【六川亨の日本サッカーの歩み】ハリル解任2018.04.10 13:30 Tue

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▽ハリルホジッチ監督解任――4月9日、日本サッカー界に激震が走った。ワールドカップ(W杯)を2カ月後に控えての監督交代劇。1997年10月のフランスW杯アジア最終予選、カザフスタン戦でドローに終わったあとに、当時の長沼健JFA(日本サッカー協会)会長が、加茂周監督を更迭し、岡田武史コーチを監督に昇格させて以来のショッキングな監督交代劇だった。

▽これまでも何度か書いてきたように、ハリルホジッチ監督はW杯でジャイアントキリングを起こすために招聘された監督だった。しかし3月のベルギー遠征では選手から縦パスばかりの攻撃に不満が漏れ出した。

▽若手選手が多かったせいもあるが、ハリルホジッチ監督を招へいした霜田正浩 元技術委員長がいれば両者の意見を汲んで進むべきベクトルを合わせることもできただろう。裏返せば、それだけ西野朗 技術委員長と手倉森誠コーチら代表スタッフは機能していなかったことの証明でもある。

▽元々、西野技術委員長は「勝負師タイプ」の監督である。技術委員長に就任した際も、「スーツよりジャージの方が似合っているし、室内にいるよりグラウンドにいた方が気楽だ」と話していた。また、ガンバ大阪の監督を辞めて浪人中も、「自分はマグロのようなもの。回遊魚なので止まったら死んでしまう。ピッチにいないと息苦しい」と本音を漏らしていた。

▽そんな西野氏に、「技術委員長は慣れましたか」と聞くと、決まって「慣れるわけないだろう!」という返事が返ってきた。元々、技術委員長のタイプでなないのだ。JFAのミスマッチは、この時点で明白だった。

▽さらに3月のベルギー遠征では、選手の不満をスポーツ紙に漏らしたスタッフがいたと聞いた。西野氏の代表監督就任により、あるコーチがスタッフから外れるのは偶然なのか疑問が残る。

▽こうした齟齬の積み重ねがハリル・ジャパンを蝕んでいたことは想像に難くない。そして、本来であればハリルホジッチ監督を解任するのは西野技術委員長のはずである。にもかかわらず田嶋会長が「渦中の栗」を拾う格好で解任会見を開いた。田嶋会長にしては珍しいとも思ったが、さすがに西野技術委員長がハリルホジッチ監督の解任をメディアに伝えつつ、「自分が後任監督を務めます」と言うことはできない。解任せざるを得なかった責任の一端は、技術委員長にもあるからだ。

▽先にも書いたように、西野技術委員長は「タイプ」ではない。勝負師である。そんな西野氏を技術委員長に起用した田嶋会長は、ハリルホジッチ監督の更迭も視野に入れて西野氏を抜擢したのではないかと疑いたくなってしまう。

▽かつて加茂氏が日産時代に代表監督待望論があったように、西野氏も過去には「代表監督を日本人にするなら」と待望論があった。名古屋グランパスやヴィッセル神戸の監督で結果を残せなかったため、そうした声は霧消したものの、1996年のアトランタ五輪では西野監督、山本コーチ、田嶋技術委員という間柄でもあった。

▽当時は優勝候補筆頭のブラジルを倒し、「マイアミの奇跡」と賞賛されたものの、グループリーグで敗退し、西野監督は批判にさらされた。その復権を田嶋会長が期待したとしても不思議ではない。12日に予定されている会見で西野監督は何を語るのか。2010年南アフリカW杯の岡田監督以来となる日本人監督だが、昨日、岡田氏がS級ライセンスを返上したことが明らかになったのは、単なる偶然なのだろうか。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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W杯の出場枠増は非現実的/六川亨の日本サッカーの歩み

