U-23アジア選手権で森保監督は前回大会ベスト8/六川亨の日本サッカーの歩み

2020.01.22 21:30 Wed
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タイのバンコクで開催中のU-23アジア選手権もベスト4が出揃い、準決勝の組み合わせはオーストラリア対韓国、サウジアラビア対ウズベキスタンと、日本をのぞけば順当な顔合わせとなった。グループリーグ敗退から約1週間が過ぎ、ようやく森保監督の責任を問う声も沈静化したようである。さて今回は、あまり紹介されることのなかった前回の2018年大会を振り返ってみたい。18年1月に中国で開催された大会は、森保監督が指揮を執り、日本はU-21世代で大会に臨んだ。

森保監督が日本代表とU-23日本代表の監督に、正式に就任したのは18年のロシアW杯後である。しかし、その半年前に東京五輪世代の監督に就任し、主力となるであろうU-21日本を立ち上げたのは、すでにロシアW杯後の代表監督兼任が“規定路線”であったことがうかがえる。

大会に参加したメンバーも、GK小島亨介(当時は早稲田大)、DF立田悠悟(清水)、古賀太陽(柏)、MF森島司(広島)、遠藤渓太(横浜F・M)、FW旗手怜央(順天堂大)、田川亨介(鳥栖)らは2年後の大会にも招集された。

恐らく誤算だったのは、中国大会に参加した板倉滉(当時仙台)、三好康児(当時札幌)、前田大然(当時松本。大会前に離脱)らが海外移籍したため今大会に招集できなかったことだろう。

それでも中国での大会では、パレスチナ、タイ、北朝鮮とのグループリーグを3戦全勝と余裕で突破してベスト8に進出した。

残念ながら準々決勝で優勝したウズベキスタンに0-4で完敗したが、ウズベキスタンは準決勝でも延長戦ながら韓国を4-1と圧倒し、決勝戦も延長戦に入ったもののベトナムを2-1で下して初優勝を遂げた。当時の年代では“最強”を印象づけた躍進でもあった。

ちなみに得点王は6ゴールをあげてカタールの3位に貢献した、スーダン生まれのFWアリモエズ・アリである。1年後のアジアカップ決勝では日本戦で1ゴールを決め、通算9ゴールと大会新記録で得点王とMVPを獲得した。アジアカップでの活躍を記憶している読者も多いのではないだろうか。

あれから2年が過ぎ、日本も含めてメンバーは入れ替わった。今大会でベスト4に進出したオーストラリア、サウジアラビアに加え、ベスト8のシリアとタイも2年前の大会ではグループリーグで敗退している。年齢制限があるがためのチーム作りの難しさに加え、五輪の出場権がかかっていないため、参加国の姿勢に温度差があったことも波乱の一因だろう。

とはいえ、日本は2年後を見据えてアンダーカテゴリーの強化を重ねてきた。久保建英はともかく、安部裕葵らが海外移籍して招集できなかったのは誤算だっただろう。それでも森保ジャパンはグループリーグ突破という最低限のノルマさえ達成できなかった。ここらあたりの検証を、技術委員会にはしっかりとして欲しいものである。


【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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スコアレスドローでもメリットのあったカメルーン戦/六川亨の日本サッカーの歩み

