神戸とイニエスタの前途に期待すること/六川亨の日本サッカーの歩み

2018.09.25 18:00 Tue
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▽週末はJリーグの取材がルーティンとなっている。先週末の日曜は浦和対神戸の試合を取材した。往路、高速で事故渋滞に巻き込まれたため、埼玉スタジアムに着いたのは試合開始1時間を過ぎていたが、到着そうそう知り合いの記者から「イニエスタはベンチにも入っていないので、帰った記者もいますよ」と教えられた。さすがに帰りはしなかったものの、今シーズン最多となる5万5689人のファン・サポーターもがっかりしたことだろう。

▽そして、それ以上にがっかりしたのが試合内容だった。8位神戸対9位浦和の試合だから仕方ないのかもしれないが、両チームともただパスを回すだけで、シュートまで持ち込むことができない。「今シーズン見た中で最低の試合内容だな」とつぶやくと、隣に座っていたサッカー専門誌の編集長も「そうですね」と同意してくれた。

▽浦和はペトロヴィッチ監督が去り、柏木ら主力も高齢化したため、19歳の橋岡をスタメンで起用するなど若返りを図りつつ、オリヴェイラ監督の下カウンタースタイルへとモデルチェンジ中だ。それがハマったのが興梠の2点目であり、武藤の3点目だった。

▽柏木のタテパス1本から興梠が抜け出し、GKの鼻先でコースを変えるシュートは興梠らしいゴールだった。そして武藤は、自陣ペナルティーエリア内で武藤を抜こうとした高橋からボールを奪うと、至近距離ながらGKの頭上を抜く鮮やかなループシュートを決めた。

▽問題は神戸である。ボールポゼッションで浦和を上回ったが、それは浦和がブロックを作って守備を固め、カウンター狙いだったからに過ぎない。自分たちで「ボールを握った」のではなく、「持たされていた」に過ぎない。にもかかわらず、アバウトなパスミスでボールを失うなど、パスをつないでいても「どう崩すのか」という攻撃の意図がまるで見えない。

▽イニエスタがいないため仕方がないのかもしれない。そのため前線に長沢とウェリントンという長身のストロングヘッダーを起用したのだから、シンプルにクロスを上げてもいいのだが、その精度が低い。ポドルスキは彼らの高さを生かすクロスを入れていたが、彼1人ではどうしようもない実力差を感じた試合だった。

▽この試合を、就労ビザの関係でスタンドから三木谷オーナーと見守ったリージョ新監督も、自身の前途が多難だと思ったのではないだろうか。神戸がバルサ化を目指すのは理解できる。そのためのイニエスタでありリージョ監督であり、ピケの獲得も狙っていると噂されている。しかし数人のOBでバルサ化できるほどサッカーは簡単ではない。

▽バルサがバルサなのは、メッシを始めほとんどの選手が各国の代表でもトップクラスというクオリティーの高さにある。翻って神戸の日本人選手に代表クラスは皆無である。正直、「このメンバーでよく8位にいるな」というのが久しぶりに神戸の試合を見て抱いた印象だった。

▽ロシアW杯など短期決戦の大会では、ボールを保持するポゼッションサッカーよりもカウンターかセットプレーの方がゴールの確率は高まる傾向にある。しかし欧州の各国リーグではバルサやレアル、マンチェスター・C、バイエルンのようにポゼッションサッカーで相手を凌駕しているという事実もある。

▽今後、神戸がどういうサッカーを選択するのか。イニエスタというビッグネームを獲得した効果は5万人を越える観客を動員したことでも証明された。本来ならダゾーンから優勝資金を得た川崎Fや、首都圏の浦和、FC東京、G大阪といった大企業がバックにあるクラブがビッグネームを獲得してリーグを活性化するべきだろう。

▽かつてC大阪はフォルランというビッグネームを獲得しながら結果が伴わずに降格した例もある。神戸の、三木谷オーナーのチャレンジが成功することが、Jリーグの活性化につながることを期待しているのは私だけではないだろう。なんだかんだと言っても、目の離せないイニエスタであり神戸でもある。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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森保ジャパンとシドニー五輪の類似点/六川亨の日本サッカーの歩み

