リベリーノのFKを田口が再現/六川亨の日本サッカーの歩み2018.12.11 12:30 Tue

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▽12月9日に行われた第98回の天皇杯決勝は、浦和レッズがベガルタ仙台を1-0で下して第86回大会以来、12大会ぶり7度目(前身の三菱時代を含む)の優勝を果たした。決勝点は前半13分、右ショートコーナーからのクリアを宇賀神が右足ボレーで決めて奪取。アウトサイドにかけたシュートは曲がりながら落ちる見事な一撃で、日本代表GKシュミット・ダニエルもノーチャンスの鮮やかな一撃だった。▽その前日にはヤマハスタジアムでのJ1参入プレーオフ決定戦、ジュビロ磐田対東京ヴェルディを取材。試合は磐田がPKとFKから2点を奪い、J1残留を果たした。順当な結果とも言えるし、毎年のように主力選手をシーズンオフに引き抜かれる東京Vにしては、よく決定戦まで勝ち上がったと言ってもいいのではないだろうか。

▽残念ながら11年ぶりのJ1復帰は果たせなかったが、11年前とは事情が違うので致し方ないのかもしれない。東京Vは2005年にJ1で17位となりJ2へ降格した。06年シーズンはラモス瑠偉氏を監督に迎えたものの7位に沈む。

▽そこでチーム関係者は、クラブの“顔”とも言えるラモス監督に泥を塗ることはできないと判断し、出した結論は「監督が何もしなくてもJ1に昇格できるチーム作り」として大型補強に乗り出した。

▽その後ブラジル代表として活躍することになるフッキとディエゴの外国人助っ人に加え、名波、服部、土屋らJリーグで実績十分の選手を獲得。その効果もあり07年は開幕から4勝1分けで順調な滑り出しを見せた。

▽しかし第7節からワーストタイの7連敗を喫し、ラモス監督の解任説も流れたが、その後は立て直し、リーグ終盤は16試合負けなしで2位を確保。フッキが37ゴールで得点王に輝くなどしてJ1昇格を果たした(翌年ラモス氏はエグゼクティブダイレクターに就任し、柱谷哲二氏が監督に就任も、チームはJ2に降格)。

▽新たなスポンサーを獲得したとはいえ、東京Vは往時のような大型補強は望むべくもないだろう。それでも“身の丈”に合ったクラブ経営と、選手育成でかつての黄金時代を取り戻して欲しいと願うファンは多いに違いない。

▽話を参入プレーオフ決定戦に戻すと、2点目となった田口のFKを紹介したい。ゴール前やや右24メートルだっただろうか。壁を作った東京VのDF陣の間に2人の磐田選手が割って入った。そして田口のシュートは、壁の間に入った2人の選手が屈んだ空間を通過し、GKの手前でワンバンドして左スミに決まった。

▽壁の間の味方のスペースを通過してゴールを初めて決めたのは、1974年の西ドイツW杯でブラジル代表のMFリベリーノが初めてだったと記憶している。前回大会で引退したペレの背番号10を受け継いだリベリーノは、2次リーグの東ドイツ戦で6人の壁に割って入ったFWジャイルジーニョが屈んだ隙間を通して決勝点を決めた。神業とも言えるゴールだった。

▽あれから4半世紀、同じスーパーゴールを見ることができて、興奮もした。ところが試合後の田口は「いつも味方を立たせてGKからに見にくくさせるのをやっていましたし、壁の間を狙って練習していました。狙い通りです」とスーパーゴールにも冷静だった。

▽このゴールを初めて決めたリベリーノについても「知りません」と素っ気ない返事。それよりも「チーム全員で必ず残留を決める。チームで一丸となって、強い気持ちで1週間練習してきた結果だと思います」と、自身のゴールよりJ1残留に力を込めていた。

