W杯の出場枠増は非現実的/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.03.18 18:00 Mon
FIFA(国際サッカー連盟)は3月15日、フロリダ州マイアミで開催された理事会で、22年カタールW杯は近隣国との共催を条件に出場チームを16チーム増の48カ国とする拡大案を実現可能と認めた。今年6月のパリ総会で可決されれば正式に決まるとアナウンスした。
その他にもホテルは急ピッチで建設しており、高級、中級ホテルに加え、リーズナブルなホテルの他にガルフ湾に巨大客船を停めて臨時の宿泊施設にする「カシマ方式」も計画中とのことだった。それが大会を3年後に控えての参加チーム増である。
FIFAの作業グループによると、48カ国ではカタール単独での開催は難しいという。そもそもW杯は「国開催」、五輪は「都市開催」と区切られるように、国を挙げての一大イベントだ。それがカタールという、日本でいえば秋田県とほぼ同じ国土で開催すること自体、無理があった。それに輪を掛けて参加チーム増である。
正直、驚いた。そしてW杯なら何でも可能になると思っているインファンティノ会長の奢りを感じずにはいられない。世界で紛争が尽きない一番の原因は宗教的な対立だからだ。この話題はここまでにして、今回はW杯の参加チームについて紐解いていこう。
W杯が現行のグループリーグと、それを勝ち上がったチームによるトーナメント方式になったのは1954年のスイス大会からだった。本大会参加チームは16カ国で、決勝トーナメントのシード方式に差はあったものの、同じスタイルで1970年のメキシコ大会まで16年間、5大会ほど続いた。
1974年の西ドイツ大会は、参加チームに変わりはなかったものの、試合数の増加を目的に8チームによる2次リーグが採用され、各グループの1位が決勝、2位が3位決定戦を行うという変則システムだった。この74年大会は西ドイツが2度目の優勝を果たしたが、ヨハン・クライフ率いるオランダが「トータルフットボール」を披露した大会として人々の記憶に残っている。
そしてW杯にとっても転機となる大会だった。開会式の3日前に行われたFIFA総会で、当時のサー・スタンレー・ラウス(イングランド)会長をジョアン・アベランジェ(ブラジル)が破り、新たな会長に就任したからだ。
アベランジェ会長は、その後W杯に次々と改革を起こしてFIFAとW杯そのものを巨大なビジネス・ツールに変貌させていく。その手始めが1982年スペインW杯での参加チーム増で、それまでの16カ国から24カ国に拡大した。
アベランジェ会長自身が74年の会長選の際に掲げた公約が、アジアとアフリカの出場枠の増加だった。これによりアベランジェ会長は選挙でアジアとアフリカの票を集めることができた。その“恩返し”というか、公約実現のために8年後のW杯で参加チームを増加することに成功した。
それまでアジアは(中東とオセアニアを含む)1、アフリカも1で、時には欧州や南米とのプレーオフで出場を断たれててきたサッカー後進国に初めて2枠の出場が認められたのだ。そのおかげでアジアからはクウェートとニュージーランドが、アフリカからはカメルーンとアルジェリアが出場を果たす。
4カ国とも1次リーグで敗退したが、1次リーグでアルジェリアは準優勝の西ドイツを2-1で破り、カメルーンも3位のポーランド、優勝したイタリア、そしてペルー相手に3引き分けとアフリカ勢の健闘が光った大会でもあった。
24カ国による1次リーグと、それを勝ち上がった16カ国による決勝トーナメント方式は86年メキシコ、90年イタリア、94年アメリカと3大会続いた。そして1998年のフランス大会では参加チームが32カ国に増え、アジア枠も従来の2から3・5に増枠された。そのおかげで日本はイランとの第3代表決定戦を制し、W杯初出場を果たしたのは周知の通りだ。
フランス大会では多くの日本人ファンが現地での試合観戦を望み、チケットが入手できないというトラブルも起きた。参加チームの増加は過去の例を見るまでもなく、FIFAに莫大な利益をもたらす。
カタール大会が48カ国になったら、アジアの出場枠も8に拡大されるという。しかしカタール単独での開催は不可能とFIFAは判断し、前述したクウェートやオマーン、サウジアラビアやUAEとの共催を提案するという。しかし5カ国の共催となった場合、開催国の出場枠はどうするのか。単純計算で、残る3枠を日本、韓国、イラン、オーストラリアなどと争うのか。あまりにも不透明で、アンバランスなFIFAの提案と言わざるを得ない。
PR
