レノファ山口の壮大な計画/六川亨の日本サッカーの歩み2019.03.25 20:00 Mon

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先週末はキリンチャレンジ杯の日本対コロンビア戦を取材後、24日は次の試合会場である神戸を通り越し、山口で行われたJ2の山口対栃木の試合を取材した。昨シーズンの山口は前半戦で2位につける躍進を果たしたものの、夏場にエースストライカーに成長した小野瀬(山口で25試合出場10ゴール)をG大阪に引き抜かれると失速し、8位でシーズンを終えた。それでも監督として初采配を振るった霜田氏は「守備を固めて1点を奪うサッカーではJ1に昇格してもすぐに降格してしまう」と、あくまでボールを支配して攻撃的なサッカーを貫く姿勢に代わりはなかったからだ。

初めて訪れた維新みらいふスタジアムは収容人数1万5千人を超えるJ1規格のスタジアムである。そして栃木戦は後半15分過ぎからワンサイドゲームを展開し、シュートも21本対6本と圧倒しながらも前半27分にPKから失った1点を返せず、J2第5節終了次点で勝点3の21位に低迷している。

試合後の会見で霜田監督は「PKからの失点が3点、判断ミスからの失点が4点あるが、ミスは仕方がない。ミスを失点につながらないようにしたいし、攻めの姿勢はブレずに続けていきたい」と前を向いた。

霜田監督が攻撃的なサッカーにこだわるのは、J1昇格を最大目標としていないからだ。山口にサッカーをいかに根付かせるか。そのためには「見ていて楽しい攻撃的なサッカー」が必要だと考えている。

クラブとしての予算規模はJ2で中位クラス。そのため強化に手っ取り早い外国人選手を簡単には獲得できない。そこで他クラブの若手選手を補強し、自ら鍛えて結果を出し、他クラブに移籍させることで強化費を稼ぐという方法だ。このためシーズン半ばで山口を去った小野瀬にも「それなりのお金を残してくれたので感謝している」と言う。

その成功例があるため、昨シーズン終了後は山口への移籍を希望する若手選手も多かったそうだ。そして、いまは結果が出ていないものの、夏過ぎには他チームから声のかかりそうな選手も想定している。

そんな山口の悩みが、維新みらいふスタジアムだ。地元のファンはクルマで来場することが多いが、駐車場が不足しているため試合当日は隣接する土のグラウンドや地元企業の駐車場を借りて臨時場としている。他のアクセス手段としてJR山口線の大歳駅から徒歩10~15分程度とけして悪くない。

しかしJR山口線は単線の2輌編成のため、大量輸送は不可能だ。このため霜田監督は「せめて試合日は4輌編成にして欲しい」とお願いしている。さらに終電の時間も早いため、ナイターでの試合も開催できない。

こうしたハンデを克服すべく、すでに新スタジアム構想は立ち上がっているそうだ。収容人員2万5千人程度で、駐車場は1万台のキャパシティを想定している。そして単にスタジアムを造るのではなく、映画館を併設した大手ショッピングモールを始めとする複合施設の誘致にも着手している。まだ計画の端緒であるが、チームだけでなく地元企業や自治体も巻き込んだ壮大な計画でもある。

実際にスタジアムで取材して、面白いことも判明した。メインスタンドの記者席で観戦していると、後半なかばから西日が記者席に差し込んで左手にあたるピッチのプレーが見にくいのだ。

普通、太陽は東から昇り、西に沈む。このためスタジアムのメインスタンドは西に、バックスタンドは東に造られる。13時以降キックオフの試合では、メインスタンドは太陽を背にし、さらに屋根があるため陽が当たらない。逆にバックスタンドは日差しを浴びるため3月の試合でも暖かいことがある。

これが逆だと、夕方はメインスタンドが落陽のため西日を浴びるため試合を観戦しにくい。そして柏の日立台と、長居のキンチョウスタジアムは世界でも珍しく東西の位置が逆になっている。ところが維新みらいふスタジアムは東と西がゴールのある方向で、メインスタンドとバックスタンドは南北に位置している。