▽それでもスーパーゴールに変わりはないし、J1に残留したことで、また同じゴールを見られるかもしれない。そして対戦相手は壁の作り方を工夫した方がいいだろう。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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なでしこリーグのプロ化は成功するのか/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、なでしこリーグのプロ化について「もう一段階上に行こうと思うと、プロ化というところを通らないといけないと思うし、具体的に話し合っているのは事実で、近いうちに結論を出したい」と言及したそうだ。 すでに先月26日の理事会で女子担当の佐々木則夫理事(元なでしこジャパン監督)がプロ化の必要性を訴え、20年東京五輪後の21年か22年のプロ化を目指し、早ければ来月5月の理事会で承認を得られればプロ化に舵を切るという。 まだプロ化への具体的な道筋は見えていないので、軽々な発言は控えるべきだろうが、「本当にプロ化してやっていけるのだろうか」というのが正直な感想だ。 Jリーグを例に取るまでもなく、プロ化のためには収入源を確保しなければ成立しない。その3本柱として「入場料収入」、「スポンサーの確保」、「テレビ放映権の獲得」が上げられる。さらにJリーグの場合は、ビッグクラブになればなるほど母体企業である「親会社からの補填」も欠かせない。 しかし、なでしこジャパンがW杯で初優勝した11年の1試合あたりの平均入場者数は2千796人だった。その実数を10倍にしないとプロ化は難しいだろう。JリーグはDAZNのおかげで放映権収入が飛躍的に膨らんだが、なでしこリーグが新たに巨額な放映権を獲得できるのか。親会社からの補填が可能なのはINAC神戸レオネッサくらいではないだろうか――簡単に考えても問題山積だ。 かつて日本女子サッカーリーグには「プロ」に近いチームが存在したことがある。91年に女子のW杯新設と、90年アジア大会で女子サッカーが正式種目になることを受け、89年に女子のリーグ戦が新設された。94年にJリーグに合わせLリーグと改名されたが、90年に創部された日興證券ドリームレディースは完全なプロチームだった。 初代の日本女子代表監督だった鈴木良平氏を招聘した同チームは、鈴木監督の要望した「専用グラウンドとクラブハウスの建設、選手寮の借り上げ、選手が仕事をせずサッカーに専念できる環境」を実現。リンダ・メダレン、グン・ニイボルグらノルウェー女子代表選手を獲得するなど強化に力を入れ、96年から3連覇を果たすなどLリーグを牽引した。 しかし母体企業の日興證券が証券取引法違反に問われた98年中に廃部を決定。さらにバブル経済の崩壊からフジタサッカークラブも廃部。99年1月の全日本女子選手権が終了すると、黎明期の女子サッカーを牽引してきた鈴与清水FCと、シロキFCがリーグからの脱退を表明し、その後もプリマハムや松下電器らチームスポンサーの撤退によりクラブチーム化せざるを得ないチームが相次いだ。 そんな危機的な状況にもかかわらず、関係者の熱意と努力によってLリーグは命脈をつないできた。そして転機となったのが04年にJFAのキャプテンズ・ミッションに「女子サッカーの活性化」が盛り込まれたことだ。4月に行われたアテネ五輪アジア予選での活躍も追い風となった。五輪本大会では「なでしこジャパン」と命名された日本女子代表がベスト8に進出。9月スタートのリーグ戦は「なでしこリーグ」と改められて、紆余曲折を経ながら今日まで続いている。 その後は11年ドイツW杯での優勝、12年ロンドン五輪での銀メダル獲得と栄華を極めたのは周知の事実。しかし澤穂希の引退と主力選手の高齢化で16年ブラジル五輪の出場権を逃してしまった。現在の高倉麻子監督はチームの若返りを図って今夏のフランスW杯に挑むが、けして平坦な道のりではない。来夏の東京五輪ではメダル獲得の期待もかかる「なでしこジャパン」であるが、本大会をはじめ、その先のプロ化にも茨の道が待っているような気がしてならない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.22 19:00 Mon
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類い希な久保のパスセンス/六川亨の日本サッカーの歩み