先週9日の日本対カメルーン戦は、これといった見せ場もないまま0-0のドローに終わった。両チームとも1年ぶりの代表マッチのせいもあるが、そもそも日本に限らず代表戦に好ゲームを期待するのは間違いである。 年間の活動は3、6、9、10、11月の5ヶ月に限られ、さらにIMD(国際マッチデー)は2週間しかない。このため週末と週中の2試合と、その前後の3~4日しか練習時間は取れない。ここに日本のように海外からの移動を含めれば、練習時間はさらに限られる。 これでは「コンビネーションの熟成」をしている時間などほとんどない。そこに今回はコロナが追い打ちをかけた格好だが、海外組によるヨーロッパでの試合は0-0のドローとはいえメリットも少なくなかった。 まず両チームとも(ケガ人を除けば)コンディションが良かった。日本で親善試合を開催する際は、来日するチームはもちろんのこと、日本の主力選手も海外から参戦するのでコンディションがいいとはとても言えない。各国のリーグ戦のスケジュールにもよるが、試合前日に帰国する選手がいたりする。これでは1試合しか出場できず、結果としてコンディションを崩すために来日したようなものだ。 さらに対戦相手にしても、2年前の9月から始まった欧州ネイションズリーグ(偶数年に開催)のため、日本は“客を呼べる”ヨーロッパ勢を招待することはできなくなった。森保ジャパンにしても南米や北中米の国々との対戦ばかり。さらにこれは森保ジャパンに限らず、それ以前から親善試合に来日するチームはコンディションが万全ではないこともあり、手を抜くこともしばしばだった。 そんな相手に、例え大勝しても強化に役立ったかと言えば首をひねらざるを得ない。実際、日本はカメルーンと過去3勝1分けだが、ガチンコ勝負だったのは2010年南アW杯のグループリーグ(本田の決勝点で1-0)くらい。残りの3試合はいずれも日本で開催されたものだった(2001年のコンフェデ杯と03年と07年のキリン杯)。 しかし今回の対戦では、選手も全員がヨーロッパでプレーしており、なおかつ遠い極東での試合ではなくヨーロッパということで多少は注目度もアップしたのだろう。後半25分過ぎに運動量が落ちて日本の反撃を許したものの、それまではサポートの早さと的確さで複数のパスコースを作り、ショートパスをつないで日本を苦しめた。 ボールを失えば、すぐに攻守を切り替えて奪いに来る。ヨーロッパのサッカーのスタンダードを実践するあたり、彼らの本気度がうかがえた。ポルトガル人のコンセイソン監督は「11月にアフリカ・ネーションズ杯の予選でモザンビークと戦うための準備」と日本戦を位置づけていたが、その言葉通り「個の力」に頼らない洗練されたサッカーを披露した。 そんなカメルーンに対し、日本はボールポゼッションで劣勢に立たされたが、それこそ森保監督が望んだシチュエーションだったはずだ。準優勝に終わった去年1月のアジア杯、グループリーグで敗退した今年1月のUー23アジア選手権でも、森保ジャパンはボールポゼッションでアジア諸国に劣勢を強いられた。それだけアジア各国のレベルが上がっていることの裏返しでもあるだろう。 と同時に、それでもアジア杯では勝利を収めて決勝まで勝ち進んだ。サッカーはゴールを競うスポーツのため、日本はもうアジアにおいてもボールポゼッションにこだわる必要はないと個人的に感じている。劣勢の試合であってもいかに結果を出すか。そのために必要なのがショートカウンターであり、セットプレーの精度である。 こうした視点から試合を分析すれば、ヨーロッパでのマッチメイクはW杯を想定した格好のテストの場である。そして相手CBのミスから伊東が右サイドを突破し、大迫の放ったヘディングシュートや、右CKから吉田のヘッド、あるいは終了間際の久保の直接FKが決まっていれば3-1の勝利を収めただろう。 前述したように、代表チームの練習時間は限られている。コンビネーションを熟成する時間はほぼないと言っても過言ではないだろう。このため集合したら、意思の疎通――カウンターの意識付けーーを図ることと、セットプレーの確認くらいしかできないのが現実である。 では、カメルーン戦で3-1の勝利を収めていたら手放しで喜んだかというと、たぶんこちらも否定しただろう。例えば「結果だけで内容のない勝利」と。「結局ケチをつけたいだけなのか」と言われてしまうと返す言葉もないのだが……。 海外組に限らず国内組のトップレベルの選手も、状況に応じて選択しなければならないプレーは理解していると思われる。さらに戦い慣れたポジション以外にも複数のポジションでプレーできる柔軟さもある。あとは球際の激しさ、フィジカルコンタクトの慣れということになるだろう そうした上で、「違いを生み出せる特別な選手」がいる。それが中島であり久保であり、最近は三笘だと思っている。「個の力」で突破できるのはもちろんだが、中島は日本の攻撃のスイッチを入れるだけでなく、南野や堂安の輝きも引き出せる。 久保は、右サイドでプレーした際に、堂安と違いカットインだけでなくタテへの突破がある。さらにセンターでも左でもプレーできるフレキシブルな選手だ。彼らが両サイドに位置することで、システムに関係なく攻撃の選択肢は広がるだろう。この2人に加えて、三笘も得意のドリブルがどこまで通用するのか見てみたい選手である。 国内組の三笘は別の機会に譲り、中島は今回招集されていない。となると「違いを生み出せる」のは久保しかいない。コートジボワール戦では彼がスタメン起用されることと、どんな違いを生み出すのかに期待してキックオフを待ちたい。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.10.13 08:50 Tue
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ルヴァン杯で川崎FとFC東京が激突/六川亨の日本サッカーの歩み