FIFA(国際サッカー連盟)は3月15日、フロリダ州マイアミで開催された理事会で、22年カタールW杯は近隣国との共催を条件に出場チームを16チーム増の48カ国とする拡大案を実現可能と認めた。今年6月のパリ総会で可決されれば正式に決まるとアナウンスした。 もともとW杯の参加国増は検討されていて、26年のアメリカ、メキシコ、カナダの3カ国による共催大会から導入する予定だった。しかしFIFAのインファンティノ会長は、それを前倒しにして22年大会から導入するプランを持っていた。 昨年7月13日のことだ。ロシアW杯を取材中、カタールのW杯組織委員会はモスクワ市内の巨大な公園、ゴーリキーパークでレセプションを開催した。そこで広報担当者に出場国について確認すると、「32カ国に変更はない。大会は11月21日に開幕し、決勝戦は12月18日だ」と明言した。 その他にもホテルは急ピッチで建設しており、高級、中級ホテルに加え、リーズナブルなホテルの他にガルフ湾に巨大客船を停めて臨時の宿泊施設にする「カシマ方式」も計画中とのことだった。それが大会を3年後に控えての参加チーム増である。 FIFAの作業グループによると、48カ国ではカタール単独での開催は難しいという。そもそもW杯は「国開催」、五輪は「都市開催」と区切られるように、国を挙げての一大イベントだ。それがカタールという、日本でいえば秋田県とほぼ同じ国土で開催すること自体、無理があった。それに輪を掛けて参加チーム増である。 すでに単独開催では実現不可能として、FIFAの作業グループはカタールと親交のあるクウェートとオマーンでの共催、さらには宗教的な対立から国交断交の続くサウジアラビアやUAEなどとの共催も提案するという。 正直、驚いた。そしてW杯なら何でも可能になると思っているインファンティノ会長の奢りを感じずにはいられない。世界で紛争が尽きない一番の原因は宗教的な対立だからだ。この話題はここまでにして、今回はW杯の参加チームについて紐解いていこう。 W杯が現行のグループリーグと、それを勝ち上がったチームによるトーナメント方式になったのは1954年のスイス大会からだった。本大会参加チームは16カ国で、決勝トーナメントのシード方式に差はあったものの、同じスタイルで1970年のメキシコ大会まで16年間、5大会ほど続いた。 1974年の西ドイツ大会は、参加チームに変わりはなかったものの、試合数の増加を目的に8チームによる2次リーグが採用され、各グループの1位が決勝、2位が3位決定戦を行うという変則システムだった。この74年大会は西ドイツが2度目の優勝を果たしたが、ヨハン・クライフ率いるオランダが「トータルフットボール」を披露した大会として人々の記憶に残っている。 そしてW杯にとっても転機となる大会だった。開会式の3日前に行われたFIFA総会で、当時のサー・スタンレー・ラウス(イングランド)会長をジョアン・アベランジェ(ブラジル)が破り、新たな会長に就任したからだ。 アベランジェ会長は、その後W杯に次々と改革を起こしてFIFAとW杯そのものを巨大なビジネス・ツールに変貌させていく。その手始めが1982年スペインW杯での参加チーム増で、それまでの16カ国から24カ国に拡大した。 アベランジェ会長自身が74年の会長選の際に掲げた公約が、アジアとアフリカの出場枠の増加だった。これによりアベランジェ会長は選挙でアジアとアフリカの票を集めることができた。その“恩返し”というか、公約実現のために8年後のW杯で参加チームを増加することに成功した。 それまでアジアは(中東とオセアニアを含む)1、アフリカも1で、時には欧州や南米とのプレーオフで出場を断たれててきたサッカー後進国に初めて2枠の出場が認められたのだ。そのおかげでアジアからはクウェートとニュージーランドが、アフリカからはカメルーンとアルジェリアが出場を果たす。 4カ国とも1次リーグで敗退したが、1次リーグでアルジェリアは準優勝の西ドイツを2-1で破り、カメルーンも3位のポーランド、優勝したイタリア、そしてペルー相手に3引き分けとアフリカ勢の健闘が光った大会でもあった。 24カ国による1次リーグと、それを勝ち上がった16カ国による決勝トーナメント方式は86年メキシコ、90年イタリア、94年アメリカと3大会続いた。そして1998年のフランス大会では参加チームが32カ国に増え、アジア枠も従来の2から3・5に増枠された。そのおかげで日本はイランとの第3代表決定戦を制し、W杯初出場を果たしたのは周知の通りだ。 フランス大会では多くの日本人ファンが現地での試合観戦を望み、チケットが入手できないというトラブルも起きた。参加チームの増加は過去の例を見るまでもなく、FIFAに莫大な利益をもたらす。 カタール大会が48カ国になったら、アジアの出場枠も8に拡大されるという。しかしカタール単独での開催は不可能とFIFAは判断し、前述したクウェートやオマーン、サウジアラビアやUAEとの共催を提案するという。しかし5カ国の共催となった場合、開催国の出場枠はどうするのか。単純計算で、残る3枠を日本、韓国、イラン、オーストラリアなどと争うのか。あまりにも不透明で、アンバランスなFIFAの提案と言わざるを得ない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.18 18:00 Mon
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震災から8年。2011年のJリーグを振り返る/六川亨の日本サッカーの歩み