久保建英については、あらためて紹介する必要はないだろう。“和製メッシ”と言われ、日本代表の各年代でも飛び級で招集され、今年5月にポーランドで開催されるU-20W杯の主力の選手だし、来夏の東京五輪でも活躍が期待される逸材だ。 これまでも10代でJリーグにデビューして脚光を浴びた選手は数多い。例えば香川は密集地帯でもDFの足の届かないところにトラップし、マークをすり抜けてゴールを量産した。井手口や堂安も似たタイプと言え、ドリブル突破を武器に海外移籍を果たした。 もちろん久保も、今シーズン復帰したFC東京では、右サイドのゴールライン上から2人のマークをすり抜けてシュートを放つなど輝いている。4月10日のルヴァン杯・鳥栖戦では、右サイドの難しい角度からのFKを直接決め、シーズン初ゴールでチームを勝利に導いた。 そして14日のJ1リーグ鹿島戦である。ゴールこそ決められなかったが、3ゴールすべてに絡む卓越したパスセンスを披露して、あらためてその才能の高さを示し、香川や堂安とのレベルの違いを証明したと言える。 前半4分、橋本からのタテパスを受けると、体をターンさせながら鹿島の名ボランチであるレオシルバのアタックを封じ、すかさず右サイドの室屋へ絶妙のスルーパス。その波状攻撃からFC東京は永井のヘッドで先制点をもぎ取った。 さらに前半16分と29分には、自陣ゴール前から絶妙なループパスでディエゴオリベイラの2ゴールを演出する。久保自身は「2点目は狙い通りで永井さんがうまくトラップしてくれて、そこからの流れで連係は良かったですね。3点目はアバウトでした。すべてディエゴがやっているので、どうこうはないですね」と話すにとどめた。 確かに2点目は味方のクリアを拾うと前を向き、前線で待つ永井にピンポイントのパスを出し、永井の独走からディエゴオリベイラのゴールに結びついた。久保にとって狙い通りのプレーだったのだろう。 しかし凄いのは「アバウト」に出した3点目につながるパスだ。鹿島のパスミスを自陣ゴール前で受けると、胸トラップからそのまま左足アウトサイドで前線に送る。鹿島CBのクリアミスもありディエゴオリベイラは独走して3点目を決めたが、アバウトでも敵と味方の位置関係を把握してパスを出したセンスは、教えようとしても教えられるものではない。 普通ならトラップして前を向いてからパスを出すか、ドリブルするのが常道だろう。しかし、それでは鹿島に守備陣形を整える時間を与えてしまう。2タッチのプレーが鹿島の若いCB2人をパニックに陥れたことは想像に難くない。 これまでにも東京Vの森本を始め、ストライカーとして若い年代から才能を発揮した選手はいた。香川や柿谷、堂安らだ。しかし久保は、ドリブル突破だけでなく類い希なパスセンスも鹿島戦で披露してみせた。 すでに海外の複数のクラブから、18歳になる6月を前に照会が来ているという。まだ発展途上の選手だけに、どこまでその才能を伸ばすのか。その成長過程をJリーグで見たい気持ちと、海外のビッグクラブで活躍する姿を見たいという気持ちで揺れ動いているのは私だけではないだろう。 U-20日本代表での活躍はもちろんのこと、6月のキリンカップでの招集も楽しみな久保の成長である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.16 18:00 Tue
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神戸中央球技場の思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

