インカレの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み2018.12.24 22:00 Mon

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▽例年、この時期は天皇杯の準決勝というのがすっかり身体に染みこんでいるため、今年のような長いシーズンオフにはちょっと戸惑ってしまう。Jリーグは12月1日に終わり、天皇杯決勝も来年1月のアジアカップとクラブW杯に鹿島が出場するため、12月9日に終わってしまった。

▽Jリーグは現在ストーブリーグの真っ最中で、来シーズンへ向けた補強が水面下で進行中だ。ただ、あるJクラブの関係者に聞いたところ、「資金力のあるビッグ3、神戸、川崎F、浦和の補強が終わらないと、誰が残っているのか分からないので、Jリーガーの獲得が本格化するのは年明けになる」そうだ。

▽さて先週は久々に全日本大学選手権、通称インカレを取材した。母校が昨年に続きベスト4に進出したので準決勝の味の素フィールド西が丘に足を運んだ。試合は延長戦の末に法政が2-1で順天堂を振り切ったが、観衆は976人という寂しさ。大会そのもののPR不足もあるのだろうが、これだけガラガラのスタンドを見るのはJリーグ発足以来、初めてかもしれない。

▽さすがに浦和駒場で行われた決勝戦は、埼玉在住であれば無料で入場できるのと、バックスタンドには高校生が動員されていたため、6012人の観衆が集まったのはテレビ放送を考慮して大会関係者が努力したのかもしれない。駒澤との決勝戦は、J3リーグの北九州入りが内定しているディサロ燦シルヴァーノの決勝点で法政が勝ち、42年ぶり3度目の優勝を果たした。

▽42年も優勝から遠ざかっていたのかと思うと、隔世の感がする。当時の主力メンバーは、日本代表でも活躍したMF前田秀樹さん(京都商業高校出身で、古河を引退後は水戸の監督などを務め、東京国際大学の監督として関東リーグ1部に導く。カラオケではフランク・シナトラのマイウェイは絶品もの)、浦和市立高校3年の時に高校選手権で優勝し、横浜Mの初代監督を務め、その後も福岡、京都、仙台の監督を歴任した清水秀彦さんらがいた。

▽その後も当時の法政には天才ドリブラーと言われた中村一義さん(藤枝東高校出身で、高校生として初めて日本選抜に選出された)、楚輪博さん(広島県工出身でヤンマーや日本代表で活躍し、C大阪や鳥栖、富山の監督を歴任したゲームメーカー)、川勝良一さん(京都商業高校出身で、前田さんに誘われ法政大学に進学。読売クラブでゲームメーカーとして活躍後は同チームの監督や福岡、神戸の監督を歴任)ら、錚々たるメンバーがいた。

▽そんな黄金時代の法政に、キレのあるドリブルで19歳119日という日本代表最年少得点記録を持つ金田喜稔(現サッカー解説者)さんは、広島県工の先輩である楚輪さんから進学を勧められ、市ヶ谷にあるキャンパスを見学に訪れた。ところが地元広島に戻ると、サッカー部の松田監督から、「お前は法政に行ってもレギュラーにはなれない」と言われ、中央大学への進学を勧められ、素直に従ったという話を聞いた。

▽高校時代の金田さんの1歳後輩である木村和司さんは明治大学に進学した。もしかしたら松田監督は、教え子をバランスよく進路を選択していたのかもしれない。もしも金田さんが法政に進んでいれば、間違いなく最強チームができていただろう。

▽そんな大昔のことを思い出しながら観戦した今年のインカレだった。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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レノファ山口の壮大な計画/六川亨の日本サッカーの歩み

