JリーガーよりJFL選手?! “出場機会”を追い続けて…プロへの近道より大切にした自分の軸
2025.12.29 12:00 Mon
アスリートのキャリアはともかく多彩だ。所属が変わることが多いし、チームにいながら「試合に出られない期間」がある選手もいる。サッカーならばJ1、J2、J3、JFL (日本サッカーリーグ/J1から数えて4部相当)、地域リーグといった多層のカテゴリーがある。JFLや地域リーグにも「プロ」がいる一方で、J3以下のカテゴリーならばアマチュア、プロでも兼業している選手がいる。
横河武蔵野FC(東京/JFL)に在籍する末次敦貴さんは現在29歳。左右両足のキック、ビルドアップを強みにするGKだ。東海大学熊本キャンパスからホンダロックSC(宮崎/JFL、現ミネベアミツミFC)に進むと、ラインメール青森FC(JFL)、コバルトーレ女川(宮城/東北リーグ)、横河武蔵野FCと通算4クラブでプレーしてきた。
ホンダロックSCでは同社の正社員として勤務し、青森時代はプロ契約だった。今は人材派遣会社の株式会社リクルートスタッフィングでフルタイム勤務をしながら、横河武蔵野FCでゴールキーパーとしてのポジションを複数の選手と競い合っている。プレイヤーとしては「試合に出られないJリーガーより、試合に出ているJFL選手の方がいい」という明確なキャリア観を持ち、様々な立ち位置を経験してきた。
しかし、サッカー選手として上を目指すことだけを考えていたのは2022年まで。2023年に横河武蔵野FCへ加入した彼は、人生の大きな決断をするーー。インタビューの前編はJFL、地域リーグで7シーズンのキャリアを重ねた末次さんに、主にサッカー選手としてのキャリアを語ってもらい、後編ではデュアルキャリアについて語ってもらった。
取材=大島和人/撮影=須田康暉
――選手としてキャリアをまずお聞きします。長崎日大高校、東海大学熊本キャンパスの出身で、高校・大学はプロを毎年出すような「強豪校」でプレーをしていません。
末次 中学時代はサガン鳥栖U-15にいて、U-18にも「上がっていい」というニュアンスでは言われたんです。でも、そのとき「おそらく試合に出られないな」と思いました。私はずっと「試合に出られないと上手くなれない」という考えです。長崎日大を選んだのは出場機会を得られそうだったからです。
大学進学の際も、関東に行って3年、4年経ってから試合に出るなら、九州で早い時期から試合に出た方がプロに近いと思いました。東海大熊本なら可能性が高いと思いましたし、GKコーチが井嶋正樹さんという指導力の高い方だったので選びました。
――大学時代は大学の選抜チームが参加する「デンソーカップ」で九州選抜のメンバーに入って、ロアッソ熊本の特別指定選手にもなっていました。
末次 大学もケガをしている時以外はほぼ出ていましたが、ずっとチームは九州大学サッカー連盟1部の残留争いでした。九州選抜では、3年の時に出たデンソーカップチャレンジサッカーで全日本選抜を1-0で倒しています。
――「Jリーグに行けるかも」という感覚はあったんですか?
末次 正直ありました。しかし当時所属していたチームには1年の時からずっと練習に行っていたのですが、この進路は無くなってしまって……。4年のときも、Jクラブから正式なオファーは最後まで来なかったです。
――JFLのホンダロックSCに加入します。これは社員としての採用ですか?
末次 そうです。ホンダロックSCは社員選手以外の選択肢はありません。正式に加入すると決めたのは大学4年の10月で、一般社員の内定と同じタイミングでした。仕事も8時間やって、練習は(午後)6時からです。
――アスリートとしてはベストの環境ではないと思います。そこはどう受け止めていましたか?
末次 しっかりとお金をもらいながら、自分に投資ができる状態でプレーしたいと思いました。収入の安定は精神的な安定につながりますから、そういった状態でサッカーをした方がいいと考えました。ホンダロックSCでもほぼメインで試合に出ることができました。
――安定した収入を得ながらプレーできていたということでしょうか?