J1リーグは第6節を終了したが、予想外の展開と言っていいだろう。下馬評では3連覇に挑む川崎F、天皇杯を制し、杉本健勇や山中亮輔らを補強した浦和、そしてACL王者の鹿島が優勝候補として挙げられていた。 しかし、フタを開けてみると、昨シーズン同様に広島とFC東京が無敗で1、2位と好位置につけている。川崎Fは大島僚太をケガで欠き、小林悠もケガの影響から本調子とはいいがたい。浦和も武藤雄樹と青木拓矢がケガで出遅れた。鹿島だけはじわじわと順位を上げているのは「さすが」と言いたいところだ。 意外な健闘を見せているのが開幕戦で鹿島を倒し、札幌、横浜FMと昨シーズンの上位陣から勝点3を奪って4位につけている大分だ。一時はJ3に降格しながら6年ぶりにJ1へ昇格。そしてここまで快進撃を見せている。チームを牽引するFW藤本憲明は6ゴールで得点ランクの首位に立つ。この快進撃がどこまで続くか見物でもある。 期待を集めながら苦戦しているのが神戸だ。先週の松本戦ではポドルスキが足の違和感で欠場。ビジャも右足の違和感から前半41分に交代を余儀なくされた。神戸には、是非とも投資に見合う結果を残して欲しいと思っている。 さて今週は、先週の代表戦に続いて神戸の話題をお届けしたい。ノエビアスタジアムを訪れるのは2013年のラトビア戦以来だから実に6年間も代表戦では使われていなかったことになる。市内からのアクセスも良く、山の上にある宮城スタジアムや大分銀行ドームより、はるかに足の便がいいのだから、使わないのはもったいない。 このノエビアスタジアムは、ご存じのように2002年の日韓W杯のために改修された。今回6年ぶりに訪れ、早めに着いたのでスタジアムの周辺を歩いてみたが、17年前とは様変わりしていたのには驚かされた。スタジアムの前の道路は片側2車線に整備され、ヤマダ電機やニトリといった大型店が立ち並ぶ。 17年前は和田岬駅から歩いて行くと、様々なグッズや食べ物を売る露天が並んでいた。外国人が民家の玄関でお店を開いていたため、帰宅した住民が家の中に入れず警官を呼ぶというハプニングにも遭遇した。W杯ならではの賑やかな光景だった。 もともとノエビアスタジアムは、かつては神戸中央球技場と呼ばれていた。1970年に完成した1万3千人収容のサッカー専用スタジアムである。ナイター設備を備えた初のサッカー専用スタジアムで、当時ナイターでの試合は神戸中央球技場と国立競技場でしか開催されなかった。 70年8月には“モザンビークの黒豹”と呼ばれた1966年イングランドW杯得点王のエウゼビオ擁するベンフィカ・リスボンが来日して日本代表と対戦。神戸で1試合、国立で2試合の計3試合対戦し、エウゼビオは7ゴールを奪う活躍を見せた。 それまで来日した欧州のクラブチームは2~3点取れば手を抜いていたが、ベンフィカは違った。神戸での初戦は3-0、国立では4-1、6-1と完膚なきまでに日本を叩きつぶした。日本は釜本邦茂と森孝慈が1点を返すのが精一杯だった。 話を神戸に戻そう。現在は最寄り駅の御崎公園駅の地名から、御崎サッカー場とも呼ばれたが、当地を訪れたペレが芝生を絶賛し、「グラウンドキーパーにお礼がしたい」と言うほど“三崎の芝”は美しいことで有名だった。そして1981年11月1日のJSL(日本サッカーリーグ)で偉大な記録がここで生まれる。 ヤンマー対本田技研との試合で釜本は、JSL通算200ゴール目を左足で決めたのだ。楚輪博の左からのマイナスのクロスを左サイドにトラップしてのシュートで、それほど強烈ではなかったものの、しっかりコントロールしてゴールに流し込んだ。釜本はさらにヘッドで201点目も決める。残念ながら翌年に右足のアキレス腱を断裂し、生涯通算ゴールは202点で終わったが、誰も到達できない金字塔と言っていいだろう。 02年日韓W杯後は芝生のメンテナンスに問題が生じ、夏場は芝が剥がれるなど荒れたため、15年には神戸のネルシーニョ監督や選手から不満が続出。三木谷オーナーもホームスタジアムからの移転をツイートしたため、16年に芝生を全面植え替えし、18年には日本初のハイブリッド芝となるシスグラスを導入した。 もしかしたら、日本代表の試合が6年間もなかったのは、芝生に問題があったからかもしれない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.08 18:00 Mon
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令和になっても香川の代表記録挑戦は続くのか/六川亨の日本サッカーの歩み