五輪の男子サッカーにオーバーエイジ(OA)枠が採用されたのは、1992年のバルセロナ五輪からだった。当時のU-23日本はJリーグ誕生の前年ということもあり、澤登正朗(東海大)、相馬直樹(早稲田大)、名波浩(順天堂大)ら大学勢が主力だった。 しかし1次予選は突破したもののアジア最終予選では1勝1分け3敗で、6チーム中5位に終わった。当時は日本代表の監督だった横山氏が総監督を務め、山口監督を補佐する形だったが、基本的に1人の監督が日本代表を率いてW杯予選と五輪予選を戦っていた。 それというのもバルセロナ五輪以前は男子の五輪に年齢制限がなかったことと、日本がまず出場を目指したのはW杯ではなく五輪だったからだ。W杯は「手の届かない夢の舞台」と思っていた。 そうした風潮に変化が起きたのは、もちろんJリーグの影響もある。94年に日本代表の監督に就任した加茂氏は「W杯は夢見るものでなく出場するもの。そのためにはまず指導者が(出場を)目指さないといけない」と意識の変革を訴えた。 もう1つの変化が、2人の代表監督が誕生したことである。W杯を目指す日本と、五輪出場を目指すU-23日本。前者の監督は加茂氏で、後者の監督には西野氏が就任した。しかし当時のチームは、攻撃的な加茂監督の日本と、守備的な西野監督のU-23日本とタイプの異なるチームだった。 初めてプロの選手で挑んだ96年アトランタ五輪アジア予選で、U-23日本は準決勝で中東の盟主サウジアラビアを2-1で下して決勝戦に進出。上位3チームに与えられる五輪の出場権を28年ぶりにつかんだ。 そしてアトランタ五輪では初戦で優勝候補のブラジルを1-0で倒す「マイアミの奇跡」を演出。しかし2勝1敗と勝ち越しながら得失点差で3位となり、ベスト8進出を逃してしまった。 当時のチームにOA枠で23歳以上の選手を招集することは可能だったが、議論すらされなかったと記憶している。前園真聖や城彰二、GK川口能活ら若きスター選手が自力でつかんだ五輪切符である。そこに後から入って五輪に出場しようなどとは虫の良い話、といった雰囲気すら漂っていた。 当時のチームにOA枠を使うとして、改めて考えてみると、ラモス瑠偉は有力な候補と思うが、果たして中田英寿と両立できるのか。三浦知良と城の2トップは魅力的だが、高さのある高木琢也か、俊足の岡野雅行の方が攻撃の幅が広がるような気もする。 いずれにせよ、西野朗監督、山本昌邦コーチも含めてファミリー的な雰囲気のあるチームだっただけに、OA枠は考えられなかった。 日本が初めてOA枠を使ったのは00年シドニー五輪のトルシエ監督だった。トルシエ監督は前年の99年はU-20日本を率いてワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を果たした。小野伸二、本山雅志、高原直泰、小笠原満男ら、その後は日本代表で活躍する選手が数多くいた。 彼らに、97年のワールドユースでベスト8入りした宮本恒靖や松田直樹らの融合したチームはアジア予選を苦もなく突破した。 そして本大会では経験豊富なGK楢崎正剛、DF森岡隆三、FW三浦淳宏の3人のOA枠も使い、32年ぶりにグループリーグを突破してベスト8に進出した。このチームの強みを一言で表すとしたら「継続性」ということになるだろう。 過去に例を見ない、1人の監督が3チームを率いたからだ。指導方法についてケチをつけるつもりはないが、99年にU-20日本を率いて準優勝、00年の五輪ではベスト8,そして02年日韓W杯でベスト16と、3大会で結果を残した。 こうして過去を振り返ってみると、当時のトルシエ・ジャパンと現在の森保ジャパンは共通点が多い。「1チーム2カテゴリー」で活動を続け、OA枠にも国際舞台、海外経験が豊富で数々の修羅場をくぐり抜けてきた3人を加えた。 まずは負けないこと。そのためには守備を安定させるというポリシーも似ている。12日のジャマイカ戦が終われば、誰が最終メンバーに残るかが注目されるだろう。こちらはこちらで楽しみたいと思う。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.11 11:45 Fri
