【六川亨の日本サッカーの歩み】鈴井コーチ誕生の経緯2018.02.19 19:00 Mon

twitterfacebookhatenalinegplus
photo
Getty Images
▽今週は先週に引き続き、JFLから関東リーグに降格したブリオベッカ浦安のコーチに就任した鈴井智彦くんを紹介したい。今年で46歳になる彼の指導者としてのスタートは、09年にFC琉球のヘッドコーチから始まった。JFA(日本サッカー協会)公認A級コーチの資格を取得し、その後は秋田 U-18 監督やアカデミーダイレクター、栃木のスカウティング、大分U-18の監督などを歴任し、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。

▽彼と初めて出会ったのは、東海大学を卒業する前だった。静岡学園、東海大とサッカーの名門校を歩み、大学時代はレギュラーではなかったものの、草サッカーでは群を抜いていた(当然ではあるが)。

▽そんな彼が、当時務めていたサッカーダイジェストに入社を希望していると、部下だった金子達仁くんから相談を受けた。金子くんは、東海大のエースで、その後はGK大阪でプレーし、現在は宮大工をしている礒貝洋光くんと親交が深かったため、礒貝くんを通じて鈴井くんを紹介されたのだった。

▽会ってみると、とても素直な好青年だった。そのまますんなり入社が決まったものの、サッカー一筋の人生だったため、記者・編集者としては金子くんや上司で現在はフリーの記者として活躍している戸塚啓くんから厳しい指導を受けた。

▽そんな彼の転機となったのは、やはり金子くんの存在が大きかったのだろう。金子くんは95年の結婚を契機にダイジェストを退社し、憧れだったヨハン・クライフが監督を務めるバルセロナへ移住する。バルセロナには当時、専門誌の契約カメラマンが長く在住していたため、その縁もあって移住しやすかった。

▽そんな金子くんを追って、同年には羽中田昌くんが指導者を目指してバルセロナへ旅立つ。さらに翌年、鈴井くんも「記者ではなくフォトグラファーになりたいんです」と相談を受け、ダイジェストを辞めた。

▽その後、鈴井くんは08年までバルセロナに滞在し、フォトグラファーだけでなくスポーツライターとしてもナンバーなどで活躍。帰国後は金子くんが経営に関わっていたFC琉球の広報としてチームを支えていたが、いつのまにか指導者の道に転身し、J2の複数のチームを渡り歩き、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。

▽思い起こせば金子くんの後を追ってバルセロナに渡った羽中田くんと鈴井くんが、同じチームで夢を追うのは当然のことかもしれない。2人とも指導者として成功を収めたとは言い切れないが、だからこそ浦安で頑張って欲しいと願わずにはいられない。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
コメント
関連ニュース
thumb