するとどうなるかというと、東側のゴールにいる選手、特にGKは西日をモロに浴びるため、プレーに支障が出る可能性が大なのだ。たぶん維新みらいふスタジアムで試合をする際に、コイントスで勝ってコートを選ぶ時は西側のコートを選択するのだろう。そうすれば、後半は西日を背中に攻めることができるからだ。

もともとスタジアムは2011年の国体のために造られただけに、そこまで配慮していなかったのだろう。これはこれで珍しいスタジアムでもある。このスタジアムから2駅先、タクシーなら1メーターで行けるところに湯田温泉という名湯があることも発見だった。アウェーの試合で山口に行く際は温泉地で骨休めすることをお勧めする。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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コパ・アメリカの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

ブラジルで開催中のコパ・アメリカで、いよいよ明日(日本時間では18日の朝8時キックオフ)は日本が登場し、初戦で大会3連覇を狙うチリと対戦する。レアル・マドリーに移籍した久保建英がスタメン出場を果たすのか、注目の一戦でもある。 そこで今日は、日本が初出場した20年前の1999年のコパ・アメリカを振り返ってみよう。前年に日本代表の監督に就任したフィリップ・トルシエ監督は、3月のワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を飾っただけに、コパ・アメリカでもジャイアント・キリングを期待されたものだ。 ただ、中田英寿はペルージャへ移籍して最初のシーズンを過ごした後だったため、休養させるために招集しなかった。そして同時期と前後してシドニー五輪の1次予選が日本であったため、小野伸二は五輪チームに参戦するためコパ・アメリカを回避した。 結果的に小野はフィリピン戦で後方からの悪質なタックルを受けてヒザのじん帯を損傷。五輪はもちろんA代表でも主力選手の1人だった小野の長期離脱に、トルシエ監督は「パラグアイに連れて行くべきだった」と悔やんだものだ。 さて成田を発ち、ロサンゼルス、サンパウロ経由でパラグアイの首都アスンシオンまでは34時間の長旅だった。現地では、スタジアム周辺はもちろんのこと、街中でもいたるところに自動小銃を携えた軍人が立っていたため、治安は思ったより悪くはなかった。 日本の初戦はコパ・アメリカの直前にキリン杯で対戦したペルー。キリン杯では0-0の引き分けに終わったが、それはペルーにほとんどやる気がなかったから。しかしコパ・アメリカでは違った。日本は呂比須ワグナーがFKからヘッドで先制点を奪ったものの、すぐさまペルーの反撃に遭い2-1と逆転された。 しかし日本も粘り、後半に三浦淳宏が直接FKから同点弾を叩き込む。しかし攻撃の手を緩めないペルーに決勝点を奪われ2-3で惜敗した。やはりフレンドリーマッチと真剣勝負、それも相手のホームに近い試合では“本気度”が違うと痛感したものだ。 続く第2戦は地元のパラグアイ。日本はトルシエ監督が得意としたフラット3で臨んだものの、ラインを揃えて下げているうちに強烈なミドルシュートを叩き込まれるなどベニテスとロケ・サンタクルスに2ゴールを奪われ0-4の完敗を喫した。 スタジアムからの帰り道、街角に立つ娼婦らから「ハポン(日本)ゼロ、パラグアイ クアトロ(4点)」とバカにされたものだ。 このパラグアイ戦後、トルシエ監督は記者団の囲み取材で名波に対し「リーダーシップに欠ける」と名指しで批判。これに対し名波も「ピッチで戦うのは選手」と反論した。その後2001年にコルドバでスペインと対戦した後も、名波はヒザに故障を抱えての参戦に対し、トルシエ監督はチームドクターから報告がないと激怒。このスペイン戦以降、トルシエ・ジャパンに名波が呼ばれることはなく、2大会連続のW杯出場はかなわなかった。 話をコパ・アメリカに戻すと、日本は第3戦のボリビア戦も先制を許したが、後半に呂比須がPKから同点ゴールを決めて1-1のドローに追いついた。土砂降りでの悪コンディションで、照明も暗かったこと、ヒステリックに笛を吹いた主審がメキシコのベニート・アルチュンディアだったことくらいしか記憶にない。 そうそう、この試合では、長らく日本のDF陣を牽引してきた井原正巳が前半20分と後半37分に警告を受けて退場処分になった。そしてこの試合が井原にとって、日本代表最後の試合となった。Aマッチ出場122試合は、遠藤保仁に抜かれるまで長らく最多出場記録でもあった。 大会は、リバウドやロナウドを擁するブラジルが2大会連続6回目の優勝を飾り、サラジェタのウルグアイが準優勝。地元パラグアイは準々決勝でウルグアイにPK戦で敗退し、シメオネやパレルモを擁するアルゼンチンもベスト8でブラジルに敗れた。 このコパ・アメリカで代表デビューを飾ったアルゼンチンのFWマルティン・パレルモだが、グループリーグのコロンビア戦でPKを3本蹴って3本とも失敗するという椿事も目撃した(試合はコロンビアが3-0で勝利)。蹴る方も蹴る方だし、蹴らせる方も蹴らせる方だと思わずにいられなかった。 果たして明日のチリ戦で日本はどんな戦いを見せるのか。強敵揃いだが、U-22日本代表がトゥーロン国際大会の決勝でブラジルに善戦したように、東京五輪世代の活躍に期待したい。 <hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.06.17 20:50 Mon
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永井を再生させた長谷川監督の一言/六川亨の日本サッカーの歩み

