令和になっても香川の代表記録挑戦は続くのか/六川亨の日本サッカーの歩み2019.04.01 21:45 Mon

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新元号が「令和(れいわ)」に決まった。西暦でいうと1989年にスタートした「平成」は、日本サッカー界にとって“激動”の時代でもあった。プロ化を模索して動き出したのが平成元年3月のことで、翌年のイタリアW杯予選で横山ジャパンはアジア1次予選であっけなく敗退。そこで日本代表監督に初となる外国人(オランダ人)のハンス・オフトを招聘したのが平成4年(92年)だった。

翌年のアメリカW杯予選ではロスタイムに入る前までは初のW杯出場が濃厚だったものの、イラクのオムラムに同点ゴールを奪われて3位に後退。当時のW杯はアジアから2チームしか出場できなかったため、苦渋を飲むことになった。

それでも同年(93年)にスタートしたJリーグは確実に日本のサッカーを底上げした。それが平成8年(96年)、28年ぶりとなるアトランタ五輪や、平成10年(98年)のフランスW杯出場につながったし、以後、五輪とW杯には連続出場を続けている。

選手個人としても平成6年(94年)にカズ(三浦知良)がジェノバへ移籍して、開幕戦でACミランと対戦した(フランコ・バレージと空中戦で激突して鼻骨を骨折したのは不運だった)。その流れは中田英寿に受け継がれローマでスクデットを獲得。インテル・ミラノやACミランでプレーした選手や、イングランドのプレミアリーグ、ドイツのブンデスリーガで優勝を経験した選手も出現するようになった。いまでは日本代表の主力はほとんどヨーロッパでプレーしていると言っても過言ではない。

そんな平成元年に生まれたのが、2月からトルコ・スーパーリーグのベシクタシュでプレーする香川真司だ。若いと思っていた香川も3月で30歳となった。若返りを図る森保ジャパンでは3月のキリンチャレンジ杯で初めて招集されたものの、結果を残したとは言いがたい。

6月のキリンチャレンジ杯と、それに続くコパ・アメリカで再招集があるのかどうかは、今後のスーパーリーグでの活躍次第だろう。ただ、そんな香川にしかできない日本代表の記録がある。

香川は19歳だった平成20年(08年)に、平成生まれの選手として初めて日本代表に選ばれると、5月のキリン杯コートジボワール戦で代表デビューを飾り、10月のキリンチャレンジ杯UAE戦で代表初ゴールを決めた。19歳206日でのゴールで、これは歴代最年少ゴール3位の記録でもある(1位は金田喜稔氏の19歳119日。2位は永井良和氏の19歳169日)。

2年後の南アW杯はサポートメンバーに終わったが、平成23年(11年)のアジアカップでは準々決勝のカタール戦で2ゴール1アシストの活躍でベスト4進出に貢献。ただ、準決勝の韓国戦で右足第5中足骨を骨折し、決勝戦のオーストラリア戦には出場できなかった。

それでも10代で2ゴール、20代では29ゴールで、通算31ゴールは代表得点ランクの6位につけている。4位タイが本田圭佑と原博実Jリーグ副チェアマンの37ゴールのため、あと7ゴールで彼らを抜ける可能性もある。そして、30代でゴールを決めると10代、20代、30代の各年代でゴールを決めた選手ということになる。

過去にはダントツで代表得点ランク1位(75点)の釜本邦茂氏しか達成していない“昭和”の大記録だ(釜本氏は10代で1ゴール、20代で55ゴールと量産し、30代でも19ゴールをあげた)。残念ながら香川は“平成最後”の代表戦でゴールを決めることはできず、大記録達成とはならなかったが、“令和”でゴールを決めれば釜本氏と並ぶことができる。

そのためにも代表に招集されるよう、ベシクタシュでの活躍に期待したいところだ。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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久保建英の異才/六川亨の日本サッカーの歩み