早いもので、今日3月11日で東日本大震災から8年目が経過した。そこで今回は8年前のJリーグを振り返ってみたい。まず前年の成績からFC東京、京都、湘南の3チームがJ2に降格。代わりに柏、甲府、福岡の3チームがJ1昇格を果たした。 シーズン開幕を告げる2月20日のちばぎん杯はJ1昇格を決めた柏が北嶋のゴールで1-0の勝利を収める。そして6日後のゼロックス杯では名古屋と鹿島が激突し、1-1からのPK戦を3-1で制した名古屋に凱歌があがる。PK戦では3本のシュートストップしたGK楢崎が勝利の立役者となった。 そして迎えた3月5日、J1とJ2が開幕する。当日は味スタでのFC東京対鳥栖戦を取材した。第2節は12日と13日開催予定だったが、11日に未曾有の大地震が東北地方を襲う。当日は昼過ぎまで自宅で原稿を書き、その後は代々木第1体育館で開催中のフットサル、プーマカップを取材するため準備をしているところで尋常ではない揺れを感じた。 すぐにテレビをつけると、やがて東北各地から津波の映像が次々に映し出される。後に代々木第1体育館で取材中だった同業者に聞いたところ、始めは揺れを感じて外へ逃れようとしたが、むしろ体育館内にとどまった方が安全だということで、しばらくは体育館で過ごしたという。しかし、交通網は完全に遮断されていたため、帰宅は徒歩しか方法はない。神保町の出版社に務める友人は、自宅のある柏市まで8時間かけて歩いて帰ったそうだ。 当然、Jリーグはすべて中止となった。J1は第2節から第6節まで、J2は第2節から第7節まで延期することが決定。被害を受けたスタジアムは鹿島のホームであるカシマスタジアムと、仙台のユアテックスタジアムは一部損壊があるものの試合続行は可能だった。その代わり宮城スタジアムは震災の救援拠点として使われるため使用できなくなった。 では、なぜ試合ができなくなったかというと、福島の原発が被害を受けたことによる電力不足が原因だった。震災による電力不足と、当時実施された「計画停電」が継続されていたこと、そして東北・関東の被災状況を鑑みてJリーグはリーグとカップ戦の中止を決定した。 その他にも3月25日と29日に予定されていたキリンチャレンジ杯も中止となり、29日の長居での試合は日本対Jリーグ選抜のチャリティーマッチに変更された。当時のことを覚えているのは、25日に叔母が死去し、31日は父が他界と、1週間で2人の親族を亡くしたからでもあった。 震災から約1ヶ月後の4月10日、PSM(プレーシーズンマッチ)として浦和が山形と、16日は大宮が仙台と対戦した。浦和のマルシオ・リシャルデスは、仙台のマルキーニョスがブラジルへ帰国したことについて「外国人は地震の経験が少なく、今回こういうことがあって、マルキーニョスらが住んでいる場所は大変な被害に遭った。彼らの身になって考えると正しいことだし、同じブラジル人としては寂しいけど、安全面を考えると理解できる」と同情していた。 震災後、初の公式戦は4月19日のACL(アジアチャンピオンズリーグ)グループリーグの鹿島対水原戦で、J1リーグが再開されたのは23日の第7節、鹿島対横浜FM戦からだった。いずれも鹿島のホームゲームだったが、カシマスタジアムが使用できないため国立競技場で開催された。翌24日は浦和対名古屋戦を取材し、29日には被災地をこの目で見るためユアテックスタジアムでの仙台対浦和戦を取材した。 試合はホームの仙台が1-0の勝利を収めた。試合後の手倉森監督は「被災地である東北のプロチームが本拠地で試合ができる。確実に復興、前に進んでいることを実感できる。こういう状況でも勝てるということを示せば、前を向いて生きる勇気、パワーを2つのスタジアムから送れればいいと思う。東北にもパワーがあることを示せたと思うし、これを1年間続けないといけない」と力強く語っていた。 この年の仙台は粘り強い戦いから14勝14分け6敗の好成績を収め、過去最高の4位でリーグ戦を終えた。失点はリーグトップの25点で堅守をベースに、先制した試合は無敗と勝負強さを発揮した。 J1リーグはJ2から昇格したばかりの柏が優勝を果たす。これはJリーグ初の快挙で、J2とJ1両ディビジョンで優勝したのも柏が初めてだった。下位に目を転じると、山形、福岡、甲府がJ2に降格したが、15位の浦和と16位の甲府の勝点差は3点で、浦和は降格の危機に見舞われたシーズンでもあった。 J2はFC東京が圧倒的な強さで優勝を飾り、2位に食い込んだ鳥栖が初のJ1昇格を果たした。このシーズン以降、鳥栖は一度もJ2リーグに降格していないが、今シーズンは第3節を終了した時点でノーゴールの3連敗で最下位に沈んでいる。仙台も1分け2敗の16位と出遅れているが、彼らは果たして巻き返しは図れるのだろうか。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.11 17:00 Mon
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現役引退の楢崎だが川口とのライバル関係は今後も続く?/六川亨の日本サッカーの歩み

