大卒選手の台頭でますます狭き門の五輪代表/六川亨の日本サッカー見聞録

2020.12.25 20:50 Fri
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天皇杯の準決勝は、順当に川崎F対秋田、G大阪対徳島のJリーグ勢同士の顔合わせとなった。そして新型コロナウイルスの影響か、海外から監督を招聘したり選手を補強したりする動きは今のところ数えるほどと言っていい。その代わり、国内での監督と選手の移動はかつてないほど賑やかだ。

来シーズンは降格チームの数が増えることと、東京五輪が開催されればJ1リーグは今シーズン同様過密日程が予想されるため、チーム編成(作り)を早めに進めたいという思惑があるからだろうか。
監督に関して言えば、1位・川崎Fの鬼木監督、2位・G大阪の宮本監督、3位・名古屋のフィッカデンティ監督と、6位・FC東京(長谷川監督)、8位・広島(城福監督)、9位・横浜FM(ポステゴグルー)、11位・大分(片野坂監督)、13位・鳥栖(金明輝監督)、15位・横浜FC(下平監督)、18位・湘南(浮嶋監督)は続投を決定した。

一方、4位のC大阪(クルピ)、10位の浦和(ロドリゲス)、16位の清水(ロティーナ)、17位の仙台(手倉森誠か大槻毅)は新監督を招聘することを表明。残る札幌や鹿島、柏などは続投がかなり濃厚だが、25日時点で正式な発表はない。

反町JFA(日本サッカー協会)技術委員長は、来シーズンはW杯予選と五輪の活動が重なるため、森保監督の了解を得て同監督をサポートするための人材補填を認めていた。公表時期はJリーグが終了する12月20日以降としていたものの、いまだに氏名は漏れ伝わってこない。
となると、まだシーズンが終わっていない(天皇杯とルヴァン杯決勝がある)川崎F、G大阪、FC東京、柏の4チームの関係者ということだろうか。

そしてもう1つ気になるのが、森保監督をサポートしていた関塚ナショナルチームダイレクターが11月末日に退任したものの、同氏のその後の動向も一向に伝わってくる気配がないことだ。コロナの変異種で感染が拡大している現状では、西野タイ代表監督のように海外(東南アジア)で監督を務めることも難しいだろう。

まさか西野技術委員長とハリルホジッチ監督の時のように、ナショナルチームダイレクターを辞任してから東京五輪の監督に就任(ロンドン五輪ではベスト4に進出した実績がある)するという“ウルトラC"(という言い方がいまも通用するかどうか)の再現でもあるのだろうか。

こちらは自分で書いていても信じられないため、現実的ではないだろうが……。

さて昨日23日は、午前は五輪代表候補キャンプを、午後からはU-19日本代表候補対慶応大学のトレーニングマッチを取材した。五輪代表の候補キャンプには23名が招集されたものの、2名の選手が負傷で辞退したため新たに3名が追加招集され、さらに1名が負傷で離脱したため±0で、23名になった。

改めて言うまでもないが、五輪の登録人数は18名とかなりの“狭き門"だ。そして今回のキャンプには27日に天皇杯を控えている川崎Fの三笘、田中碧、旗手と今シーズン活躍した3選手が呼ばれていない。

さらに10~11月のA代表にも冨安(ボローニャ)を始め中山(ズヴォレ)、板倉(フローニンゲン)、久保(ビジャレアル)ら五輪候補7名の海外組が呼ばれたし、堂安(ビーレフェルト)も好調を取り戻しつつある。

こうして見ると五輪代表候補のラージグループは35名にも膨れ上がる。ここからOA枠3名を引いたら果たして今いるメンバーから何名が残れるのか……と思いながら練習を見てしまった。

今回は初招集の選手もいたが、それは今シーズンのJリーグで結果を残したからである。その代表格が安部(FC東京)だろう。「自分は世代別の代表に入ったことがなく、今回が初の代表でうれしかったし目標だったので、素直にうれしいです」と喜びを表した。そして五輪が1年延期されたことで「出たいなという思いはあったけど、現実的ではなかった」のが、今回選ばれたことで「近づいたかな」と五輪への思いを強くした。

