内田篤人が引退スピーチ 14年半のキャリアは「辛さも嬉しさもすべて僕の財産」
2020.08.23 22:00 Sun
鹿島アントラーズの元日本代表DF内田篤人が現役ラストマッチ後、県立カシマサッカースタジアムのピッチ上で行われた引退セレモニーでスピーチした。鹿島は23日に本拠地で行われた明治安田生命J1リーグ第12節でガンバ大阪と対戦。20日にこの試合限りでの現役引退を表明した内田はベンチからスタートした。その現役ラストマッチはキックオフから16分後、負傷したDF広瀬陸斗に代わっての急きょ出場だったが、74分間を戦い抜くだけでなく、後半アディショナルタイム5分のフィードで同点弾の起点にもなり、気迫溢れるプレーを披露した。
鹿島やシャルケ、ウニオン・ベルリン、そして日本代表で彩った14年半のプロキャリアに終止符を打った内田。試合後のセレモニーで時おり言葉を詰まらせつつ、引退理由や感謝の思い、そして再会を約束した。
「今日、僕はここでサッカー選手を引退します。鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを獲ってきた裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら勝つために日々努力してきた姿を僕は見てきました」
「僕はその姿を今の後輩に見せられないと、日々練習していくなかで身体が戻らないことを実感して、このような気持ちを抱えながら鹿島でプレーするのは違うんじゃないか、サッカー選手として終わったんだなと考えるようになりました」
「このようなシーズン、チーム状況で僕の決断を理解してくださった強化部、監督、そしてチームメイトには本当に申し訳ない。日の丸を背負ってプレーする重さも、殺気だったドイツのスタジアム、辛さも嬉しさもすべて僕の財産です」
「もう少しだけ。この話を聞いているプロサッカー選手を目指す子供たち、サッカー小僧のみなさん、鹿島は少し田舎ですが、サッカーに集中できる環境、レベルの高さ、そして今在籍している選手が君たちの大きな壁となり、ライバルとなり、偉大な先輩として迎え入れてくれると思います。僕はそれを強く願います。最後に、すべての人たちに感謝します。また会いましょう」
静岡県出身の内田は2006年に清水東高校から鹿島入りして、その初年度から右サイドバックの主力として活躍。2007年からのJ1リーグ3連覇を置き土産に2010年夏からシャルケに移籍すると、ウニオン・ベルリンを経て、2018年に鹿島復帰した。日本代表としても2010年の南アフリカ大会から2大会連続でワールドカップ(W杯)出場。通算74試合2得点を誇った。
◆内田篤人、引退スピーチ
鹿島やシャルケ、ウニオン・ベルリン、そして日本代表で彩った14年半のプロキャリアに終止符を打った内田。試合後のセレモニーで時おり言葉を詰まらせつつ、引退理由や感謝の思い、そして再会を約束した。
「今日、僕はここでサッカー選手を引退します。鹿島アントラーズというチームは数多くのタイトルを獲ってきた裏で、多くの先輩方が選手生命を削りながら勝つために日々努力してきた姿を僕は見てきました」
「僕はその姿を今の後輩に見せられないと、日々練習していくなかで身体が戻らないことを実感して、このような気持ちを抱えながら鹿島でプレーするのは違うんじゃないか、サッカー選手として終わったんだなと考えるようになりました」
「もうひと花、ふた花咲かせたいと思い、日本に戻ってきましたが、そのなかで隣に寄り添ってくれたトレーナー、まだやれると背中を押してくれたザーゴ監督、大岩前監督、良いときも悪いときも共に過ごしたサポーター・ファン、スポンサー、そしてチームメイト…本当にありがとうございます」
「このようなシーズン、チーム状況で僕の決断を理解してくださった強化部、監督、そしてチームメイトには本当に申し訳ない。日の丸を背負ってプレーする重さも、殺気だったドイツのスタジアム、辛さも嬉しさもすべて僕の財産です」
「もう少しだけ。この話を聞いているプロサッカー選手を目指す子供たち、サッカー小僧のみなさん、鹿島は少し田舎ですが、サッカーに集中できる環境、レベルの高さ、そして今在籍している選手が君たちの大きな壁となり、ライバルとなり、偉大な先輩として迎え入れてくれると思います。僕はそれを強く願います。最後に、すべての人たちに感謝します。また会いましょう」
静岡県出身の内田は2006年に清水東高校から鹿島入りして、その初年度から右サイドバックの主力として活躍。2007年からのJ1リーグ3連覇を置き土産に2010年夏からシャルケに移籍すると、ウニオン・ベルリンを経て、2018年に鹿島復帰した。日本代表としても2010年の南アフリカ大会から2大会連続でワールドカップ(W杯)出場。通算74試合2得点を誇った。
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