JリーグとNPB(日本野球機構)による第17回の対策連絡会議が5日に行われ、入場者の規制緩和に伴い、感染の防止に加え、マスギャザリング(特定の場所に人々が集中するイベントの再開)と疫学(病気の流行を除去)の専門家をオブザーバーに加えた会議を開催した。 菅新内閣は経済活性化のためGO TO〜の様々な施策を打ち出しており、イベントでも50%の入場を許可するなど規制を緩和した(Jリーグは30%でスタート)。ただし、それがいつ70%になり100%になるのかは誰もわからない。 そこで座長の賀来満夫(東北医科薬科大学)ドクターは、「70%になったらどうするか。(クラシック)コンサートなどは話さないので70%を越えているが、スポーツはそうはいかない。しかし応援でも声を出さなければ70%にチャレンジしていくことも必要ではないか」と話し、「観客の行動が決める」との見解を示した。 同様に三鴨廣繁(愛知医科大学)ドクターも「プロ野球とJリーグはここまで順調に来ています。関係者の努力の賜物で、この取り組みを日本は2021年に東京五輪とパラリンピックを控えているので、こちらにつながると確信している。疫学などの専門家と前向きな議論をできると期待しています」と新たな局面に入りつつあることを示唆した。 果たして東京五輪・パラリンピックで海外から訪れた観戦者が、日本のルールを守るかどうか。違反しても、いまのところ退場してもらうか、次回の入場を断るぐらいしか罰則はないだけに、余計なお世話だが気になってしまう。 そして面白いデータもあった。オーストラリアやブラジルなど南半球はこれから夏を迎える。ということは、すでに冬は過ぎ、いまは春といったところだが、今冬のオーストラリアはインフルエンザが流行しなかったそうだ。 その原因としては、マスクと手洗いを徹底したことが1つ。インフルエンザは吐く息から感染すると2年前から言われているそうで、そのためマスクが効果的だったのではないかと推測されている。そしてもう1つが、ウイルス同士が干渉しつつ、インフルエンザには基礎免疫があり感染予防につながったが、コロナにはそれがないのでオーストラリアでも感染を抑えきれなかったのではないかと見られている。 ちなみにインフルエンザのワクチンは、感染を防ぐのではなく重症化を防ぐのが目的で、効果は40%ということも初めて知った。 さて今週のもう1つのテーマが、ルヴァン杯準決勝の川崎F対FC東京戦だ。すでにリーグ戦は川崎Fが独走態勢に入っており、2年ぶり3度目の優勝は確実ではないだろうか。2位に浮上したFC東京とは勝点12差だが、FC東京はACLの関係で2試合多く消化している。この6勝点を加えると18差。川崎Fは残り13試合で6連敗してFC東京と同勝点になるという「ありえない」展開だ。 このため他の上位チームは天皇杯の出場権を獲得できる2位か、来シーズンのACLの出場圏を獲得できる3位以内がリーグ戦の現実的な目標となるだろう。ただし、一発勝負のルヴァン杯は別物――そう考えているのが準決勝で激突するFC東京の長谷川監督である。 話は9月下旬に遡る。