末次 しっかりと収入を得ていました。
――どんな仕事をしていたんですか?
末次 1年目は生産管理部調達課で在庫管理と出荷を担当していました。デスクと現場作業が半々で、最終出荷の検品もやっていました。
――1年でホンダロックSCを辞めて、同じJFLのラインメール青森FCに移籍します。
末次 2年目もホンダロックSCでプレーするつもりでした。ラインメール青森FCはプロ契約だったので、当時の私には魅力的でした。そのとき初めて、「選手として自分が役立てるチームを選ぶ」というそれまでの自分の軸と外れた決断をしましたね。
ホンダロックSCの環境に不満はまったく無かったです。「社業とサッカーの両立」にプライドを持ってやっている、かっこいい先輩ばかりでした。ただ先輩に「在籍が長くなると居心地が良くなり、移籍しづらくなる方も多い。行ってくるのもありじゃないか?」と言われたとき、チャレンジしてみようと思ったんです。
それまで進路はずっと九州内で決めてきました。九州を出るのは嫌だったんですけど、サッカーで上を目指しているのにそんな理由はないなと思って、チャレンジを決断しました。
――先輩は応援してくれたのですね。
末次 すごく応援してくれました。出ていくと決めたときには「頑張ってこい」と言ってもらって、そういう懐の深さは今も感謝しています。
――青森はどうでしたか?
末次 本音を言うと、寒い環境で生活することに不安が大きかったです。サッカーで言うと、Jリーグを経験していた方々もたくさんいたので、練習からレベルはかなり高いなと思いました。「環境に染まることは上手くなるための近道でもある」という考えが一つ増えた2年間でした。一方で試合出場は減りました。コロナでシーズンが半季の15試合になったこともあり、移籍初年度は2試合、翌年は6試合の出場でした。
――ラインメール青森FCに2シーズンいて、東北リーグのコバルトーレ女川に移籍します。
末次 ラインメール青森FCから更新の話はいただいていましたが、やはり試合に出られるところに移籍したかったです。話のついていたチームは一つありましたが破談となって、契約満了のリリースを出してからのチーム探しでした。JFLのチームはほぼ枠が埋まっていて、一つお話が来たクラブは提示された条件が厳しく、生活との両立が難しいと感じました。
それと別に仕事を紹介いただく話はありましたけど、2部練習もありますし、フルタイム勤務は厳しい環境のため、別の仕事とサッカーの両立は厳しいように思いました。
でも地域リーグは5つくらいオファーが来たんです。コバルトーレ女川は最初に声をかけてくれて、他のクラブとの交渉の間もずっと待ち続けてくれました。それでコバルトーレ女川に決めて、1年所属しました。
――2023年に今プレーしている横河武蔵野FCに移籍して、リクルートスタッフィングでの勤務も始まりました。今はサッカー、ビジネスのデュアルキャリアです。
末次 試合出場がサッカー選手として一番の就活だと思っていたので、オファーが来た中で自分の力が発揮できるのではと感じたチームを選びました。コバルトーレ女川で1年やって、正規のオファーが2つ来ました。その中で横河武蔵野FCは、同じポジションである真田幸太選手の抜けるタイミングだったので、チャンスだと思いました。私は試合に出られないJリーガーより、試合に出ているJFL選手の方がいいという考えでずっとやってきましたから。
しかしなかなか試合出場の機会を得られず、自分で仕事を探さないといけなくなりました。とりあえず横河武蔵野FCのスクールでアルバイトをして、日雇いにも行って、さらに貯金も崩してつないでいた時期です。デュアルキャリアを選ぶことで、経済的に自立できるチャンスが生まれたので、やってみようという気持ちが生まれましたね。
※後編につづく
後編は12月25日公開予定
【末次敦貴プロフィール】
株式会社リクルートスタッフィング エリア営業統括部西東京営業ユニット 1グループ