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難しいハンドの判定/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)は31日、競技規則改正のメディア説明会を実施した。項目は以下の4点だった。 ・手に当たればすべてがハンドになるわけではない。 ・脳しんとうによる交代の試行。 ・コロナによる交代要員の追加の延期。 ・オフサイドに関して、「どこまでが腕なのかの定義(脇の下の最も奥の位置)」が明記。 この中で時間を割いて扇谷審判委員会トップレフェリーグループマネジャーが説明したのがハンドについてで、「IFAB(国際サッカー評議会)のルールブックからも多くの文言が消えた」とのことだ。 具体的な例をあげるとすれば、まず意図的に手で触った場合はもちろんハンドとなる。相手のシュートやクロスをブロックに行った際に、手が体から離れて広がっていたり、手が肩より上ならいままで通りハンドの判定だ。 そしてノーハンドとなるのは、体に近い自然な動き、避けようとした手や腕が体の内側にある場合(体に密着している)、自分でプレーしてトラップやキックミスから手に当たった場合、スライディングした手や腕が自分の体を支えていた場合、偶発的に手に当たってこぼれたボールを味方がシュートして得点した場合(自分で得点したらハンドになる)などが報告された。 スライディングした手が体を支えていても、19年のアジアカップ準決勝のイラン戦ではハンドの判定から日本にPKが与えられた。 同じくアジアカップでは準々決勝のベトナム戦でCKから吉田のヘディングシュートが自分の手に当たったことでゴールを取り消されたし、決勝のカタール戦では相手のヘディングシュートが吉田の上げた手に当たりPKと判定されたことも記憶に新しいだろう。いずれもVARの判定結果だった。 ただし、こうした事例と実際のVTRを見ても、どこまでがハンドで、どこからはノーハンドか判断が難しい。扇谷審判委員会トップレフェリーグループマネジャー自身も「ハンドは難しい判定。ノーマルスピードでは分からなくても、VARだとハンドに見えてしまう事例が増えた。判定は主観的なため一貫性が欠如する」と話し、「選手の動きが妥当かどうか」が判断基準になると説明した。 Jリーグの映像を見ても、故意でも偶発的でも守備側の選手の手にボールが当たれば、攻撃側の選手は反射的に「ハンド!」と叫んでいる。これはJリーグに限らず少年からシニアまで、サッカー経験者なら誰もが同じリアクションをするはずだ。 そして、ややこしいのは、例えばVARで主審がオンフィールドレビューをしたら、同じ映像がスタジアム内で流される。しかし、例えば大相撲は物言いがついた理由を説明するが、サッカーでは主審がジャッジについて説明することはない。 だからこそ、ファン・サポーターの間で「議論を呼ぶ」ことも確かだが、ペナルティエリア内のハンドの判定は簡素化されたとはいえ、やはり判断は難しい。 ちなみに冒頭に書いた4点は6月19日から導入される。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.02 12:15 Wed
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20世紀のアジア男子ベストイレブン/六川亨の日本サッカーの歩み

