【平成史に残るレジェンドチーム50選】vol.16“カップ・トレブル”フリートランスファーが大当たり/リバプール[2000-01]
2019.04.11 12:00 Thu
1989年1月8日に日本で始まった「平成」。日本では31年にわたって使用されてきたが、2019年4月30日をもってその時代が終わりを告げる。
日本サッカーにおいても激動の時代であった「平成」だが、目をヨーロッパに向け、同じ時代で印象に残ったレジェンドチームを超ワールドサッカー編集部が選出。記憶や記録に残る50チームを紹介していく。
1980年代に“ヘイゼルの悲劇”(1985年のチャンピオンズカップ決勝、ユベントス戦での群集事故)と“ヒルズボロの悲劇”(1989年のFAカップ決勝、ノッティンガム戦での群集事故)という2つの大きな悲劇を経験したリバプールは、1990年代に入ると低迷した。ヘイゼルの悲劇では、7年にわたる国際試合からの締め出し処分を受けたこともあり、名門・リバプールは桧舞台から姿を消していった。
それでも、リバプールはリーグ制覇こそ1989-90シーズン以来いまだに達成していないが、徐々に国際舞台での存在感を示していく。特に、2000-01シーズンには大きく復活をアピールした。1998年にリバプールの指揮官に就任したフランス人のジェラール・ウリエは、初めの2シーズンを無冠で終えたが、直実にチーム力を上げていった。
すると、ウリエ体制3年目となる2000-01シーズンにチームは成功を手にする。プレミアリーグでこそマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルの後塵を拝する形で3位に終わったものの、CL以降後は初めてとなる欧州最高峰の舞台への切符を手にする。そして、このシーズンのリバプールが本領を発揮したのはカップ戦だった。
まず、ワージントンカップ決勝でバーミンガムを下して、1994-95シーズンの同大会以来となる主要タイトルを獲得すると、FAカップでも躍進。リーズやマンチェスター・シティを退けて進出した決勝では、アーセナルを相手にオーウェンが2ゴールを挙げる活躍を披露し、2冠を達成する。さらに、UEFAカップでは決勝トーナメントでローマやポルト、バルセロナといった名門を撃破。アラベスとの決勝では打ち合いとなると、試合終了間際の89分にジョルディ・クライフにゴールを奪われて、4-4とされる苦しい展開を強いられる。それでも、延長戦をオウンゴールによって5-4で制して、見事に1983-84シーズンのチャンピオンズカップ以来となる国際タイトル獲得に輝いた。
守護神は、ネームバリューこそないものの、抜群のショットストップ能力を備えるオランダ人のヴェスターフェルトが君臨。守備陣は、アンショズ&ヒューピアという屈強なフィジカルを持つ両名を中心に、このシーズンにフリーで加入したバッベルとキャラガーが両サイドバックとしてライン際を駆け上がった。
中盤は、当時から素晴らしいボックストゥボックスプレイヤーだったジェラードと共に、安定の守備能力と強烈なミドルシュートが売りの長身MFハマンが底を固める。機敏でユーティリティなマーフィーやバーンビー、直線的な仕掛けが持ち味のスミチェルなども在籍しており、多士済々のアタッカー陣だった。
また、基本的にはフラットな中盤を採用していたが、コベントリーから獲得したマカリスターがピッチに入る場合は、彼をトップ下とした[4-3-1-2]も活用。リトマネンも含め、彼らはフリーで獲得した選手だったが、ベテランらしい狡猾なプレーと熟練されたテクニックを披露し、カップ・トレブルに貢献した。
そして、前線も他クラブが羨むような陣容だった。軸は、オーウェン&ヘスキーのイングランド代表コンビ。空中戦が強いヘスキーと、スピードとアジリティ、決定力を備えるオーウェンは理想のコンビとして名を馳せ、2人で計38を記録した。また、“ゴッド”ファウラーも現役でプレーしており、さすがのテクニックでゴールを陥れた。
MFスティーブン・ジェラード(20)
リバプールの象徴。20歳だった当時の2000-01シーズンは、背番号を28から17に変更し、完全にレギュラーを獲得した初めてのシーズンだった。このシーズンは、公式戦50試合に出場し10ゴールを記録。プレミアリーグでは、PFA年間最優秀若手選手賞を獲得し、将来を約束されている存在として認知された。
日本サッカーにおいても激動の時代であった「平成」だが、目をヨーロッパに向け、同じ時代で印象に残ったレジェンドチームを超ワールドサッカー編集部が選出。記憶や記録に残る50チームを紹介していく。
vol.16
2000-2001シーズン/リバプール
〜カップ・トレブル〜
(C)CWS Brians,LTD.
