【六川亨の日本サッカーの歩み】大迫のブレーメン移籍で思い出す奥寺氏への愚問2018.07.31 12:00 Tue

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▽29日のことだ。ブンデスリーガ1部のヴェルダー・ブレーメンに移籍した大迫勇也が、ドイツ北部のブレーメンの本拠地で入団会見に応じた。前所属の1FCケルンは2部に降格したための移籍だが、ケルンからブレーメンへの移籍といえば、誰もが思い出すのが日本人プロ第1号の奥寺康彦氏だろう。▽奥寺氏は77-78シーズンにJSL(日本サッカーリーグ)の古河からケルンへ移籍し、同シーズンにはリーグ優勝とドイツカップ優勝の2冠に輝いた。当時の奥寺氏は強烈な左足のシュートを武器にした左ウイングで、ケルンというチーム自体もバイエルン・ミュンヘン、ボルシア・メンヘングラッドバッハと優勝を争う名門クラブだった。

▽奥寺氏はその後、同リーグ2部のヘルタ・ベルリンを経て1部に昇格したブレーメンへと移籍を果たす。当時のブレーメン監督オットー・レーハーゲル氏(2004年にポルトガルで開催されたEUROではギリシャを率いて初優勝を遂げる)は、奥寺氏をウイングから3-5-2の左ウイングバックに起用。そこで同氏は労を惜しまぬ豊富な運動量と、堅実で安定した守備からレーハーゲル監督にも高く評価され、地元メディアも「東洋のコンピューター」と賞賛した。

▽そんな奥寺氏は78年の第1回ジャパンカップ(現キリンカップ)にケルンの一員として、82年のジャパンカップ・キリンワールドサッカーと、86年のキリンカップサッカーではブレーメンの一員として3度の凱旋帰国を果たしている。

▽その中で82年はスペインW杯の開催された年だが、この年にサッカー専門誌に入社した若造は、無謀にも奥寺氏にインタビューを申し込んだ。当時はJFA(日本サッカー協会)にも広報担当者はいなかったため、帰国した奥寺氏に対し、たぶんブレーメン付きのJFA職員を通じてインタビュー取材をお願いしたのだと思う。もちろんノーギャラだった。

▽奥寺氏に指定されたのは宿泊先である東京プリンスホテル1階にある喫茶店だった。そこで移籍の経緯や現地での苦労話を聞きつつ、「プロとアマチュアの差はなんですか」という愚問をぶつけた記憶がある。すると奥寺氏は人差し指と親指で示しつつ、「1人1人の差は小さいけれど、それが10人になるとものすごく大きな差になるんだよ」と両手を広げながら教えてくれた。

▽しかし大学を出たての新米記者にはその真意が理解できず、奥寺氏のコメントをそのまま原稿にした恥ずかしい記憶がある。

▽きっと奥寺氏は、選手個々人の瞬時の判断スピード、戦術理解度、ボールを止めて蹴るといったプレースピードやパススピードなどの差がチームとして積み重なった時に、プロとアマチュアでは大きな差になると言いたかったのだろう。その言葉通り、ブレーメンは4試合で15ゴールを奪う攻撃力で初優勝を果たした。

▽この年のキリンワールドサッカーは2年後のロス五輪出場を目指す森ジャパンのスタートとなった年でもあった。エースストライカーの尾崎加寿夫がフェイエノールト戦で4ゴールを奪う活躍で5-2と大勝するなど2位に躍進し、ブレーメンのテスト生として来日した19歳のフランク・ノイバートと得点王に輝いたことも明るい話題だった。

▽話を大迫に戻そう。奥寺氏がブレーメンで活躍したのは82-83シーズンから85-86シーズンまでの5シーズンだった。あれから30年以上が過ぎ、当時は10歳だった少年も不惑の40代を迎えている。それでも奥寺氏の活躍を覚えていれば、それを大迫に重ねて声援を送ってくれるのではないだろうか。

▽奥寺氏が移籍して以来、チームは1度も2部に降格したことがないだけでなく、優勝争いを演じる強豪へと成長した時代もあった。かつての栄光を再び取り戻すことができるのか。今シーズンもブレーメンを始め、ブンデスリーガからは目が離せそうにない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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海外移籍について思うこと/六川亨の日本サッカーの歩み