今年1月に現役引退を発表した元日本代表GKの楢崎正剛の引退セレモニーが、3月2日の名古屋対C大阪戦の試合前に行われた。彼について、いまさら多くを語る必要はないだろう。1995年に、いまは消滅した横浜フリューゲルスに入団すると、新人ながら正GKとしてゴールマウスに立ち、98年に横浜Fが消滅すると名古屋へ移籍。そして名古屋で引退するまで19年連続して守護神として君臨した。 その間にはJ1リーグ優勝もあればJ2降格の屈辱も経験した。J1出場631試合は歴代最多で、日本代表としても77試合の出場を誇る。昨シーズン限りで現役を引退した川口能活とは永遠のライバル関係であり、昨シーズンのJ3最終戦では川口の引退セレモニーにサプライズゲストとして登場し、3月2日の楢﨑のセレモニーには川口が参加。「最強で最高のライバルでした」と労いの言葉をかけた。 そんな楢﨑のハイライトシーンといえば、やはりトルシエ・ジャパン時代だろう。オーバーエイジ枠で出場したシドニー五輪ではベスト8進出に貢献。準々決勝のアメリカ戦では味方選手と激突し、流血しながらもプレーを続けた。残念ながらPK戦では中田英寿がポストに当ててしまいメダルには届かなかった。 しかし2年後の日韓W杯では正GKを務めて初の決勝トーナメント進出に貢献。フランスW杯とドイツW杯は川口が正GKと、2人が先発した国際Aマッチは192試合にも及ぶ(川口が116試合、楢﨑が76試合)。川島が台頭する南アW杯まで約15年近くも2人はライバルとして代表正GKの座を争った。 そんな楢崎で思い出すのが、彼が高校3年で迎えた全国選手権だ。当時勤務していた専門誌では、高校選手権のガイドを付録として付けていた。そこで高校サッカー担当の金子達仁くんが、「将来は日本代表になる」とカラーページで紹介するよう一押ししたのが楢崎だった。 その予感は的中し、奈良育英高校は初めて選手権でベスト4まで勝ち上がる。2回戦から登場すると、前年に川口を擁して優勝した清水市商に1-0、3回戦で四日市中央工に2-2からのPK戦を9-8と退け、準々決勝では三本木農に1-0の完封勝利を収めた。 残念ながら準決勝で優勝した市立船橋に0-3で敗れたものの、市立船橋は決勝で帝京を5-0と粉砕する驚異的な破壊力を持ったチームだけに、3失点でとどめたのは楢崎のおかげでもあるだろう(当時の市立船橋は得点王の森崎嘉之、北嶋秀朗ら錚々たるメンバーだった)。 今後は名古屋のスペシャルフェローとして後進の指導にあたるという。どうやら引退後も川口とのライバル関係は続くようだ。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.03.04 18:00 Mon
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森山泰行が3度目の現役復帰を果たす/六川亨の日本サッカーの歩み

