を飾った。長谷川監督は就任3シーズン目でのタイトル獲得で、G大阪時代と合わせると5冠を達成した。 1月4日の国立競技場までの道のりは、観戦に訪れたファン・サポーターで賑わっていた。元旦の天皇杯決勝は人通りもまばらだっただけに、1万3318人(天皇杯)と2万4219人(ルヴァン杯)と、1万人の差でこうも違うものかと実感したものだ。これで焼きそばなどの露店が出ていれば(試合後は半額で大盛りを買うのが恒例だった)、いつもの見慣れたスタジアムの光景なのだが、そうした日常が戻るにはまだまだ時間がかかるだろう。ホープ軒には懐かしい味を求めてか、長蛇の列ができていた。 そして2つの大会が近いから感じたのかもしれないが、昨シーズンの川崎F対札幌戦も含め、ルヴァン杯決勝は白熱した好勝負が多い。ところが天皇杯決勝は“重苦しい"試合という印象が強いのだ。 どちらもカップ戦のファイナルであり、出場チームもJ1同士なのに、この差は何が原因なのだろう。やはり天皇杯は100年という重みがあるからなのだろうか。 そして柏対FC東京の決勝戦だが、両チームともオーソドックスな入りをした。4分に中村帆がミドルを放てば、6分にはオルンガがヘッドと攻撃的な姿勢を見せた。その立ち上がりで、メッセージ性を感じたのはFC東京の攻撃だった。 柏のストロングポイントはオルンガであることに間違いはない。彼を徹底マークするのはもちろんだが、クリスティアーノと江坂の2人とのホットラインもケアしなければならない。そこでFC東京は左SB小川が高いポジション取りをすることで、クリスティアーノを自陣に押し込めようとした。 この狙いは16分に先制点となって現れる。CB山下のサイドチェンジのパスを小川がヘッドでカットして前に送ると、レアンドロが単独ドリブルで持ち込み、カットインから右スミに流し込んだ。オルンガは渡辺とジョアン・オマリの2人がかりでマーク。それでも空中戦で楽々と競り勝ってしまうオルンガはやはり脅威だ。 柏が攻勢に出ればカウンターから追加点を狙えばいい――長谷川監督にとって前半のゲームプランはほぼ予定通りに進んでいたはずだった。ところが45分、アディショナルタイムに入る直前、柏は左CKから瀬川が同点ゴールを決めた。オルンガのヘッドは上に浮いてバーを叩いたが、198センチの長身GK波多野は立ったままボールに触ろうとしてクリアできず、そのこぼれを押し込まれた。「波多野の失点以外は全部ハマった」とは長谷川監督の弁だが、波多野にすれば柏の選手に押されたと主張したかったのだろう。 仕切り直しとなった後半、試合の流れは柏に傾いた。ポゼッション率を高め、際どいシュートを見舞ってFC東京ゴールを脅かす。このときの長谷川監督は「後半は押され気味の展開なので、どのタイミングで(アダイウトンと三田を)入れてパワーを引き出すか考えていた」という。 その分水嶺となったのが21分のプレーだ。FC東京はペナルティーエリア外22メートル付近でFKを獲得する。キッカーはレアンドロ。彼のシュートはゴールの角を痛打して右に外れた。直後の22分、「レアンドロのFKが外れたので入れようと思った」(長谷川監督)2人を投入し、4-2-3-1から永井とレアンドロの2トップによる4-4-2にシステムを変更。結果的にこれが奏功し、29分、永井がヘッドで前へ送ったボールに素早く反応したアダイウトンがトーキックで決勝点をもぎ取った。 ネルシーニョ監督も「我々のいい時間帯に一瞬、守備の集中が切れた」と悔やんだ失点で、33分には「なんとか同点に持ち込んで延長を狙って」三原、呉屋、神谷の3人を同時に投入し、4-2-3-1から4-4-2にして反撃を試みた。しかし効果的な攻撃を仕掛けることはできず、13年以来の戴冠はかなわなかった。 1都3県では緊急事態宣言も噂されるなかで行われたルヴァン杯決勝。政府は12月23日、観客動員を5000人以内と規制した。しかしチケットは即日完売しており、規制以前に発売されたチケットについては定員の上限が認められたため、国立競技場には2万4219人の観客が集まった。 そしてJリーグは東京五輪の開催に向けて、ルヴァン杯決勝では様々なテストを実施した。入場者全員の検温で「37.5度以上は1人もいませんでした」(村井チェアマン)ということだけでなく、スタンドやコンコースでは二酸化炭素(CO2)の濃度を測定したり、退出時は密にならないようメッセージを発したり、試合後に直接自宅へ帰ったか、飲食店に立ち寄ったのかGPSでの対策などを世界に発信した。 東京五輪・パラリンピックが無事に開催されるのかどうか現時点では不明だが、国立競技場で2試合を取材して感じた疑問がある。例えば記者席とワーキングルームのデスクは隣同士が密にならないようかなり離れた席割りになっている。さらに感染した際はどこに座っていたか特定できるよう、席に名前が張ってある。そしてそれはJリーグでも同じだったし、カメラマンも同様だ。それはファン・サポーターも同じで、座席を1つ空けて座るようになっている。 