先週土曜のJ1リーグ、横浜FM対浦和戦で、横浜FMの仲川のゴールを巡って約9分間、試合が中断した。主審は、一度はゴールを認めながらもオフサイドとしてノーゴールになったところ、再びゴールと認定したのである。 主審は「(判定は)運営が決めているから」と発言したと試合後の選手たちは話していた。ゴールかどうかを判断するのは主審の役割である。ここで微妙なのは、ゴールの再認定したあとに浦和の橋岡が山中と交代している点である。もしも「やっぱりオフサイドでした」と判定を覆そうにも、すでに交代が成立し、ゲームは次の局面に移っている。 こうなると「ルールの運営(運用)上」得点を取り消すことはできない(交代を元に戻すことはできないから)。 こちらについては木曜に定例のレフェリーブリーフィングがあるので、そこで説明があったら紹介したい。 さて、J1リーグは移籍のウインドウがオープンした。アメリカでキャンプ中のレアルの久保の評価は日に日に高まるばかり。そして安部(バルセロナ)、安西(ポルティモネンセ)に続きG大阪の大型FW中村もトゥエンテへの期限付き移籍が濃厚と、日本は若手選手の海外流出が止まらない。 そのG大阪だが、得点源のファン・ウィジョがフランスのボルドーへ、SBのオ・ジェソクがFC東京へ、さらにはMF田中が大分へ完全移籍、元日本代表の藤本もJ2京都への移籍が決定的と選手の流出が止まらない。ファン・ウィジョ以外は主力選手ではないものの、選手層の低下は否めないだろう。すでに復帰した宇佐美に加え、井手口が復帰するという噂もあるが、出場機会に恵まれていなかっただけに、どれだけ試合勘を取り戻せるかに不安が残る。 他にも代表クラスではFC東京のCBチャン・ヒョンスがサウジアラビアのアル・ヒラルに完全移籍した。 チャン・ヒョンスは昨シーズンの夏にも移籍の噂はあった。しかし当時はチームのキャプテンを務め、優勝争いにも絡んでいたため、さすがに周囲も移籍に猛反対したことで断念した経緯がある。今シーズンも首位で優勝争いの渦中にいるなかでの移籍とあって、ファン・サポーターに挨拶することなく日本を後にした。 出て行く選手が多いなか、残念なのは移籍ウインドウがオープンしても大物外国人選手の名前がほとんど出てこないことだ。まだヨーロッパの主要クラブの移籍が落ち着いていないのもその一因かもしれないが、シーズンも折り返し地点を迎え、チームのプレースタイルも確立されているだけに、ピンポイントでの補強には難しいものがあるのかもしれない。 明後日の17日には、9月から始まるカタールW杯のアジア次予選の組み分け抽選会が実施される。果たして日本はどの国々と戦うことになるのか興味深いところだ。 今日7月15日はロシアW杯の決勝戦、フランス対クロアチア戦が行われた日でもある。「ロストフの悲劇」を実感した西野監督がタイの監督に就任したら、日本との対戦は注目度を集めるだろうし、カンボジアの監督は相変わらず本田だ。W杯アジア予選で日本人監督の対決も見てみたい気がする。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.07.15 18:45 Mon
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Jリーググローバルアンバサダーの創設に思うこと/六川亨の日本サッカーの歩み