キリンチャレンジ杯のエルサルバドル戦は、期待のルーキー久保建英が18歳と5日で代表デビューを飾り、華麗なステップでマーカーをかわしてシュートを放ったり、フリックで好機を演出したりするなど3万8千人の観衆を沸かせた。 しかし2ゴールを決めて令和初勝利に貢献したのは、FC東京のチームメイトである永井謙佑だった。鈴木武蔵の負傷により追加招集された永井は「まさか呼ばれるとは思っていなかった、ぶっちゃけ」と想定外の選出だったことに驚きを隠さない。 ただ森保一監督も「練習から(攻撃の)起点になるプレーにトライして顔を出し、最大の特長であるスピードを生かして裏に抜けるプレーなどを整理し、ミックスして勝利に貢献してくれた」と賞賛した。 永井といえば、アンダーカテゴリーでは各年代の代表に招集され、10年のアジア大会では優勝し、12年ロンドン五輪でもベスト4進出に貢献した韋駄天ストライカーである。しかし、その後は日本代表に定着することはできず、A代表は6試合の出場にとどまっていた。 J1リーグでは、6シーズン過ごした名古屋に別れを告げ、17年にFC東京に移籍。しかし同年は30試合に出場したものの1ゴールにとどまっていた。そんな永井を再生したのが長谷川健太監督だった。 それまでの永井は4-4-2の右サイドハーフで起用されることが多かった。しかし長谷川監督は永井を2トップにコンバートすると、「シュートで終われ」と言い続けた。長谷川監督によると、「それまでサイドで起用されることが多かったため、シュートではなくクロスを選択する癖がついていた。もともと永井はストライカータイプの選手」というのがコンバートの理由だった。 アドバイスのおかげもあって、18年の永井は32試合に出場して5ゴールをマーク。そして今シーズンも14試合に出場し3ゴールを記録している。DF陣が相手のプレスにパスをつなげなくても、アバウトに前線のスペースに蹴っておけば、永井は快足を飛ばしてマイボールにしてくれる。そして攻撃だけでなく、俊足を生かした前線からのプレスにより守備でも貢献。チームの首位躍進に貢献していることが評価されて今回の追加招集に結びついたのだろう。 同じように長谷川監督のアドバイスによりプレーが変わったのが、トリニダード・トバゴ戦とエルサルバドル戦で交代出場を果たした室屋成である。 昨シーズンの序盤は岡崎慎(現在はトゥーロン国際大会に参加)に右SBのポジションを奪われることもあった。「パスをつけるのが上手い」(長谷川監督)というのがその理由だったが、一方の室屋には「がんがん前に行け。それが持ち味なんだから」という言葉をかけた。 この一言により室屋も迷いが吹っ切れ、アグレッシブなプレーでレギュラーポジションを確保。森保ジャパンでも右SBのバックアッパーとして欠かせない存在になっている。 室屋に加え、3月のキリンチャレンジ杯では橋本拳人が追加招集で代表に名を連ね、6月は久保と永井が代表入りした。彼らに加え長友佑都、権田修一、中島翔哉も元FC東京である。日本代表のFC東京化が進んでいると言ってもいいだろう。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.06.11 15:00 Tue
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殿堂掲額者候補3人のプロフィール/六川亨の日本サッカーの歩み