同じFC東京の先輩である渡辺は、今回の招集を違った角度で見ていた。

昨シーズン夏以降の活躍で代表に初招集され、今年1月のU-23アジア選手権にも参加したが、「アジアレベルで活躍できなかった。元々は(五輪代表に)滑り込んでやろうと思った」ところ、「(五輪が)1年延びたことで実力を見てもらえるようになったと思う。立場は変わり、実力を見て選ばれたのだと思う」と今回の招集に自信を深めつつ、アピールを狙っていた。

そんな2人とはちょっと違うスタンスなのが、ルビン・カザンへの移籍が決まった齋藤(湘南)だ。年代別の代表に選ばれたことで国際経験が豊富なせいか、「森保監督も横内コーチも言っていますが、五輪代表の先にA代表がある。僕もそのつもりで活動しています」と先を見据えている。カザンは日本代表がロシアW杯の際にキャンプ地として利用し、U-19日本代表も一緒にキャンプをした思い出の地でもある。

齋藤は「馴染みがあるのでしっかりプレーしたいです」と抱負を述べながらも、「いまここでしっかりやることも大事だし、ロシアに行ってもしっかりやることが重要になる」と常に足下を見つめていた。

今回のキャンプは最終日に関東大学選抜との練習試合で打ち上げとなり、次回の活動は来年3月26日の親善試合までない。この3月の2試合と6月の2試合はインターナショナルマッチデーのため、海外組の招集が可能だ(コロナの感染が深刻な状況にならない限り)。恐らくこの4試合が最終テストで、7月上旬のキリンチャレンジ杯2試合を経て五輪本大会に臨むことになるだろう。

こうして見ると、やはり五輪代表に残るのは、アピールする機会も限られているので改めて“狭き門"だと思う。

左右からクロスを入れてのシュート練習や、ハーフコートでの紅白戦で森保監督と横内コーチはどこまで選手の実力をチェックできるのか。半日ほどの取材では到底うかがい知ることはできないが、やはり選手にとっては新シーズンのリーグ戦がアピールする格好の場になるのではないだろうか。

そんな思いにとらわれた、五輪代表候補のキャンプを取材したインプレッションだった。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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神戸vs京都にみるVARの功罪/六川亨の日本サッカー見聞録

