【日本サッカー見聞録】今年の殿堂者入りは指導者4名

2015.08.20 13:23 Thu
▽今年もまた、殿堂掲額記念式典の季節がやって来た。9月10日の式典で今年、殿堂入りするのは松丸貞一、下村幸男、二宮寛、鬼武健二の4氏だ。といっても、ほとんどのファンはJリーグチェアマンだった鬼武氏をのぞいて知らない人々ではないだろうか。かく言う私自身、松丸氏の名前を聞いたのは今回が初めてだった。

▽1909年生まれの松丸氏は、戦前は慶応大学の監督としてリーグ4連覇、慶大OBチームの監督としても天皇杯で4回の優勝を誇る名指導者だった。戦後は初代審判委員長として、審判委員会の体制作りや審判員の技術向上に貢献し、国際審判員としても活躍した。

▽下村氏は1965年からスタートしたJSL(日本サッカーリーグ)で東洋工業(現サンフレッチェ広島)を率いて4連覇を含む5度の優勝を達成したほか、天皇杯にも3度の優勝を果たした名将だ。1979年からは日本代表の監督も務めたが、1980年3月のモスクワ五輪予選で敗退すると辞任した。
▽二宮氏は、奥寺康彦氏の1FCケルン移籍を橋渡ししたことで知っているファンもいるかもしれない。慶応大学卒業後は三菱重工(現浦和レッズ)の選手として活躍後、監督に転身。JSLの最多勝率(60・1%)を記録し、三菱の黄金時代を築いた。1976年からは長沼健(故人)の後を受け日本代表の監督に就任。食事や練習着など選手の待遇改善に着手したが、釜本邦茂氏の代表引退と奥寺氏のケルン移籍でチームは弱体化。1978年のアジア大会で韓国に敗れ退任した。ヘネス・バイスバイラーとの親交から日本の選手を西ドイツに長期留学させるなど、奥寺氏だけでなく多くの選手がその恩恵に浴した。

▽鬼武氏は早大卒業後にヤンマー(現セレッソ大阪)に入社。1967年から1978年まで11年間に渡りヤンマーの監督を務め、JSLで174戦して93勝を記録した最多勝監督だ。JSLと天皇杯で優勝各3回、JSLカップ優勝1回と、タイトルホルダーとしても彼を上回る指導者はいなかった。2006年からは第3代Jリーグチェアマンに就任し、日本サッカーの発展に貢献した。
▽こうして各氏のプロフィールを眺めると、今回は指導者にスポットライトが当たっていることが見て取れる。今年も去年同様、識者の投票ではなく推薦で決まったのは、それだけ年々候補者が減少しているからだろう。JSLで記録を達成した監督2人が今回受賞してしまっただけに、来年の候補者はさらに限定される。

▽すでに殿堂入りが決まっているのは、来年で退任が決まっている大仁邦彌JFA(日本サッカー協会)会長だ。その他に目ぼしい候補者がJリーグ以前の選手、監督でいるかというと、記録としては8試合連続得点のタイ記録を持っている西野朗氏(日立)と、ダブルハットトリック(1試合6得点)の松永章氏(日立)くらいだろう。なぜなら、それ以外のほとんどの記録は釜本氏が持っているからだ。

▽将来的には佐々木則夫監督や澤穂希といった“なでしこ”関係者も殿堂入りするだろうが、毎年のように式典を開催するのであれば、そろそろJリーガーも候補に入れる時代が来ているのかもしれない。ただ、現役の選手や監督は表彰しにくいのも事実である。

【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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