80年代に逆戻り?/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.01.14 18:30 Tue
タイのバンコクで開催されているU-23アジア選手権で、東京五輪ホストカントリーのU
-23日本は初戦のサウジアラビアに続きシリアにも1-2で敗れ、早々とグループリーグ敗退が決まった。
2014年から2年おきに開催されている大会は今年で4回目となるが、日本における注目度が高まったのは4年前の第2回大会だった。というのも、今大会が五輪最終予選を兼ねるようになったからだ。
それまで五輪の出場権はホーム・アンド・アウェー方式で争われ、08年北京五輪は反町康治氏(元松本監督)が、12年ロンドン五輪は関塚隆氏(現JFA技術委員長)がアジア最終予選を突破して本大会出場を果たした。
予選方式が変更された16年1月の大会では、中島翔哉、大島僚太、浅野拓磨、室屋成、植田直通らを擁したU-23日本が決勝で韓国を逆転で破って初優勝を飾ると同時にリオ五輪の出場権を獲得した。
そのことを覚えているファン・サポーターも多いことだろう。しかし2年前の同大会は誰が出場し、最終成績がどうだったのかを記憶しているのは、かなりコアなファン・サポーターではないだろうか。
選手達が自ら立てた目標は「優勝」だった。国内組とはいえ招集された選手はJリーグでほぼレギュラークラス。さらに昨年はコパ・アメリカやトゥーロン国際大会、北中米やブラジル遠征を重ねるなど例年にない頻度で強化を重ねてきたチームでもある。
フル代表も含め、日本が「韓国、オーストラリア、イラン、ウズベキスタンあたりに負けるなら仕方がない」と思っているファンも多いのではないだろうか。それがサウジとシリアにあっさりと負けてしまった。
失点も、2試合ともVARによるPKとカウンターで、前後半の早い時間帯と終了間際の失点も同じパターンだ。シリア戦はサウジ戦から6人のメンバーを入れ替えたとはいえ、「学習能力がない」と指摘されても反論できないだろう。
U-23日本とはいえ、代表チームがここまで完膚なきまでに叩きのめされたのは近年記憶にない。それでも過去の記憶を掘り起こすと、1984年のロス五輪アジア最終予選にたどり着いた。
監督は西ドイツで研修を積んだ森孝慈(メキシコ銅メダリスト。故人)氏。当時の日本にとって切り札とも言える存在だった。
メンバーにも木村和司、金田喜稔、風間八宏ら小柄ながらもテクニシャンが揃い、前線には「アジアの核弾頭」と言われた原博実がいた。1月にはブラジルからコリンチャンスを招待して強化試合を行ったが、日本は2勝1敗と勝ち越す。対戦相手にはソクラテスという、スペインW杯で活躍したスーパースターもいた。
そんなチームに勝ち越したのだから、16年ぶりの五輪出場に期待が高まったのは言うまでもない(ただ、1月の試合は雪が残るピッチで行われたため、コリンチャンスは寒さに本領を発揮できなかったことを付け加えておく)。
ところが4月、熱帯のシンガポールで行われたセントラル方式の最終予選では、衝撃的な敗退を喫した。初戦の相手は過去無敗だったタイ。しかしタイの若きエースであるピヤポンにハットトリックを許すなど2-5と大敗した。
続く第2戦はマレーシア。いまでこそ、なかなか国際舞台に立つことはできないが、80年代までは東南アジアの雄であり、プロリーグも存在。80年モスクワ五輪の出場権を獲得したが、ソ連のアフガニスタン侵攻によりボイコットしたため五輪は幻と終わったが(イラクが代替出場)、実力は日本より上だった。
このため日本はあっさりと1-2で負けて連敗スタートとなる。そして第3戦のイラクには試合巧者ぶりを発揮されて1-2、第4戦のカタールにはフィジカルで圧倒されて1-2と、期待された森(森保ではなく)ジャパンは、期待とは裏腹に4連敗でシンガポールを後にしなければならなかった。
五輪出場を4回連続して逃した(ミュンヘン、モントリオール、モスクワ、ロス)、日本サッカーが暗黒の時代だった昔話と言える。
そして今大会に話を戻すと、1月10日、サウジに1-2と敗れた翌日の練習で、関塚技術委員長がぽつりと呟いた。「ホーム・アンド・アウェーと違いセントラル(方式)は、一発勝負の怖さがある」と。
ホーム・アンド・アウェーなら時間的な余裕があるため立て直せるが、セントラル方式では短期間での連戦のため修正が難しい。その不安が的中したU-23アジア選手権でもあった。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
