ヨハン・ニースケンス

Johan Jacobus Neeskens
ポジション MF
国籍 オランダ
生年月日 1951年09月15日(73歳)
利き足
身長 178cm
体重 78kg
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ヨハン・ニースケンスのニュース一覧

1月18日、19日の両日、熊本で開催された第14回フットボールカンファレンスにズームで参加した。このカンファレンスは基本的に指導者向けで有料のため、オブザーバーはSNSでの発信を禁じられている。このため「指導者育成システム」の講義内容を紹介することはできない。 そのカンファレンスの冒頭、司会を務めた影山雅永JFA 2025.01.20 13:00 Mon
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かつてバルセロナやアリアンサ・リマで活躍した元ペルー代表FWのウーゴ・ソティル氏が75歳で逝去した。 バルセロナは30日、ヨハン・クライフ氏を擁した時代に活躍したレジェンドの訃報を伝えた。 “チョロ”の愛称で知られるソティル氏は、母国のデポルティボ・ムニシパルでキャリアをスタート。170cmと小柄ながらもセ 2024.12.30 22:40 Mon
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オランダ代表のレジェンドとして知られ、ヨハン・クライフ氏と共にプレーしたヨハン・ニースケンス氏が他界した。73歳だった。 オランダサッカー協会(KNVB)は7日、ニースケンス氏の死去を発表。KNVBのワールドコーチプロジェクトでアルジェリアに滞在していたが、帰らぬ人となったという。 KNVBは「この喪失の大 2024.10.07 23:50 Mon
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◆ヨハン・ニースケンス 【Profile】 国籍:オランダ 誕生日:1990年9月15日 現役時クラブ:アヤックス、バルセロナなど ポジション:MF 身長:178㎝ ▽『今日の誕生日は誰だ!』 9月15日は、元オランダ代表MFヨハン・ニースケンス氏だ。 ▽抜群のアスリート能力を誇ったニースケンス 2018.09.15 07:00 Sat
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デニス・ローの訃報に思い出すトリノでの出会い/六川亨の日本サッカーの歩み

1月18日、19日の両日、熊本で開催された第14回フットボールカンファレンスにズームで参加した。このカンファレンスは基本的に指導者向けで有料のため、オブザーバーはSNSでの発信を禁じられている。このため「指導者育成システム」の講義内容を紹介することはできない。 そのカンファレンスの冒頭、司会を務めた影山雅永JFA技術委員長は23~24年に他界したサッカー界のレジェンドたちを追悼するため黙祷を行った。 ボビー・チャールトン、マリオ・ザガロ、フランツ・ベッケンバウアー、アンドレアス・ブレーメ、ルイス・メノッティ、クリストフ・ダウム、ゴラン・エリクソン、サルバトーレ・スキラッチ、ヨハン・ニースケンスら60年代から90年代にかけて活躍した選手・監督たち。 そして日本人では日本代表や三菱のチームドクターとしてパイオニア的な存在だった大畠襄ドクター、70年のメキシコW杯で線審を務め、日本人初のW杯審判員を務めた丸山義行レフェリー、フジタ工業(現湘南)でJSLや天皇杯に優勝し、平塚や群馬の監督を歴任した植木繁晴氏、清水東高校の勝沢要監督、大宮や札幌で活躍したものの昨年1月に38歳の若さで逝去した横山知伸氏、そして昨年末に99歳で亡くなられたフリージャーナリストの賀川浩氏へ哀悼の意を表した。 そして19日、スコットランド代表で、マンチェスター・ユナイテッドの黄金時代を築いたFWデニス・ロー氏の訃報が飛び込んできた。84歳だった。 ロー氏はハダースフィールドでプロのキャリアをスタートさせると、マンチェスター・シティ、トリノを経てユナイテッドに加入。リーグ優勝に加えFAカップ制覇、そしてユナイテッド初のチャンピオンズ・カップ(現CL)優勝にも貢献。ポジションはいまでいうシャドーストライカーで、エレガントなプレースタイルからゴールを量産し、ジョージ・ベストのクロスから鮮やかなヘディングシュートを決めるシーンを「ダイヤモンドサッカー」で見た記憶がある。 ユナイテッドでは通算400試合以上に出場し、237ゴールを記録。スコットランド代表でも55試合に出場し、ケニー・ダルグリッシュと並ぶスコットランド代表歴代最多となる30得点を記録した。スコットランド代表の選手としてただ一人、64年にバロンドールも受賞している。そしてシティとユナイテッドの両チームでプレーした初めての選手でもあった。 W杯の出場は74年西ドイツ大会の1回だけだったのは、やはり英国4協会で別々に予選を戦ったため“世界の壁”は厚かったということだろう。当時のロー氏はすでに34歳。初戦のザイール戦こそスタメン出場を果たし、ピーター・ロリマーとジョー・ジョーダンのゴールで2-0と勝ったものの、ブラジルと0-0、ユーゴスラビアと1-1の結果、得失点差でグループリーグ敗退を余儀なくされ、ロー氏のW杯出場は1試合で終わった。 この大会にイングランドは出場していなかったが、ロングボール主体のキック&ラッシュとは違い、ショートパスをつないで攻めるスコットランドのスタイルは新鮮な驚きだった。 ジョージ・ベストと並んでアイドルだったロー氏に初めて会ったのは1990年イタリアW杯だった。決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン対ブラジル戦を取材にトリノのデッレ・アルピ・スタジアムへ行ったときのことだ。アルプスからの冷たい風が吹き付けるスタジアムだったが、プレスルームのカフェでロー氏はエスプレッソを飲んでいた。思わず声をかけて写真撮影をお願いすると笑顔で応えてくれた。現役時代と変わらない柔和で人懐こい笑顔はいまでも忘れられない。 2025.01.20 13:00 Mon
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オランダのレジェンドがアルジェリアで急逝…クライフらとプレーしたニースケンス氏が73歳で帰らぬ人に