類い希な久保のパスセンス/六川亨の日本サッカーの歩み

久保建英については、あらためて紹介する必要はないだろう。“和製メッシ”と言われ、日本代表の各年代でも飛び級で招集され、今年5月にポーランドで開催されるU-20W杯の主力の選手だし、来夏の東京五輪でも活躍が期待される逸材だ。 これまでも10代でJリーグにデビューして脚光を浴びた選手は数多い。例えば香川は密集地帯でもDFの足の届かないところにトラップし、マークをすり抜けてゴールを量産した。井手口や堂安も似たタイプと言え、ドリブル突破を武器に海外移籍を果たした。 もちろん久保も、今シーズン復帰したFC東京では、右サイドのゴールライン上から2人のマークをすり抜けてシュートを放つなど輝いている。4月10日のルヴァン杯・鳥栖戦では、右サイドの難しい角度からのFKを直接決め、シーズン初ゴールでチームを勝利に導いた。 そして14日のJ1リーグ鹿島戦である。ゴールこそ決められなかったが、3ゴールすべてに絡む卓越したパスセンスを披露して、あらためてその才能の高さを示し、香川や堂安とのレベルの違いを証明したと言える。 前半4分、橋本からのタテパスを受けると、体をターンさせながら鹿島の名ボランチであるレオシルバのアタックを封じ、すかさず右サイドの室屋へ絶妙のスルーパス。その波状攻撃からFC東京は永井のヘッドで先制点をもぎ取った。 さらに前半16分と29分には、自陣ゴール前から絶妙なループパスでディエゴオリベイラの2ゴールを演出する。久保自身は「2点目は狙い通りで永井さんがうまくトラップしてくれて、そこからの流れで連係は良かったですね。3点目はアバウトでした。すべてディエゴがやっているので、どうこうはないですね」と話すにとどめた。 確かに2点目は味方のクリアを拾うと前を向き、前線で待つ永井にピンポイントのパスを出し、永井の独走からディエゴオリベイラのゴールに結びついた。久保にとって狙い通りのプレーだったのだろう。 しかし凄いのは「アバウト」に出した3点目につながるパスだ。鹿島のパスミスを自陣ゴール前で受けると、胸トラップからそのまま左足アウトサイドで前線に送る。鹿島CBのクリアミスもありディエゴオリベイラは独走して3点目を決めたが、アバウトでも敵と味方の位置関係を把握してパスを出したセンスは、教えようとしても教えられるものではない。 普通ならトラップして前を向いてからパスを出すか、ドリブルするのが常道だろう。しかし、それでは鹿島に守備陣形を整える時間を与えてしまう。2タッチのプレーが鹿島の若いCB2人をパニックに陥れたことは想像に難くない。 これまでにも東京Vの森本を始め、ストライカーとして若い年代から才能を発揮した選手はいた。香川や柿谷、堂安らだ。しかし久保は、ドリブル突破だけでなく類い希なパスセンスも鹿島戦で披露してみせた。 すでに海外の複数のクラブから、18歳になる6月を前に照会が来ているという。まだ発展途上の選手だけに、どこまでその才能を伸ばすのか。その成長過程をJリーグで見たい気持ちと、海外のビッグクラブで活躍する姿を見たいという気持ちで揺れ動いているのは私だけではないだろう。 U-20日本代表での活躍はもちろんのこと、6月のキリンカップでの招集も楽しみな久保の成長である。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.16 18:00 Tue
twitterfacebook
thumb