5月9日は今年3回目となるレフェリーブリーフィングがJFAハウスで開催された。テーマはJ1リーグ第10節までの反則数や、イエローカードとレッドカードの昨シーズンとの比較だ。進行役を務めた佐藤隆治(審判)マネジャーによると「反則は去年と変わらない。チーム平均も横ばい」とのことだった。 ただイエローカードは243から291に増加。そのうちラフプレーが119と最多で、次に反スポーツ行為が117、そのうちDOGSOが1から5に増加した。レッドカードは14から19で、やはりDOGSOが3から10に増加していた。 その原因について佐藤マネジャーは、攻撃的なチームが増えたこと。タテへの速い攻撃が、結果としてDOGSOの増加につながったのではないかと分析した。 確かに全盛時の川崎Fのように、圧倒的なポゼッションとワンタッチパスの交換で、対戦相手を徹底的に崩してからゴールを奪うスタイルではDOGSOの機会も少ないだろう。逆に昨シーズンの覇者である神戸や、今シーズン昇格して旋風を巻き起こしている町田のような、タテへの速い攻撃を武器にするチームとの試合ではDOGSOも生まれやすいかもしれない。そして神戸や町田に限らず、ロングパスからのカウンターはどのチームも戦術として採用しているのが今シーズンのJ1~J3の傾向と言えるのではないだろうか。 そしてブリーフィングの後半は、やはりVARに時間が割かれた。参照例に取り上げられたのは4月27日のJ1第10節、神戸対京都戦の大迫勇也のゴールシーンに関する2度のVARだった。 左サイドの初瀬亮のロングスローをニアサイドで宮代大聖が空中戦で競り、そのこぼれ球を背後にいた大迫が決めた。主審はゴールと認めたが、VARとOFRで宮代が競った際に大迫の足が出ていたとしてオフサイドの判定からゴールは取り消された。ところが再度VARとOFRが入り、宮代が競ったボールがマーカーの腕に当たっていたため、宮代のパスではないのでオフサイドは取り消され、ハンドによるPKが神戸に与えられた。 このPKを大迫は得意の走り出しから右下を狙ったものの、GKク・ソンユンに読まれてストップされ、試合も原大智のヘッドによるゴールで0-1と敗れた。 ジャッジに正確を期すために導入されたVARだが、大迫のゴールからPKに判定が覆るまでに要した時間は9分。その間に選手とベンチに加えて両チームのファン・サポーターも事態の成り行きを見守るしかなかった。 プロ野球とJリーグの違いは、瞬時に攻守が入れ替わる『スピード感』もその1つだと思う。しかしVARが導入されてからは、その『スピード感』が阻害されている気がしてならない。これまでも何回か書いてきたが「誤審もサッカーのうち」であり、マラドーナの「神の手」のように“伝説”を生むと思っているからだ。 主審の主観とは別に、VARはプレーの一瞬(反則)を映像として切り取る。それはハンドかもしれないが、前後の流れからハンドがあってもなくてもプレーと結果に影響を与えることがないのであれば、流してもいいのではないだろうか。VARはあまりに杓子定規の気がしてならない。 佐藤マネジャーは、U-23アジアカップには審判インストラクターとして参加した。そして試合後は、当該試合の主審のジャッジについてディスカッションしたそうだが、その後のジャッジに影響を与えてはいけないとアドバイスやサジェストは避けたという。まずは主審の主観によるジャッジを優先するためだったという。 そしてブリーフィングの最後、「いまのサッカーはVARが主役になっている。1月のアジアカップもU-23アジアカップも。その結果、アディショナルタイムが増えている」と警鐘を鳴らした。まさに同感である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】神戸vs京都、2度のVARチェックが入ったプレー</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="HorDFYo7ogk";var video_start = 183;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.05.10 15:00 Fri

U-23ウズベキスタン戦で思い出したこと/六川亨の日本サッカー見聞録

今年1月のこと。アジアカップの取材のため、ドーハのカタール国立博物館近くのツイン1泊1万円近くのホテルに滞在した。海外取材にしては、いつもの倍近くの値段のホテルだった。これまでのように“貧乏旅行"もいいけど、そろそろ年齢に応じたホテルに泊まろうと思った次第である。 そしてこのホテル、宿泊している日本人はカメラマンの兄と僕の2人だけだったが、やたらとウズベキスタン人が多い。というか、1月中はウズベキスタン人しかいなかったと言っても過言ではない。そんな彼らと朝食中に会話したところ、誰もが“避暑"ならぬ“避寒"でドーハを訪れたという。 ウズベキスタンの首都タシケントの1月の平均気温は5を下回ることも珍しくない。そんな彼らにとって、ドーハは飛行機なら3時間くらいで訪れることのできる絶好の“温暖地"なのだという。彼らの誰もが「ドーハはとても近いんだよ」と教えてくれた。日本なら、さしずめ東京から沖縄といったところか。 そんなウズベキスタンはW杯予選で訪れたことがあるが、中国と同様に人種のるつぼでもある。ドーハのホテルで会った彼らは、一見するとヨーロッパ人にしか見えない夫婦もいれば、どう見ても中国人かモンゴル人のような、黒髪に日本的な顔立ちの若者たちも多かった。唯一、見分けられたのはイスラム教徒の民族衣装を着ている女性たちだけだった。 日本対ウズベキスタンのU-23アジアカップ決勝の話をする前に前置きが長くなったのはご容赦願いたい。日本からも熱心なサポーターが応援に駆けつけたが、それ以上にウズベキスタンのファンが多かったのは、彼らにとって中東、カタールやUAEはとても身近な国だということを今年1月のアジアカップで初めて知ったことを紹介したかったからだ。 日本戦に出場したウズベキスタンの選手たちも、目鼻立ちは整っているが、髪の色も含めてどこかアジア的な雰囲気を感じずにはいられない。ドーハのホテルで会った若者たちも、髪の毛は短いもののきちっと刈り揃えたり、サイドを刈り上げたりするなど清潔感が漂っていた。 そんなウズベキスタンはグループリーグから決勝まで無失点で勝ち上がってきた。アンダー世代からの強化の賜物だろう。実に隙のない、好チームだったが、残念ながら彼らには藤田譲瑠チマや荒木遼太郎のような“ファンタジスタ"がいなかった。絶対的なストライカーも、日本にもいないしどの国も求めているが、いないのに救われた。 それでもウズベキスタンは五輪初出場である。地道な強化が実った成果と言える。3位決定戦で延長戦の末にインドネシアを下して16年リオ五輪以来6度目の出場を決めたイラクも好チームだったし、3位決定戦でイラクに敗れたインドネシアの躍進にも驚かされた今大会だった。彼らには是非ともギニアとのプレーオフに勝って68年ぶりの五輪出場を決めて欲しいし、U-23日本との対戦も実現して欲しいものである。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】日本とのハイレベルな戦いを見せたウズベキスタン、試合ハイライト</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="tBhQOgt4Ukk";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.05.04 20:30 Sat