苦手の仙台に1-0、優勝争いのライバルC大阪に2-0と勝った後の26日、15位の鳥栖戦を前にリモート会見に臨んだ長谷川監督は、ルヴァン杯を見据えたローテーションを採用するかという質問に「どういう使い方をするか、見ていただければわかると思います」と答えた。 その鳥栖戦、CB森重こそ累積警告で出場停止だったが、左SBにJ1初出場のバングーナガンデ佳史扶をスタメン起用したほか、永井とレアンドロもベンチスタートとスタメンを入れ替えてきた。そして結果は0-3の完敗。「結果がすべて」と敗れた指揮官は多くを語らなかった。 続く30日の浦和戦は、森重と左SB小川が戻り、永井とレアンドロもスタメンに復帰(ディエゴ・オリベイラは累積警告で出場停止)、9月12日の神戸戦で負傷離脱した高萩も5試合ぶりにベンチへ戻った。試合は永井の決勝点で1-0の勝利を収めた。そしてFC東京が埼玉スタジアムで勝利を奪ったのは、2003年7月以来13年ぶりの快挙でもあった。 FC東京が初めて浦和と対戦したのは2001年のこと。前年にJ1へ昇格したものの、入れ違いに浦和がJ2に降格したため2000年は対戦がなかった。そして初対戦はまだ日韓W杯前ということで、埼玉スタジアムは未完成(01年10月に完成)のため浦和駒場での対戦となった。 4月14日の初対戦を呂比須ワグナーなどのゴールで3-1の勝利を飾ると、2002年は3万人の観衆の前で1-0の勝利を奪った。さらに翌2003年もケリーのゴールで1-0と3連勝したが、ここからFC東京は長いトンネルに入った。 3連勝のあとは7連敗と苦手にし、12年と13年は2試合とも2-2のドローに持ち込むも、そこからまた5連敗で、昨シーズンも勝利を目前にしながらアディショナルタイムの森脇のゴールで1-1のタイスコアに終わった。それだけに、この浦和戦の勝利は上位争いに加わる意味でも価値のある勝点3だった。 そして迎えた4日の湘南戦、相手がいくら最下位とはいえ、スタメンを見て驚いた。スタメン11人を入れ替え、GK波多野(今シーズンは3試合出場。以下同)、CB丹羽(1)、ジョアン・オマリ(6)、左SBバングーナガンデ佳史扶(1)、品田(6)と一桁出場が5人。サブに至っては田川(12)以外の4人がJ1出場0で、CB木村が2、MF平川が1という顔ぶれだった。 それでもアダイウトンのゴールで1-0の勝利を収め、さらに長谷川監督は2人目となるJ1通算200勝を達成した。ただし200勝も通過点に過ぎないだろう。すべては7日の川崎F戦に照準を絞ってきたからだ。 一方の川崎Fの鬼木監督も、3日のC大阪戦ではレアンドロ・ダミアンと三笘をベンチに温存するなど余裕の采配を見せた。両チームとも攻撃陣には個の力で突破できるタレントが揃っているだけに、気の抜けない試合になることは間違いないだろう。名勝負を期待して7日を待ちたい。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.10.06 14:00 Tue
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浦和戦勝利で思い出した横浜FC昔話/六川亨の日本サッカーの歩み