オランダ代表のレジェンドとして知られ、ヨハン・クライフ氏と共にプレーしたヨハン・ニースケンス氏が他界した。73歳だった。 オランダサッカー協会(KNVB)は7日、ニースケンス氏の死去を発表。KNVBのワールドコーチプロジェクトでアルジェリアに滞在していたが、帰らぬ人となったという。 KNVBは「この喪失の大きさと突然さは言葉では言い表せません。我々は彼の妻であるマルリス、彼の子供たち、家族、友人たちにお悔やみを申し上げます」としている。 クライフ氏とファーストネームが同じことから「もう1人のヨハン」と呼ばれたニースケンス氏は、アヤックスやバルセロナで活躍。またアメリカでも長らくプレーし、元西ドイツ代表DFフランツ・ベッケンバウアー氏と共にニューヨーク・コスモスでもプレー。リーグ優勝も経験した。 アヤックス時代には1970-71シーズンからチャンピオンズカップ(現:チャンピオンズリーグ)を3連覇。1971-72、1972-73シーズンはエールディビジ連覇に貢献していた。 オランダ代表としてもクライフ氏と共にプレーし、49試合で17ゴールを記録。1974年の西ドイツ・ワールドカップ(W杯)で準優勝、1978年のアルゼンチンW杯にも出場していた。 晩年をスイスで過ごすと、引退後はスイスでそのまま指導者に。オランダ代表のアシスタントコーチや、NECナイメヘンの監督を務めると、オーストラリア代表、バルセロナでアシスタントコーチを務めたこともあった。 2024.10.07 23:50 Mon
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ペルー代表のレジェンド、ウーゴ・ソティル氏が75歳で逝去…かつて在籍のバルセロナが追悼

かつてバルセロナやアリアンサ・リマで活躍した元ペルー代表FWのウーゴ・ソティル氏が75歳で逝去した。 バルセロナは30日、ヨハン・クライフ氏を擁した時代に活躍したレジェンドの訃報を伝えた。 “チョロ”の愛称で知られるソティル氏は、母国のデポルティボ・ムニシパルでキャリアをスタート。170cmと小柄ながらもセカンドトップや攻撃的MFを主戦場に、卓越したテクニックとドリブル、パスセンスを武器にチャンスメーカーとして活躍。 1973年にバルセロナへ移籍すると、クライフ、アセンシ、レシャック、マルシアルなどのレジェンドをを擁したチームで活躍。14年間遠ざかっていたプリメーラ優勝に大きく貢献した。 ただ、バルセロナでは翌シーズンにクライフの相棒ヨハン・ニースケンスの加入によって、当時2枠に制限されていた外国人枠の影響で出場機会を失った。その翌年には再びメンバーに復帰したものの、かつての輝きを取り戻せず、アリアンサ・リマへ完全移籍。以降はインデペンディエンテ・メデジン、古巣ムニシパルなどプレーした。 また、ペルー代表では通算62試合に出場し18ゴールを記録。1975年のコパ・アメリカ制覇や1970年、1978年のワールドカップにも出場した。 2024.12.30 22:40 Mon