新元号が「令和(れいわ)」に決まった。西暦でいうと1989年にスタートした「平成」は、日本サッカー界にとって“激動”の時代でもあった。プロ化を模索して動き出したのが平成元年3月のことで、翌年のイタリアW杯予選で横山ジャパンはアジア1次予選であっけなく敗退。そこで日本代表監督に初となる外国人(オランダ人)のハンス・オフトを招聘したのが平成4年(92年)だった。 翌年のアメリカW杯予選ではロスタイムに入る前までは初のW杯出場が濃厚だったものの、イラクのオムラムに同点ゴールを奪われて3位に後退。当時のW杯はアジアから2チームしか出場できなかったため、苦渋を飲むことになった。 それでも同年(93年)にスタートしたJリーグは確実に日本のサッカーを底上げした。それが平成8年(96年)、28年ぶりとなるアトランタ五輪や、平成10年(98年)のフランスW杯出場につながったし、以後、五輪とW杯には連続出場を続けている。 選手個人としても平成6年(94年)にカズ(三浦知良)がジェノバへ移籍して、開幕戦でACミランと対戦した(フランコ・バレージと空中戦で激突して鼻骨を骨折したのは不運だった)。その流れは中田英寿に受け継がれローマでスクデットを獲得。インテル・ミラノやACミランでプレーした選手や、イングランドのプレミアリーグ、ドイツのブンデスリーガで優勝を経験した選手も出現するようになった。いまでは日本代表の主力はほとんどヨーロッパでプレーしていると言っても過言ではない。 そんな平成元年に生まれたのが、2月からトルコ・スーパーリーグのベシクタシュでプレーする香川真司だ。若いと思っていた香川も3月で30歳となった。若返りを図る森保ジャパンでは3月のキリンチャレンジ杯で初めて招集されたものの、結果を残したとは言いがたい。 6月のキリンチャレンジ杯と、それに続くコパ・アメリカで再招集があるのかどうかは、今後のスーパーリーグでの活躍次第だろう。ただ、そんな香川にしかできない日本代表の記録がある。 香川は19歳だった平成20年(08年)に、平成生まれの選手として初めて日本代表に選ばれると、5月のキリン杯コートジボワール戦で代表デビューを飾り、10月のキリンチャレンジ杯UAE戦で代表初ゴールを決めた。19歳206日でのゴールで、これは歴代最年少ゴール3位の記録でもある(1位は金田喜稔氏の19歳119日。2位は永井良和氏の19歳169日)。 2年後の南アW杯はサポートメンバーに終わったが、平成23年(11年)のアジアカップでは準々決勝のカタール戦で2ゴール1アシストの活躍でベスト4進出に貢献。ただ、準決勝の韓国戦で右足第5中足骨を骨折し、決勝戦のオーストラリア戦には出場できなかった。 それでも10代で2ゴール、20代では29ゴールで、通算31ゴールは代表得点ランクの6位につけている。4位タイが本田圭佑と原博実Jリーグ副チェアマンの37ゴールのため、あと7ゴールで彼らを抜ける可能性もある。そして、30代でゴールを決めると10代、20代、30代の各年代でゴールを決めた選手ということになる。 過去にはダントツで代表得点ランク1位(75点)の釜本邦茂氏しか達成していない“昭和”の大記録だ(釜本氏は10代で1ゴール、20代で55ゴールと量産し、30代でも19ゴールをあげた)。残念ながら香川は“平成最後”の代表戦でゴールを決めることはできず、大記録達成とはならなかったが、“令和”でゴールを決めれば釜本氏と並ぶことができる。 そのためにも代表に招集されるよう、ベシクタシュでの活躍に期待したいところだ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.01 21:45 Mon
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ボリビア戦での賀川さんとの再会で思い出したリスペクトの意味/六川亨の日本サッカーの歩み