横河武蔵野FC ゴールキーパー
福岡県出身 1996年生まれ
中学時代はサガン鳥栖U-15に所属。長崎日大高校、東海大学熊本でプレーし、大学時代は九州選抜としてデンソーカップチャレンジサッカーに出場、ロアッソ熊本の特別指定選手としても登録された。
大学卒業後はホンダロックSCに社員選手として加入。その後、ラインメール青森FC、コバルトーレ女川、横河武蔵野FCと通算4クラブでプレー。現在はJFLで守護神としてレギュラー争いをしながら、株式会社リクルートスタッフィングでフルタイム勤務を行う、デュアルキャリアを実践している。
横河武蔵野FC(東京/JFL)に在籍する末次敦貴さんは現在29歳。左右両足のキック、ビルドアップを強みにするGKだ。東海大学熊本キャンパスからホンダロックSC(宮崎/JFL、現ミネベアミツミFC)に進むと、ラインメール青森FC(JFL)、コバルトーレ女川(宮城/東北リーグ)、横河武蔵野FCと通算4クラブでプレーしてきた。
ホンダロックSCでは同社の正社員として勤務し、青森時代はプロ契約だった。今は人材派遣会社の株式会社リクルートスタッフィングでフルタイム勤務をしながら、横河武蔵野FCでゴールキーパーとしてのポジションを複数の選手と競い合っている。プレイヤーとしては「試合に出られないJリーガーより、試合に出ているJFL選手の方がいい」という明確なキャリア観を持ち、様々な立ち位置を経験してきた。
取材=大島和人/撮影=須田康暉
――選手としてキャリアをまずお聞きします。長崎日大高校、東海大学熊本キャンパスの出身で、高校・大学はプロを毎年出すような「強豪校」でプレーをしていません。
末次 中学時代はサガン鳥栖U-15にいて、U-18にも「上がっていい」というニュアンスでは言われたんです。でも、そのとき「おそらく試合に出られないな」と思いました。私はずっと「試合に出られないと上手くなれない」という考えです。長崎日大を選んだのは出場機会を得られそうだったからです。
大学進学の際も、関東に行って3年、4年経ってから試合に出るなら、九州で早い時期から試合に出た方がプロに近いと思いました。東海大熊本なら可能性が高いと思いましたし、GKコーチが井嶋正樹さんという指導力の高い方だったので選びました。
――大学時代は大学の選抜チームが参加する「デンソーカップ」で九州選抜のメンバーに入って、ロアッソ熊本の特別指定選手にもなっていました。
末次 大学もケガをしている時以外はほぼ出ていましたが、ずっとチームは九州大学サッカー連盟1部の残留争いでした。九州選抜では、3年の時に出たデンソーカップチャレンジサッカーで全日本選抜を1-0で倒しています。
――「Jリーグに行けるかも」という感覚はあったんですか?
末次 正直ありました。しかし当時所属していたチームには1年の時からずっと練習に行っていたのですが、この進路は無くなってしまって……。4年のときも、Jクラブから正式なオファーは最後まで来なかったです。
――JFLのホンダロックSCに加入します。これは社員としての採用ですか?
末次 そうです。ホンダロックSCは社員選手以外の選択肢はありません。正式に加入すると決めたのは大学4年の10月で、一般社員の内定と同じタイミングでした。仕事も8時間やって、練習は(午後)6時からです。
――アスリートとしてはベストの環境ではないと思います。そこはどう受け止めていましたか?
末次 しっかりとお金をもらいながら、自分に投資ができる状態でプレーしたいと思いました。収入の安定は精神的な安定につながりますから、そういった状態でサッカーをした方がいいと考えました。ホンダロックSCでもほぼメインで試合に出ることができました。
――安定した収入を得ながらプレーできていたということでしょうか?
末次 しっかりと収入を得ていました。
――どんな仕事をしていたんですか?
