被災した子どもたちの「こころのケア」を目的とする浦和レッズの活動。15年目の「ハートフルサッカーin東北」

2025.11.15 12:00 Sat
©サッカーキング
浦和レッズが2011年から続けてきた東日本大震災支援プロジェクト「ハートフルサッカーin東北」。被災した子どもたちの「こころのケア」を目的とするこの活動が、15年目の節目を迎えた今年で一区切りとすることになり、このほど最後の東北訪問が実施された。

誰もが忘れ得ない「3.11」の震災。その直後である2011年7月から始まった東北訪問は今回で30回目を数え、現地で開催したサッカー教室は延べ70回を超えた。また、みちのくへ足を運び続けてきたハートフルクラブのコーチたちにとって、約6400人の東北の子どもたちと触れ合ってきたこの15年間は常に特別な一期一会の積み重ねだった。「こころ」に傷を負った子どもたちに笑顔と希望を届けるために始まった支援は長い年月の中でどのような絆を生み、この先の未来へどうつながっていくのか――。


浦和レッズハートフルクラブの一行が15年間の活動の区切りとして東北の地を訪れたのは、秋の色が深まりつつある10月21日から25日の5日間だった。浦和レッズが被災地支援でいち早く東北を訪れることになったのは、浦和レッズOBであり、当時のジュニアアカデミーコーチの内舘秀樹(現アカデミーダイレクター)が、岩手県山田町の自宅が津波で流された親戚から、「被災地の子どもたちのこころが危機的な状況に陥っている」と聞かされたことがきっかけだ。

2003年の発足以来、さいたま市や海外で「こころを育む」活動を行っていたハートフルクラブは一刻も早く被災地の子どもたちの「こころのケア」をしたいとの思いを募らせ、関係機関との懸命な調整の下、震災から約4カ月後の2011年7月に「国連の友アジア―パシフィック」と連携して一路みちのくへ向かったのだった。





そういった経緯によって始まった活動の中で、ハートフルクラブがコロナ禍の時期も欠かさず毎年訪問してきたのが岩手県山田町だ。



山田小学校で行われた今回の「ハートフルサッカーin東北」には同小の6年生68人が参加。子どもたちはまず、体育館で落合弘キャプテンの45分間の講話にたっぷりと耳を傾けてからグラウンドに出て、ハートフルサッカー定番の「人数ゲーム」を行った。




緑色のビブスを着た「わさびチーム」とオレンジ色のビブスを着た「キムチチーム」に分かれ、指定された人数ごとにピッチに出て行うこの「人数ゲーム」は、点が入ったときの歓声や励ましの声が盛んに飛び交う応援合戦も重要な要素のひとつ。最後まであきらめず一生懸命にボールを追う子どもたちは実にたくましく、さわやかな笑顔がまぶしかった。



昨年もサッカー少年団でハートフルサッカーに参加したという男子児童は、人数ゲームで大活躍。「パスを出すときにはおもいやりが必要というのが分かりました。これからも浦和レッズを応援したいです」と目を輝かせた。



また、女子児童は落合弘キャプテンの講話について、「スポーツに関する講話を聞くのは初めてでした。失敗したときにどうしてそうなったのかを、自分で考えることの大切さなどを聞けて、これからの学校生活や家でも生かしていけるようなことを学びました」と感想を語ってくれた。




2011年の震災時、園児40人を保育士らが背負って裏山へ逃げたという岩手県大槌町の「おおつちこども園」では、年中・年長の24人の子どもたちが元気よくハートフルクラブのコーチ陣を迎え、笑顔いっぱいにボールを蹴って楽しんだ。



これには、今回特別参加した浦和レッズアカデミーロールモデルコーチの興梠慎三も自然と笑顔になっていた。興梠は現役時代の2013年にもトップチームの一員として大槌町の吉里吉里小学校などを訪問して子どもたちとサッカーを通じた交流を行っていたが、ハートフルクラブの活動に同行したのは今回が初めて。ハートフルクラブならではの子どもたちとの接し方や、十数年前と比べて格段に整備された道路や町並みをしみじみと見つめていた。