3月26日、日本対ボリビア戦の行われたノエビアスタジアム神戸で、懐かしい方とお会いできた。同業者の大・大先輩である賀川浩さんだ。若い読者はご存じないだろうが、94歳にしていまなお現役のサッカージャーナリストだ。最後に現場でお目にかかったのは2014年のブラジルW杯だから、実に5年ぶりの再会となる。 ワールドカップの取材は1974年の西ドイツ大会から始め、サッカーがいかに世界中で行われ、愛されているスポーツかを新聞やサッカー専門誌で紹介してきた。2010年の南アW杯こそドクターストップがかかり取材を断念されて連続取材は途切れたものの、サッカー王国ブラジルでのW杯は、それこそ死ぬ覚悟で取材され、FIFA(国際サッカー連盟)から逆取材される現場も目撃した。 元々は選手で、戦前の神戸一中(現神戸高校)では全国制覇を達成し、戦後は神戸商大や大阪サッカークラブで天皇杯準優勝を果たしている。大学卒業後は産経新聞の記者としてサッカー“も”取材したが、その理由を聞いたところ、「サッカーで飯を食おう思たら、当時は新聞記者になるしかなかったんや」と教えてくれた。 10代の終わりに迎えた第二次世界大戦の末期には、特別攻撃隊(いわゆる特攻。飛行機で敵艦隊に突撃する攻撃)に志願。死を前に戦闘機を背景にして特攻服に身を包んで撮られた若き日の凜々しい姿を見せてもらったこともある。幸いにも出撃の数日前に日本は終戦を迎え、死地に赴くことはなかった。 賀川さんが凄かったのは、サッカーの技術・戦術への造詣の深さだけではない。サッカーにまつわる、その国の歴史や民族史、サッカーが発展してきた土壌など、サッカーを“文化”としてとらえてきたことだ。それを当時勤務していたサッカーダイジェストで連載し、担当編集者だったため、誌面に載せられない数々のエピソードを聞くことができたのはいまでも財産だと思っている。 ご自宅は神戸のため、1995年には阪神淡路大震災にも遭遇した。心配して電話したところ、元気な声が聞けて安心したが、「徹夜で原稿を書いていたので、ソファで寝てたら地震が来ました。1階にあるベッドで寝てたらペシャンコになってましたわ」と笑っていた。賀川さんがお住まいのマンションは、地震により1階すべてが潰れてしまったそうだ。生死を分ける体験を2度もしたことになる。 記者としてはペレの対談に始まりベッケンバウアー、ヨハン・クライフ、マラドーナとスター選手を直撃し、中学生だった岡田武史氏が西ドイツにサッカー留学に行きたいというのを、知人の頼みによりいさめたエピソードもある。関西在住ということでJリーグ誕生前はG大阪やC大阪、そして地元・神戸のプロ化にもアドバイスした。 そんな賀川さんが、ボリビア戦後の記者会見では熱心にペンを走らせ、森保監督のコメントをノートに記していた。そして会見終了後、森保監督から賀川さんに花束が贈呈されるサプライズがあった。すでに2010年にJFA(日本サッカー協会)の殿堂入りし、2015年にはFIFA会長賞も受賞している。 それだけに、なぜこのタイミングで花束の贈呈なのか疑問に感じたが、おめでたいことなので細かいことは抜きにしよう。森保監督も花束贈呈後、会見場にいる記者・カメラマンに向かい「皆さんにも花束を贈呈したいので長生きして下さい」と気配りのコメントを忘れなかった。 賀川さんにはこれからも長生きしていただきたいが、忘れられないことがある。78歳で迎えた2002年日韓W杯での出来事だ。埼玉スタジアムに取材に来られた際に、当時でも高齢であった。しかし埼玉スタジアムにある記者用のエレベーターはどういう理由か分からないがW杯開催中は使用禁止になっていた。 そこで大会関係者に事情を話し、賀川さんだけでもエレベーターを使用できるようお願いしたものの、返事は「使用はできません」というものだった。賀川さんは「わしはええから、階段で行きます」と、記者席のある5階まで階段を昇り降りされた。 幸いにもボリビア戦は賀川さんもエレベーターを利用することができたが、FIFAやJFAが提唱する「リスペクト」プロジェクトは、すべての高齢者や障害者を対象にするべきではないだろうか。スローガンは、実践しなければただの“うたい文句”に終わってしまう。 高齢化社会を迎えるなかで、まだJリーグは柔軟な対応が期待できそうだが、JFAは杓子定規の縦割り社会になっていないかと危惧してしまう。2002年のW杯を契機に組織が巨大化したことで、セクショナリズムが進んだ印象が強いからだ。ここらあたり、今後も注視していきたいと思い直した賀川さんとの久々の再会だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.29 12:05 Fri
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