Jリーググローバルアンバサダーの創設に思うこと/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.07.01 21:30 Mon
ブラジルで開催中のコパ・アメリカはウルグアイがPK戦でペルーに敗れる波乱があった。日本戦でPKを決めたスアレスが失敗したのは意外だった。フランスで開催中の女子W杯では優勝候補の地元フランスが、同じく優勝候補のアメリカに敗れた。ベスト4はアメリカ、イングランド、日本を下したオランダ、スウェーデンで、ヨーロッパの3チームは来夏の東京五輪の出場権を獲得した。
彼らの役割は、(1)インタビューなどを通じてJリーグを国内外へ発信するJリーグの広報活動の支援業務、(2)海外・アジア戦略をサポートしてJリーグを世界に紹介するスポークスマン、(3)元所属クラブとの交流イベントへの参加、(4)ホームタウン活動などの参加による社会貢献活動、などが主な内容である。
もともとは村井満Jリーグチェアマンが2017年の年末にマラカナンで開催されたチャリティーマッチに招待され、試合後にレオナルドら元ブラジル代表OBと食事をした際に、「ジーコ氏が代表OBを大切にしていたことにブラジルの財産を感じた」ことがグローバルアンバサダー創設の発端だった。
「Jリーグのなかで多くの外国籍選手が活躍している。彼らのネットワークを作って、海外にJリーグを発信していくことが可能かどうかジーコ氏にOB会の設立を相談したのがきっかけだった」と設立の経緯を説明した。
会見にはジーコ氏とブッフバルト氏が参加したが、興味深かったのは両氏が日本人の海外移籍に関して警鐘を鳴らしたことだ。
ブッフバルト氏は「日本人の若い選手の海外移籍だが、試合になかなか出られていない。練習では対戦相手はいつも同じだ。これが試合なら、毎回対戦する選手もチームも変わる。経験を積むには試合に出ないとダメだ。このため若い選手は最初から大きなクラブに行くのではなく、小さなクラブで経験を積んでから大きなクラブに行った方がいい。そのいい例が長谷部誠だ。最初は世界的に見ても大きなクラブ(ヴォルフスブルク)ではなかった。そうした選手がJリーグに戻って来て、経験したことをJリーグの若い選手に伝えて欲しい」と持論を語った。
これに対しジーコ氏も「私もギドの意見に同感だ。ブラジルでも同じことが起こっている。若くしてヨーロッパに移籍し、強いチームではないのに試合で継続的にプレーできていない。食事など文化的にも慣れることができず、ずっとベンチにいるかベンチにも入れていない。まずはブラジルのサッカーに馴染み、ブラジルで経験を積んでからヨーロッパに行くべきだ。私が日本代表の監督の時に長谷部をチームに呼んだが、彼はそのよい例だ」と同調した。
レアル・マドリーに移籍する久保建英を意識しての発言ではないだろうが、ヨーロッパのトップリーグではないベルギーやオランダ、ポルトガルに移籍しても出番のない、もしくは出場していてもトップリーグに移籍できない日本人選手の現状を的確に指摘していた。
グローバルアンバサダーとして海外に発信するだけでなく、国内の若手選手にも今後は苦言を呈して欲しいと思ったものだ。
そして話は変わるが、W杯で優勝した元Jリーガー21名が気になったので調べてみた。
最も古い選手は、なんと37年も前の1982年のスペインW杯で優勝したイタリア代表のダニエロ・マッサーロ(清水)だった。
4年後のメキシコW杯で優勝したアルゼンチンからはパスクリ、エンリケ、バティスタの3選手(いずれもPJMフューチャーズ)がJリーグでプレーしたが、強烈なインパクトを残すことはできなかった。
1990年のイタリアW杯で優勝した西ドイツ(当時)からは、ブッフバルトとウーベ・バインの浦和コンビと、ピエール・リトバルスキー(当時はジェフ市原)の3選手。ここらあたりになると記憶している読者もいるのではないだろうか。
続く1994年のアメリカW杯ではブラジルから多くの選手がJリーグに参戦した。ジョルジーニョ、ベベート(鹿島では活躍できなかったが)、ドゥンガ(磐田)、ジーニョ(横浜フリューゲルス)、レオナルド(鹿島)、ミューレル(短期間だったが柏でプレー。W杯では控え選手)、ジウマール(C大阪)、ロナウダン(W杯に出場しなかったが清水でプレー)と8名が優勝メンバーに名を連ねた。
その後も1998年のフランス代表からは来日した選手は皆無だったが、2002年日韓大会ではブラジルからルイゾン(名古屋)、エジウソン(柏)の2名がJリーグでプレーした。残念ながら2人はW杯でインパクトを残すことはできなかったが、エジウソンは柏でゴールを量産した後での代表復帰だったため、柏のファン・サポーターは応援したかもしれない。
そして近年は2010年南アフリカW杯で初優勝したスペインからイニエスタ、F・トーレス、ダビド・ビジャが、2014年ブラジルW杯からルーカス・ポドルスキーがそれぞれ神戸と鳥栖に参戦したことは記憶に新しいところだ。
こうして振り返ると多くの名選手がJリーグに参戦してきた。
W杯得点王としては、Jリーグ創設時のゲリー・リネカー(1986年メキシコW杯/名古屋)に始まり、スキラッチ(1990年イタリアW杯/磐田)、ストイチコフ(1994年アメリカW杯/柏)、ディエゴ・フォルランとビジャ(2010年南アW杯/C大阪と神戸)と5人の選手がJリーグでプレーしている。
現在のJリーグは若手選手を海外に輩出する“輸出国”だが、今後は再び“輸入大国”としてアジアの盟主となり、国内リーグを盛り上げられるか。その意味でも今回のグローバルアンバサダー発足による活動と、ACLでの躍進に注目したい。