先のJ1リーグ、FC東京vs磐田は、久保建英の今シーズンJ1初ゴールでFC東京が1-0の勝利を収め、開幕からの無敗記録を11に伸ばした。右CKからのこぼれ球を久保は鮮やかな左足ボレーで決め、過去4試合ノーゴールに封じこまれていたGKカミンスキーの牙城を破った。 久保のスーパーゴールはその後の報道でも紹介されていたのでここまでにして、彼が凄かったのはゴールだけでなく、そのパスセンスだ。 前半15分にディエゴ・オリヴェイラへ、密集地帯にもかかわらず針の穴を通すようなピンポイントのパスでシュートを演出した。後半28分には中央でボールをキープしつつ、右サイドのスペースにスルーパスで室屋成の攻撃参加を引き出すパス。あまりの意外性にスタンドはどよめいた。残念ながら球足が強く室屋は追いつけなかったが、このパスを見て思い出したのが中田英寿だった。 若かりし頃の中田――98年フランスW杯当時は、味方が間に合わないような強めのパスを出し、それに追いつけないと味方選手を非難した。たぶん“世界基準”では、緩いパスでは相手にカットされるので、パススピードの重要性を早くから認識していたのだろう。足下から足下への緩いパスではJリーグでは通用しても、世界を相手にしては通用しない。そんな思いが中田にはあったのではないだろうか。 似たような思いは80年代にもあった。選手はピッチで戦っているため“1次元”の世界である。しかし記者席で取材していると、上から俯瞰して見られるため“3次元”の視点になる。そこでは、「この状況では、ここにパスを出した方が守備も手薄なため効果的」なのに、違う選択をする選手もいた。 現役を引退したばかりの柱谷幸一氏は、かつての国立競技場の記者席で毎日新聞のコラムニストとして取材した時に、「上から見るとこんなにも(試合の状況が)わかるのですね」と驚いていた。 1次元と3次元の視点の違いである。ところが、3次元の視点で見ていても、「えっ、そんな選択肢があるの?」とか「そこにパスを出すの?」と記者席から見ていて驚かされた選手に初めて遭遇した。それが木村和司だった。 口べたなため、自身のプレーの解説はあまり得意ではない。まさに本能のままにプレーした稀代の名プレーメーカーだろう。 彼の系譜は、その後の日本代表ではラモス瑠偉、名波浩、小野伸二、中村俊輔と引き継がれ、フィジカルを重視される現代サッカーでは本田圭佑が継承者となった。 その次は誰かというと、柴崎岳なのか判断が難しいところに久保という異才が登場した。過去のゲームメーカーとはポジションが違うものの、間違いなく日本サッカーの将来を担う逸材でなないだろうか。 彼のプレーを見られる幸せを、できるだけ長く楽しみたいものでもある。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.05.14 10:30 Tue
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平成時代に書いたコラムは1000本越え/六川亨の日本サッカーの歩み