1週間ほど間が空いてしまったが、今回は先々週に引き続き殿堂掲額者候補3人のプロフィールを紹介したい。 まずは木村和司氏だ。彼についてはJリーグでプレーを見た読者も多いだろう。元々は右ウイング(当時は4-3-3のフォーメーションが主流だった)だったが、攻撃的MFへとコンバートされて才能が開花。FKの名手でもあり、メキシコW杯アジア最終予選第1戦の韓国戦で決めたFKは今でも語りぐさだ。 JSL(日本サッカーリーグ)優勝2回、JSLカップ優勝3回、天皇杯優勝5回、アジア・カップウィナーズ選手権優勝2回という実績のほか、年間最優秀選手3回、JSLベストイレブン5回、Jリーグ功労者表彰に加え、日本代表として国際Aマッチ54試合(日本代表としては129試合)、JSL1部/J1リーグ通算215試合出場と数々の受賞資格を満たしている最有力候補だ。 その木村氏の高校時代(広島工業高校)と日産で1年先輩に当たるのが金田喜稔氏だ。彼も日産時代にJSL、JSLカップ、天皇杯の初優勝(2年連続3冠を達成)に貢献し、日本代表として国際Aマッチ58試合(日本代表としては153試合)、JSLベストイレブンに選出されるなど受賞資格を満たしているが、残念なのは早すぎる引退のため、彼の凄さを知るファンが少ないことだ。 初の国際Aマッチとなった日韓定期戦では19歳119日でゴールを決め、これは今でも史上最年少記録として残っている(今年のキリンチャレンジ杯では久保建英に更新の期待がかかる)。しかし84年のロス五輪アジア最終予選で代表からの引退を表明。まだ26歳の若さだった。 その後は恥骨結合炎や内転筋を痛め、Jリーグの開幕を待たず91年に現役生活と別れを告げる。 現役時代のポジションは左ウイングで、それまでのウイングといえば緩急の変化で抜くか(代表的なのは「赤き血のイレブン」のモデルとなった永井和良氏)、爆発的なスピードで抜くのが一般的だった(日本人プロ第1号の奥寺康彦氏)。 しかし金田氏は多彩な足技で相手を幻惑しつつ、緩急の変化で欧州のプロを相手に翻弄。現在なら中島翔哉や久保建英に連なるテクニシャン系ドリブラーの先駆者でもあった。 最後は現在Jリーグの副チェアマンを務める原博実氏だ。現役時代は「アジアの核弾頭」として日本代表で活躍。国際Aマッチ75試合に出場し(日本代表としては170試合)、37得点(通算70得点)はカズ(三浦知良の55得点)と岡崎慎司(50得点)に抜かれるまで歴代2位の記録を保持し続けていた(1位は釜本邦茂氏の75得点。ちなみに6位は本田圭佑の36得点)。 183センチと、いまでは長身選手と言えないながらも、空中戦の強さでゴールを量産しつつ、左右両足からのシュートも正確だった。 元々、右利きの選手だったが、PKは左足で蹴るので不思議に思い理由を尋ねたところ、「左足は練習を重ねたおかげでインサイドキックは右足より正確に蹴れるようになれました」と教えてくれた。思い切って蹴るのは右足、コースを狙うのは左足と使い分けていたのだ。 今回紹介した3選手を含め、殿堂掲額の候補となるような選手は、人知れず努力を重ねていたことは間違いないだろう。できれば前回紹介した碓井博行氏を含め、皆さんに殿堂入りを果たして欲しいと願わずにはいられない、日本サッカー暗黒の80年代を支えた名選手でもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.06.04 12:05 Tue
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誤審問題について一言/六川亨の日本サッカーの歩み

