平成時代に書いたコラムは1000本越え/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.04.29 16:00 Mon
平成もあと1日で終わり、5月1日からは令和の時代を迎える。そこで手前味噌で恐縮だが、当コラムがスタートしたのはサッカーダイジェストを辞めた01年(平成13年)3月のことだった。当時の超ワールドサッカー編集長だった是永大輔氏(現アルビレックス新潟代表取締役社長)から、「何でも好きなことを書いてください」というオファーを受けてスタートした。
さて平成と言えば、日本サッカーが飛躍的な成長を遂げた31年間と言えるだろう。昭和天皇が崩御した89年(平成元年)は、翌年イタリアで開催されるW杯のアジア1次予選で横山ジャパンはあっけなく敗退した。当時は世界陸上を翌年に控えて国立競技場が改修のため使用できず、インドネシア戦は西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)で行われた。
その事情を知らないインドネシアの監督は、「こんな粗末な会場で試合をさせられた」と憤慨していた。
そんな流れが変わったのは平成2年に日本サッカーにプロ化の機運が高まったことだ。ラモスが日本国籍を取得し、ブラジルからは三浦知良が帰国して読売クラブに加入した。帰国したカズは左ウイングとして活躍したものの、日本ではゴールを決めないとFWは評価されないことを痛感し、その後はストライカーとして覚醒する。
そして92年(平成4年)には日本代表の監督に初めて外国人であるハンス・オフトが就任。同年8月、北京で開催されたダイナスティー杯で初優勝を果たすと、11月の広島でのアジア杯でも初優勝を果たした。さらに93年5月からはJリーグが華々しくスタートする。
サッカーマガジンとサッカーダイジェストは週刊誌となり、駅の売店やコンビニで販売されるなど、昭和の時代には考えられない大ブームがサッカー界に到来した。
残念ながらオフト監督は“ドーハの悲劇"により悲願だったW杯初出場を逃してしまう。しかし96年(平成8年)には西野朗監督が率いるU-23日本代表が28年ぶりの五輪出場を果たし、97年には岡田武史監督が日本を初のW杯に導いた。
以来、五輪とW杯への連続出場を果たして平成の時代は終わりを告げる。令和2年(20年)には56年ぶり2度目となる東京五輪が開催され、ホスト国である日本は男女ともメダル獲得を期待されている。果たして令和の時代の日本サッカーはどのような成長を遂げるのだろうか。
カズでプロ化の幕を開けた日本サッカーには、その後もヒデ、シュンスケ、ケイスケ、シンジと“顔"になる選手が続き、それはショウヤに受け継がれている。彼らに続くであろうタケフサら東京五輪の世代には将来が楽しみな選手が多いだけに、きっと令和の時代を美しく彩ってくれるのではないかと期待している。
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以来18年間、年末年始も「モバイルサイトに休日はありません」ということで一度も欠かさずコラムを書いてきた。年間約52本だから、単純計算でも936本。さらに16年からは木曜にもコラムを書くようになり、こちらは約156本。合計すると1092本の原稿を書いてきたことになる。長い間、お世話になった読者の皆さんには改めて感謝の意を捧げたい。その事情を知らないインドネシアの監督は、「こんな粗末な会場で試合をさせられた」と憤慨していた。
横山謙三監督は89年6月25日の北朝鮮戦に敗れてから翌年9月のバングラデシュ戦で勝利をあげるまでの丸々1年間、15試合勝ち無し(3分け12杯)の惨憺たる成績。ファンから「横山辞めろコール」が起きたのも当然で、いまならとっくに解任されていただろう。逆に言うと、それだけ監督の人材が不足していたことの証明でもあった(加茂監督待望論はあった)。
そんな流れが変わったのは平成2年に日本サッカーにプロ化の機運が高まったことだ。ラモスが日本国籍を取得し、ブラジルからは三浦知良が帰国して読売クラブに加入した。帰国したカズは左ウイングとして活躍したものの、日本ではゴールを決めないとFWは評価されないことを痛感し、その後はストライカーとして覚醒する。
そして92年(平成4年)には日本代表の監督に初めて外国人であるハンス・オフトが就任。同年8月、北京で開催されたダイナスティー杯で初優勝を果たすと、11月の広島でのアジア杯でも初優勝を果たした。さらに93年5月からはJリーグが華々しくスタートする。
サッカーマガジンとサッカーダイジェストは週刊誌となり、駅の売店やコンビニで販売されるなど、昭和の時代には考えられない大ブームがサッカー界に到来した。
残念ながらオフト監督は“ドーハの悲劇"により悲願だったW杯初出場を逃してしまう。しかし96年(平成8年)には西野朗監督が率いるU-23日本代表が28年ぶりの五輪出場を果たし、97年には岡田武史監督が日本を初のW杯に導いた。
以来、五輪とW杯への連続出場を果たして平成の時代は終わりを告げる。令和2年(20年)には56年ぶり2度目となる東京五輪が開催され、ホスト国である日本は男女ともメダル獲得を期待されている。果たして令和の時代の日本サッカーはどのような成長を遂げるのだろうか。
カズでプロ化の幕を開けた日本サッカーには、その後もヒデ、シュンスケ、ケイスケ、シンジと“顔"になる選手が続き、それはショウヤに受け継がれている。彼らに続くであろうタケフサら東京五輪の世代には将来が楽しみな選手が多いだけに、きっと令和の時代を美しく彩ってくれるのではないかと期待している。
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