9月23日のJ1リーグ第18節、アウェーで川崎Fと対戦した横浜FCは、敗れたものの2-3と大善戦だった。それまで浦和を3-0、広島を5-1と粉砕してきたのだから、横浜FC戦も大差の勝利を収めると予想された。 しかし結果は3-2の僅差で、一時は2-1と追い上げられる展開を強いられた。今シーズン初めて「キング・カズ」がスタメンに名を連ね、さらに中村俊、松井のベテランもそろい踏み。そんな横浜FCを鬼木監督は「ああいう選手たちがいると、それだけでプレッシャーになったと思う」と脅威に感じたことを素直に認めつつ、「そういう意味で、受けずにアグレッシブに行かないといけないと改めて思う」と反省した。 カズ(三浦知良)、中村俊輔、松井大輔――改めて一時代を築いた3選手のスタメン出場に、横浜FCのオールドファンは14年前の06年を思い出したのではないだろうか。 05年に横浜FCの監督に就任した足達氏は、シーズンを11位で終えた。迎えた06年、開幕戦で愛媛に0-1と敗れた横浜FCのフロントは、わずか1試合で足達監督を解任した。開幕戦後のスピード解任は今でもJリーグの最短記録である。 後任監督にはコーチだった高木氏(現大宮監督)が就任すると、高木監督はベテランを要所に配し、守備重視のサッカーで見事初のJ1昇格を果たした。その原動力となったのが、カズであり、彼と2トップを組んだ城彰二(キャプテンを務め、06年で現役を引退)であり、ボランチの山口素弘とCBの小村徳男だった。 そして07年、初めてのJ1リーグに挑むに当たり、フロントはさらなる補強に動いた。横浜Mから久保竜彦と奥大介(故人)の元日本代表FWを獲得したのだ。横浜FCは開幕戦となったアウェー浦和戦は1-2で敗れたが、久保が得意の左足で超ロングシュートを決めたのは今でも語り草になっている。 この07年は、最終節でもドラマが待ち受けていた。5月26日、第13節のホーム大分戦に2-1で勝って以降は勝利から見放され、その後の20試合は3分け17敗という惨憺たる成績だった。このため8月28日に高木監督を解任し、ジュリオレアル新監督を迎えたが、前述したように一向に成績は上向かない。 10月20日の神戸戦にも0-3で敗れ、残り5試合でJ2降格が決まる。これは当時最速の降格決定だった。 そして最終戦の相手は優勝争いを演じている浦和だった。一時は独走態勢にあった浦和だが、第30節終了時点であと1勝すればリーグ連覇という状況で3試合連続のドローと足踏みをしていた。その間に鹿島に追い上げられ、勝点1差に詰められたものの、勝てば自力優勝が決まるという有利な状況に変わりはなかった。まして相手はJ2降格が決まってモチベーションの低下している横浜FCである。誰もが浦和の優勝は確実と思った。 ところが試合はカズのスルーパスから根占真伍(東京Vからレンタル移籍)が決勝点を奪って見せる。試合はこのまま終了し、清水を3-0で下した鹿島が6年ぶり5度目のリーグ制覇を達成。連覇を逃した浦和は、これ以降リーグタイトルから遠ざかっている。 歴史は繰り返すのか、川崎Fに2-3と善戦した3日後の9月26日、横浜FCはアウェーで浦和と対戦した。さすがに中2日ということでベテラン3人はベンチからも外れたが、仙台大卒のルーキー松尾が2ゴールを奪い、今シーズン6勝目をあげた。 彼だけでなく、DF袴田やボランチの安永、ユース出身FWの斉藤光毅らは初のJ1で試合を重ねるたびに自信を深めているように感じられる。今後もどのようなサプライズを起こすのか。超ベテランと若手を巧みに操る下平監督の手腕にも注目したい。もちろん期待したいのは、カズダンスと中村俊の直接FK、松井のアクロバティックなゴールであることは言うまでもない。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.29 11:00 Tue
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家長昭博と木村和司氏のひらめき/六川亨の日本サッカーの歩み

