【六川亨の日本サッカー見聞録】木之本さん一周忌の集いで思うこと
2018.01.18 20:00 Thu
▽私事で恐縮だが、昨日は昨年1月15日に逝去した木之本興三さんを「賑やかに語る集い」に参加した。雨の中、幕張のホテルには同氏の母校・千葉高校、東京教育大サッカー部の同級生を始め、JSL(日本サッカーリーグ)時代の後輩からJリーグ創設に関わった“戦友"など210人もの関係者が集って昔話に花を咲かした。
▽木之本さんについては、いまさら多くを語る必要はないと思うが、簡単に紹介するとJリーグの創設に尽力した第一人者である。JSL時代に古河の選手として活躍を期待されながら、グッドパスチャー病という内蔵同士が争う病魔により腎臓を摘出し、腎臓透析は700回を以上に及びギネス記録となった。
▽そんな病魔と闘いながら、日本サッカーはプロ化しないと韓国に遅れを取ると危機感を抱き、森健兒(元日本代表監督の森孝慈氏の実兄)JSL総務主事と日本サッカーのプロ化に奔走したのが1980年代後期のことだ。Jリーグ創設が目前に迫った頃、森総務主事は三菱重工の仕事の関係で名古屋に転勤する。そこでJリーグの創設を東京に転勤する川淵氏に託した。
▽JFAは日本のサッカー界に貢献した人を協会の“殿堂に掲額"している。Jリーグの創設に尽力した木之本さんや森健兒さんは、その資格が十分にあると思う。しかしながら、殿堂入りするには、いまも川淵さんの了解を得ないと候補に選ばれないと聞いた。今回の「賑やかに語る集い」にも川淵さんは姿を見せなかったし、献花もなかった。
▽ともにJリーグを創設した木之本さんに対し、川淵さんには川淵さんなりの思いがあるのだろう。それは当事者にしかわからないかもしれないが、すでに木之本さんは鬼籍に入られている。川淵さんが今後、何を語られるのか。日本サッカーにとって残すべき言葉だと思う。
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▽発起人の挨拶では大学と古河の後輩であるJFA(日本サッカー協会)会長の田嶋氏が思い出を語り、小倉JFA最高顧問や大仁JFA名誉会長、木之本氏の後輩である永井良和さん、ラモス瑠偉さんなど往年の名選手も出席した。▽2016年12月に脳梗塞で倒れたラモスさんとは開会の前に早く着いたためお茶を飲んだが、脳梗塞の影響はほとんどなく、「また監督をしたいね」と現場復帰に意欲を見せていたのはうれしい出会いだった。▽そんな病魔と闘いながら、日本サッカーはプロ化しないと韓国に遅れを取ると危機感を抱き、森健兒(元日本代表監督の森孝慈氏の実兄)JSL総務主事と日本サッカーのプロ化に奔走したのが1980年代後期のことだ。Jリーグ創設が目前に迫った頃、森総務主事は三菱重工の仕事の関係で名古屋に転勤する。そこでJリーグの創設を東京に転勤する川淵氏に託した。
▽その後のJリーグの隆盛と衰退はご存じの通り。そして木之本さんは強化副団長として臨んだ2002年のW杯中に、末端神経の壊死する新たな病魔に襲われ両足を切断せざるを得なかった。それでも、いつも会うときは箴言を言われ、「日本サッカーのためになにをしたらいいのか」と真剣に問われた。それはラモス瑠偉氏も同じようで「いつも叱られていた」と言いつつ「優しい言葉も掛けられた」と故人を偲んだ。
▽JFAは日本のサッカー界に貢献した人を協会の“殿堂に掲額"している。Jリーグの創設に尽力した木之本さんや森健兒さんは、その資格が十分にあると思う。しかしながら、殿堂入りするには、いまも川淵さんの了解を得ないと候補に選ばれないと聞いた。今回の「賑やかに語る集い」にも川淵さんは姿を見せなかったし、献花もなかった。
▽ともにJリーグを創設した木之本さんに対し、川淵さんには川淵さんなりの思いがあるのだろう。それは当事者にしかわからないかもしれないが、すでに木之本さんは鬼籍に入られている。川淵さんが今後、何を語られるのか。日本サッカーにとって残すべき言葉だと思う。
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