平成もあと1日で終わり、5月1日からは令和の時代を迎える。そこで手前味噌で恐縮だが、当コラムがスタートしたのはサッカーダイジェストを辞めた01年(平成13年)3月のことだった。当時の超ワールドサッカー編集長だった是永大輔氏(現アルビレックス新潟代表取締役社長)から、「何でも好きなことを書いてください」というオファーを受けてスタートした。 以来18年間、年末年始も「モバイルサイトに休日はありません」ということで一度も欠かさずコラムを書いてきた。年間約52本だから、単純計算でも936本。さらに16年からは木曜にもコラムを書くようになり、こちらは約156本。合計すると1092本の原稿を書いてきたことになる。 長い間、お世話になった読者の皆さんには改めて感謝の意を捧げたい。 さて平成と言えば、日本サッカーが飛躍的な成長を遂げた31年間と言えるだろう。昭和天皇が崩御した89年(平成元年)は、翌年イタリアで開催されるW杯のアジア1次予選で横山ジャパンはあっけなく敗退した。当時は世界陸上を翌年に控えて国立競技場が改修のため使用できず、インドネシア戦は西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)で行われた。 その事情を知らないインドネシアの監督は、「こんな粗末な会場で試合をさせられた」と憤慨していた。 横山謙三監督は89年6月25日の北朝鮮戦に敗れてから翌年9月のバングラデシュ戦で勝利をあげるまでの丸々1年間、15試合勝ち無し(3分け12杯)の惨憺たる成績。ファンから「横山辞めろコール」が起きたのも当然で、いまならとっくに解任されていただろう。逆に言うと、それだけ監督の人材が不足していたことの証明でもあった(加茂監督待望論はあった)。 そんな流れが変わったのは平成2年に日本サッカーにプロ化の機運が高まったことだ。ラモスが日本国籍を取得し、ブラジルからは三浦知良が帰国して読売クラブに加入した。帰国したカズは左ウイングとして活躍したものの、日本ではゴールを決めないとFWは評価されないことを痛感し、その後はストライカーとして覚醒する。 そして92年(平成4年)には日本代表の監督に初めて外国人であるハンス・オフトが就任。同年8月、北京で開催されたダイナスティー杯で初優勝を果たすと、11月の広島でのアジア杯でも初優勝を果たした。さらに93年5月からはJリーグが華々しくスタートする。 サッカーマガジンとサッカーダイジェストは週刊誌となり、駅の売店やコンビニで販売されるなど、昭和の時代には考えられない大ブームがサッカー界に到来した。 残念ながらオフト監督は“ドーハの悲劇"により悲願だったW杯初出場を逃してしまう。しかし96年(平成8年)には西野朗監督が率いるU-23日本代表が28年ぶりの五輪出場を果たし、97年には岡田武史監督が日本を初のW杯に導いた。 以来、五輪とW杯への連続出場を果たして平成の時代は終わりを告げる。令和2年(20年)には56年ぶり2度目となる東京五輪が開催され、ホスト国である日本は男女ともメダル獲得を期待されている。果たして令和の時代の日本サッカーはどのような成長を遂げるのだろうか。 カズでプロ化の幕を開けた日本サッカーには、その後もヒデ、シュンスケ、ケイスケ、シンジと“顔"になる選手が続き、それはショウヤに受け継がれている。彼らに続くであろうタケフサら東京五輪の世代には将来が楽しみな選手が多いだけに、きっと令和の時代を美しく彩ってくれるのではないかと期待している。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.29 16:00 Mon
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なでしこリーグのプロ化は成功するのか/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は、なでしこリーグのプロ化について「もう一段階上に行こうと思うと、プロ化というところを通らないといけないと思うし、具体的に話し合っているのは事実で、近いうちに結論を出したい」と言及したそうだ。 すでに先月26日の理事会で女子担当の佐々木則夫理事(元なでしこジャパン監督)がプロ化の必要性を訴え、20年東京五輪後の21年か22年のプロ化を目指し、早ければ来月5月の理事会で承認を得られればプロ化に舵を切るという。 まだプロ化への具体的な道筋は見えていないので、軽々な発言は控えるべきだろうが、「本当にプロ化してやっていけるのだろうか」というのが正直な感想だ。 Jリーグを例に取るまでもなく、プロ化のためには収入源を確保しなければ成立しない。その3本柱として「入場料収入」、「スポンサーの確保」、「テレビ放映権の獲得」が上げられる。さらにJリーグの場合は、ビッグクラブになればなるほど母体企業である「親会社からの補填」も欠かせない。 しかし、なでしこジャパンがW杯で初優勝した11年の1試合あたりの平均入場者数は2千796人だった。その実数を10倍にしないとプロ化は難しいだろう。JリーグはDAZNのおかげで放映権収入が飛躍的に膨らんだが、なでしこリーグが新たに巨額な放映権を獲得できるのか。親会社からの補填が可能なのはINAC神戸レオネッサくらいではないだろうか――簡単に考えても問題山積だ。 かつて日本女子サッカーリーグには「プロ」に近いチームが存在したことがある。91年に女子のW杯新設と、90年アジア大会で女子サッカーが正式種目になることを受け、89年に女子のリーグ戦が新設された。94年にJリーグに合わせLリーグと改名されたが、90年に創部された日興證券ドリームレディースは完全なプロチームだった。 初代の日本女子代表監督だった鈴木良平氏を招聘した同チームは、鈴木監督の要望した「専用グラウンドとクラブハウスの建設、選手寮の借り上げ、選手が仕事をせずサッカーに専念できる環境」を実現。リンダ・メダレン、グン・ニイボルグらノルウェー女子代表選手を獲得するなど強化に力を入れ、96年から3連覇を果たすなどLリーグを牽引した。 しかし母体企業の日興證券が証券取引法違反に問われた98年中に廃部を決定。さらにバブル経済の崩壊からフジタサッカークラブも廃部。99年1月の全日本女子選手権が終了すると、黎明期の女子サッカーを牽引してきた鈴与清水FCと、シロキFCがリーグからの脱退を表明し、その後もプリマハムや松下電器らチームスポンサーの撤退によりクラブチーム化せざるを得ないチームが相次いだ。 そんな危機的な状況にもかかわらず、関係者の熱意と努力によってLリーグは命脈をつないできた。そして転機となったのが04年にJFAのキャプテンズ・ミッションに「女子サッカーの活性化」が盛り込まれたことだ。4月に行われたアテネ五輪アジア予選での活躍も追い風となった。五輪本大会では「なでしこジャパン」と命名された日本女子代表がベスト8に進出。9月スタートのリーグ戦は「なでしこリーグ」と改められて、紆余曲折を経ながら今日まで続いている。 その後は11年ドイツW杯での優勝、12年ロンドン五輪での銀メダル獲得と栄華を極めたのは周知の事実。しかし澤穂希の引退と主力選手の高齢化で16年ブラジル五輪の出場権を逃してしまった。現在の高倉麻子監督はチームの若返りを図って今夏のフランスW杯に挑むが、けして平坦な道のりではない。来夏の東京五輪ではメダル獲得の期待もかかる「なでしこジャパン」であるが、本大会をはじめ、その先のプロ化にも茨の道が待っているような気がしてならない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.22 19:00 Mon
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類い希な久保のパスセンス/六川亨の日本サッカーの歩み

