マンチェスター・C初来日はウソ/六川亨の日本サッカーの歩み

2019.07.29 16:00 Mon
Getty Images
先週末の7月27日は「EURIJAPAN CUP2019」の横浜F・マリノスvsマンチェスター・シティを取材した。試合はマンチェスター・Cが3-1で勝ったが、驚かされたのはベップ・グアルディオラ監督が、チェルシーやバルセロナのようにハーフタイムで多くの選手を入れ替えたりはせず、主力選手を終盤まで使ったことと、観衆が6万5025人と新記録を達成したこと。そして“ロストフの惨劇”を演出したデ・ブライネはやっぱり巧いということだった。

マンチェスター・Cは8月4日にリバプールとのFAコミュニティ・シールドを控えているだけに、グアルディオラ監督もチームの完成度を早めるため主力選手を使い続けたのだろう。対する横浜FMもポステコグルー監督の目指すポゼッションスタイルを貫きつつ、早めにタテパスを入れるサッカーを披露して後半戦の躍進を感じさせた。
さて今回のマンチェスター・Cの来日に関しては“初”と紹介しているサイトもあったが、すでに43年前の1976年5月に来日している。当時の日本代表はモントリオール五輪予選で韓国とイスラエル(当時はアジアに所属していた)に完敗し、長沼健監督が勇退。代わりに三菱の監督だった二宮寛氏が代表監督に就任し、その初戦がマンチェスター・C戦だった。

東京の国立競技場で2試合、名古屋と広島で各1試合を行って、結果は3-0、1-0、1-0、2-0と無失点で4連勝を果たした。

当時の日本は、一度は代表から引退を表明した釜本邦茂こそ欠場したものの(二宮監督の説得により現役復帰)、後に1FCケルン入りする奥寺康彦、永井良和らメキシコ五輪後の選手が台頭。対するマンチェスター・Cは、レジェンドであるデニス・ロー(マンチェスター・Uでも活躍)こそ2年前に引退していたが、1975-76年にリーグカップを制するなど上り調子のチームだっただけに、4連敗も仕方なかったかもしれない。
当時は浪人生だったが、年間1万円を払えばどの試合も観戦できた「日本サッカー後援会」に入っていたため、国立競技場での2試合は観戦したはずだが、試合の記憶はまったく残っていない。

前年1月に来日したバイエルン・ミュンヘンは、フランツ・ベッケンバウアーやゲルト・ミュラー、カール=ハインツ・ルンメニゲら錚々たるメンバーだっただけに、“目玉になる選手"が不在だったことも記憶に残っていない一因かもしれない。東京での第1戦の観衆は、雨が降っていたせいもあり6945人と寂しい数字だった。

それから43年後は10倍近い観衆が詰めかけた。かつては「マンチェスター」と言えばユナイテッドを指したものだが、日産スタジアムにはチームカラーであるライトブルーのユニホームを着たシティファンが大勢詰めかけ、チャントを歌ってチームを応援した。いまの若者は、「マンチェスター」と言えばシティを指すのかもしれない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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