ブラジルで開催中のコパ・アメリカはウルグアイがPK戦でペルーに敗れる波乱があった。日本戦でPKを決めたスアレスが失敗したのは意外だった。フランスで開催中の女子W杯では優勝候補の地元フランスが、同じく優勝候補のアメリカに敗れた。ベスト4はアメリカ、イングランド、日本を下したオランダ、スウェーデンで、ヨーロッパの3チームは来夏の東京五輪の出場権を獲得した。 国内に目をむければ、J1リーグで最下位に沈んだ磐田の名波浩監督が辞任を表明した。クラブのレジェンドとして黄金時代の復活を期待されたものの、チームの若返りと活性化を図れなかったのは、監督だけに責任があるのかどうか微妙な問題でもあるだろう。 さて先週6月27日はJリーグが、元Jリーガー4名のグローバルアンバサダー就任を発表した。ジーコ氏、ブッフバルト氏、ドゥンガ氏、洪明甫氏の4名である。 彼らの役割は、(1)インタビューなどを通じてJリーグを国内外へ発信するJリーグの広報活動の支援業務、(2)海外・アジア戦略をサポートしてJリーグを世界に紹介するスポークスマン、(3)元所属クラブとの交流イベントへの参加、(4)ホームタウン活動などの参加による社会貢献活動、などが主な内容である。 もともとは村井満Jリーグチェアマンが2017年の年末にマラカナンで開催されたチャリティーマッチに招待され、試合後にレオナルドら元ブラジル代表OBと食事をした際に、「ジーコ氏が代表OBを大切にしていたことにブラジルの財産を感じた」ことがグローバルアンバサダー創設の発端だった。 村井チェアマンは帰国後、2018年3月28日時点でJリーグに来日した外国籍選手は1258名もいること。そして代表選手は362名で、W杯で優勝した選手は21名、監督は8名いたことを確認した。 「Jリーグのなかで多くの外国籍選手が活躍している。彼らのネットワークを作って、海外にJリーグを発信していくことが可能かどうかジーコ氏にOB会の設立を相談したのがきっかけだった」と設立の経緯を説明した。 会見にはジーコ氏とブッフバルト氏が参加したが、興味深かったのは両氏が日本人の海外移籍に関して警鐘を鳴らしたことだ。 ブッフバルト氏は「日本人の若い選手の海外移籍だが、試合になかなか出られていない。練習では対戦相手はいつも同じだ。これが試合なら、毎回対戦する選手もチームも変わる。経験を積むには試合に出ないとダメだ。このため若い選手は最初から大きなクラブに行くのではなく、小さなクラブで経験を積んでから大きなクラブに行った方がいい。そのいい例が長谷部誠だ。最初は世界的に見ても大きなクラブ(ヴォルフスブルク)ではなかった。そうした選手がJリーグに戻って来て、経験したことをJリーグの若い選手に伝えて欲しい」と持論を語った。 これに対しジーコ氏も「私もギドの意見に同感だ。ブラジルでも同じことが起こっている。若くしてヨーロッパに移籍し、強いチームではないのに試合で継続的にプレーできていない。食事など文化的にも慣れることができず、ずっとベンチにいるかベンチにも入れていない。まずはブラジルのサッカーに馴染み、ブラジルで経験を積んでからヨーロッパに行くべきだ。私が日本代表の監督の時に長谷部をチームに呼んだが、彼はそのよい例だ」と同調した。 レアル・マドリーに移籍する久保建英を意識しての発言ではないだろうが、ヨーロッパのトップリーグではないベルギーやオランダ、ポルトガルに移籍しても出番のない、もしくは出場していてもトップリーグに移籍できない日本人選手の現状を的確に指摘していた。 グローバルアンバサダーとして海外に発信するだけでなく、国内の若手選手にも今後は苦言を呈して欲しいと思ったものだ。 そして話は変わるが、W杯で優勝した元Jリーガー21名が気になったので調べてみた。 最も古い選手は、なんと37年も前の1982年のスペインW杯で優勝したイタリア代表のダニエロ・マッサーロ(清水)だった。 4年後のメキシコW杯で優勝したアルゼンチンからはパスクリ、エンリケ、バティスタの3選手(いずれもPJMフューチャーズ)がJリーグでプレーしたが、強烈なインパクトを残すことはできなかった。 1990年のイタリアW杯で優勝した西ドイツ(当時)からは、ブッフバルトとウーベ・バインの浦和コンビと、ピエール・リトバルスキー(当時はジェフ市原)の3選手。ここらあたりになると記憶している読者もいるのではないだろうか。 続く1994年のアメリカW杯ではブラジルから多くの選手がJリーグに参戦した。ジョルジーニョ、ベベート(鹿島では活躍できなかったが)、ドゥンガ(磐田)、ジーニョ(横浜フリューゲルス)、レオナルド(鹿島)、ミューレル(短期間だったが柏でプレー。W杯では控え選手)、ジウマール(C大阪)、ロナウダン(W杯に出場しなかったが清水でプレー)と8名が優勝メンバーに名を連ねた。 その後も1998年のフランス代表からは来日した選手は皆無だったが、2002年日韓大会ではブラジルからルイゾン(名古屋)、エジウソン(柏)の2名がJリーグでプレーした。残念ながら2人はW杯でインパクトを残すことはできなかったが、エジウソンは柏でゴールを量産した後での代表復帰だったため、柏のファン・サポーターは応援したかもしれない。 そして近年は2010年南アフリカW杯で初優勝したスペインからイニエスタ、F・トーレス、ダビド・ビジャが、2014年ブラジルW杯からルーカス・ポドルスキーがそれぞれ神戸と鳥栖に参戦したことは記憶に新しいところだ。 こうして振り返ると多くの名選手がJリーグに参戦してきた。 W杯得点王としては、Jリーグ創設時のゲリー・リネカー(1986年メキシコW杯/名古屋)に始まり、スキラッチ(1990年イタリアW杯/磐田)、ストイチコフ(1994年アメリカW杯/柏)、ディエゴ・フォルランとビジャ(2010年南アW杯/C大阪と神戸)と5人の選手がJリーグでプレーしている。 現在のJリーグは若手選手を海外に輩出する“輸出国”だが、今後は再び“輸入大国”としてアジアの盟主となり、国内リーグを盛り上げられるか。その意味でも今回のグローバルアンバサダー発足による活動と、ACLでの躍進に注目したい。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.07.01 21:30 Mon
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エクアドルに勝つと次はブラジル戦/六川亨の日本サッカーの歩み

