神戸中央球技場の思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

2019.04.08 18:00 Mon
©︎J.LEAGUE
J1リーグは第6節を終了したが、予想外の展開と言っていいだろう。下馬評では3連覇に挑む川崎F、天皇杯を制し、杉本健勇や山中亮輔らを補強した浦和、そしてACL王者の鹿島が優勝候補として挙げられていた。
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しかし、フタを開けてみると、昨シーズン同様に広島とFC東京が無敗で1、2位と好位置につけている。川崎Fは大島僚太をケガで欠き、小林悠もケガの影響から本調子とはいいがたい。浦和も武藤雄樹と青木拓矢がケガで出遅れた。鹿島だけはじわじわと順位を上げているのは「さすが」と言いたいところだ。意外な健闘を見せているのが開幕戦で鹿島を倒し、札幌、横浜FMと昨シーズンの上位陣から勝点3を奪って4位につけている大分だ。一時はJ3に降格しながら6年ぶりにJ1へ昇格。そしてここまで快進撃を見せている。チームを牽引するFW藤本憲明は6ゴールで得点ランクの首位に立つ。この快進撃がどこまで続くか見物でもある。
期待を集めながら苦戦しているのが神戸だ。先週の松本戦ではポドルスキが足の違和感で欠場。ビジャも右足の違和感から前半41分に交代を余儀なくされた。神戸には、是非とも投資に見合う結果を残して欲しいと思っている。

さて今週は、先週の代表戦に続いて神戸の話題をお届けしたい。ノエビアスタジアムを訪れるのは2013年のラトビア戦以来だから実に6年間も代表戦では使われていなかったことになる。市内からのアクセスも良く、山の上にある宮城スタジアムや大分銀行ドームより、はるかに足の便がいいのだから、使わないのはもったいない。
このノエビアスタジアムは、ご存じのように2002年の日韓W杯のために改修された。今回6年ぶりに訪れ、早めに着いたのでスタジアムの周辺を歩いてみたが、17年前とは様変わりしていたのには驚かされた。スタジアムの前の道路は片側2車線に整備され、ヤマダ電機やニトリといった大型店が立ち並ぶ。

17年前は和田岬駅から歩いて行くと、様々なグッズや食べ物を売る露天が並んでいた。外国人が民家の玄関でお店を開いていたため、帰宅した住民が家の中に入れず警官を呼ぶというハプニングにも遭遇した。W杯ならではの賑やかな光景だった。

もともとノエビアスタジアムは、かつては神戸中央球技場と呼ばれていた。1970年に完成した1万3千人収容のサッカー専用スタジアムである。ナイター設備を備えた初のサッカー専用スタジアムで、当時ナイターでの試合は神戸中央球技場と国立競技場でしか開催されなかった。

70年8月には“モザンビークの黒豹”と呼ばれた1966年イングランドW杯得点王のエウゼビオ擁するベンフィカ・リスボンが来日して日本代表と対戦。神戸で1試合、国立で2試合の計3試合対戦し、エウゼビオは7ゴールを奪う活躍を見せた。

それまで来日した欧州のクラブチームは2~3点取れば手を抜いていたが、ベンフィカは違った。神戸での初戦は3-0、国立では4-1、6-1と完膚なきまでに日本を叩きつぶした。日本は釜本邦茂と森孝慈が1点を返すのが精一杯だった。

話を神戸に戻そう。現在は最寄り駅の御崎公園駅の地名から、御崎サッカー場とも呼ばれたが、当地を訪れたペレが芝生を絶賛し、「グラウンドキーパーにお礼がしたい」と言うほど“三崎の芝”は美しいことで有名だった。そして1981年11月1日のJSL(日本サッカーリーグ)で偉大な記録がここで生まれる。

ヤンマー対本田技研との試合で釜本は、JSL通算200ゴール目を左足で決めたのだ。楚輪博の左からのマイナスのクロスを左サイドにトラップしてのシュートで、それほど強烈ではなかったものの、しっかりコントロールしてゴールに流し込んだ。釜本はさらにヘッドで201点目も決める。残念ながら翌年に右足のアキレス腱を断裂し、生涯通算ゴールは202点で終わったが、誰も到達できない金字塔と言っていいだろう。

02年日韓W杯後は芝生のメンテナンスに問題が生じ、夏場は芝が剥がれるなど荒れたため、15年には神戸のネルシーニョ監督や選手から不満が続出。三木谷オーナーもホームスタジアムからの移転をツイートしたため、16年に芝生を全面植え替えし、18年には日本初のハイブリッド芝となるシスグラスを導入した。

もしかしたら、日本代表の試合が6年間もなかったのは、芝生に問題があったからかもしれない。

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