国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)という組織があるらしい。ウィキペディアによると「サッカーに関する様々な歴史や記録などを扱っている組織である。略称はIFFHS。1984年3月27日にライプツィヒにて発足。国際サッカー連盟(FIFA)は協力関係にないと明言している」そうだ。現在はクラブチームの世界ランキングのベスト10を発表していて、ザルツブルクが10位にランクインしている。 このIFFHSが今月8日、公式サイトで20世紀のアジア男子ベストイレブンを発表した。ジャーナリスト、元選手、専門家の投票に基づいて選定されたとある。フォーメーションは3-4-3で、選出選手を国別に見ると、日本から3人、韓国から3人、サウジアラビアから3人、イランから2人と、ほぼ順当な顔ぶれと言える。 「20世紀」と限定することで、日本は98年のフランスW杯の1回しか出場していないが、それはイラン(78年と98年の2回)とサウジ(94年と98年)も似たようなもの。この3カ国は21世紀に入ってW杯の出場回数を増やしているからだ。 それでは次に具体的な選手名をあげていこう。 GKはサウジのモハメド・アル・デアイエ。 日本は94年のアメリカW杯アジア最終予選の初戦でサウジと対戦した。高木琢也、ラモス瑠偉とヘッドでつないだボールを福田正博がボレーシュート。決まったかに見えた一撃をアル・デアイエは左手1本でストップし、0-0のドローに持ち込んだ。しなやかな身のこなしから好セーブを連発し、サウジのW杯初出場の立役者となった。 DFは3人で、右から井原正巳、ホン・ミョンボ(韓国)、奥寺康彦。 この3人は、今さら説明の必要はないだろう。ホン・ミョンボは90年イタリアW杯から02年の日韓大会まで4大会連続出場。00年のシドニー五輪にもOA枠で出場し、12年ロンドン五輪では監督として銅メダルを獲得。14年の南アW杯にも監督として参加した。 井原はホン・ミョンボと並び「アジア最高のリベロ」と評された。若くして代表入りし、クレバーなプレーなど共通点も多い。W杯は98年大会しか出ていないが、国際Aマッチ出場123試合と長期間に渡って日本のDF陣を牽引した。 難しいのは奥寺だ。W杯も五輪の出場もない。とはいえ当時は今と違い、2大会とも「狭き門」だった。しかし「アジア人初のプロサッカー選手」であり、当時は欧州で最もレベルの高かったブンデスリーガの1FCケルンでリーグ戦とカップ戦の優勝を経験。さらにチャンピオンズ・カップでもベスト4に進出した。いずれも日本人はもとよりアジア人としても初の快挙であるため、選出は妥当と思われる。 MFは右からサイード・オワイラン(サウジ)、キム・ジュソン(韓国)、アリ・パービン(イラン)、三浦知良の4人。オワイランとカズはウイングバックというポジションだ。 まずアリ・パービンという選手は残念ながら記憶にない。1946年生まれだから、健在なら75歳ということで、釜本邦茂氏らメキシコ五輪銅メダル組と同年代だ。しかし当時の対戦記録を調べてみても、彼の名前を発見することはできなかった。 オワイランは本来FWだが、チーム構成上MFに入れたのだろう。“ドーハ組"の1人で、GKデアイエとともにサウジのW杯初出場に貢献。アメリカでの本大会ではグループリーグのベルギー戦で60メートルのドリブル突破からゴールを決めて観客の度肝を抜いた。初出場でサウジをベスト16に導いたストライカーだった。 韓国のキム・ジュソンの選出には首をかしげざるをえない。スピードに乗ったドリブルを得意とするストライカーで、W杯もメキシコ大会から3大会連続して出場している。しかし彼を選出する前に、チェ・スンホという才能豊かなオールラウンダーがいる。86年メキシコ大会のグループリーグ、イタリア戦では強烈なミドルシュートを決めていて、90年イタリア大会はキャプテンを務めた。たぶんキム・ジュソンはIFFHSのアジア年間最優秀選手賞を3年連続して受賞しているから選出されたのだろう。 三浦知良、キング・カズはW杯も五輪も出場経験はない。しかし日本人として初めてブラジルでプロ契約を結び、アジア人で初めてセリエAでプレーしたパイオニアであることが評価されたようだ。さらに、いまもまだ現役である点もリスペクトされたのかもしれない。 最後にFWである。チャ・ブングン(韓国)、アリ・ダエイ(イラン)、マジェド・アブドゥラー(サウジ)の3人だ。 チャ・ブングンは奥寺がブンデスリーガ入りしたのに刺激を受けてフランクフルトへ移籍。UEFAカップ優勝2回を誇り、ブンデスリーガ通算98得点はアジア人最多である。308試合出場も20年6月に長谷部誠に抜かれるまで最多だった。 アリ・ダエイはイランが誇るスーパースターだ。国際Aマッチ通算109得点は世界記録である。93年のアメリカW杯予選第2戦では日本から決勝点を奪い(2-1)、98年フランスW杯の第3代表決定戦でも一時はリードする2点目を決めるなど“日本キラー"でもあった。バイエルン・ミュンヘンではリーガ優勝を経験するなどヨーロッパでも優れた得点感覚を発揮した。 最後はサウジのマジェド・アブドゥラーだ。オワイランが「砂漠のマラドーナ」なら、アブドゥラーは「砂漠のペレ」と言われたストライカーだ。84年にシンガポールで開催されたロス五輪予選アジア最終戦では日本と別グループだったため直接の対戦はなかったが、そのスピードは桁外れに速かった。ロス五輪とアメリカW杯に出場し、139試合67得点の記録を残しているが、これは現在もサウジ史上最多記録である。 こうしてみると妥当な人選だが、日本人ならもう1人、名前をあげたくなる。メキシコ五輪得点王の釜本邦茂だ。アリ・パービンに代わって釜本が入れば非常に攻撃的なチームが作れる。 ただ、ゲームを作る選手がいないのが難点でもある。木村和司を起用するか。それとも名波浩、中田英寿、小野伸二? 誰にするかは読者にお任せしたい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.05.26 12:30 Wed
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5月15日Jリーグの日にまつわる思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