日本対カタールで細谷が152日ぶりに復活/六川亨の日本サッカー見聞録

公式戦152日ぶりのゴールとは知らなかった。昨夜のカタール戦で延長前半11分に決勝点を決めた細谷真大のゴールである。昨シーズンは14ゴールをマークしてJ1得点ランクの5位タイに躍進したものだ。 ところが1月のアジアカップでは初戦のベトナム戦のスタメンに起用されながら、前半45分で上田綺世との交代を余儀なくされた。次に出番が回ってきたのは準々決勝のイラン戦で、逆転ゴールを決められた後の後半アディショナルタイムだったが、1度もボールに触ることなくタイムアップを迎えた。 不調はシーズンが始まってからも変わらず、開幕前の千葉とのダービーマッチ(ちばぎんカップ)ではシュート0本。1週間後の京都との開幕戦ではPKを外して試合はドロー。公式戦8試合連続無得点と不振のままカタール入りした。初戦の中国戦では1人退場になった影響もあり、これといった見せ場を作れなかった。 UAEとの第2戦では後半28分から登場すると、2度の惜しいシーンがあったものの、シュートがゴール枠を捕らえることができない。韓国戦も後半32分から出場したが、ヘディングシュートはバーを越えたりGKの正面を突いたりしてゴールが遠かった。それでもグループリーグ3試合で起用し、カタール戦でもスタメンに復帰したのだから、大岩剛監督も細谷の復活を期待したのだろう。 ゴールシーンは身体でパスコースを作り、荒木遼太郎からのスルーに1タッチで抜け出し豪快に決めた、細谷らしいゴールだった。得点シーンを振り返り「まずは太郎が前を向いた瞬間に自分もポジションを取ろうとして、うまく出してくれました。落ち着いて流し込むだけでした」と荒木を称えたが、2人の息がピタリと合った決勝点と言える。 昨年11月25日の鳥栖戦以来の一発に、「本当にやっとのゴールだった。なかなかチームを勝たせられなかったので、今日は勝たせられてよかった」と安堵の表情を浮かべたが、エースの一撃を誰よりも喜んだのは大岩監督ではないだろうか。さらには内野航太郎にも初ゴールが生まれた。 準決勝の相手はイラクとベトナムの勝者だが、細谷自身「優勝しかない」と言い切るように、ここまできたら2度目のアジア制覇でパリ五輪出場に花を添えたいところ。とはいえ韓国がインドネシアにPK戦で敗れたように、どの国も侮ることはできない。 唯一の救いはこれまで中2日の連戦だったのが、中3日と1日ほどレストデーが増え、イラクとベトナムは中2日での日本戦になることだ。この差が日本にとって有利に働くことを期待したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】ついに目覚めたエース!細谷真大が値千金の決勝ゴール</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="pZnkovlMOfU";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.04.26 12:35 Fri