神戸中央球技場の思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

J1リーグは第6節を終了したが、予想外の展開と言っていいだろう。下馬評では3連覇に挑む川崎F、天皇杯を制し、杉本健勇や山中亮輔らを補強した浦和、そしてACL王者の鹿島が優勝候補として挙げられていた。 しかし、フタを開けてみると、昨シーズン同様に広島とFC東京が無敗で1、2位と好位置につけている。川崎Fは大島僚太をケガで欠き、小林悠もケガの影響から本調子とはいいがたい。浦和も武藤雄樹と青木拓矢がケガで出遅れた。鹿島だけはじわじわと順位を上げているのは「さすが」と言いたいところだ。 意外な健闘を見せているのが開幕戦で鹿島を倒し、札幌、横浜FMと昨シーズンの上位陣から勝点3を奪って4位につけている大分だ。一時はJ3に降格しながら6年ぶりにJ1へ昇格。そしてここまで快進撃を見せている。チームを牽引するFW藤本憲明は6ゴールで得点ランクの首位に立つ。この快進撃がどこまで続くか見物でもある。 期待を集めながら苦戦しているのが神戸だ。先週の松本戦ではポドルスキが足の違和感で欠場。ビジャも右足の違和感から前半41分に交代を余儀なくされた。神戸には、是非とも投資に見合う結果を残して欲しいと思っている。 さて今週は、先週の代表戦に続いて神戸の話題をお届けしたい。ノエビアスタジアムを訪れるのは2013年のラトビア戦以来だから実に6年間も代表戦では使われていなかったことになる。市内からのアクセスも良く、山の上にある宮城スタジアムや大分銀行ドームより、はるかに足の便がいいのだから、使わないのはもったいない。 このノエビアスタジアムは、ご存じのように2002年の日韓W杯のために改修された。今回6年ぶりに訪れ、早めに着いたのでスタジアムの周辺を歩いてみたが、17年前とは様変わりしていたのには驚かされた。スタジアムの前の道路は片側2車線に整備され、ヤマダ電機やニトリといった大型店が立ち並ぶ。 17年前は和田岬駅から歩いて行くと、様々なグッズや食べ物を売る露天が並んでいた。外国人が民家の玄関でお店を開いていたため、帰宅した住民が家の中に入れず警官を呼ぶというハプニングにも遭遇した。W杯ならではの賑やかな光景だった。 もともとノエビアスタジアムは、かつては神戸中央球技場と呼ばれていた。1970年に完成した1万3千人収容のサッカー専用スタジアムである。ナイター設備を備えた初のサッカー専用スタジアムで、当時ナイターでの試合は神戸中央球技場と国立競技場でしか開催されなかった。 70年8月には“モザンビークの黒豹”と呼ばれた1966年イングランドW杯得点王のエウゼビオ擁するベンフィカ・リスボンが来日して日本代表と対戦。神戸で1試合、国立で2試合の計3試合対戦し、エウゼビオは7ゴールを奪う活躍を見せた。 それまで来日した欧州のクラブチームは2~3点取れば手を抜いていたが、ベンフィカは違った。神戸での初戦は3-0、国立では4-1、6-1と完膚なきまでに日本を叩きつぶした。日本は釜本邦茂と森孝慈が1点を返すのが精一杯だった。 話を神戸に戻そう。現在は最寄り駅の御崎公園駅の地名から、御崎サッカー場とも呼ばれたが、当地を訪れたペレが芝生を絶賛し、「グラウンドキーパーにお礼がしたい」と言うほど“三崎の芝”は美しいことで有名だった。そして1981年11月1日のJSL(日本サッカーリーグ)で偉大な記録がここで生まれる。 ヤンマー対本田技研との試合で釜本は、JSL通算200ゴール目を左足で決めたのだ。楚輪博の左からのマイナスのクロスを左サイドにトラップしてのシュートで、それほど強烈ではなかったものの、しっかりコントロールしてゴールに流し込んだ。釜本はさらにヘッドで201点目も決める。残念ながら翌年に右足のアキレス腱を断裂し、生涯通算ゴールは202点で終わったが、誰も到達できない金字塔と言っていいだろう。 02年日韓W杯後は芝生のメンテナンスに問題が生じ、夏場は芝が剥がれるなど荒れたため、15年には神戸のネルシーニョ監督や選手から不満が続出。三木谷オーナーもホームスタジアムからの移転をツイートしたため、16年に芝生を全面植え替えし、18年には日本初のハイブリッド芝となるシスグラスを導入した。 もしかしたら、日本代表の試合が6年間もなかったのは、芝生に問題があったからかもしれない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.08 18:00 Mon
twitterfacebook
thumb