ハートフルクラブのコーチ陣と園児たちとのやりとりでは、側で見ていた八木澤弓美子園長が思わず涙する場面があった。それは、園児の前でコーチがシュートの手本を示し、「誰かやってみたい人!」と声を掛けたときのこと。昨年のハートフルサッカーでは一度もボールを蹴らないまま終わっていた「Hくん」が真っ先に「はい!」と手を挙げて立ち上がり、コーチの手本どおりに一生懸命シュートしたのだ。

「Hくんは体を動かすのが苦手で、去年のハートフルサッカーでは最初から最後まで『僕はやらないよ』と壁を作り、全くボールを蹴らなかったのです。その子が一番に手を挙げて…。涙が止まりませんでした」

ハートフルクラブが蒔いた、サッカーの楽しさを伝える種は、大人も気づかないうちに子どものこころの中で育っていた。八木澤園長は何度も目尻を拭った。



おおつちこども園では、2012年にレッズOBである長谷部誠さんがユニセフのボランティアとして来園し、ハートフルクラブと一緒に開いたサッカー教室がきっかけで、サッカー選手になりたいという目標を立てた2人の卒園生がいる。

2人は2022年にそれぞれ専修大学北上高等学校と盛岡大学附属高等学校に進学し、3年生だった昨年秋の全国高校選手権・岩手県大会で対戦。その試合で勝利した専大北上はさらに勝ち進んで全国大会に出場した。そして、2人は今もそれぞれ進学先の大学でサッカーに打ち込んでいる。



当時の長谷部さんは日本代表キャプテン。八木澤園長は「長谷部さんのようなキラキラしたスターに会い、2人はサッカー選手になりたいという夢を持ちました。『本物に勝る教材はなし』とよく言いますが、本当にそのとおりだと見せつけてもらえました。保育の中だけではこのようなことはなし得なかったと思います。夢に近づけていったのはレッズのお陰です」と感謝した。



サッカー教室を終えたあとは園内に入り、園児たちが岩手県沿岸地方に古くから伝わる「虎舞」や「ソーラン節」の演舞を元気いっぱいに披露。何度も練習を重ねたことがひと目で分かる素晴らしい出来映えや、みんなで声をそろえて「ありがとうございました」と言うかわいらしい姿に、ハートフルクラブのコーチ陣は目を真っ赤にしていた。



また、おおつちこども園の保護者の代表として、震災時に4歳だった園児のご両親から浦和レッズへ寄せられた感謝の手紙が披露された。手紙には、「震災以来、外へ出ることを怖がっていた長男が、あの日夢中になってサッカーをしていた姿が今でも目に焼きついております。この出会いから長男はプロサッカー選手になるという大きな目標を立て、心から夢中になれるものと出合うことができました。レッズの皆様にお会いできたことで、一人ひとりが大きな力をいただき、そしてつながりを感じたことで、絆という言葉の本当の意味を改めて教えていただいたように思います」としたためられていた。



最後に八木澤園長はこのように言った。「震災で津波を見て外に出られないという子どもも多かった中で、レッズのサッカーをきっかけに外で遊べるようになっていきました。私は一度も支援と感じたことがありません。それくらい心が温かく、私たちも巻き込んでもらうサッカー教室でした」

15年という長い時間を経て、当初は支援という形でスタートした「子どもたちの笑顔を取り戻すための活動」は、東北の地でまるで文化のように根づいていた。そして今では、もはや支援ではなく交流へと姿を変えている。




区切りとなる今回の活動を終え、2011年から毎年参加してきた神野真郎コーチはこのように言う。

「震災直後の夏に初めてこちらに来させてもらうとき、どういった関わりがいいのかいろいろ考えました。子どもたちがハートフルの活動に参加している時間だけは、不安なことを少しでも忘れて、元気な笑顔になってほしい。そういった取り組みを続けていけば保護者の方や地域の方が安心するのではないか。そう思いながら続けてこられました」