もともとW杯の参加国増は検討されていて、26年のアメリカ、メキシコ、カナダの3カ国による共催大会から導入する予定だった。しかしFIFAのインファンティノ会長は、それを前倒しにして22年大会から導入するプランを持っていた。昨年7月13日のことだ。ロシアW杯を取材中、カタールのW杯組織委員会はモスクワ市内の巨大な公園、ゴーリキーパークでレセプションを開催した。そこで広報担当者に出場国について確認すると、「32カ国に変更はない。大会は11月21日に開幕し、決勝戦は12月18日だ」と明言した。FIFAの作業グループによると、48カ国ではカタール単独での開催は難しいという。そもそもW杯は「国開催」、五輪は「都市開催」と区切られるように、国を挙げての一大イベントだ。それがカタールという、日本でいえば秋田県とほぼ同じ国土で開催すること自体、無理があった。それに輪を掛けて参加チーム増である。
すでに単独開催では実現不可能として、FIFAの作業グループはカタールと親交のあるクウェートとオマーンでの共催、さらには宗教的な対立から国交断交の続くサウジアラビアやUAEなどとの共催も提案するという。
正直、驚いた。そしてW杯なら何でも可能になると思っているインファンティノ会長の奢りを感じずにはいられない。世界で紛争が尽きない一番の原因は宗教的な対立だからだ。この話題はここまでにして、今回はW杯の参加チームについて紐解いていこう。
W杯が現行のグループリーグと、それを勝ち上がったチームによるトーナメント方式になったのは1954年のスイス大会からだった。本大会参加チームは16カ国で、決勝トーナメントのシード方式に差はあったものの、同じスタイルで1970年のメキシコ大会まで16年間、5大会ほど続いた。
1974年の西ドイツ大会は、参加チームに変わりはなかったものの、試合数の増加を目的に8チームによる2次リーグが採用され、各グループの1位が決勝、2位が3位決定戦を行うという変則システムだった。この74年大会は西ドイツが2度目の優勝を果たしたが、ヨハン・クライフ率いるオランダが「トータルフットボール」を披露した大会として人々の記憶に残っている。
そしてW杯にとっても転機となる大会だった。開会式の3日前に行われたFIFA総会で、当時のサー・スタンレー・ラウス(イングランド)会長をジョアン・アベランジェ(ブラジル)が破り、新たな会長に就任したからだ。
アベランジェ会長は、その後W杯に次々と改革を起こしてFIFAとW杯そのものを巨大なビジネス・ツールに変貌させていく。その手始めが1982年スペインW杯での参加チーム増で、それまでの16カ国から24カ国に拡大した。
アベランジェ会長自身が74年の会長選の際に掲げた公約が、アジアとアフリカの出場枠の増加だった。これによりアベランジェ会長は選挙でアジアとアフリカの票を集めることができた。その“恩返し”というか、公約実現のために8年後のW杯で参加チームを増加することに成功した。
それまでアジアは(中東とオセアニアを含む)1、アフリカも1で、時には欧州や南米とのプレーオフで出場を断たれててきたサッカー後進国に初めて2枠の出場が認められたのだ。そのおかげでアジアからはクウェートとニュージーランドが、アフリカからはカメルーンとアルジェリアが出場を果たす。
4カ国とも1次リーグで敗退したが、1次リーグでアルジェリアは準優勝の西ドイツを2-1で破り、カメルーンも3位のポーランド、優勝したイタリア、そしてペルー相手に3引き分けとアフリカ勢の健闘が光った大会でもあった。
24カ国による1次リーグと、それを勝ち上がった16カ国による決勝トーナメント方式は86年メキシコ、90年イタリア、94年アメリカと3大会続いた。そして1998年のフランス大会では参加チームが32カ国に増え、アジア枠も従来の2から3・5に増枠された。そのおかげで日本はイランとの第3代表決定戦を制し、W杯初出場を果たしたのは周知の通りだ。
フランス大会では多くの日本人ファンが現地での試合観戦を望み、チケットが入手できないというトラブルも起きた。参加チームの増加は過去の例を見るまでもなく、FIFAに莫大な利益をもたらす。
カタール大会が48カ国になったら、アジアの出場枠も8に拡大されるという。しかしカタール単独での開催は不可能とFIFAは判断し、前述したクウェートやオマーン、サウジアラビアやUAEとの共催を提案するという。しかし5カ国の共催となった場合、開催国の出場枠はどうするのか。単純計算で、残る3枠を日本、韓国、イラン、オーストラリアなどと争うのか。あまりにも不透明で、アンバランスなFIFAの提案と言わざるを得ない。
PR
|