今週のコラムは、先週に引き続き殿堂掲額者の候補3人のプロフィールを紹介する予定でいた。しかし、決定はまだ先の話でもあり、浦和対湘南戦の“誤審”についてJリーグの理事会を取材したのでこちらを紹介しようと思う。 改めて触れるまでもなく、湘南の杉岡大暉の放ったシュートが右ポストを痛打し、左サイドネットに触れて完全にゴールラインを割ったにもかかわらず、山本雄大主審はノーゴールと判定した上でプレー続行を促した。 山本主審は副審ともインカムで確認したが、ボールがネットに吸い込まれず、跳ね返ってきたため「左ポストに当たった」と判断してゴールを認めなかった。そのシーンを現場で目撃した村井満チェアマンは「スタジアムの誰もがスマホで確認し、知らないのはレフェリーだけという前提に変わった。浦和の選手も認識していた」と誤審を認めた。 後日、山本主審は左ポスト際のプレーが選手と重なり目視できなかったことを正直に明かした。そして上川徹元JFA(日本サッカー協会)審判委員長は、「その場の雰囲気からゴールと認定することはできない」と山本主審をかばった。 “世紀の大誤審”と言うのは簡単だが、汚名をきせられた山本主審には、個人的に“不運”だったと思っている。サイドネットに当たったボールが跳ね返った原因は不明だが(ネットの外のペットボトルに当たったようにも見えたが、ボトルは動いていないので真偽は不明)、シュートしたボールにスピンがかかっていて、それが右ポストに当たってさらに逆回転がかかったかもしれない。 そして違和感を覚えたのは、現役のJリーガーが自身のツィッターで審判批判を表明したことだ。もともとサッカーは“ミスのスポーツ”である。シュートミスに始まり、パスミス、トラップミス、判断ミスをしない選手は皆無だろう。なのに、自分のミスを棚に上げ、ここぞとばかりに審判を批判するのは天に向かってつばを吐いているようなものだ。 「選手はプロだから生活がかかっている」とも言うが、試合に負けても日常生活にさほど支障はないだろう。しかし今回批判の矢面に立たされた山本主審の家族はどうなのか。そもそも試合中は判定にクレームをつけ、主審の目を盗んでシャツを引っ張ったり、痛がるふりをして時間稼ぎをしたりするなど、日頃は主審を欺こうとしている選手も少なくない。そうした前提を含めて成立しているのがサッカーではないだろうか。 誤審に目くじらを立てて騒ぐのはファン・サポーターであり、メディア関係者だけで十分だ。 今回の誤審を受け、湘南の真壁潔会長は「ニューマンエラーなので、人間力を上げていくしかない」と語ったそうだ。Jリーグの理事会では「VARもアデショナル・アシスタント・レフェリー(AAR=追加副審)もお金はかかるが、8月からAARを導入する。予算はある一定の金額を超えれば理事会の決議が必要になるので、やるなら7月の理事会になる」と村井チェアマンは導入に前向きだ。 もともと審判委員会はJFAの管轄下にあり、JリーグはJFAから審判団を派遣してもらっている。そこでJリーグでも金銭的な負担でより正確なジャッジを実現できるよう前向きに考えている。 さらに村井チェアマンは、「FIFA(国際サッカー連盟)はVARの養成期間を定めていて、J1全試合で導入するには養成に2年かかる。このため2021年にJ1全試合で導入したい」とのプランも明らかにした。 最後に村井チェアマンは誤審の現場を目撃して次のような感想を述べた。 「海外では(選手が失点を認め)失点から始めようという例もある。勝負に徹しようというクラブもあれば、レフェリーの判定に従うのがフェアプレーという考え方もある。選手が一番戸惑っているのではないでしょうか。(浦和の選手は)リスタートしなければいけないと思ったのかもしれないので、私は選手を責められない。判定は判定だが、あまりに異様な雰囲気だったので、ブレイク(中断)してもよかったのではないでしょうか」 一度下った判定は覆らないものの、チェアマンの意見に賛成だ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.05.28 12:45 Tue
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今年の殿堂掲額者のプロフィール1/六川亨の日本サッカーの歩み