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国内に目をむければ、J1リーグで最下位に沈んだ磐田の名波浩監督が辞任を表明した。クラブのレジェンドとして黄金時代の復活を期待されたものの、チームの若返りと活性化を図れなかったのは、監督だけに責任があるのかどうか微妙な問題でもあるだろう。さて先週6月27日はJリーグが、元Jリーガー4名のグローバルアンバサダー就任を発表した。ジーコ氏、ブッフバルト氏、ドゥンガ氏、洪明甫氏の4名である。もともとは村井満Jリーグチェアマンが2017年の年末にマラカナンで開催されたチャリティーマッチに招待され、試合後にレオナルドら元ブラジル代表OBと食事をした際に、「ジーコ氏が代表OBを大切にしていたことにブラジルの財産を感じた」ことがグローバルアンバサダー創設の発端だった。
村井チェアマンは帰国後、2018年3月28日時点でJリーグに来日した外国籍選手は1258名もいること。そして代表選手は362名で、W杯で優勝した選手は21名、監督は8名いたことを確認した。
「Jリーグのなかで多くの外国籍選手が活躍している。彼らのネットワークを作って、海外にJリーグを発信していくことが可能かどうかジーコ氏にOB会の設立を相談したのがきっかけだった」と設立の経緯を説明した。
会見にはジーコ氏とブッフバルト氏が参加したが、興味深かったのは両氏が日本人の海外移籍に関して警鐘を鳴らしたことだ。
ブッフバルト氏は「日本人の若い選手の海外移籍だが、試合になかなか出られていない。練習では対戦相手はいつも同じだ。これが試合なら、毎回対戦する選手もチームも変わる。経験を積むには試合に出ないとダメだ。このため若い選手は最初から大きなクラブに行くのではなく、小さなクラブで経験を積んでから大きなクラブに行った方がいい。そのいい例が長谷部誠だ。最初は世界的に見ても大きなクラブ(ヴォルフスブルク)ではなかった。そうした選手がJリーグに戻って来て、経験したことをJリーグの若い選手に伝えて欲しい」と持論を語った。
これに対しジーコ氏も「私もギドの意見に同感だ。ブラジルでも同じことが起こっている。若くしてヨーロッパに移籍し、強いチームではないのに試合で継続的にプレーできていない。食事など文化的にも慣れることができず、ずっとベンチにいるかベンチにも入れていない。まずはブラジルのサッカーに馴染み、ブラジルで経験を積んでからヨーロッパに行くべきだ。私が日本代表の監督の時に長谷部をチームに呼んだが、彼はそのよい例だ」と同調した。
レアル・マドリーに移籍する久保建英を意識しての発言ではないだろうが、ヨーロッパのトップリーグではないベルギーやオランダ、ポルトガルに移籍しても出番のない、もしくは出場していてもトップリーグに移籍できない日本人選手の現状を的確に指摘していた。
グローバルアンバサダーとして海外に発信するだけでなく、国内の若手選手にも今後は苦言を呈して欲しいと思ったものだ。
そして話は変わるが、W杯で優勝した元Jリーガー21名が気になったので調べてみた。
最も古い選手は、なんと37年も前の1982年のスペインW杯で優勝したイタリア代表のダニエロ・マッサーロ(清水)だった。
4年後のメキシコW杯で優勝したアルゼンチンからはパスクリ、エンリケ、バティスタの3選手(いずれもPJMフューチャーズ)がJリーグでプレーしたが、強烈なインパクトを残すことはできなかった。
1990年のイタリアW杯で優勝した西ドイツ(当時)からは、ブッフバルトとウーベ・バインの浦和コンビと、ピエール・リトバルスキー(当時はジェフ市原)の3選手。ここらあたりになると記憶している読者もいるのではないだろうか。
続く1994年のアメリカW杯ではブラジルから多くの選手がJリーグに参戦した。ジョルジーニョ、ベベート(鹿島では活躍できなかったが)、ドゥンガ(磐田)、ジーニョ(横浜フリューゲルス)、レオナルド(鹿島)、ミューレル(短期間だったが柏でプレー。W杯では控え選手)、ジウマール(C大阪)、ロナウダン(W杯に出場しなかったが清水でプレー)と8名が優勝メンバーに名を連ねた。
その後も1998年のフランス代表からは来日した選手は皆無だったが、2002年日韓大会ではブラジルからルイゾン(名古屋)、エジウソン(柏)の2名がJリーグでプレーした。残念ながら2人はW杯でインパクトを残すことはできなかったが、エジウソンは柏でゴールを量産した後での代表復帰だったため、柏のファン・サポーターは応援したかもしれない。
そして近年は2010年南アフリカW杯で初優勝したスペインからイニエスタ、F・トーレス、ダビド・ビジャが、2014年ブラジルW杯からルーカス・ポドルスキーがそれぞれ神戸と鳥栖に参戦したことは記憶に新しいところだ。
こうして振り返ると多くの名選手がJリーグに参戦してきた。
W杯得点王としては、Jリーグ創設時のゲリー・リネカー(1986年メキシコW杯/名古屋)に始まり、スキラッチ(1990年イタリアW杯/磐田)、ストイチコフ(1994年アメリカW杯/柏)、ディエゴ・フォルランとビジャ(2010年南アW杯/C大阪と神戸)と5人の選手がJリーグでプレーしている。
現在のJリーグは若手選手を海外に輩出する“輸出国”だが、今後は再び“輸入大国”としてアジアの盟主となり、国内リーグを盛り上げられるか。その意味でも今回のグローバルアンバサダー発足による活動と、ACLでの躍進に注目したい。
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