神野コーチは数年前の来訪時、ちょうど同時期に開催されていたお祭りで出会った少年から、「昔、ハートフルサッカーに参加したことがあって、楽しかったです」と声を掛けられたときの喜びを今も忘れられないという。何年も活動を継続してきたからこそ生まれた会話だったからだ。



「声をかけてくれた少年の中には、年齢から逆算すると大変だったときの直後だったと思われる子もいて、不安な状態の中でも僕らの活動が楽しい思い出として記憶に残ってくれるのはうれしかったです」。神野コーチは感無量の表情を浮かべる。



15年間で目に見えるものがどんどん変わっていったことも印象深いという。震災で園舎が流されたおおつちこども園では、水没を免れた地域で間借りしていた場所でのサッカー教室から始まり、その後は元の場所に建てたプレハブでの活動になり、数年後に新校舎になり、今では園庭に多くの遊具が設置された賑やかな景色が広がっている。




また、ハートフルクラブの一行は震災からしばらくは遠野市から通っていたが、今では山田町にホテルができ、当時はなかった高速道路もできている。



発足以来ずっと浦和レッズハートフルクラブを牽引している落合弘キャプテンは、シンプルな言葉に思いを凝縮させるように、こう言った。「我々は子どもとたくさん触れ合ってきましたが、いつも子どもから元気をもらっているのは我々なんです。我々がここに来られるのは『どうぞ来てください』と言ってくれる方々がいるからなんです。もう、感謝しかありません」



落合弘キャプテンの言葉が示すとおり、被災地の支援で出会う子どもたちの笑顔はハートフルクラブのコーチ陣のエネルギーでもあった。山田町で少年団や学校と密接に連携し、「ハートフルサッカーin東北」の活動を支えてきた岩手県山田町教育委員会事務局 生涯学習課係長の齋藤絢介氏は、「今思えばあっという間でしたが、思い出を積み重ねてこられた15年でした」としみじみとした口調で言う。

齋藤氏は忘れられない思い出がある。2019年5月に山田町や近隣で活動しているスポーツ少年団6チームによる『第1回 浦和レッズ杯 山田町ハートフル少年サッカー大会』を開いたときのことだ。

「会場の(山田町)総合運動公園は、震災直後は土のグラウンドでしたが、その場所が人工芝グラウンドに切り替わって2019年に第1回の浦和レッズ杯が行われました。震災直後の大変だったときに浦和レッズの皆さんに手を差し伸べていただいたことに感謝の気持ちしかありません」



15年間に山田町と浦和レッズがともに積み重ねてきた思いを未来へ残すべく、山田町では「浦和レッズ杯」を今後も引き続き開催することを決めている。この大会は、次世代を担う子どもたちの交流の場として、毎年5月のゴールデンウィーク期間に開催されており、山田町と近隣から約6チームが参加している。



齋藤氏は「ハートフルサッカーの活動に区切りがついても、この『浦和レッズ杯』は続けていこうと決めています。カップを用意していただいている大会を継続していくことで、大会名の由来や、こういう支援があったんだよという説明にもつながっていく。そうすることで、今まで私たちが支援いただいたことの恩返しをしていく大会になったらいいなと思っているのです。今後は山田町からさいたまに行くぐらいの気持ちでつながっていきたいと思ってます」と話す。

また、齋藤氏は「レッズの方々とは『当時はああだったね、こうだったね』という会話もできます。それは15年の間にさまざまな変化を見ていただいているからです」とも言う。そして、「レッズさんのおかげでもあると思うのですが、サッカー人口が少しですけど増えているんですよ」と教えてくれた。



浦和レッズでは今後も引き続きレッズジュニアが山田町を訪れ、地元の少年団サッカーチームの子どもたちと試合を交えながら交流していく方針を持っている。ハートフルクラブが今後も大会に携わっていく予定もある。

サッカーを通じた交流と成長の場は、これからもずっと東北の子どもたちが次の世代へ『パス』をつないでいくプラットフォームに、そして浦和レッズと東北の子どもたちがこころを通わせていくプラットフォームになっていくに違いない。

文=矢内 由美子



出典:https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20251115/2088096.html


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