【東本貢司のFCUK!】監督は何よりも「人望」ありき
2016.02.04 13:30 Thu
▽かねてよりの持論―――というよりもユニヴァーサルな真実と信じてやまないことが一つ。スポーツにおけるマネージャー(監督)に求められる最大、かつ、あえて“唯一”と言ってはばからない資質とは、突き詰めれば「人柄」にある! より具体的には、プレーヤーたちをして「この人について行けば間違いない」と納得、確信せしめる何か。無論「実績」があれば、例えばタイトル獲得の期待がより膨らむのだからしてそれに越したことはないが、必ずしも必要条件でなくてかまわない。物理的トレーニングのメニュー、メソッドなど、監督次第で大して変わるものでもない(実際は、ほとんど監督が指名した“専任”トレーナーが主導する)。プロとしての生活習慣の管理規制も、効果ありと認められれば誰もがどこでも取り入れる。つまりは、監督(の人柄)に人望がなければ、どんなに有効なトレーニングや管理も絵に描いた餅―――下世話な言い方をすれば「白けてしまう」のだ。
▽その典型的実例こそが、ジョゼ・モウリーニョの蹉跌ではなかったか。過去の実績は古今随一のレベル、同業者たちもこぞって「異論のない名将」と讃え、どこか兜を脱いでいる節さえある。言い換えれば、彼はその華々しい実績ゆえに常に引く手あまたの存在となり、優勝請負人の輝かしいオーラをまとってきた。と、ここまで言えば通の訳知りファンならピンとくるだろう。レアル・マドリードを不本意に去った致命的要因(あるいは、そのきっかけ)は、シンボルの一人で円熟の域にいたカシージャスを干したことだった。チェルシーでは女性フィジオの職を事実上独断的に解いた。いずれも、モウリーニョにしてみれば規律などの観点から当然の処遇だったかもしれない。が、それらの断行は、明らかに肝心のプレーヤーたちの心に闇を投げかけた。例えば、“第一次”時代を知るテリーはぐっと堪えて飲み込もうとしたが、“新参”のファブレガスなどは目を剥いた。渦中のアザールはひどく当惑してそこから調子を落とした(とは、あくまでも筆者の憶測による見解)。
▽これも「おそらく」だが、ユナイテッドではサー・アレックスの「人望」があまりにも偉大だったがために、モイーズには太刀打ちもできず、今、ファン・ハールもその差に悩み悶えている。あるいは、どんなに失意のシーズンが長引こうと、そのためにメディアが懐疑論を増幅させ、ファンの心も激しく揺れ動こうと、アーセナルがアーセン・ヴェンゲルの解任をたとえ“ひとしずく”でも零したためしはない。誰が後任になろうと、モイーズの二の舞になることは火を見るより明らかだからだ。その意味で、ユナイテッドは“価値ある教訓”を身をもって示したと言えなくもない。「人望」は時間をかけて培われるという、一つの真実がここにある。そこに加えるならば、その「人望」がいずれ計り知れない財産となるに違いないと見透かせる何かが、クラブ経営陣の資質として備わっている(もしくは「備わっていく」)かどうかも重要な決め手、つまりはもう一つの真実なのだろう。
▽そもそも、当該「監督の人望」というものの本質は、現実に指導を受けるプレーヤーたち自身にしかわかり得ない。とどのつまりは傍観者でしかないファンも、メディアも、平均的評論家も、ひょっとしたらクラブの事務方、チェアマン、オーナーですら、「なんとなくうかがい知る」程度が関の山なのだ。特にメディアや評論家筋は、それが仕事ゆえに往々にして(心ならずも?)批判の声を上げる。それだけならまだしも、ときに「辞任か? 辞任すべきだと考えたことはないか? 辞任が妥当だと思わないか?」と恣意的に攻め立て、返ってくる言葉の断片をメシのタネにしようとする。いわば芸能ゴシップの類とどっこいどっこい。先日など、ユナイテッドのファン・ハールはある会見で「わたしは君たちメディアにここまで3度クビにされてきた」と苦笑交じりに皮肉で返したものだった。その裏には、自らを苛む責任感とともに、プレーヤーたち自身の「ファン・ハールに今後もついていく」というポジティヴな意思の“支え”が匂った気がしたのだが、いかがか。
▽この1月の移籍解禁月間、十分に予想されたことだが、いわゆるビッグネームのプレミア参入(もしくはクラブ間移籍)はなかった。強いてあげるなら、ストークがポルトからジャンネッリ・イムブーラを獲得するにあたって、クラブ史上最高額の移籍金を払ったことくらいだ。そして、仮に「イムブーラ」という名前と「1830万ポンド」という額が、このタイミングならこその“サプライズ”に値するとしても、「ペップ・グアルディオラ、来期マン・シティー監督就任が確定」のニューズの前には吹き飛んでしまった感がある。なぜ、あえて今なのか、という疑問はさて措こう。ここで注目すべきは、ジョー・ハートやガエル・クリシーが真っ先にコメントしたように、肝心のシティーのメンバーたちにその“同じ疑問”が走ったに違いないことだ。ハートの「我々は(ペジェグリーニ)を支持している。監督としての彼を愛している」、ペップ就任内定にわくわくしているかと問われたクリシーのそっけない「もしわくわくしているとしたら、今日の試合(サンダランド戦)に勝つことだ」を、上層部はどう受け止めたか。ペジェグリーニの宙を彷徨いかけている「人望」はどうなるのか。「水を差した」という文句が頭をよぎったのは筆者だけか?