東京五輪・パラリンピックのチケットは19年に発売された。取材のために必要なIDカードも共同と時事の2大通信社と全国の新聞・スポーツ紙、NHKと民放各社、雑誌協会などに配布された。当然、海外のメディアにも配布されている。 現在、新型コロナのワクチンは急ピッチで開発されているが、東京五輪・パラリンピックに間に合ったとしても、通常通り開催できるかどうかは疑問だ。となると、現状のように観客は隣を空けて座り、記者席も同様の措置となるだろう。 となると、チケットを購入済みの席を空席にする必要が出てくるし、記者も制限される可能性がある。大会が近づけば、払い戻しの具体的な内容など詳細も決まってくるだろうし、取材に関しても何らかのアナウンスがあるだろうが、現時点では動きようがないのも事実で、それが一番悩ましくもある。 フリーの記者とカメラマンは五輪・パラリンピックの取材はできないが、次に国立競技場を取材で訪れるのはいつになるのだろうか。来年の天皇杯決勝まで機会がないなら、それはそれで寂しいものがある。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.01.06 22:15 Wed
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寝耳に大洪水のFIFAの思惑/六川亨の日本サッカーの歩み

今年も残すところあと2日になったが、クリスマスの25日にはとんでもないニュースが飛び込んできた。FIFA(国際サッカー連盟)は来年5~6月にインドネシアで開催予定のU-20W杯と、10月にペルーで開催予定だったU-17W杯の2大会の中止を決定した。 両大会とも2年延期し、23年にそれぞれの国で改めて開催する予定だという。 この一報を聞いたJFA(日本サッカー協会)の反町技術委員長は、同日14時から急きょリモートによる会見を開いた。 両大会の中止を聞いた瞬間は「正直な話、とんでもないクリスマスプレゼント」と受け止め、U-19日本代表候補がキャンプ中でもあるため、「寝耳に大洪水」だったと表現した。 今年の流行語大賞は新型コロナによる「3密」に決定したが、もしも新型コロナの影響がなく、もう少し早く「寝耳に大洪水」が発せられていれば、流行語大賞の候補になったのではないかと思ってしまう。 それだけ“反町語録"として残したい名言だし、その半分くらいの発信力が森保監督にあればとも思うが、こればかりはキャラクターだけに無理強いはできないだろう。 イギリスでは新型コロナの変異ウィルスが確認され、日本も海外からの帰国者が感染していることが28日に判明した。感染拡大は新たなフェーズに入ったかもしれないが、情報は圧倒的に不足している。 そうした中でFIFAがU-20とU-17のW杯を中止したのは当然の措置とも言える。 ただ、穿った見方をすれば、両大会ともFIFAの持ち出しによる赤字の大会だから、簡単に中止を決定できたとも推測できる。その一方で、来年2月と間近に迫ったクラブW杯については一向に中止のアナウンスが聞こえてこない。恐らくは簡単に中止できない諸事情がFIFAにはあるのだろうと勘ぐりたくなる。 今年は新型コロナにより、Jリーグは過密日程ながらも全試合を実施できた。一方ルヴァン杯は大会方式を変更しながらも、なんとか決勝までこぎ着けた。天皇杯も大幅な変更を余儀なくされつつ、J1勢同士による100回記念の決勝を残すのみとなった。いずれも関係者の努力の賜物と言っていい。 と同時に、これらに共通するのは放映権であり大会スポンサーとの契約などである。契約事項に守秘義務があるため詳細が明かされることはないが、試合や大会を“実施しなければ"違約金が生じてしまう可能性がある。それは日本だけでなくAFC(アジアサッカー連盟)も同じだろう。だからこそACLの形式を簡略化し、辞退するチームが出ても決勝戦を開催せざるを得なかった。 FIFAとしては、コンフェデレーションズカップがなくなったぶん、2月のクラブW杯で1年9ヶ月後のW杯のシミュレーションをしたいのだろう。なぜならFIFAの役員と世界各国から集められたW杯組織委員会のメンバーが一堂に会する機会は、これが最初で最後になりかねないからだ。 と同時に、新型コロナの変異ウィルスの感染拡大の危機がありながら、それでも来年2月にFIFA主催の国際大会を開催することに、逆にFIFAの焦りを感じてしまう。クラブW杯は将来的に24チームに拡大する予定だが、そのために中国企業とどのようなスポンサー契約を交わしているのか。気になるのは私だけだろうか。 反町技術委員長は、国際大会こそ中止になったもののアジア選手権、W杯のアジア予選が中止になったとAFCから連絡はないので、そのための強化を粛々と進めるという。FIFAがW杯を中止するくらいだから、AFCも同じ判断を下す可能性が高いだろう。それでも技術委員長としては「強化の歩みをストップさせてはいけない」と準備を進めるしかない。 同じことは今後U-15日本代表にも当てはまるだろうし、W杯アジア2次予選にも影響が及ぶかもしれないが、現状は先がまったく読めない状況だ。 個人的な意見としては、日本代表(女子も含め)からアンダーカテゴリーまで、韓国や中国、オーストラリアなど近隣諸国とのテストマッチの回数を増やしてはどうだろう。いずれもアジア予選では日本に立ち塞がるライバルだし、コロナの影響を避けながらマッチメイクすることも可能だと思う。 改めて近隣のライバルと切磋琢磨する絶好の機会と思うのだが、いかがだろうか。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.12.30 22:00 Wed