先週末はキリンチャレンジ杯の日本対コロンビア戦を取材後、24日は次の試合会場である神戸を通り越し、山口で行われたJ2の山口対栃木の試合を取材した。 昨シーズンの山口は前半戦で2位につける躍進を果たしたものの、夏場にエースストライカーに成長した小野瀬(山口で25試合出場10ゴール)をG大阪に引き抜かれると失速し、8位でシーズンを終えた。それでも監督として初采配を振るった霜田氏は「守備を固めて1点を奪うサッカーではJ1に昇格してもすぐに降格してしまう」と、あくまでボールを支配して攻撃的なサッカーを貫く姿勢に代わりはなかったからだ。 初めて訪れた維新みらいふスタジアムは収容人数1万5千人を超えるJ1規格のスタジアムである。そして栃木戦は後半15分過ぎからワンサイドゲームを展開し、シュートも21本対6本と圧倒しながらも前半27分にPKから失った1点を返せず、J2第5節終了次点で勝点3の21位に低迷している。 試合後の会見で霜田監督は「PKからの失点が3点、判断ミスからの失点が4点あるが、ミスは仕方がない。ミスを失点につながらないようにしたいし、攻めの姿勢はブレずに続けていきたい」と前を向いた。 霜田監督が攻撃的なサッカーにこだわるのは、J1昇格を最大目標としていないからだ。山口にサッカーをいかに根付かせるか。そのためには「見ていて楽しい攻撃的なサッカー」が必要だと考えている。 クラブとしての予算規模はJ2で中位クラス。そのため強化に手っ取り早い外国人選手を簡単には獲得できない。そこで他クラブの若手選手を補強し、自ら鍛えて結果を出し、他クラブに移籍させることで強化費を稼ぐという方法だ。このためシーズン半ばで山口を去った小野瀬にも「それなりのお金を残してくれたので感謝している」と言う。 その成功例があるため、昨シーズン終了後は山口への移籍を希望する若手選手も多かったそうだ。そして、いまは結果が出ていないものの、夏過ぎには他チームから声のかかりそうな選手も想定している。 そんな山口の悩みが、維新みらいふスタジアムだ。地元のファンはクルマで来場することが多いが、駐車場が不足しているため試合当日は隣接する土のグラウンドや地元企業の駐車場を借りて臨時場としている。他のアクセス手段としてJR山口線の大歳駅から徒歩10~15分程度とけして悪くない。 しかしJR山口線は単線の2輌編成のため、大量輸送は不可能だ。このため霜田監督は「せめて試合日は4輌編成にして欲しい」とお願いしている。さらに終電の時間も早いため、ナイターでの試合も開催できない。 こうしたハンデを克服すべく、すでに新スタジアム構想は立ち上がっているそうだ。収容人員2万5千人程度で、駐車場は1万台のキャパシティを想定している。そして単にスタジアムを造るのではなく、映画館を併設した大手ショッピングモールを始めとする複合施設の誘致にも着手している。まだ計画の端緒であるが、チームだけでなく地元企業や自治体も巻き込んだ壮大な計画でもある。 実際にスタジアムで取材して、面白いことも判明した。メインスタンドの記者席で観戦していると、後半なかばから西日が記者席に差し込んで左手にあたるピッチのプレーが見にくいのだ。 普通、太陽は東から昇り、西に沈む。このためスタジアムのメインスタンドは西に、バックスタンドは東に造られる。13時以降キックオフの試合では、メインスタンドは太陽を背にし、さらに屋根があるため陽が当たらない。逆にバックスタンドは日差しを浴びるため3月の試合でも暖かいことがある。 これが逆だと、夕方はメインスタンドが落陽のため西日を浴びるため試合を観戦しにくい。そして柏の日立台と、長居のキンチョウスタジアムは世界でも珍しく東西の位置が逆になっている。ところが維新みらいふスタジアムは東と西がゴールのある方向で、メインスタンドとバックスタンドは南北に位置している。 するとどうなるかというと、東側のゴールにいる選手、特にGKは西日をモロに浴びるため、プレーに支障が出る可能性が大なのだ。たぶん維新みらいふスタジアムで試合をする際に、コイントスで勝ってコートを選ぶ時は西側のコートを選択するのだろう。そうすれば、後半は西日を背中に攻めることができるからだ。 もともとスタジアムは2011年の国体のために造られただけに、そこまで配慮していなかったのだろう。これはこれで珍しいスタジアムでもある。このスタジアムから2駅先、タクシーなら1メーターで行けるところに湯田温泉という名湯があることも発見だった。アウェーの試合で山口に行く際は温泉地で骨休めすることをお勧めする。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.25 20:00 Mon
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W杯の出場枠増は非現実的/六川亨の日本サッカーの歩み