【東本 貢司(ひがしもと こうじ)】
1953年大阪府生まれ
青春期をイングランド、バースのパブリックスクールで送る。作家、翻訳家、コメンテイター。勝ち負け度外視、ひたすらフットボール(と音楽とミステリー)への熱いハートにこだわる。
▽その典型的実例こそが、ジョゼ・モウリーニョの蹉跌ではなかったか。過去の実績は古今随一のレベル、同業者たちもこぞって「異論のない名将」と讃え、どこか兜を脱いでいる節さえある。言い換えれば、彼はその華々しい実績ゆえに常に引く手あまたの存在となり、優勝請負人の輝かしいオーラをまとってきた。と、ここまで言えば通の訳知りファンならピンとくるだろう。レアル・マドリードを不本意に去った致命的要因(あるいは、そのきっかけ)は、シンボルの一人で円熟の域にいたカシージャスを干したことだった。チェルシーでは女性フィジオの職を事実上独断的に解いた。いずれも、モウリーニョにしてみれば規律などの観点から当然の処遇だったかもしれない。が、それらの断行は、明らかに肝心のプレーヤーたちの心に闇を投げかけた。例えば、“第一次”時代を知るテリーはぐっと堪えて飲み込もうとしたが、“新参”のファブレガスなどは目を剥いた。渦中のアザールはひどく当惑してそこから調子を落とした(とは、あくまでも筆者の憶測による見解)。
▽これも「おそらく」だが、ユナイテッドではサー・アレックスの「人望」があまりにも偉大だったがために、モイーズには太刀打ちもできず、今、ファン・ハールもその差に悩み悶えている。あるいは、どんなに失意のシーズンが長引こうと、そのためにメディアが懐疑論を増幅させ、ファンの心も激しく揺れ動こうと、アーセナルがアーセン・ヴェンゲルの解任をたとえ“ひとしずく”でも零したためしはない。誰が後任になろうと、モイーズの二の舞になることは火を見るより明らかだからだ。その意味で、ユナイテッドは“価値ある教訓”を身をもって示したと言えなくもない。「人望」は時間をかけて培われるという、一つの真実がここにある。そこに加えるならば、その「人望」がいずれ計り知れない財産となるに違いないと見透かせる何かが、クラブ経営陣の資質として備わっている(もしくは「備わっていく」)かどうかも重要な決め手、つまりはもう一つの真実なのだろう。
▽この1月の移籍解禁月間、十分に予想されたことだが、いわゆるビッグネームのプレミア参入(もしくはクラブ間移籍)はなかった。強いてあげるなら、ストークがポルトからジャンネッリ・イムブーラを獲得するにあたって、クラブ史上最高額の移籍金を払ったことくらいだ。そして、仮に「イムブーラ」という名前と「1830万ポンド」という額が、このタイミングならこその“サプライズ”に値するとしても、「ペップ・グアルディオラ、来期マン・シティー監督就任が確定」のニューズの前には吹き飛んでしまった感がある。なぜ、あえて今なのか、という疑問はさて措こう。ここで注目すべきは、ジョー・ハートやガエル・クリシーが真っ先にコメントしたように、肝心のシティーのメンバーたちにその“同じ疑問”が走ったに違いないことだ。ハートの「我々は(ペジェグリーニ)を支持している。監督としての彼を愛している」、ペップ就任内定にわくわくしているかと問われたクリシーのそっけない「もしわくわくしているとしたら、今日の試合(サンダランド戦)に勝つことだ」を、上層部はどう受け止めたか。ペジェグリーニの宙を彷徨いかけている「人望」はどうなるのか。「水を差した」という文句が頭をよぎったのは筆者だけか?
【東本 貢司(ひがしもと こうじ)】
1953年大阪府生まれ
青春期をイングランド、バースのパブリックスクールで送る。作家、翻訳家、コメンテイター。勝ち負け度外視、ひたすらフットボール(と音楽とミステリー)への熱いハートにこだわる。
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