新理事会と残念だった西尾隆矢の報復/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は4月18日、宮本恒靖JFA新会長と新理事による最初の理事会(年度的には第6回)を開催した。既報のとおり技術委員長には影山雅永氏(JFAテクニカルダイレクター)が就任し、新たに各種部会が設置され、代表チームの強化を担当する技術委員会強化部会の部会長には山本昌邦氏(ナショナルチームダイレクター)が就任。ユース育成部会の部会長にはU-18日本代表監督で、解説者の城彰二氏の弟の城和憲氏が就任した。 理事会後の記者会見に臨んだ湯川和之専務理事は、かつては読売クラブの選手で、90年代初めにJFAへ転出。日本代表のマネジャーとしてチームに帯同し、日本の成長を見守ってきた。宮本会長とは97年のワールドユース(現U-20W杯)で選手とマネジャーという間柄。「今日はカジュアルな形での理事会が行われた」と変化を報告しつつ、「新理事にはサッカー界の説明をしました。今まで当り前のことが当り前にできない」と、半数近くが初めてJFAの理事になったことで、サッカー界の現状説明に時間を費やしたことも明かした。 また7月13日(土)には能登半島地震復興支援マッチとして、金沢のゴーゴーカレースタジアムでなでしこジャパンの壮行試合が開催されることも報告された。対戦相手やキックオフ時間などの詳細は未定となっている。 理事会の報告はここまでで、影山技術委員長はドーハへ行っていないとのことだが、U-23アジアカップの初戦、中国戦に関してはCB西尾隆矢のレッドカードに触れないわけにはいかないだろう。いくら相手に背後から身体をぶつけられたからといって、エルボーでの報復は問答無用で一発退場だ。ましてVARがあるのだから、どんな言い訳も通用しない。 大事な初戦、それも開始17分と早い時間帯での軽率なプレーは非難されても仕方がない。まして今大会のグループリーグは中2日の連戦だ。できればターンオーバーで戦いたかったところ、初戦から日本は総力戦による“緊急事態”に追い込まれた。本来ならDF陣のリーダーにならなければいけない西尾だけに、あまりに軽率なプレーは今後の起用にも影響するかもしれない。 森保一監督はカタールのアジアカップで失点を重ねながらもガマン強くGK鈴木彩艶を起用し続けた。果たして大岩剛監督は“汚名返上”の機会を西尾に与えるのかどうか。出場停止が何試合になるかわからないものの、こちらも注目である。 今回の西尾とは違うケースだが、04年に中国で開催されたアジアカップの準決勝、バーレーン戦で遠藤保仁が不運なレッドカードで退場処分になったことがある。パスを出して前線へ走り出した遠藤に、背後からバーレーンの選手が近寄ってきた。遠藤の振った腕が偶然にもバーレーン選手の顔に当たると、オーバーに倒れ込む。すると主審は遠藤にレッドカードを出したのだった。 当時はVARなどない。そしてカードが出てしまえば取り消しようがない。0-1とリード許し、さらに10人になった日本だが、中田浩二と中澤佑二、玉田圭司の2ゴールで4-3の大逆転を演じた。 当時もいまも、日本を相手にどうやったら少しでも有利な状況に持ち込めるか各国は必死に研究しているだろう。まずは挑発に乗らないこと。そして今回のケースでは、主審は見ていなくてもぶつかられたら西尾は倒れてもよかった。ただ、Jリーグでそうしたプレーは推奨されていないし、日本人のメンタリティーからしても相手を欺くようなプレーはやりにくい。 となれば、やはり相手の挑発には乗らないことと、球離れを早くしてフィジカルコンタクトを避けるのが、体力の温存やケガの予防につながるのではないだろうか。明日のUAEもどんな罠を仕掛けてくるのか、油断のならない相手であることは間違いないだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】中国戦で西尾隆矢が一発退場…</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="hszXHBrGzek";var video_start = 161;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.04.19 17:00 Fri