5月15日は「Jリーグの日」と言われている。今から28年前の93年5月15日、国立競技場でヴェルディ川崎(現東京V)対横浜マリノス(現横浜FM)の試合が開催された(2-1でマリノスの勝利)。 当時は翌16日の日曜日に残りの4試合がデーゲームとナイトゲームで開催された。昨日のJ1リーグではガンバ大阪と浦和レッズの試合が17時から開催されたが、奇しくも93年の開幕戦と同一カードだった。 この「Jリーグの日」、93年から制定されていたわけではない。2017年にJリーグが初めて制定して数々のイベントを開催するようになった。たぶん村井チェアマンの発案ではないだろうか。 というのも、初代の川淵チェアマン以降、歴代のチェアマンである鈴木氏(鹿島)、鬼武氏(C大阪)、大東氏(鹿島)の3氏はいずれもJクラブの社長経験者だった。このため「5月15日」は身近なため特別な感情を抱いていなかったのではないだろうか。その点、村井氏は一サッカーファンだったため、「5月15日」に特別な思いがあったと推測される。 28年前の開幕戦は、ヴェルディ川崎のマイヤーのJリーグ初ゴールに始まり、同年の得点王になったラモン・ディアスの決勝点、翌日の鹿島対名古屋戦でのジーコのハットトリックなど話題満載の2日間だった。 当時について、JSL(日本サッカーリーグ)時代は日産でプレーし、Jリーグの創設に伴い出身地の清水エスパルスへ加入した長谷川健太氏(現FC東京監督)は、「一番は我々がどうすればいいのか困った」と回顧する。 それもそうだろう。昨日まではアマチュアでプレーしていたのが、明日からはプロとしてプレーする。しかし「Jリーグができたからといって、すぐに上手くなるわけではない」からだ。 そこで長谷川監督は「とりあえず気持ち、姿勢だけはお客さんに満足してもらおうと開幕を迎えたと思います。戸惑いはあったが、逆にそれで注目していただいて、何か変わらなきゃ、技術はすぐに上手くならないので、気持ちでやろうと。そういう意味で大きく変わったと思います」と当時の心境を述懐した。 当時の試合を見返すと、技術・戦術のレベルは低いものの、行き来の激しい試合を90分以上も続けていた。球際での競り合いは現在より激しく、このため大けがをする選手もいた。そうした激しさ、肉弾戦がファン・サポーターの熱狂を呼び、Jリーグブームを巻き起こしたのだろう。 当時のチケットは「プラチナチケット」と呼ばれ、チケット欲しさに殺人事件が起きる悲しい出来事もあった。 ちなみに当時のサッカーダイジェストはJSL時代もJリーグが誕生してからも、選手インタビューに金銭を支払っていなかった。しかし清水エスパルスの広報から謝礼を要求された際にその理由を聞くと、「選手はプロなので」という返事だった。「プロとは何か」、誰もが試行錯誤の時代だったのかもしれない(もちろん取材は遠慮した)。 「Jリーグの日」に話を戻すと、万博で開催されたG大阪対浦和戦は19時04分キックオフのため、開幕を特集したダイジェストに掲載することはできなかった。なぜかというと、当時はまだデジタル化は到来していないのと、インターネットも現在のように普及していなかったからだ。 撮影はフィルムで行い、現像する必要がある。デーゲームなら新幹線で当日に持ち帰ることができるが、ナイトゲームでは締め切りに間に合わない。そこで掲載を断念しなければならなかった。 今から10数年ほど前のことである。縁あって浦和のムック本を制作することになった。そこで93年の開幕戦のチーム集合写真を国内最大手の写真エージェントに探しに行った。ポジフィルムで撮影された試合だったが、写真の総数は20点くらいで、いずれも選手は豆粒のように小さかった。 当時のカメラは今と違い、オートフォーカスではなく手動でピントを合わせなければならないため技術が要求される。加えて300ミリ以上の望遠レンズも欠かせない。しかし、目の前にある写真はどう考えても素人が撮影したものとしか思えなかった。 そして浦和の集合写真はない。ホームのG大阪の集合写真はあるため、そちらを優先したことで浦和の集合写真は撮り損ねたのだろう。そこでクラブを始め共同通信社などに確認したところ、判明したのはどこも93年の開幕戦の浦和の集合写真は「ない」ということだった。ちょっと衝撃的な事実である。 最後に思いついたのは、地元である埼玉新聞だった。新聞社のためモノクロかもしれないが、知人のサッカー担当記者に電話したところ、結果は「ビンゴ!」だった。ネガフィルムではあるがカラー写真で集合を撮影していた。 これもJリーグが掲げた「地域密着」のおかげかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.05.17 21:45 Mon
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緊急事態宣言継続でも有観客試合を国が推奨?/六川亨の日本サッカーの歩み