ブラジルで開催中のコパ・アメリカで、日本は今夜8時(日本時間の明日午前8時)にグループリーグの最終戦となるエクアドルと対戦する。大会は3グループの上位2チームと、成績上位の3位2チームが決勝トーナメントに進める。 現在グループAの3位ペルーは勝点4、グループBのパラグアイは勝点2のため、日本はエクアドルに勝利すればグループCを3位で通過できるし、大量得点し、チリ対ウルグアイでウルグアイが大敗すれば2位通過の可能性も残っている(現実的ではないが)。 すでにグループAの3位はペルーで確定して決勝トーナメント進出を決めているため、日本がグループCの3位で勝ち上がると、決勝トーナメントではホスト国のブラジルと対戦することになる。 そのブラジルだが、過去の対戦成績は0勝2分け10敗と圧倒的に分が悪い。南米ビッグ3と言われるアルゼンチンには1勝0分け6敗、ウルグアイとは今大会のドローも含め2勝2分け4敗と、いずれも負け越してはいるが、勝利をもぎ取っている。 日本が南米勢で唯一未勝利なのがブラジルとベネズエラ(0勝4分け0敗)なのだ(エクアドルには2勝0分け0敗)。 日本が初めてブラジルと対戦したのは1989年のこと。イタリアW杯予選は1次リーグであっさり敗退した横山ジャパンがアルゼンチンとブラジルへ遠征し、なんとブラジル代表と対戦したのだ。もちろんテレビ中継などなかったが、当時はコリチーバに所属していたカズも観戦に訪れた。 日本のメンバーはGK森下申一、DFは信藤克義、井原正巳、堀池巧、ウイングバックに森正明と佐々木雅尚、MFが名取篤、望月聡(松山吉之)、FWが長谷川健太、水沼貴史(吉田光範)、黒崎久という顔ぶれだった。 対するブラジルは監督がジーコの実兄エドゥーで、GKタファレルにDFはアウダイール、マウロ・ガルボン、ジョジマール、ブランコ。中盤にはドゥンガ(後に磐田に加入)が君臨し、前線にはカレッカ(後に柏に加入)、ロマ-リオ、ベベート(鹿島に移籍もほとんど活躍できず)が顔を揃え、交代でビスマルク(代表初招集で後にV川崎や鹿島で活躍)やシーラスも出場した。 試合は1-0でブラジルが勝ったが、ブラジルは同年に開催されたコパ・アメリカで優勝したばかりだったため、モチベーションもかなり低く、ハーフタイムに8人が交代と、国際Aマッチとはいえブラジルにとっては練習試合のようなものだった。 逆に日本が最も健闘したのが日韓W杯の前年に行われたコンフェデレーションズ杯と、ドイツW杯の前年に開催されたコンフェデレーションズ杯だった。01年6月4日の試合は0-0のドロー。この大会で日本は初の決勝戦に進出したが、当時のFIFAランクはブラジルが2位、日本は44位だった。 そして05年6月22日の試合ではグループリーグの最終戦で対戦し、日本はロビーニョとロナウジーニョのゴールで2度のリードを許しながらも、中村俊輔と大黒将志がゴールを奪い2-2の引き分けに持ち込む健闘を見せた。 ブラジルはグループリーグでメキシコに敗れたとはいえ、準決勝で地元のドイツを3-2で振り切り、決勝でもアルゼンチンを4-1と圧倒して2度目の優勝を果たした。日本と対戦時のFIFAランクはブラジルが1位、日本も18位と健闘していた時代だった。 果たしてブラジルと13度目の対戦が実現するか。そのためにも明日のエクアドル戦には是が非でも勝ってもらいたいものだ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.06.24 20:30 Mon
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コパ・アメリカの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

