殿堂掲額者候補3人のプロフィール/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.06.04 12:05 Tue
1週間ほど間が空いてしまったが、今回は先々週に引き続き殿堂掲額者候補3人のプロフィールを紹介したい。
その木村氏の高校時代(広島工業高校)と日産で1年先輩に当たるのが金田喜稔氏だ。彼も日産時代にJSL、JSLカップ、天皇杯の初優勝(2年連続3冠を達成)に貢献し、日本代表として国際Aマッチ58試合(日本代表としては153試合)、JSLベストイレブンに選出されるなど受賞資格を満たしているが、残念なのは早すぎる引退のため、彼の凄さを知るファンが少ないことだ。
初の国際Aマッチとなった日韓定期戦では19歳119日でゴールを決め、これは今でも史上最年少記録として残っている(今年のキリンチャレンジ杯では久保建英に更新の期待がかかる)。しかし84年のロス五輪アジア最終予選で代表からの引退を表明。まだ26歳の若さだった。
現役時代のポジションは左ウイングで、それまでのウイングといえば緩急の変化で抜くか(代表的なのは「赤き血のイレブン」のモデルとなった永井和良氏)、爆発的なスピードで抜くのが一般的だった(日本人プロ第1号の奥寺康彦氏)。
しかし金田氏は多彩な足技で相手を幻惑しつつ、緩急の変化で欧州のプロを相手に翻弄。現在なら中島翔哉や久保建英に連なるテクニシャン系ドリブラーの先駆者でもあった。
最後は現在Jリーグの副チェアマンを務める原博実氏だ。現役時代は「アジアの核弾頭」として日本代表で活躍。国際Aマッチ75試合に出場し(日本代表としては170試合)、37得点(通算70得点)はカズ(三浦知良の55得点)と岡崎慎司(50得点)に抜かれるまで歴代2位の記録を保持し続けていた(1位は釜本邦茂氏の75得点。ちなみに6位は本田圭佑の36得点)。
183センチと、いまでは長身選手と言えないながらも、空中戦の強さでゴールを量産しつつ、左右両足からのシュートも正確だった。
元々、右利きの選手だったが、PKは左足で蹴るので不思議に思い理由を尋ねたところ、「左足は練習を重ねたおかげでインサイドキックは右足より正確に蹴れるようになれました」と教えてくれた。思い切って蹴るのは右足、コースを狙うのは左足と使い分けていたのだ。
今回紹介した3選手を含め、殿堂掲額の候補となるような選手は、人知れず努力を重ねていたことは間違いないだろう。できれば前回紹介した碓井博行氏を含め、皆さんに殿堂入りを果たして欲しいと願わずにはいられない、日本サッカー暗黒の80年代を支えた名選手でもある。
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まずは木村和司氏だ。彼についてはJリーグでプレーを見た読者も多いだろう。元々は右ウイング(当時は4-3-3のフォーメーションが主流だった)だったが、攻撃的MFへとコンバートされて才能が開花。FKの名手でもあり、メキシコW杯アジア最終予選第1戦の韓国戦で決めたFKは今でも語りぐさだ。JSL(日本サッカーリーグ)優勝2回、JSLカップ優勝3回、天皇杯優勝5回、アジア・カップウィナーズ選手権優勝2回という実績のほか、年間最優秀選手3回、JSLベストイレブン5回、Jリーグ功労者表彰に加え、日本代表として国際Aマッチ54試合(日本代表としては129試合)、JSL1部/J1リーグ通算215試合出場と数々の受賞資格を満たしている最有力候補だ。初の国際Aマッチとなった日韓定期戦では19歳119日でゴールを決め、これは今でも史上最年少記録として残っている(今年のキリンチャレンジ杯では久保建英に更新の期待がかかる)。しかし84年のロス五輪アジア最終予選で代表からの引退を表明。まだ26歳の若さだった。
その後は恥骨結合炎や内転筋を痛め、Jリーグの開幕を待たず91年に現役生活と別れを告げる。
現役時代のポジションは左ウイングで、それまでのウイングといえば緩急の変化で抜くか(代表的なのは「赤き血のイレブン」のモデルとなった永井和良氏)、爆発的なスピードで抜くのが一般的だった(日本人プロ第1号の奥寺康彦氏)。
しかし金田氏は多彩な足技で相手を幻惑しつつ、緩急の変化で欧州のプロを相手に翻弄。現在なら中島翔哉や久保建英に連なるテクニシャン系ドリブラーの先駆者でもあった。
最後は現在Jリーグの副チェアマンを務める原博実氏だ。現役時代は「アジアの核弾頭」として日本代表で活躍。国際Aマッチ75試合に出場し(日本代表としては170試合)、37得点(通算70得点)はカズ(三浦知良の55得点)と岡崎慎司(50得点)に抜かれるまで歴代2位の記録を保持し続けていた(1位は釜本邦茂氏の75得点。ちなみに6位は本田圭佑の36得点)。
183センチと、いまでは長身選手と言えないながらも、空中戦の強さでゴールを量産しつつ、左右両足からのシュートも正確だった。
元々、右利きの選手だったが、PKは左足で蹴るので不思議に思い理由を尋ねたところ、「左足は練習を重ねたおかげでインサイドキックは右足より正確に蹴れるようになれました」と教えてくれた。思い切って蹴るのは右足、コースを狙うのは左足と使い分けていたのだ。
今回紹介した3選手を含め、殿堂掲額の候補となるような選手は、人知れず努力を重ねていたことは間違いないだろう。できれば前回紹介した碓井博行氏を含め、皆さんに殿堂入りを果たして欲しいと願わずにはいられない、日本サッカー暗黒の80年代を支えた名選手でもある。
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