FIFA(国際サッカー連盟)は3月15日、フロリダ州マイアミで開催された理事会で、22年カタールW杯は近隣国との共催を条件に出場チームを16チーム増の48カ国とする拡大案を実現可能と認めた。今年6月のパリ総会で可決されれば正式に決まるとアナウンスした。 もともとW杯の参加国増は検討されていて、26年のアメリカ、メキシコ、カナダの3カ国による共催大会から導入する予定だった。しかしFIFAのインファンティノ会長は、それを前倒しにして22年大会から導入するプランを持っていた。 昨年7月13日のことだ。ロシアW杯を取材中、カタールのW杯組織委員会はモスクワ市内の巨大な公園、ゴーリキーパークでレセプションを開催した。そこで広報担当者に出場国について確認すると、「32カ国に変更はない。大会は11月21日に開幕し、決勝戦は12月18日だ」と明言した。 その他にもホテルは急ピッチで建設しており、高級、中級ホテルに加え、リーズナブルなホテルの他にガルフ湾に巨大客船を停めて臨時の宿泊施設にする「カシマ方式」も計画中とのことだった。それが大会を3年後に控えての参加チーム増である。 FIFAの作業グループによると、48カ国ではカタール単独での開催は難しいという。そもそもW杯は「国開催」、五輪は「都市開催」と区切られるように、国を挙げての一大イベントだ。それがカタールという、日本でいえば秋田県とほぼ同じ国土で開催すること自体、無理があった。それに輪を掛けて参加チーム増である。 すでに単独開催では実現不可能として、FIFAの作業グループはカタールと親交のあるクウェートとオマーンでの共催、さらには宗教的な対立から国交断交の続くサウジアラビアやUAEなどとの共催も提案するという。 正直、驚いた。そしてW杯なら何でも可能になると思っているインファンティノ会長の奢りを感じずにはいられない。世界で紛争が尽きない一番の原因は宗教的な対立だからだ。この話題はここまでにして、今回はW杯の参加チームについて紐解いていこう。 W杯が現行のグループリーグと、それを勝ち上がったチームによるトーナメント方式になったのは1954年のスイス大会からだった。本大会参加チームは16カ国で、決勝トーナメントのシード方式に差はあったものの、同じスタイルで1970年のメキシコ大会まで16年間、5大会ほど続いた。 1974年の西ドイツ大会は、参加チームに変わりはなかったものの、試合数の増加を目的に8チームによる2次リーグが採用され、各グループの1位が決勝、2位が3位決定戦を行うという変則システムだった。この74年大会は西ドイツが2度目の優勝を果たしたが、ヨハン・クライフ率いるオランダが「トータルフットボール」を披露した大会として人々の記憶に残っている。 そしてW杯にとっても転機となる大会だった。開会式の3日前に行われたFIFA総会で、当時のサー・スタンレー・ラウス(イングランド)会長をジョアン・アベランジェ(ブラジル)が破り、新たな会長に就任したからだ。 アベランジェ会長は、その後W杯に次々と改革を起こしてFIFAとW杯そのものを巨大なビジネス・ツールに変貌させていく。その手始めが1982年スペインW杯での参加チーム増で、それまでの16カ国から24カ国に拡大した。 アベランジェ会長自身が74年の会長選の際に掲げた公約が、アジアとアフリカの出場枠の増加だった。これによりアベランジェ会長は選挙でアジアとアフリカの票を集めることができた。その“恩返し”というか、公約実現のために8年後のW杯で参加チームを増加することに成功した。 それまでアジアは(中東とオセアニアを含む)1、アフリカも1で、時には欧州や南米とのプレーオフで出場を断たれててきたサッカー後進国に初めて2枠の出場が認められたのだ。そのおかげでアジアからはクウェートとニュージーランドが、アフリカからはカメルーンとアルジェリアが出場を果たす。 4カ国とも1次リーグで敗退したが、1次リーグでアルジェリアは準優勝の西ドイツを2-1で破り、カメルーンも3位のポーランド、優勝したイタリア、そしてペルー相手に3引き分けとアフリカ勢の健闘が光った大会でもあった。 24カ国による1次リーグと、それを勝ち上がった16カ国による決勝トーナメント方式は86年メキシコ、90年イタリア、94年アメリカと3大会続いた。そして1998年のフランス大会では参加チームが32カ国に増え、アジア枠も従来の2から3・5に増枠された。そのおかげで日本はイランとの第3代表決定戦を制し、W杯初出場を果たしたのは周知の通りだ。 フランス大会では多くの日本人ファンが現地での試合観戦を望み、チケットが入手できないというトラブルも起きた。参加チームの増加は過去の例を見るまでもなく、FIFAに莫大な利益をもたらす。 カタール大会が48カ国になったら、アジアの出場枠も8に拡大されるという。しかしカタール単独での開催は不可能とFIFAは判断し、前述したクウェートやオマーン、サウジアラビアやUAEとの共催を提案するという。しかし5カ国の共催となった場合、開催国の出場枠はどうするのか。単純計算で、残る3枠を日本、韓国、イラン、オーストラリアなどと争うのか。あまりにも不透明で、アンバランスなFIFAの提案と言わざるを得ない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.18 18:00 Mon
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震災から8年。2011年のJリーグを振り返る/六川亨の日本サッカーの歩み