監督:ジェラール・ウリエ(54)
獲得タイトル: UEFAカップ、FAカップ、リーグカップ
攻撃力8:★★★★★★★★☆☆
守備力7:★★★★★★★☆☆☆
タレント7:★★★★★★★☆☆☆
連係9:★★★★★★★★★☆
選手層7:★★★★★★★☆☆☆
カップ・トレブル
1980年代に“ヘイゼルの悲劇”(1985年のチャンピオンズカップ決勝、ユベントス戦での群集事故)と“ヒルズボロの悲劇”(1989年のFAカップ決勝、ノッティンガム戦での群集事故)という2つの大きな悲劇を経験したリバプールは、1990年代に入ると低迷した。ヘイゼルの悲劇では、7年にわたる国際試合からの締め出し処分を受けたこともあり、名門・リバプールは桧舞台から姿を消していった。
すると、ウリエ体制3年目となる2000-01シーズンにチームは成功を手にする。プレミアリーグでこそマンチェスター・ユナイテッドとアーセナルの後塵を拝する形で3位に終わったものの、CL以降後は初めてとなる欧州最高峰の舞台への切符を手にする。そして、このシーズンのリバプールが本領を発揮したのはカップ戦だった。
まず、ワージントンカップ決勝でバーミンガムを下して、1994-95シーズンの同大会以来となる主要タイトルを獲得すると、FAカップでも躍進。リーズやマンチェスター・シティを退けて進出した決勝では、アーセナルを相手にオーウェンが2ゴールを挙げる活躍を披露し、2冠を達成する。さらに、UEFAカップでは決勝トーナメントでローマやポルト、バルセロナといった名門を撃破。アラベスとの決勝では打ち合いとなると、試合終了間際の89分にジョルディ・クライフにゴールを奪われて、4-4とされる苦しい展開を強いられる。それでも、延長戦をオウンゴールによって5-4で制して、見事に1983-84シーズンのチャンピオンズカップ以来となる国際タイトル獲得に輝いた。
フリートランスファーが大当たり
守護神は、ネームバリューこそないものの、抜群のショットストップ能力を備えるオランダ人のヴェスターフェルトが君臨。守備陣は、アンショズ&ヒューピアという屈強なフィジカルを持つ両名を中心に、このシーズンにフリーで加入したバッベルとキャラガーが両サイドバックとしてライン際を駆け上がった。
中盤は、当時から素晴らしいボックストゥボックスプレイヤーだったジェラードと共に、安定の守備能力と強烈なミドルシュートが売りの長身MFハマンが底を固める。機敏でユーティリティなマーフィーやバーンビー、直線的な仕掛けが持ち味のスミチェルなども在籍しており、多士済々のアタッカー陣だった。
また、基本的にはフラットな中盤を採用していたが、コベントリーから獲得したマカリスターがピッチに入る場合は、彼をトップ下とした[4-3-1-2]も活用。リトマネンも含め、彼らはフリーで獲得した選手だったが、ベテランらしい狡猾なプレーと熟練されたテクニックを披露し、カップ・トレブルに貢献した。
そして、前線も他クラブが羨むような陣容だった。軸は、オーウェン&ヘスキーのイングランド代表コンビ。空中戦が強いヘスキーと、スピードとアジリティ、決定力を備えるオーウェンは理想のコンビとして名を馳せ、2人で計38を記録した。また、“ゴッド”ファウラーも現役でプレーしており、さすがのテクニックでゴールを陥れた。
ピックアップ・プレイヤー
MFスティーブン・ジェラード(20)
リバプールの象徴。20歳だった当時の2000-01シーズンは、背番号を28から17に変更し、完全にレギュラーを獲得した初めてのシーズンだった。このシーズンは、公式戦50試合に出場し10ゴールを記録。プレミアリーグでは、PFA年間最優秀若手選手賞を獲得し、将来を約束されている存在として認知された。
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