令和になっても香川の代表記録挑戦は続くのか/六川亨の日本サッカーの歩み

新元号が「令和(れいわ)」に決まった。西暦でいうと1989年にスタートした「平成」は、日本サッカー界にとって“激動”の時代でもあった。プロ化を模索して動き出したのが平成元年3月のことで、翌年のイタリアW杯予選で横山ジャパンはアジア1次予選であっけなく敗退。そこで日本代表監督に初となる外国人(オランダ人)のハンス・オフトを招聘したのが平成4年(92年)だった。 翌年のアメリカW杯予選ではロスタイムに入る前までは初のW杯出場が濃厚だったものの、イラクのオムラムに同点ゴールを奪われて3位に後退。当時のW杯はアジアから2チームしか出場できなかったため、苦渋を飲むことになった。 それでも同年(93年)にスタートしたJリーグは確実に日本のサッカーを底上げした。それが平成8年(96年)、28年ぶりとなるアトランタ五輪や、平成10年(98年)のフランスW杯出場につながったし、以後、五輪とW杯には連続出場を続けている。 選手個人としても平成6年(94年)にカズ(三浦知良)がジェノバへ移籍して、開幕戦でACミランと対戦した(フランコ・バレージと空中戦で激突して鼻骨を骨折したのは不運だった)。その流れは中田英寿に受け継がれローマでスクデットを獲得。インテル・ミラノやACミランでプレーした選手や、イングランドのプレミアリーグ、ドイツのブンデスリーガで優勝を経験した選手も出現するようになった。いまでは日本代表の主力はほとんどヨーロッパでプレーしていると言っても過言ではない。 そんな平成元年に生まれたのが、2月からトルコ・スーパーリーグのベシクタシュでプレーする香川真司だ。若いと思っていた香川も3月で30歳となった。若返りを図る森保ジャパンでは3月のキリンチャレンジ杯で初めて招集されたものの、結果を残したとは言いがたい。 6月のキリンチャレンジ杯と、それに続くコパ・アメリカで再招集があるのかどうかは、今後のスーパーリーグでの活躍次第だろう。ただ、そんな香川にしかできない日本代表の記録がある。 香川は19歳だった平成20年(08年)に、平成生まれの選手として初めて日本代表に選ばれると、5月のキリン杯コートジボワール戦で代表デビューを飾り、10月のキリンチャレンジ杯UAE戦で代表初ゴールを決めた。19歳206日でのゴールで、これは歴代最年少ゴール3位の記録でもある(1位は金田喜稔氏の19歳119日。2位は永井良和氏の19歳169日)。 2年後の南アW杯はサポートメンバーに終わったが、平成23年(11年)のアジアカップでは準々決勝のカタール戦で2ゴール1アシストの活躍でベスト4進出に貢献。ただ、準決勝の韓国戦で右足第5中足骨を骨折し、決勝戦のオーストラリア戦には出場できなかった。 それでも10代で2ゴール、20代では29ゴールで、通算31ゴールは代表得点ランクの6位につけている。4位タイが本田圭佑と原博実Jリーグ副チェアマンの37ゴールのため、あと7ゴールで彼らを抜ける可能性もある。そして、30代でゴールを決めると10代、20代、30代の各年代でゴールを決めた選手ということになる。 過去にはダントツで代表得点ランク1位(75点)の釜本邦茂氏しか達成していない“昭和”の大記録だ(釜本氏は10代で1ゴール、20代で55ゴールと量産し、30代でも19ゴールをあげた)。残念ながら香川は“平成最後”の代表戦でゴールを決めることはできず、大記録達成とはならなかったが、“令和”でゴールを決めれば釜本氏と並ぶことができる。 そのためにも代表に招集されるよう、ベシクタシュでの活躍に期待したいところだ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.04.01 21:45 Mon
twitterfacebook
thumb