早いもので、今日3月11日で東日本大震災から8年目が経過した。そこで今回は8年前のJリーグを振り返ってみたい。まず前年の成績からFC東京、京都、湘南の3チームがJ2に降格。代わりに柏、甲府、福岡の3チームがJ1昇格を果たした。 シーズン開幕を告げる2月20日のちばぎん杯はJ1昇格を決めた柏が北嶋のゴールで1-0の勝利を収める。そして6日後のゼロックス杯では名古屋と鹿島が激突し、1-1からのPK戦を3-1で制した名古屋に凱歌があがる。PK戦では3本のシュートストップしたGK楢崎が勝利の立役者となった。 そして迎えた3月5日、J1とJ2が開幕する。当日は味スタでのFC東京対鳥栖戦を取材した。第2節は12日と13日開催予定だったが、11日に未曾有の大地震が東北地方を襲う。当日は昼過ぎまで自宅で原稿を書き、その後は代々木第1体育館で開催中のフットサル、プーマカップを取材するため準備をしているところで尋常ではない揺れを感じた。 すぐにテレビをつけると、やがて東北各地から津波の映像が次々に映し出される。後に代々木第1体育館で取材中だった同業者に聞いたところ、始めは揺れを感じて外へ逃れようとしたが、むしろ体育館内にとどまった方が安全だということで、しばらくは体育館で過ごしたという。しかし、交通網は完全に遮断されていたため、帰宅は徒歩しか方法はない。神保町の出版社に務める友人は、自宅のある柏市まで8時間かけて歩いて帰ったそうだ。 当然、Jリーグはすべて中止となった。J1は第2節から第6節まで、J2は第2節から第7節まで延期することが決定。被害を受けたスタジアムは鹿島のホームであるカシマスタジアムと、仙台のユアテックスタジアムは一部損壊があるものの試合続行は可能だった。その代わり宮城スタジアムは震災の救援拠点として使われるため使用できなくなった。 では、なぜ試合ができなくなったかというと、福島の原発が被害を受けたことによる電力不足が原因だった。震災による電力不足と、当時実施された「計画停電」が継続されていたこと、そして東北・関東の被災状況を鑑みてJリーグはリーグとカップ戦の中止を決定した。 その他にも3月25日と29日に予定されていたキリンチャレンジ杯も中止となり、29日の長居での試合は日本対Jリーグ選抜のチャリティーマッチに変更された。当時のことを覚えているのは、25日に叔母が死去し、31日は父が他界と、1週間で2人の親族を亡くしたからでもあった。 震災から約1ヶ月後の4月10日、PSM(プレーシーズンマッチ)として浦和が山形と、16日は大宮が仙台と対戦した。浦和のマルシオ・リシャルデスは、仙台のマルキーニョスがブラジルへ帰国したことについて「外国人は地震の経験が少なく、今回こういうことがあって、マルキーニョスらが住んでいる場所は大変な被害に遭った。彼らの身になって考えると正しいことだし、同じブラジル人としては寂しいけど、安全面を考えると理解できる」と同情していた。 震災後、初の公式戦は4月19日のACL(アジアチャンピオンズリーグ)グループリーグの鹿島対水原戦で、J1リーグが再開されたのは23日の第7節、鹿島対横浜FM戦からだった。いずれも鹿島のホームゲームだったが、カシマスタジアムが使用できないため国立競技場で開催された。翌24日は浦和対名古屋戦を取材し、29日には被災地をこの目で見るためユアテックスタジアムでの仙台対浦和戦を取材した。 試合はホームの仙台が1-0の勝利を収めた。試合後の手倉森監督は「被災地である東北のプロチームが本拠地で試合ができる。確実に復興、前に進んでいることを実感できる。こういう状況でも勝てるということを示せば、前を向いて生きる勇気、パワーを2つのスタジアムから送れればいいと思う。東北にもパワーがあることを示せたと思うし、これを1年間続けないといけない」と力強く語っていた。 この年の仙台は粘り強い戦いから14勝14分け6敗の好成績を収め、過去最高の4位でリーグ戦を終えた。失点はリーグトップの25点で堅守をベースに、先制した試合は無敗と勝負強さを発揮した。 J1リーグはJ2から昇格したばかりの柏が優勝を果たす。これはJリーグ初の快挙で、J2とJ1両ディビジョンで優勝したのも柏が初めてだった。下位に目を転じると、山形、福岡、甲府がJ2に降格したが、15位の浦和と16位の甲府の勝点差は3点で、浦和は降格の危機に見舞われたシーズンでもあった。 J2はFC東京が圧倒的な強さで優勝を飾り、2位に食い込んだ鳥栖が初のJ1昇格を果たした。このシーズン以降、鳥栖は一度もJ2リーグに降格していないが、今シーズンは第3節を終了した時点でノーゴールの3連敗で最下位に沈んでいる。仙台も1分け2敗の16位と出遅れているが、彼らは果たして巻き返しは図れるのだろうか。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.11 17:00 Mon
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現役引退の楢崎だが川口とのライバル関係は今後も続く?/六川亨の日本サッカーの歩み

