【六川亨の日本サッカーの歩み】大迫のブレーメン移籍で思い出す奥寺氏への愚問

2018.07.31 12:00 Tue
Getty Images
▽29日のことだ。ブンデスリーガ1部のヴェルダー・ブレーメンに移籍した大迫勇也が、ドイツ北部のブレーメンの本拠地で入団会見に応じた。前所属の1FCケルンは2部に降格したための移籍だが、ケルンからブレーメンへの移籍といえば、誰もが思い出すのが日本人プロ第1号の奥寺康彦氏だろう。
PR
▽奥寺氏は77-78シーズンにJSL(日本サッカーリーグ)の古河からケルンへ移籍し、同シーズンにはリーグ優勝とドイツカップ優勝の2冠に輝いた。当時の奥寺氏は強烈な左足のシュートを武器にした左ウイングで、ケルンというチーム自体もバイエルン・ミュンヘン、ボルシア・メンヘングラッドバッハと優勝を争う名門クラブだった。▽奥寺氏はその後、同リーグ2部のヘルタ・ベルリンを経て1部に昇格したブレーメンへと移籍を果たす。当時のブレーメン監督オットー・レーハーゲル氏(2004年にポルトガルで開催されたEUROではギリシャを率いて初優勝を遂げる)は、奥寺氏をウイングから3-5-2の左ウイングバックに起用。そこで同氏は労を惜しまぬ豊富な運動量と、堅実で安定した守備からレーハーゲル監督にも高く評価され、地元メディアも「東洋のコンピューター」と賞賛した。
▽そんな奥寺氏は78年の第1回ジャパンカップ(現キリンカップ)にケルンの一員として、82年のジャパンカップ・キリンワールドサッカーと、86年のキリンカップサッカーではブレーメンの一員として3度の凱旋帰国を果たしている。

▽その中で82年はスペインW杯の開催された年だが、この年にサッカー専門誌に入社した若造は、無謀にも奥寺氏にインタビューを申し込んだ。当時はJFA(日本サッカー協会)にも広報担当者はいなかったため、帰国した奥寺氏に対し、たぶんブレーメン付きのJFA職員を通じてインタビュー取材をお願いしたのだと思う。もちろんノーギャラだった。
▽奥寺氏に指定されたのは宿泊先である東京プリンスホテル1階にある喫茶店だった。そこで移籍の経緯や現地での苦労話を聞きつつ、「プロとアマチュアの差はなんですか」という愚問をぶつけた記憶がある。すると奥寺氏は人差し指と親指で示しつつ、「1人1人の差は小さいけれど、それが10人になるとものすごく大きな差になるんだよ」と両手を広げながら教えてくれた。

▽しかし大学を出たての新米記者にはその真意が理解できず、奥寺氏のコメントをそのまま原稿にした恥ずかしい記憶がある。

▽きっと奥寺氏は、選手個々人の瞬時の判断スピード、戦術理解度、ボールを止めて蹴るといったプレースピードやパススピードなどの差がチームとして積み重なった時に、プロとアマチュアでは大きな差になると言いたかったのだろう。その言葉通り、ブレーメンは4試合で15ゴールを奪う攻撃力で初優勝を果たした。

▽この年のキリンワールドサッカーは2年後のロス五輪出場を目指す森ジャパンのスタートとなった年でもあった。エースストライカーの尾崎加寿夫がフェイエノールト戦で4ゴールを奪う活躍で5-2と大勝するなど2位に躍進し、ブレーメンのテスト生として来日した19歳のフランク・ノイバートと得点王に輝いたことも明るい話題だった。

▽話を大迫に戻そう。奥寺氏がブレーメンで活躍したのは82-83シーズンから85-86シーズンまでの5シーズンだった。あれから30年以上が過ぎ、当時は10歳だった少年も不惑の40代を迎えている。それでも奥寺氏の活躍を覚えていれば、それを大迫に重ねて声援を送ってくれるのではないだろうか。

▽奥寺氏が移籍して以来、チームは1度も2部に降格したことがないだけでなく、優勝争いを演じる強豪へと成長した時代もあった。かつての栄光を再び取り戻すことができるのか。今シーズンもブレーメンを始め、ブンデスリーガからは目が離せそうにない。

PR

NEWS RANKING
Daily
Weekly
Monthly