ボリビア戦での賀川さんとの再会で思い出したリスペクトの意味/六川亨の日本サッカーの歩み

3月26日、日本対ボリビア戦の行われたノエビアスタジアム神戸で、懐かしい方とお会いできた。同業者の大・大先輩である賀川浩さんだ。若い読者はご存じないだろうが、94歳にしていまなお現役のサッカージャーナリストだ。最後に現場でお目にかかったのは2014年のブラジルW杯だから、実に5年ぶりの再会となる。 ワールドカップの取材は1974年の西ドイツ大会から始め、サッカーがいかに世界中で行われ、愛されているスポーツかを新聞やサッカー専門誌で紹介してきた。2010年の南アW杯こそドクターストップがかかり取材を断念されて連続取材は途切れたものの、サッカー王国ブラジルでのW杯は、それこそ死ぬ覚悟で取材され、FIFA(国際サッカー連盟)から逆取材される現場も目撃した。 元々は選手で、戦前の神戸一中(現神戸高校)では全国制覇を達成し、戦後は神戸商大や大阪サッカークラブで天皇杯準優勝を果たしている。大学卒業後は産経新聞の記者としてサッカー“も”取材したが、その理由を聞いたところ、「サッカーで飯を食おう思たら、当時は新聞記者になるしかなかったんや」と教えてくれた。 10代の終わりに迎えた第二次世界大戦の末期には、特別攻撃隊(いわゆる特攻。飛行機で敵艦隊に突撃する攻撃)に志願。死を前に戦闘機を背景にして特攻服に身を包んで撮られた若き日の凜々しい姿を見せてもらったこともある。幸いにも出撃の数日前に日本は終戦を迎え、死地に赴くことはなかった。 賀川さんが凄かったのは、サッカーの技術・戦術への造詣の深さだけではない。サッカーにまつわる、その国の歴史や民族史、サッカーが発展してきた土壌など、サッカーを“文化”としてとらえてきたことだ。それを当時勤務していたサッカーダイジェストで連載し、担当編集者だったため、誌面に載せられない数々のエピソードを聞くことができたのはいまでも財産だと思っている。 ご自宅は神戸のため、1995年には阪神淡路大震災にも遭遇した。心配して電話したところ、元気な声が聞けて安心したが、「徹夜で原稿を書いていたので、ソファで寝てたら地震が来ました。1階にあるベッドで寝てたらペシャンコになってましたわ」と笑っていた。賀川さんがお住まいのマンションは、地震により1階すべてが潰れてしまったそうだ。生死を分ける体験を2度もしたことになる。 記者としてはペレの対談に始まりベッケンバウアー、ヨハン・クライフ、マラドーナとスター選手を直撃し、中学生だった岡田武史氏が西ドイツにサッカー留学に行きたいというのを、知人の頼みによりいさめたエピソードもある。関西在住ということでJリーグ誕生前はG大阪やC大阪、そして地元・神戸のプロ化にもアドバイスした。 そんな賀川さんが、ボリビア戦後の記者会見では熱心にペンを走らせ、森保監督のコメントをノートに記していた。そして会見終了後、森保監督から賀川さんに花束が贈呈されるサプライズがあった。すでに2010年にJFA(日本サッカー協会)の殿堂入りし、2015年にはFIFA会長賞も受賞している。 それだけに、なぜこのタイミングで花束の贈呈なのか疑問に感じたが、おめでたいことなので細かいことは抜きにしよう。森保監督も花束贈呈後、会見場にいる記者・カメラマンに向かい「皆さんにも花束を贈呈したいので長生きして下さい」と気配りのコメントを忘れなかった。 賀川さんにはこれからも長生きしていただきたいが、忘れられないことがある。78歳で迎えた2002年日韓W杯での出来事だ。埼玉スタジアムに取材に来られた際に、当時でも高齢であった。しかし埼玉スタジアムにある記者用のエレベーターはどういう理由か分からないがW杯開催中は使用禁止になっていた。 そこで大会関係者に事情を話し、賀川さんだけでもエレベーターを使用できるようお願いしたものの、返事は「使用はできません」というものだった。賀川さんは「わしはええから、階段で行きます」と、記者席のある5階まで階段を昇り降りされた。 幸いにもボリビア戦は賀川さんもエレベーターを利用することができたが、FIFAやJFAが提唱する「リスペクト」プロジェクトは、すべての高齢者や障害者を対象にするべきではないだろうか。スローガンは、実践しなければただの“うたい文句”に終わってしまう。 高齢化社会を迎えるなかで、まだJリーグは柔軟な対応が期待できそうだが、JFAは杓子定規の縦割り社会になっていないかと危惧してしまう。2002年のW杯を契機に組織が巨大化したことで、セクショナリズムが進んだ印象が強いからだ。ここらあたり、今後も注視していきたいと思い直した賀川さんとの久々の再会だった。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.29 12:05 Fri
twitterfacebook
thumb