今年1月に現役引退を発表した元日本代表GKの楢崎正剛の引退セレモニーが、3月2日の名古屋対C大阪戦の試合前に行われた。彼について、いまさら多くを語る必要はないだろう。1995年に、いまは消滅した横浜フリューゲルスに入団すると、新人ながら正GKとしてゴールマウスに立ち、98年に横浜Fが消滅すると名古屋へ移籍。そして名古屋で引退するまで19年連続して守護神として君臨した。 その間にはJ1リーグ優勝もあればJ2降格の屈辱も経験した。J1出場631試合は歴代最多で、日本代表としても77試合の出場を誇る。昨シーズン限りで現役を引退した川口能活とは永遠のライバル関係であり、昨シーズンのJ3最終戦では川口の引退セレモニーにサプライズゲストとして登場し、3月2日の楢﨑のセレモニーには川口が参加。「最強で最高のライバルでした」と労いの言葉をかけた。 そんな楢﨑のハイライトシーンといえば、やはりトルシエ・ジャパン時代だろう。オーバーエイジ枠で出場したシドニー五輪ではベスト8進出に貢献。準々決勝のアメリカ戦では味方選手と激突し、流血しながらもプレーを続けた。残念ながらPK戦では中田英寿がポストに当ててしまいメダルには届かなかった。 しかし2年後の日韓W杯では正GKを務めて初の決勝トーナメント進出に貢献。フランスW杯とドイツW杯は川口が正GKと、2人が先発した国際Aマッチは192試合にも及ぶ(川口が116試合、楢﨑が76試合)。川島が台頭する南アW杯まで約15年近くも2人はライバルとして代表正GKの座を争った。 そんな楢崎で思い出すのが、彼が高校3年で迎えた全国選手権だ。当時勤務していた専門誌では、高校選手権のガイドを付録として付けていた。そこで高校サッカー担当の金子達仁くんが、「将来は日本代表になる」とカラーページで紹介するよう一押ししたのが楢崎だった。 その予感は的中し、奈良育英高校は初めて選手権でベスト4まで勝ち上がる。2回戦から登場すると、前年に川口を擁して優勝した清水市商に1-0、3回戦で四日市中央工に2-2からのPK戦を9-8と退け、準々決勝では三本木農に1-0の完封勝利を収めた。 残念ながら準決勝で優勝した市立船橋に0-3で敗れたものの、市立船橋は決勝で帝京を5-0と粉砕する驚異的な破壊力を持ったチームだけに、3失点でとどめたのは楢崎のおかげでもあるだろう(当時の市立船橋は得点王の森崎嘉之、北嶋秀朗ら錚々たるメンバーだった)。 今後は名古屋のスペシャルフェローとして後進の指導にあたるという。どうやら引退後も川口とのライバル関係は続くようだ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.04 18:00 Mon
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森山泰行が3度目の現役復帰を果たす/六川亨の日本サッカーの歩み