森山泰行というストライカーを覚えているだろうか。岐阜の笠松中学時代に全国中学校大会で3位に入賞。周囲は県内の名門高校である岐阜工業高校に進学すると思ったが、東京の帝京高校に進学。当時は県内のサッカー関係者から「裏切り者」扱いされた。 帝京では天才的なゲームメーカー礒谷洋光とのホットラインで活躍したものの、準々決勝で優勝した東海大一に敗れ、全国制覇は果たせなかった。その後、順天堂大学では3年生の時に関東大学リーグの得点王を獲得。大学卒業後は名古屋グランパスエイトに入団し、途中出場で高い得点力を発揮し、スーパーサブとして活躍した。 名古屋では148試合で51ゴールを決め、その後は平塚、ヒット・ゴリツァ(スロベニア)、広島、川崎F、札幌などを渡り歩き、38歳の2004年に現役引退を表明した。しかし翌05年、地元の岐阜で将来Jリーグの参入を目指す岐阜FC(当時は東海社会人リーグ2部)で選手兼監督補佐として現役に復帰。08年に岐阜がJ2に昇格すると、このシーズンを最後にユニホームを脱いだ。 J1では通算215試合で66ゴールを記録したが、そのうち23ゴールは途中出場(86試合)での得点で、2011シーズンに播戸竜二(124試合で27ゴール)に破られるまでJリーグの記録だった(現在は2位)。 身長171センチと背は高くなかったが、ボール保持者と相手GKとゴールを同一視野にとらえるアザーサイドでのポジショニングとプルアウェイの動きなどでマークを外すのが上手かった。現在なら大久保嘉人と同じタイプのストライカーと言えるだろう。ヘディングシュートの際は「ゴールの方向に顔が向いてないと決まらない」というのが持論だった。 シュートの巧さは帝京高校時代に繰り返した練習の成果と語る。当時の帝京高校は野球部と共同使用のため、フルコートは取れない狭いグラウンドだった。このため4カ所にゴールを設置し、主力選手は4カ所のゴールを回ってひたすらシュート練習を繰り返した。 ボールを投げるのはサブの選手で上級生もいた。このため、わざと難しいボールを出してくることもある。それらを頭と両足を使って延々とシュート練習を繰り返したのが上達に役立ったそうだ。 ランニングは板橋区にある高校を出ると、荒川の土手沿いに江東区まで往復。夏合宿ではOBの差し入れを残すことは許されず、てんこ盛りのどんぶりご飯を4~5杯食べないといけない規則だった。このため選手はトイレに行くふりをして、喉に指を入れて無理矢理に吐いては食べることの繰り返しだった。 2度目の現役引退後はサッカー解説者として活躍していたが、2014年4月に埼玉県の浦和学院高校サッカー部の監督に就任。残念ながら高校選手権には出場できず、昨年で監督を退任すると、今月12日、愛知県岡崎市にあるJFL(ジャパンフットボールリーグ)のFCマルヤス岡崎でTD(テクニカル・ダイレクター)兼任で3度目の現役復帰を果たした。 彼からその話を聞いたのは、2月9日に沖縄で行われたプレシーズンマッチの名古屋対FC東京戦の前だった。今年の5月1日で50歳になるものの、森山は「カズさん(三浦知良)も51歳だから、負けていられませんよ」と笑っていた。果たして50歳のチャレンジがどんな影響を日本サッカー界に及ぼすのか。まずは結果よりも、その波及効果に期待したいと思っている。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.02.23 18:55 Sat
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キックオフカンファレンスでの出来事/六川亨の日本サッカーの歩み