久保建英については、あらためて紹介する必要はないだろう。“和製メッシ”と言われ、日本代表の各年代でも飛び級で招集され、今年5月にポーランドで開催されるU-20W杯の主力の選手だし、来夏の東京五輪でも活躍が期待される逸材だ。 これまでも10代でJリーグにデビューして脚光を浴びた選手は数多い。例えば香川は密集地帯でもDFの足の届かないところにトラップし、マークをすり抜けてゴールを量産した。井手口や堂安も似たタイプと言え、ドリブル突破を武器に海外移籍を果たした。 もちろん久保も、今シーズン復帰したFC東京では、右サイドのゴールライン上から2人のマークをすり抜けてシュートを放つなど輝いている。4月10日のルヴァン杯・鳥栖戦では、右サイドの難しい角度からのFKを直接決め、シーズン初ゴールでチームを勝利に導いた。 そして14日のJ1リーグ鹿島戦である。ゴールこそ決められなかったが、3ゴールすべてに絡む卓越したパスセンスを披露して、あらためてその才能の高さを示し、香川や堂安とのレベルの違いを証明したと言える。 前半4分、橋本からのタテパスを受けると、体をターンさせながら鹿島の名ボランチであるレオシルバのアタックを封じ、すかさず右サイドの室屋へ絶妙のスルーパス。その波状攻撃からFC東京は永井のヘッドで先制点をもぎ取った。 さらに前半16分と29分には、自陣ゴール前から絶妙なループパスでディエゴオリベイラの2ゴールを演出する。久保自身は「2点目は狙い通りで永井さんがうまくトラップしてくれて、そこからの流れで連係は良かったですね。3点目はアバウトでした。すべてディエゴがやっているので、どうこうはないですね」と話すにとどめた。 確かに2点目は味方のクリアを拾うと前を向き、前線で待つ永井にピンポイントのパスを出し、永井の独走からディエゴオリベイラのゴールに結びついた。久保にとって狙い通りのプレーだったのだろう。 しかし凄いのは「アバウト」に出した3点目につながるパスだ。鹿島のパスミスを自陣ゴール前で受けると、胸トラップからそのまま左足アウトサイドで前線に送る。鹿島CBのクリアミスもありディエゴオリベイラは独走して3点目を決めたが、アバウトでも敵と味方の位置関係を把握してパスを出したセンスは、教えようとしても教えられるものではない。 普通ならトラップして前を向いてからパスを出すか、ドリブルするのが常道だろう。しかし、それでは鹿島に守備陣形を整える時間を与えてしまう。2タッチのプレーが鹿島の若いCB2人をパニックに陥れたことは想像に難くない。 これまでにも東京Vの森本を始め、ストライカーとして若い年代から才能を発揮した選手はいた。香川や柿谷、堂安らだ。しかし久保は、ドリブル突破だけでなく類い希なパスセンスも鹿島戦で披露してみせた。 すでに海外の複数のクラブから、18歳になる6月を前に照会が来ているという。まだ発展途上の選手だけに、どこまでその才能を伸ばすのか。その成長過程をJリーグで見たい気持ちと、海外のビッグクラブで活躍する姿を見たいという気持ちで揺れ動いているのは私だけではないだろう。 U-20日本代表での活躍はもちろんのこと、6月のキリンカップでの招集も楽しみな久保の成長である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.16 18:00 Tue
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神戸中央球技場の思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