末次 1年目は生産管理部調達課で在庫管理と出荷を担当していました。デスクと現場作業が半々で、最終出荷の検品もやっていました。
――1年でホンダロックSCを辞めて、同じJFLのラインメール青森FCに移籍します。
末次 2年目もホンダロックSCでプレーするつもりでした。ラインメール青森FCはプロ契約だったので、当時の私には魅力的でした。そのとき初めて、「選手として自分が役立てるチームを選ぶ」というそれまでの自分の軸と外れた決断をしましたね。
ホンダロックSCの環境に不満はまったく無かったです。「社業とサッカーの両立」にプライドを持ってやっている、かっこいい先輩ばかりでした。ただ先輩に「在籍が長くなると居心地が良くなり、移籍しづらくなる方も多い。行ってくるのもありじゃないか?」と言われたとき、チャレンジしてみようと思ったんです。
それまで進路はずっと九州内で決めてきました。九州を出るのは嫌だったんですけど、サッカーで上を目指しているのにそんな理由はないなと思って、チャレンジを決断しました。
――先輩は応援してくれたのですね。
末次 すごく応援してくれました。出ていくと決めたときには「頑張ってこい」と言ってもらって、そういう懐の深さは今も感謝しています。
――青森はどうでしたか?
末次 本音を言うと、寒い環境で生活することに不安が大きかったです。サッカーで言うと、Jリーグを経験していた方々もたくさんいたので、練習からレベルはかなり高いなと思いました。「環境に染まることは上手くなるための近道でもある」という考えが一つ増えた2年間でした。一方で試合出場は減りました。コロナでシーズンが半季の15試合になったこともあり、移籍初年度は2試合、翌年は6試合の出場でした。
――ラインメール青森FCに2シーズンいて、東北リーグのコバルトーレ女川に移籍します。
末次 ラインメール青森FCから更新の話はいただいていましたが、やはり試合に出られるところに移籍したかったです。話のついていたチームは一つありましたが破談となって、契約満了のリリースを出してからのチーム探しでした。JFLのチームはほぼ枠が埋まっていて、一つお話が来たクラブは提示された条件が厳しく、生活との両立が難しいと感じました。
それと別に仕事を紹介いただく話はありましたけど、2部練習もありますし、フルタイム勤務は厳しい環境のため、別の仕事とサッカーの両立は厳しいように思いました。
でも地域リーグは5つくらいオファーが来たんです。コバルトーレ女川は最初に声をかけてくれて、他のクラブとの交渉の間もずっと待ち続けてくれました。それでコバルトーレ女川に決めて、1年所属しました。
――2023年に今プレーしている横河武蔵野FCに移籍して、リクルートスタッフィングでの勤務も始まりました。今はサッカー、ビジネスのデュアルキャリアです。
末次 試合出場がサッカー選手として一番の就活だと思っていたので、オファーが来た中で自分の力が発揮できるのではと感じたチームを選びました。コバルトーレ女川で1年やって、正規のオファーが2つ来ました。その中で横河武蔵野FCは、同じポジションである真田幸太選手の抜けるタイミングだったので、チャンスだと思いました。私は試合に出られないJリーガーより、試合に出ているJFL選手の方がいいという考えでずっとやってきましたから。
しかしなかなか試合出場の機会を得られず、自分で仕事を探さないといけなくなりました。とりあえず横河武蔵野FCのスクールでアルバイトをして、日雇いにも行って、さらに貯金も崩してつないでいた時期です。デュアルキャリアを選ぶことで、経済的に自立できるチャンスが生まれたので、やってみようという気持ちが生まれましたね。
※後編につづく
後編は12月25日公開予定
【末次敦貴プロフィール】
株式会社リクルートスタッフィング エリア営業統括部西東京営業ユニット 1グループ
横河武蔵野FC ゴールキーパー
福岡県出身 1996年生まれ
中学時代はサガン鳥栖U-15に所属。長崎日大高校、東海大学熊本でプレーし、大学時代は九州選抜としてデンソーカップチャレンジサッカーに出場、ロアッソ熊本の特別指定選手としても登録された。
大学卒業後はホンダロックSCに社員選手として加入。その後、ラインメール青森FC、コバルトーレ女川、横河武蔵野FCと通算4クラブでプレー。現在はJFLで守護神としてレギュラー争いをしながら、株式会社リクルートスタッフィングでフルタイム勤務を行う、デュアルキャリアを実践している。
出典:https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20251229/2102878.html
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