ブラジルで開催中のコパ・アメリカで、いよいよ明日(日本時間では18日の朝8時キックオフ)は日本が登場し、初戦で大会3連覇を狙うチリと対戦する。レアル・マドリーに移籍した久保建英がスタメン出場を果たすのか、注目の一戦でもある。 そこで今日は、日本が初出場した20年前の1999年のコパ・アメリカを振り返ってみよう。前年に日本代表の監督に就任したフィリップ・トルシエ監督は、3月のワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を飾っただけに、コパ・アメリカでもジャイアント・キリングを期待されたものだ。 ただ、中田英寿はペルージャへ移籍して最初のシーズンを過ごした後だったため、休養させるために招集しなかった。そして同時期と前後してシドニー五輪の1次予選が日本であったため、小野伸二は五輪チームに参戦するためコパ・アメリカを回避した。 結果的に小野はフィリピン戦で後方からの悪質なタックルを受けてヒザのじん帯を損傷。五輪はもちろんA代表でも主力選手の1人だった小野の長期離脱に、トルシエ監督は「パラグアイに連れて行くべきだった」と悔やんだものだ。 さて成田を発ち、ロサンゼルス、サンパウロ経由でパラグアイの首都アスンシオンまでは34時間の長旅だった。現地では、スタジアム周辺はもちろんのこと、街中でもいたるところに自動小銃を携えた軍人が立っていたため、治安は思ったより悪くはなかった。 日本の初戦はコパ・アメリカの直前にキリン杯で対戦したペルー。キリン杯では0-0の引き分けに終わったが、それはペルーにほとんどやる気がなかったから。しかしコパ・アメリカでは違った。日本は呂比須ワグナーがFKからヘッドで先制点を奪ったものの、すぐさまペルーの反撃に遭い2-1と逆転された。 しかし日本も粘り、後半に三浦淳宏が直接FKから同点弾を叩き込む。しかし攻撃の手を緩めないペルーに決勝点を奪われ2-3で惜敗した。やはりフレンドリーマッチと真剣勝負、それも相手のホームに近い試合では“本気度”が違うと痛感したものだ。 続く第2戦は地元のパラグアイ。日本はトルシエ監督が得意としたフラット3で臨んだものの、ラインを揃えて下げているうちに強烈なミドルシュートを叩き込まれるなどベニテスとロケ・サンタクルスに2ゴールを奪われ0-4の完敗を喫した。 スタジアムからの帰り道、街角に立つ娼婦らから「ハポン(日本)ゼロ、パラグアイ クアトロ(4点)」とバカにされたものだ。 このパラグアイ戦後、トルシエ監督は記者団の囲み取材で名波に対し「リーダーシップに欠ける」と名指しで批判。これに対し名波も「ピッチで戦うのは選手」と反論した。その後2001年にコルドバでスペインと対戦した後も、名波はヒザに故障を抱えての参戦に対し、トルシエ監督はチームドクターから報告がないと激怒。このスペイン戦以降、トルシエ・ジャパンに名波が呼ばれることはなく、2大会連続のW杯出場はかなわなかった。 話をコパ・アメリカに戻すと、日本は第3戦のボリビア戦も先制を許したが、後半に呂比須がPKから同点ゴールを決めて1-1のドローに追いついた。土砂降りでの悪コンディションで、照明も暗かったこと、ヒステリックに笛を吹いた主審がメキシコのベニート・アルチュンディアだったことくらいしか記憶にない。 そうそう、この試合では、長らく日本のDF陣を牽引してきた井原正巳が前半20分と後半37分に警告を受けて退場処分になった。そしてこの試合が井原にとって、日本代表最後の試合となった。Aマッチ出場122試合は、遠藤保仁に抜かれるまで長らく最多出場記録でもあった。 大会は、リバウドやロナウドを擁するブラジルが2大会連続6回目の優勝を飾り、サラジェタのウルグアイが準優勝。地元パラグアイは準々決勝でウルグアイにPK戦で敗退し、シメオネやパレルモを擁するアルゼンチンもベスト8でブラジルに敗れた。 このコパ・アメリカで代表デビューを飾ったアルゼンチンのFWマルティン・パレルモだが、グループリーグのコロンビア戦でPKを3本蹴って3本とも失敗するという椿事も目撃した(試合はコロンビアが3-0で勝利)。蹴る方も蹴る方だし、蹴らせる方も蹴らせる方だと思わずにいられなかった。 果たして明日のチリ戦で日本はどんな戦いを見せるのか。強敵揃いだが、U-22日本代表がトゥーロン国際大会の決勝でブラジルに善戦したように、東京五輪世代の活躍に期待したい。 <hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.06.17 20:50 Mon
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永井を再生させた長谷川監督の一言/六川亨の日本サッカーの歩み