伝説の試合74年W杯決勝で残念だったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

先週日曜日からNHK BSの『Jリーグタイム』の放送時間が変更された。そして『Jリーグタイム』の後に新番組、『FIFAワールドカップ伝説の試合ノーカット』という新番組がスタートした。過去のW杯の名勝負を4Kの高画質で再現した番組で、確かに画像は明るく鮮明で見やすかった。 記念すべき第1回は1974年西ドイツW杯決勝の西ドイツ対オランダ戦。“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーと“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフの対戦でも注目を集めた試合だった。当時の記憶によると、すでにベッケンバウアーは西ドイツで“カイザー(皇帝)”というニックネームをつけられていたと思う。これに対しクライフは、西ドイツW杯2次リーグのブラジル戦で、左サイドのルート・クロルからのクロスを右足インサイドのジャンピングボレーで決めたことから“空飛ぶオランダ人”のニックネームがつけられたと記憶している。 番組はジョン・カビラ氏がMCを務め、ゲストには日本人プロ第1号の奥寺康彦氏、2011年女子W杯優勝メンバーでMVPと得点王を獲得した澤穂希氏、そして東京芸大学長でアーティストの日比野克彦氏が当時のサッカー界の思い出などを語った。 試合はゲスト解説に藤田俊哉氏と森岡隆三氏を迎えてスタートした。藤田氏は1971年生まれだが、当時はまだ3歳だったためライブでの記憶はないだろう。森岡氏は1975年生まれのため当然ながら覚えていない。 ミュンヘンの旧オリンピア・シュタディオンは7万人超の満員の観衆で埋まった。このスタジアムは1988年のEUROで訪れたが、陸上のトラックがある割にはスタンドの傾斜が急なため見やすいスタジアムだった。残念ながら地元の西ドイツは準決勝でオランダに敗れたため超満員とはいかなかった(試合はオランダがルート・フリットとマルコ=ファン・バステンのゴールでソ連を2-0と破って国際大会で初優勝)。 西ドイツ対オランダ戦に話を戻すと、74年はまだビデオデッキは普及していなかったため、決勝戦を録画することはできなかった。そこで後年、社会人になってからビデオデッキを購入した際に英国BBC製作の西ドイツ対オランダ戦のVHSビデオを入手した。 試合が始まってから、アナウンサーは数字をカウントするだけ。最初は意味がわからなかったが、それはキックオフからオランダがパスをつないだ本数だった。イングランドといえば1966年イングランドW杯決勝の因縁もあり西ドイツとはライバル関係というか、両国ともヨーロッパでは嫌われている印象が強い。このためBBCのアナウンサーは西ドイツをバカにしたのだろう。 オランダはキックオフからDFラインでパスをつなぎ、10本目のパスでクライフが自陣に下がりパス受けて出す。そして16本目のパスを再びクライフが受けるとドリブル突破を開始、マーカーのベルティ・フォクツを振り切りペナルティーエリアに侵入したところでウリー・ヘーネスに倒されPKを獲得した。 試合開始から西ドイツは一度もボールに触れることなくPKから失点。それをBBCのアナウンサーは強調したいため、あえてオランダのパスの本数をカウントしていたというわけだ。 藤田氏と森岡氏は当然知らなかっただろうが、できればNHKのスタッフにはPKの獲得に至る冒頭のシーンを紹介して欲しかった。そして当時のPKは左右の下か上のスミを狙うのがセオリーだったが、ヨハン・ニースケンスは真正面に強シュートを放った。いまでは多くの選手が試みているが、最初に目撃したのはニースケンスのこのシュートで、76年のEURO決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦でチェコスロバキアのアントニーン・パネンカのチップキックによるPK以来の衝撃だった(その後、チップキックによるPKをパネンカと呼ぶようになる)。 次回14日の放送カードは1986年メキシコW杯の準々決勝、フランス対ブラジル戦。この試合はメキシコ第2の都市グァダラハラのハリスコ・スタジアムで開催され、メキシコシティからオンボロのバスに揺られて取材に行った。グァダラハラはブラジルがグループリーグ3試合を戦ったことから多くのブラジル人ファン、サポーターが居残り(誰もが優勝を信じていたため)、さらに地元メキシコのファンもブラジルを応援していた。 記者席では、ベンチスタートのブラジルの背番号『10』がいつアップを開始するのか、試合を取材しながらもジーコの一挙手一投足から目を離せなかった。そして試合は、第1回目と同様にPKがカギを握ることになる。これ以上は番組をお楽しみにお待ちください。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.11 21:30 Thu
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