レノファ山口の壮大な計画/六川亨の日本サッカーの歩み

先週末はキリンチャレンジ杯の日本対コロンビア戦を取材後、24日は次の試合会場である神戸を通り越し、山口で行われたJ2の山口対栃木の試合を取材した。 昨シーズンの山口は前半戦で2位につける躍進を果たしたものの、夏場にエースストライカーに成長した小野瀬(山口で25試合出場10ゴール)をG大阪に引き抜かれると失速し、8位でシーズンを終えた。それでも監督として初采配を振るった霜田氏は「守備を固めて1点を奪うサッカーではJ1に昇格してもすぐに降格してしまう」と、あくまでボールを支配して攻撃的なサッカーを貫く姿勢に代わりはなかったからだ。 初めて訪れた維新みらいふスタジアムは収容人数1万5千人を超えるJ1規格のスタジアムである。そして栃木戦は後半15分過ぎからワンサイドゲームを展開し、シュートも21本対6本と圧倒しながらも前半27分にPKから失った1点を返せず、J2第5節終了次点で勝点3の21位に低迷している。 試合後の会見で霜田監督は「PKからの失点が3点、判断ミスからの失点が4点あるが、ミスは仕方がない。ミスを失点につながらないようにしたいし、攻めの姿勢はブレずに続けていきたい」と前を向いた。 霜田監督が攻撃的なサッカーにこだわるのは、J1昇格を最大目標としていないからだ。山口にサッカーをいかに根付かせるか。そのためには「見ていて楽しい攻撃的なサッカー」が必要だと考えている。 クラブとしての予算規模はJ2で中位クラス。そのため強化に手っ取り早い外国人選手を簡単には獲得できない。そこで他クラブの若手選手を補強し、自ら鍛えて結果を出し、他クラブに移籍させることで強化費を稼ぐという方法だ。このためシーズン半ばで山口を去った小野瀬にも「それなりのお金を残してくれたので感謝している」と言う。 その成功例があるため、昨シーズン終了後は山口への移籍を希望する若手選手も多かったそうだ。そして、いまは結果が出ていないものの、夏過ぎには他チームから声のかかりそうな選手も想定している。 そんな山口の悩みが、維新みらいふスタジアムだ。地元のファンはクルマで来場することが多いが、駐車場が不足しているため試合当日は隣接する土のグラウンドや地元企業の駐車場を借りて臨時場としている。他のアクセス手段としてJR山口線の大歳駅から徒歩10~15分程度とけして悪くない。 しかしJR山口線は単線の2輌編成のため、大量輸送は不可能だ。このため霜田監督は「せめて試合日は4輌編成にして欲しい」とお願いしている。さらに終電の時間も早いため、ナイターでの試合も開催できない。 こうしたハンデを克服すべく、すでに新スタジアム構想は立ち上がっているそうだ。収容人員2万5千人程度で、駐車場は1万台のキャパシティを想定している。そして単にスタジアムを造るのではなく、映画館を併設した大手ショッピングモールを始めとする複合施設の誘致にも着手している。まだ計画の端緒であるが、チームだけでなく地元企業や自治体も巻き込んだ壮大な計画でもある。 実際にスタジアムで取材して、面白いことも判明した。メインスタンドの記者席で観戦していると、後半なかばから西日が記者席に差し込んで左手にあたるピッチのプレーが見にくいのだ。 普通、太陽は東から昇り、西に沈む。このためスタジアムのメインスタンドは西に、バックスタンドは東に造られる。13時以降キックオフの試合では、メインスタンドは太陽を背にし、さらに屋根があるため陽が当たらない。逆にバックスタンドは日差しを浴びるため3月の試合でも暖かいことがある。 これが逆だと、夕方はメインスタンドが落陽のため西日を浴びるため試合を観戦しにくい。そして柏の日立台と、長居のキンチョウスタジアムは世界でも珍しく東西の位置が逆になっている。ところが維新みらいふスタジアムは東と西がゴールのある方向で、メインスタンドとバックスタンドは南北に位置している。 するとどうなるかというと、東側のゴールにいる選手、特にGKは西日をモロに浴びるため、プレーに支障が出る可能性が大なのだ。たぶん維新みらいふスタジアムで試合をする際に、コイントスで勝ってコートを選ぶ時は西側のコートを選択するのだろう。そうすれば、後半は西日を背中に攻めることができるからだ。 もともとスタジアムは2011年の国体のために造られただけに、そこまで配慮していなかったのだろう。これはこれで珍しいスタジアムでもある。このスタジアムから2駅先、タクシーなら1メーターで行けるところに湯田温泉という名湯があることも発見だった。アウェーの試合で山口に行く際は温泉地で骨休めすることをお勧めする。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.25 20:00 Mon
twitterfacebook


ACL

Jリーグ移籍情報

欧州移籍情報

アクセスランキング

@ultrasoccerjp

新着ニュース