今年もまた、「日本サッカー殿堂」の掲額者を選出する投票の依頼が来た。 ここで改めて選考基準を紹介しておこう。有資格者は選考時に満60歳以上(物故者はのぞく)で、1)JSL(日本サッカーリーグ)1部で通算200試合以上の出場。2)JSL1部とJ1リーグで通算300試合以上出場。3)J1リーグ通算400試合以上の出場。4)日本代表として国際Aマッチ50試合以上の出場。5)全国の運動記者クラブが選出する年間最優秀選手。6)Jリーグ最優秀選手および功労者表彰選手のいずれかを満たした選手だ。 そして殿堂委員会の作成した候補者名簿が5名以内の場合は1名、6名以上の場合は2名を投票で決定する。その際に、原則として投票総数の75%以上の得票者を殿堂委員会が確認して理事会へ報告して決定するが、75%未満で5%以上の候補者は、翌年の投票のための候補者名簿に掲載され、次回の投票でも5%以上の得票があれば、さらに次々回の投票のための候補者名簿に掲載され、初回掲載時から通算5回までは同様の措置が取られる。 今回は4名の候補者で投票が実施されるが、今年8月で66歳を迎える碓井博行氏は17年から継続しての候補者名簿への掲載である。その他の3名、金田喜稔氏、木村和司氏、原博実氏は今年の誕生日で60歳を迎える新規の候補者だ。 残念なのは昨年の候補者だった松木安太郎氏である。規約で得票が5%未満だったため、今回の候補者名簿から削除され、それ以降の投票のための候補者名簿にも掲載されることはなくなった。昨年は加藤久氏とラモス瑠偉氏という強力なライバル2人がいたため、得票率を高めることはできなかったのだろう。 それでは次に、各候補者のプロフィールを紹介しよう。まず碓井氏だが、高校サッカーの名門・藤枝東高から早稲田大学に進学したストライカーで、当時としては身長178センチ、体重73キロと大型にもかかわらず柔軟性とテクニックを合わせ持ったストライカーでもあった。多くのストライカーが“釜本2世"と呼ばれたが、今となっては碓井氏がその名に一番ふさわしいかもしれない。 高校1年で日本ユース代表に選出され、アジアユース大会には1970年の第12回大会以降4年連続で出場した。これは歴代でも唯一の記録で、第15回大会では初の決勝進出に貢献(準優勝)。藤枝東高では全国高校選手権、インターハイと国体で優勝と3冠を達成した。 早稲田大では2年の時に日本代表にデビューし、関東大学リーグ優勝2回、全日本大学選手権優勝2回とチームを牽引。卒業後は日立(現柏レイソル)で活躍し、JSLカップ優勝と1980年と82年にはJSL得点王とベストイレブンにも輝く。87年に現役を引退するまでJSL1部で200試合出場、85得点。この85得点は釜本氏の202点(251試合)に次ぐ歴代2位の記録としていまも残っている。 残る3名の候補者のプロフィールについては来週のコラムで紹介したい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.05.20 19:00 Mon
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