川崎Fの勢いが止まらない。アウェーの浦和戦も3-0の完勝で連勝を5に延ばし、前日に2位のC大阪が鹿島に1-2と敗れたため、18試合を消化して勝点差は8に開いた。驚異的なのは、5試合とも攻撃陣が爆発して3ゴール以上奪っていることだ。18試合の総得点も55で、1試合平均3ゴールという高いアベレージを誇っている。 そして凄いのは数字だけではない。浦和戦の先制点は右サイドでボールを持った家長が、フワリと意図的に浮き球のラストパスを送り、右SB山根がボレーで決めたもの。敵に囲まれた家長に、一見するとパスコースはなかった。もしもグラウンダーのパスなら間違いなくカットされていただろう。 そこで家長は右足で掬うようにボールを浮かせ、山根に「ボレーして下さい」とでも言っているかのようなラストパスを送った。この瞬間的なひらめきによる芸術的なパスは、今後も家長のプレーを語る際に繰り返し登場するのではないだろうか。 そして、このパスを確実に決めた山根も冷静だった。普通なら、予測不能なパスに慌ててしまい、シュートを力むこともある。しかし山根は「素晴らしいボールが来たので、力を抜いて枠に打った」と自然体でのプレーだったと振り返った。これはこれで、力を抜いて打った山根も凄かった。 「狙って何回もできるものじゃない」とは山根の本音だろうが、「力を抜いて枠に打つ」というボレーシュートの基本に忠実なプレーが鮮やかなゴールに結びついた。 この「力を抜いて枠に打つ」というプレーだが、口で言うのは簡単でも実際にプレーするとなるとなかなか実践できないのがサッカーの難しいところでもある。 先週のNHKのBS放送によるJ1リーグ中継の1場面だった。横浜M対C大阪戦で、横浜Mが直接FKを獲得した時のことだ。アナウンサーが解説者の木村和司氏に「どこを狙いますか」と聞いたところ、木村氏は平然と「ゴールの枠の中ですね」と答えた。 するとアナウンサーはマイクを前に二の句を告げず、沈黙したまま次のプレーに移った。 アナウンサーからしてみれば、「壁の右上」とか「壁の左にスペースがあるので、そこをグラウンダーで狙ったら」といったように、具体的な答を予想していたのだろう。しかし木村氏からは「ゴールの枠の中」という、聞きようによっては極めて当たり前の答えに絶句してしまったのかもしれない。 現役時代はFKの名手として対戦相手に恐れられ、日本代表では85年10月26日のメキシコW杯アジア最終予選の韓国戦で決めた直接FKは、今もファンの間で語り草になっている。曲がりながら落ちるFKを得意としていた木村氏だが、そんな木村氏からしてみれば、シュートは「ゴールの枠」に飛ばさなければ、いくら打っても点にならない。「ゴールの枠」を狙うのは当たり前のことであり、そのプロセスとしてどのコースを選択するかということになるのだろう。 個人的にも、リップサービスのあまり得意ではない木村さんらしいコメントの数々に、個性と同時に天才的プレーヤーの感性(ひらめき)を感じずにはいられなかった。 これは余談だが、辛口解説でお馴染みのセルジオ越後氏がまだ現役(?)というか、サッカーの指導者で全国を回っていた時のエピソードである。「クロスバーね」と言ってペナルティーエリアの外からボールを蹴ると本当にバーに当てる。「右ポストね」と言っても同じだ。 そこで直接FKの秘訣を聞いたところ、返ってきた答えが次のようなものだった。 「壁を越えて落とそうとか、壁の横を巻いて曲げようと考えるから失敗するのね。壁があっても、クロスバーやゴールポストは見えているでしょ。だからバーやポストを狙えばいい。当たって内側に入ればGKは取れないし、もしも直接決まらなくても跳ね返れば味方が決めるチャンスが残るでしょ。バーを越えたらその瞬間にノーチャンスなんだから」 こうした発想をするサッカー関係者は、当時の日本サッカー界にはいなかった。月に1回、専門誌で連載していた「セルジオ越後のさわやかサッカー教室」の取材の際に聞く話があまりにも面白いので、いっそこれを連載にしようということになった。 そこでJリーグの誕生を契機に始まったのが「セルジオ越後の天国と地獄」(サッカーダイジェストさん)というコラムである。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.22 18:45 Tue
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Jリーグは来季よりユニの背番号を統一/六川亨の日本サッカーの歩み