キリンチャレンジ杯のエルサルバドル戦は、期待のルーキー久保建英が18歳と5日で代表デビューを飾り、華麗なステップでマーカーをかわしてシュートを放ったり、フリックで好機を演出したりするなど3万8千人の観衆を沸かせた。 しかし2ゴールを決めて令和初勝利に貢献したのは、FC東京のチームメイトである永井謙佑だった。鈴木武蔵の負傷により追加招集された永井は「まさか呼ばれるとは思っていなかった、ぶっちゃけ」と想定外の選出だったことに驚きを隠さない。 ただ森保一監督も「練習から(攻撃の)起点になるプレーにトライして顔を出し、最大の特長であるスピードを生かして裏に抜けるプレーなどを整理し、ミックスして勝利に貢献してくれた」と賞賛した。 永井といえば、アンダーカテゴリーでは各年代の代表に招集され、10年のアジア大会では優勝し、12年ロンドン五輪でもベスト4進出に貢献した韋駄天ストライカーである。しかし、その後は日本代表に定着することはできず、A代表は6試合の出場にとどまっていた。 J1リーグでは、6シーズン過ごした名古屋に別れを告げ、17年にFC東京に移籍。しかし同年は30試合に出場したものの1ゴールにとどまっていた。そんな永井を再生したのが長谷川健太監督だった。 それまでの永井は4-4-2の右サイドハーフで起用されることが多かった。しかし長谷川監督は永井を2トップにコンバートすると、「シュートで終われ」と言い続けた。長谷川監督によると、「それまでサイドで起用されることが多かったため、シュートではなくクロスを選択する癖がついていた。もともと永井はストライカータイプの選手」というのがコンバートの理由だった。 アドバイスのおかげもあって、18年の永井は32試合に出場して5ゴールをマーク。そして今シーズンも14試合に出場し3ゴールを記録している。DF陣が相手のプレスにパスをつなげなくても、アバウトに前線のスペースに蹴っておけば、永井は快足を飛ばしてマイボールにしてくれる。そして攻撃だけでなく、俊足を生かした前線からのプレスにより守備でも貢献。チームの首位躍進に貢献していることが評価されて今回の追加招集に結びついたのだろう。 同じように長谷川監督のアドバイスによりプレーが変わったのが、トリニダード・トバゴ戦とエルサルバドル戦で交代出場を果たした室屋成である。 昨シーズンの序盤は岡崎慎(現在はトゥーロン国際大会に参加)に右SBのポジションを奪われることもあった。「パスをつけるのが上手い」(長谷川監督)というのがその理由だったが、一方の室屋には「がんがん前に行け。それが持ち味なんだから」という言葉をかけた。 この一言により室屋も迷いが吹っ切れ、アグレッシブなプレーでレギュラーポジションを確保。森保ジャパンでも右SBのバックアッパーとして欠かせない存在になっている。 室屋に加え、3月のキリンチャレンジ杯では橋本拳人が追加招集で代表に名を連ね、6月は久保と永井が代表入りした。彼らに加え長友佑都、権田修一、中島翔哉も元FC東京である。日本代表のFC東京化が進んでいると言ってもいいだろう。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.06.11 15:00 Tue
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