令和になっても香川の代表記録挑戦は続くのか/六川亨の日本サッカーの歩み

2019.04.01 21:45 Mon
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新元号が「令和(れいわ)」に決まった。西暦でいうと1989年にスタートした「平成」は、日本サッカー界にとって“激動”の時代でもあった。プロ化を模索して動き出したのが平成元年3月のことで、翌年のイタリアW杯予選で横山ジャパンはアジア1次予選であっけなく敗退。そこで日本代表監督に初となる外国人(オランダ人)のハンス・オフトを招聘したのが平成4年(92年)だった。

翌年のアメリカW杯予選ではロスタイムに入る前までは初のW杯出場が濃厚だったものの、イラクのオムラムに同点ゴールを奪われて3位に後退。当時のW杯はアジアから2チームしか出場できなかったため、苦渋を飲むことになった。

それでも同年(93年)にスタートしたJリーグは確実に日本のサッカーを底上げした。それが平成8年(96年)、28年ぶりとなるアトランタ五輪や、平成10年(98年)のフランスW杯出場につながったし、以後、五輪とW杯には連続出場を続けている。

選手個人としても平成6年(94年)にカズ(三浦知良)がジェノバへ移籍して、開幕戦でACミランと対戦した(フランコ・バレージと空中戦で激突して鼻骨を骨折したのは不運だった)。その流れは中田英寿に受け継がれローマでスクデットを獲得。インテル・ミラノやACミランでプレーした選手や、イングランドのプレミアリーグ、ドイツのブンデスリーガで優勝を経験した選手も出現するようになった。いまでは日本代表の主力はほとんどヨーロッパでプレーしていると言っても過言ではない。

そんな平成元年に生まれたのが、2月からトルコ・スーパーリーグのベシクタシュでプレーする香川真司だ。若いと思っていた香川も3月で30歳となった。若返りを図る森保ジャパンでは3月のキリンチャレンジ杯で初めて招集されたものの、結果を残したとは言いがたい。

6月のキリンチャレンジ杯と、それに続くコパ・アメリカで再招集があるのかどうかは、今後のスーパーリーグでの活躍次第だろう。ただ、そんな香川にしかできない日本代表の記録がある。

香川は19歳だった平成20年(08年)に、平成生まれの選手として初めて日本代表に選ばれると、5月のキリン杯コートジボワール戦で代表デビューを飾り、10月のキリンチャレンジ杯UAE戦で代表初ゴールを決めた。19歳206日でのゴールで、これは歴代最年少ゴール3位の記録でもある(1位は金田喜稔氏の19歳119日。2位は永井良和氏の19歳169日)。

2年後の南アW杯はサポートメンバーに終わったが、平成23年(11年)のアジアカップでは準々決勝のカタール戦で2ゴール1アシストの活躍でベスト4進出に貢献。ただ、準決勝の韓国戦で右足第5中足骨を骨折し、決勝戦のオーストラリア戦には出場できなかった。

それでも10代で2ゴール、20代では29ゴールで、通算31ゴールは代表得点ランクの6位につけている。4位タイが本田圭佑と原博実Jリーグ副チェアマンの37ゴールのため、あと7ゴールで彼らを抜ける可能性もある。そして、30代でゴールを決めると10代、20代、30代の各年代でゴールを決めた選手ということになる。

過去にはダントツで代表得点ランク1位(75点)の釜本邦茂氏しか達成していない“昭和”の大記録だ(釜本氏は10代で1ゴール、20代で55ゴールと量産し、30代でも19ゴールをあげた)。残念ながら香川は“平成最後”の代表戦でゴールを決めることはできず、大記録達成とはならなかったが、“令和”でゴールを決めれば釜本氏と並ぶことができる。

そのためにも代表に招集されるよう、ベシクタシュでの活躍に期待したいところだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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