J1リーグは第6節を終了したが、予想外の展開と言っていいだろう。下馬評では3連覇に挑む川崎F、天皇杯を制し、杉本健勇や山中亮輔らを補強した浦和、そしてACL王者の鹿島が優勝候補として挙げられていた。 しかし、フタを開けてみると、昨シーズン同様に広島とFC東京が無敗で1、2位と好位置につけている。川崎Fは大島僚太をケガで欠き、小林悠もケガの影響から本調子とはいいがたい。浦和も武藤雄樹と青木拓矢がケガで出遅れた。鹿島だけはじわじわと順位を上げているのは「さすが」と言いたいところだ。 意外な健闘を見せているのが開幕戦で鹿島を倒し、札幌、横浜FMと昨シーズンの上位陣から勝点3を奪って4位につけている大分だ。一時はJ3に降格しながら6年ぶりにJ1へ昇格。そしてここまで快進撃を見せている。チームを牽引するFW藤本憲明は6ゴールで得点ランクの首位に立つ。この快進撃がどこまで続くか見物でもある。 期待を集めながら苦戦しているのが神戸だ。先週の松本戦ではポドルスキが足の違和感で欠場。ビジャも右足の違和感から前半41分に交代を余儀なくされた。神戸には、是非とも投資に見合う結果を残して欲しいと思っている。 さて今週は、先週の代表戦に続いて神戸の話題をお届けしたい。ノエビアスタジアムを訪れるのは2013年のラトビア戦以来だから実に6年間も代表戦では使われていなかったことになる。市内からのアクセスも良く、山の上にある宮城スタジアムや大分銀行ドームより、はるかに足の便がいいのだから、使わないのはもったいない。 このノエビアスタジアムは、ご存じのように2002年の日韓W杯のために改修された。今回6年ぶりに訪れ、早めに着いたのでスタジアムの周辺を歩いてみたが、17年前とは様変わりしていたのには驚かされた。スタジアムの前の道路は片側2車線に整備され、ヤマダ電機やニトリといった大型店が立ち並ぶ。 17年前は和田岬駅から歩いて行くと、様々なグッズや食べ物を売る露天が並んでいた。外国人が民家の玄関でお店を開いていたため、帰宅した住民が家の中に入れず警官を呼ぶというハプニングにも遭遇した。W杯ならではの賑やかな光景だった。 もともとノエビアスタジアムは、かつては神戸中央球技場と呼ばれていた。1970年に完成した1万3千人収容のサッカー専用スタジアムである。ナイター設備を備えた初のサッカー専用スタジアムで、当時ナイターでの試合は神戸中央球技場と国立競技場でしか開催されなかった。 70年8月には“モザンビークの黒豹”と呼ばれた1966年イングランドW杯得点王のエウゼビオ擁するベンフィカ・リスボンが来日して日本代表と対戦。神戸で1試合、国立で2試合の計3試合対戦し、エウゼビオは7ゴールを奪う活躍を見せた。 それまで来日した欧州のクラブチームは2~3点取れば手を抜いていたが、ベンフィカは違った。神戸での初戦は3-0、国立では4-1、6-1と完膚なきまでに日本を叩きつぶした。日本は釜本邦茂と森孝慈が1点を返すのが精一杯だった。 話を神戸に戻そう。現在は最寄り駅の御崎公園駅の地名から、御崎サッカー場とも呼ばれたが、当地を訪れたペレが芝生を絶賛し、「グラウンドキーパーにお礼がしたい」と言うほど“三崎の芝”は美しいことで有名だった。そして1981年11月1日のJSL(日本サッカーリーグ)で偉大な記録がここで生まれる。 ヤンマー対本田技研との試合で釜本は、JSL通算200ゴール目を左足で決めたのだ。楚輪博の左からのマイナスのクロスを左サイドにトラップしてのシュートで、それほど強烈ではなかったものの、しっかりコントロールしてゴールに流し込んだ。釜本はさらにヘッドで201点目も決める。残念ながら翌年に右足のアキレス腱を断裂し、生涯通算ゴールは202点で終わったが、誰も到達できない金字塔と言っていいだろう。 02年日韓W杯後は芝生のメンテナンスに問題が生じ、夏場は芝が剥がれるなど荒れたため、15年には神戸のネルシーニョ監督や選手から不満が続出。三木谷オーナーもホームスタジアムからの移転をツイートしたため、16年に芝生を全面植え替えし、18年には日本初のハイブリッド芝となるシスグラスを導入した。 もしかしたら、日本代表の試合が6年間もなかったのは、芝生に問題があったからかもしれない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.08 18:00 Mon
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