森山泰行というストライカーを覚えているだろうか。岐阜の笠松中学時代に全国中学校大会で3位に入賞。周囲は県内の名門高校である岐阜工業高校に進学すると思ったが、東京の帝京高校に進学。当時は県内のサッカー関係者から「裏切り者」扱いされた。 帝京では天才的なゲームメーカー礒谷洋光とのホットラインで活躍したものの、準々決勝で優勝した東海大一に敗れ、全国制覇は果たせなかった。その後、順天堂大学では3年生の時に関東大学リーグの得点王を獲得。大学卒業後は名古屋グランパスエイトに入団し、途中出場で高い得点力を発揮し、スーパーサブとして活躍した。 名古屋では148試合で51ゴールを決め、その後は平塚、ヒット・ゴリツァ(スロベニア)、広島、川崎F、札幌などを渡り歩き、38歳の2004年に現役引退を表明した。しかし翌05年、地元の岐阜で将来Jリーグの参入を目指す岐阜FC(当時は東海社会人リーグ2部)で選手兼監督補佐として現役に復帰。08年に岐阜がJ2に昇格すると、このシーズンを最後にユニホームを脱いだ。 J1では通算215試合で66ゴールを記録したが、そのうち23ゴールは途中出場(86試合)での得点で、2011シーズンに播戸竜二(124試合で27ゴール)に破られるまでJリーグの記録だった(現在は2位)。 身長171センチと背は高くなかったが、ボール保持者と相手GKとゴールを同一視野にとらえるアザーサイドでのポジショニングとプルアウェイの動きなどでマークを外すのが上手かった。現在なら大久保嘉人と同じタイプのストライカーと言えるだろう。ヘディングシュートの際は「ゴールの方向に顔が向いてないと決まらない」というのが持論だった。 シュートの巧さは帝京高校時代に繰り返した練習の成果と語る。当時の帝京高校は野球部と共同使用のため、フルコートは取れない狭いグラウンドだった。このため4カ所にゴールを設置し、主力選手は4カ所のゴールを回ってひたすらシュート練習を繰り返した。 ボールを投げるのはサブの選手で上級生もいた。このため、わざと難しいボールを出してくることもある。それらを頭と両足を使って延々とシュート練習を繰り返したのが上達に役立ったそうだ。 ランニングは板橋区にある高校を出ると、荒川の土手沿いに江東区まで往復。夏合宿ではOBの差し入れを残すことは許されず、てんこ盛りのどんぶりご飯を4~5杯食べないといけない規則だった。このため選手はトイレに行くふりをして、喉に指を入れて無理矢理に吐いては食べることの繰り返しだった。 2度目の現役引退後はサッカー解説者として活躍していたが、2014年4月に埼玉県の浦和学院高校サッカー部の監督に就任。残念ながら高校選手権には出場できず、昨年で監督を退任すると、今月12日、愛知県岡崎市にあるJFL(ジャパンフットボールリーグ)のFCマルヤス岡崎でTD(テクニカル・ダイレクター)兼任で3度目の現役復帰を果たした。 彼からその話を聞いたのは、2月9日に沖縄で行われたプレシーズンマッチの名古屋対FC東京戦の前だった。今年の5月1日で50歳になるものの、森山は「カズさん(三浦知良)も51歳だから、負けていられませんよ」と笑っていた。果たして50歳のチャレンジがどんな影響を日本サッカー界に及ぼすのか。まずは結果よりも、その波及効果に期待したいと思っている。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.02.23 18:55 Sat
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