ステイホームの続く毎日だが、久しぶりに慌ただしい一日だった。10時に某週刊誌に内田篤人のロールモデルコーチ就任についてコメントを求められた。11時からは、明日J1リーグの試合を控えるJクラブの監督のweb会見に続いて、若手2選手の会見取材を終了する。 13時30分からは、今年のルヴァン杯の準決勝から取材の申請方法が変更されるので、その詳細に関してレクチャーを受けた。これまでもJリーグの取材はネットから申請していたものの、そのシステムも導入して10年が過ぎた。このため来シーズンからリニューアルされるので、たまたま今年のルヴァン杯は勝ち残っているのが首都圏の4チーム(川崎F、FC東京、横浜M、柏)のため、首都圏のメディアを対象に説明会が開催されたのだった。 その取材中にJFA(日本サッカー協会)からメールが届き、15時から急きょ森保一監督の会見を実施するというアナウンスがあった。先週は反町技術委員長が、10月に日本代表がオランダ遠征を行い、カメルーンとコートジボワールと対戦することを発表したばかり。それを受けての森保監督の会見だった。 そして締めは17時からの、Jリーグ定例実行委員会後の記者会見だ。さすがに1日4本のリモート会見になると肩も凝ってきた。 そうした様々なトピックスの中で「やっと」と思ったのが、Jリーグのユニホームの背番号のデザインとカラーの変更および統一だ。 どのようなコンセプトのもと、どういうデザインとカラーに変更されたのかは、当サイトでも詳しく紹介しているのでそちらをご覧いただきたい。 Jリーグのユニホームの色やデザインに関しては、遙か昔、Jリーグが誕生する前に一度統一されたことがあった。それまでのJSL(日本サッカーリーグ)時代は、例えば三菱(後の浦和)はプーマ(リーベルマン社)、ヤンマー(後のC大阪)ならアディダス(デサント社)と言った具合に(アシックスを採用しているチームももちろんあった)、各チームがそれぞれメーカーと個別に契約していた。 しかしJリーグの誕生にあたり、サッカー界では後発だったミズノ社が、J1全10チームのユニホームを一括してデザインから作製まで請け負い、なおかつJリーグに年間2億円の協賛金を支払うというオファーを出した。契約は3年間なので、計6億円になる。 当時、プーマ、アディダス、アシックスの3社は年度ごとに輪番で日本代表のオフィシャル・サプライヤーを務めていたが、年間の協賛金は1千500万円ほど。3社が束になってもミズノの提示した億という金額には届かなかった(日本代表のオフィシャル・サプライヤーは前述の3社の輪番で98―99シーズンまで続いたものの、ナイキ社の出現により99年に崩れた)。 カラーに関しても、それまでは会社のカラーをユニホームに採用しているチームが多かった。しかし、それだとレッドとブルーのチームばかりになってしまう。そこでJリーグは重ならないように、「静岡の名産はみかんなんだから、清水はオレンジでどうですか」と提案したり、「紫は高貴な色なんですよ」と広島を説得したりして10チームの色分けを半ば強引に実施した。 このチームカラーに関しては、もはや各クラブの伝統になりつつあるようだ。 そして当時のユニホームはデザイン優先だったから、背中の背番号はかなり見にくかった。鹿島の背番号は流線的なデザインだったため「3」と「5」が判別しにくかったし、加えて当時のJリーグの背番号はプレミアリーグを真似て、個人の固定番号制(97年に変更)ではなく、スタメンは1番から11番までと決まっていた。 当然、ユニホームに個人名は入っていないし、鹿島の「10」番はジーコだけでなく、彼が不在の時は石井(正忠。元鹿島監督)が着けるなど、試合によってバラバラだった。 その後は各チームとも紆余曲折を経て現在に至っているが、それでも年度によってデザインをリニューアルした際は、背番号がかなり見にくいチームもあった。似たような色で背番号がユニホームに溶け込んでいたり、縦縞のため部分的に色が飛んでいたりして、逆光になったらほとんど判読不能なチームもあった。 新デザインとカラーでは、縁取りをしつつ、それでも見づらい場合は色の違うゼッケンのようなもの(業界用語で「ざぶとん」と言うそうだ)を下に敷いて視認性を高めることもあるという。これなら縦縞のユニホームでも見やすくなるだろう。 テレビからパソコン、タブレット、スマホとJリーグの視聴環境も時代の変化に合わせて多様化している。そうした動きに連動する今回の改革案。Jリーグはコロナ禍でも歩みを止めないという一例と言えるだろう。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】<br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.15 21:50 Tue
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