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中村憲剛と等々力の関係/六川亨の日本サッカーの歩み

Jリーグは12月22日のアウォーズで今シーズンのMVPなど各賞の受賞者を発表した。ベストイレブンには川崎FからGK、DF、MFの9人が選出されたものの、MVPはオルンガが得点王とのダブル受賞に輝いた。優勝した川崎Fだが、誰か1人をMVPに選出するのは逆に難しかったのかもしれない。 とはいえ、まだ柏は1月4日のルヴァン杯決勝を残しているし、昨日21日は等々力陸上競技場で中村憲剛の引退セレモニーが行われたものの、天皇杯の準決勝と決勝が残っているだけに、こちらも“引退”のイメージが沸きにくい。 それでも中村の「みんなが言ってくれたが、『ありがとう』を言いたいのは僕のほう。なんでもない大学生を拾ってくれたフロンターレに感謝しかない。最高のプロサッカー人生でした。みんなに会えて良かった」との言葉には実感がこもっていたし、飾り気のない中村らしい別れの挨拶だった。 都立久留米高校時代は山口隆文監督(現JFA技術委員指導者養成ダイレクター)の指導を受け、中央大学を経て川崎に加入後、その才能が開花したのは周知の事実。彼以外にも東京都出身のJリーガーは数多いるし、日本代表(FC東京と東京V出身が多い)も多いが、都立高校サッカー部出身の日本代表は中村くらいではないだろうか(近年では橋本拳人が途中まで都立高校に在籍も、サッカーはFC東京でプレー)。 そんな中村と川崎(等々力)との出会いには感慨深いものがある。中村が川崎に加入したのは03年だが、3年前まで等々力はヴェルディ川崎のホームだった。 Jリーグの初代チェアマンである川淵三郎は、チーム名から企業名を外すことと東京都をホームタウンにすることを禁じた。JSL(日本サッカーリーグ)時代は国立競技場と西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)、駒沢陸上競技場などをホームにしていた“丸の内グループ”の三菱と日立は行き場所を失い、読売サッカークラブも等々力をホームにすることでチームの呼称をヴェルディ川崎に変更した(読売新聞などは読売ヴェルディと表記して抵抗)。 ヴェルディと等々力は「不幸な結婚」だったかもしれない。当時は人気絶頂だったチームの要求に応じて観客席の増築などを行った。しかし人気に陰りが見え、観客動員も頭打ちになった99年には親会社の撤退により、経営立て直しのため東京への移転を計画。01年に川崎市から東京都に移り(東京をホームにすることが認められ)、呼称を東京ヴェルディ1969に変更し、東京スタジアム(現味の素スタジアム)をホームスタジアムにした。 一方川崎フロンターレの前身は富士通サッカー部で、古くは富士通川崎工場の従業員らが母体となって発足した歴史を持つだけに、元々川崎とは縁があった。Jリーグ参入を見据えた96年に富士通川崎FCに改称し、97年には準会員となり、名称も公募により川崎フロンターレとなった。そして99年に発足したJ2リーグに参加したことで、川崎市もフロンターレを支援することになる。 00年にフロンターレがJ1に昇格したことで、ヴェルディとの“川崎ダービー”が実現した。だが01年にヴェルディは東京へ移転し、フロンターレもJ2へ降格すると4シーズンをJ2リーグで過ごすことになる。そんな過渡期の03年に中村はフロンターレの一員となった。 この03年は中村以外にも錚錚たるメンバーが加入している。スピードスターのFWジュニーニョ、大型ストライカーの我那覇和樹、レフティーのSBアウグストらだ。翌04年も鹿島から相馬直樹、新潟からJ2得点王のマルクスを獲得し、J1復帰を果たす。 以来、中村は川崎の歴史とともにサッカー人生を歩んできた。試合での活躍はもちろん、地域密着のために様々な活動に参加してきたことは、ファンもよく知っているはずだ。憲剛にとって残された唯一のタイトルを掲げることができるのか。元日決戦の見所と言っていいだろう。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.12.23 22:40 Wed
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