何かと慌ただしい週の始まりだった。10日はNPB(日本野球機構)とJリーグの31回目となる「新型コロナウイルス対策連絡会議」が開催された。スポーツニッポンは浦和が酒井宏樹を獲得と報じ、夕方には神戸が“「イニエスタ選手に関する重要な記者会見」のライブ配信実施のお知らせ”を発信した。 会見は11日の14時からだが、神戸とイニエスタの契約は今年で切れる。このため契約延長か、あるいは昨シーズンのACLで負傷し、手術までした大腿が悪化して、今シーズン限りで現役引退かとの憶測が流れた。 その11日は13時からJリーグの実行委員会後の会見があったが、Jリーグも心得ていたのだろう。14時ちょっと前に会見を終え、神戸の会見に支障がないよう配慮した。 イニエスタに関して言えば、すでに報じられているように2年間の契約延長となった。当日37歳となったイニエスタは、2年後は39歳になる。カズや中村俊輔のような例もあるが、彼らは特別だろう。恐らく2年後のシーズンが終わったところで引退を表明するのではないか。 逆算するなら、イニエスタのプレーが見られるのはあと2年しかない。このため復調すればするほど、改めてイニエスタのプレーは注目を集めるに違いない。緊急事態宣言の出されている兵庫県だけに、5000人しかスタジアムに入れないのは神戸ファンにとっても寂しいことだろう。 その緊急事態宣言について、対策連絡会議では斉藤コミッショナーから会見の冒頭に大胆な発言が飛び出した。4都府県の宣言が5月31日まで延長されたことを受け、「31日までにコントロールできるのか。年間スケジュールを立てている組織は、その都度政府と交渉しないといけない。プロ野球は、無観客ならやる意味があまりない」と断言したのだ。 これには村井チェアマンも同調し、「国民の健康が大前提でも、プロは試合を消化するだけでなく、お客さんとの相互作用、生き甲斐や、やり甲斐になる。対策を講じ94~95パーセントは封じるエビデンスができた。去年の選手の感染数を越えたが、オンサイト検査とPCR検査で去年よりバージョンアップしている」と1年間の成果を強調した。 こうした実績が評価されたのかどうかは後述するとして、4都府県に緊急事態宣言が発令されている間、5月1日のFC東京対横浜FM(味スタ)や5日のルヴァンカップ、神戸対FC東京(ノエスタ)は無観客で、リモートマッチで開催された。 ところが緊急事態宣言が継続され、新たに加わった県があるにも関わらず、5000人か収容人数50パーセントの少ない方での有観客試合が認められた。 このことに関して斉藤コミッショナーは「今回は政府の方が緊急事態宣言を継続するなかで、一部緩和策が政府からリリースされた」と、政府が自ら緩和したことを明らかにした。最初の緊急事態宣言では無観客なのに、継続した緊急事態宣言下では有観客に変わっている。この差(矛盾)はどこにあるのだろうか。 変わったのはそれだけではない。例えば私事で恐縮だが、よくシニアの東京都リーグで使用する、西が丘サッカー場の近くにある赤羽スポーツの森という人工芝のサッカー場がある。ここは最初の緊急事態宣言で11日まで使用禁止になった。ところが宣言が継続される12日からは使用が認められた。恐らく施設は東京都ではなく北区のものだからだろう。 テレビでも、東京都美術館(上野)や江戸東京博物館(両国)ら都立の施設は小池都知事の要請により5月31日まで休館となっている。それに対し東京国立博物館(上野)や東京国立近代美術館(竹橋)は休館を止めるという。国立の博物館や美術館を管理する文化庁の職員は「密にならないし、会話もないので休館にする理由がわからない」とテレビの取材に答えたそうだ。 そこで調べたところ、確かに東京都の施設は5月31日まで休館を延長すると、国立の施設はいずれも5月12日から再開したり、夜間の開館を始めたりするとホームページに出ていた。 考えられる理由は1つしかない。NPBやJリーグの要請以上に、国としては五輪開催のためにも観客を入れたスポーツイベントを開催することで、安全性を証明したいのだろう。 対策連絡会議でも三鴨廣繁ドクター(愛知医科大学)は「五輪を開催か中止か。7~8割の世論は反対している。止めるのは簡単だが、準備を進めないと開催できない」と理解を示した。 IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長の来日が延期され、聖火リレーのたび重なる予定変更などで、いつの間にかすっかり“悪者”になってしまった東京五輪。ちょっと可哀想な気がしないでもない。 id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.05.11 18:15 Tue
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