2014年から2年おきに開催されている大会は今年で4回目となるが、日本における注目度が高まったのは4年前の第2回大会だった。というのも、今大会が五輪最終予選を兼ねるようになったからだ。
予選方式が変更された16年1月の大会では、中島翔哉、大島僚太、浅野拓磨、室屋成、植田直通らを擁したU-23日本が決勝で韓国を逆転で破って初優勝を飾ると同時にリオ五輪の出場権を獲得した。
そのことを覚えているファン・サポーターも多いことだろう。しかし2年前の同大会は誰が出場し、最終成績がどうだったのかを記憶しているのは、かなりコアなファン・サポーターではないだろうか。
そして今回は、4年前と同様に東京五輪の予選を兼ねているため日本国内でも注目度が高かった。もちろん日本は開催国として出場権は獲得している。そこで安部裕葵や久保建英ら強制力のない海外組は招集せず、「ラージグループ」(森保監督)の底上げを図るため、森保監督は国内組を中心にチームを編成して大会に臨んだ。
選手達が自ら立てた目標は「優勝」だった。国内組とはいえ招集された選手はJリーグでほぼレギュラークラス。さらに昨年はコパ・アメリカやトゥーロン国際大会、北中米やブラジル遠征を重ねるなど例年にない頻度で強化を重ねてきたチームでもある。
フル代表も含め、日本が「韓国、オーストラリア、イラン、ウズベキスタンあたりに負けるなら仕方がない」と思っているファンも多いのではないだろうか。それがサウジとシリアにあっさりと負けてしまった。
失点も、2試合ともVARによるPKとカウンターで、前後半の早い時間帯と終了間際の失点も同じパターンだ。シリア戦はサウジ戦から6人のメンバーを入れ替えたとはいえ、「学習能力がない」と指摘されても反論できないだろう。
U-23日本とはいえ、代表チームがここまで完膚なきまでに叩きのめされたのは近年記憶にない。それでも過去の記憶を掘り起こすと、1984年のロス五輪アジア最終予選にたどり着いた。
監督は西ドイツで研修を積んだ森孝慈(メキシコ銅メダリスト。故人)氏。当時の日本にとって切り札とも言える存在だった。
メンバーにも木村和司、金田喜稔、風間八宏ら小柄ながらもテクニシャンが揃い、前線には「アジアの核弾頭」と言われた原博実がいた。1月にはブラジルからコリンチャンスを招待して強化試合を行ったが、日本は2勝1敗と勝ち越す。対戦相手にはソクラテスという、スペインW杯で活躍したスーパースターもいた。
そんなチームに勝ち越したのだから、16年ぶりの五輪出場に期待が高まったのは言うまでもない(ただ、1月の試合は雪が残るピッチで行われたため、コリンチャンスは寒さに本領を発揮できなかったことを付け加えておく)。
ところが4月、熱帯のシンガポールで行われたセントラル方式の最終予選では、衝撃的な敗退を喫した。初戦の相手は過去無敗だったタイ。しかしタイの若きエースであるピヤポンにハットトリックを許すなど2-5と大敗した。
続く第2戦はマレーシア。いまでこそ、なかなか国際舞台に立つことはできないが、80年代までは東南アジアの雄であり、プロリーグも存在。80年モスクワ五輪の出場権を獲得したが、ソ連のアフガニスタン侵攻によりボイコットしたため五輪は幻と終わったが(イラクが代替出場)、実力は日本より上だった。
このため日本はあっさりと1-2で負けて連敗スタートとなる。そして第3戦のイラクには試合巧者ぶりを発揮されて1-2、第4戦のカタールにはフィジカルで圧倒されて1-2と、期待された森(森保ではなく)ジャパンは、期待とは裏腹に4連敗でシンガポールを後にしなければならなかった。
五輪出場を4回連続して逃した(ミュンヘン、モントリオール、モスクワ、ロス)、日本サッカーが暗黒の時代だった昔話と言える。
そして今大会に話を戻すと、1月10日、サウジに1-2と敗れた翌日の練習で、関塚技術委員長がぽつりと呟いた。「ホーム・アンド・アウェーと違いセントラル(方式)は、一発勝負の怖さがある」と。
ホーム・アンド・アウェーなら時間的な余裕があるため立て直せるが、セントラル方式では短期間での連戦のため修正が難しい。その不安が的中したU-23アジア選手権でもあった。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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