Jリーグのシーズン到来を告げる「2019Jリーグキックオフカンファレンス」が2月14日、都内の貸しホールでJ1全18チームの監督と選手を招いて開催された。例年だとJ1に加えJ2とJ3(FC東京U-23とG大阪U-23、C大阪U-23を除く)の全チームを招いて行われてきたが、今年は試験的にJ1チームだけにした。 その理由をJリーグ関係者に聞いたところ、「J2とJ3のチームは全国各地に散らばっているが、それらのチームのブースを訪れて取材している新聞、テレビなどはいずれも地元のメディアです。取材する方もされる方も地元同士。それなら、『わざわざ交通費とホテル代をかけて上京する必要はないのではないか』という意見が出たからです」と教えてくれた。 それはそれで正しい意見だが、チーム数が減った割に18チームを取材するエリアは狭すぎて、すれ違うのも容易ではなかった点は改善を期待したい。 カンファレンスそのものは、最初に22日のフライデーナイトで対戦するC大阪の都倉と神戸のイニエスタが登場し、その後も開幕戦で対戦するチーム同士の選手が次々と登場と「選手ファースト」だったのは良かった。最後に登壇した村井チェアマンが今年の開幕宣言をして第1部は終了した。 えてしてこうしたイベントでは、最初にエライ人が出てきてスポンサーへの感謝を述べたり、長々と挨拶したりと、しきたりを重要視しがちなもの。しかし戦うのは選手であるため、彼らが全面に出てくるのは良かったし、選手への質問も1~2問にとどめたのは、槙野(浦和)は別にして口べたな選手もいるかもしれないので、答える方も気楽だったのではないだろうか。 2部のクラブプレゼンテーション(クラブブースでの自由取材)では、神戸のイニエスタと鳥栖のフェルナンド・トーレスは別格扱いで、2人だけはテレビの共同インタビューを受け、クラブブースでの取材はなかった。たぶん実施すれば、ただでさえ狭いクラブブースが大混乱に陥った可能性がある。これはこれで主催者側の好判断と言っていい。 今年のキックオフカンファレンスでもう1つ目についたのが、UAEで開催されたアジアカップでの健闘が光ったタイ人選手の登場だ。札幌のチャナティップは昨シーズンのベストイレブンにも選出された実績を持つが、アジアカップのグループステージのバーレーン戦では決勝点を決めて初勝利に貢献した。 神戸から横浜FMに移籍したティーラトンに加え、今シーズンからは大分初の東南アジアの選手となるティティパンは、アジアカップのグループステージのUAE戦で1-1の同点ゴールを決め、チームのベスト16進出に貢献した選手だ。その3人が、2部のクラブプレゼンテーションも終盤に差し掛かり、取材陣もまばらになると記者の求めに応じて3人で肩を組み、笑顔で撮影に応じる姿をみるのはなんとも微笑ましい光景だった。 彼ら3人に共通していたのは、1部で司会者からショートインタビューを受けたあとに、退場する際はマイクを両手ではさむように手を合わせてお辞儀をしていたこと。信心深いタイ人らしいなと感じたし、彼らの活躍によってタイでもJリーグへの注目度が高まり、さらに新たな選手が来るかもしれないということ。 Jリーグのアジア戦略は、徐々にではあるが、確実に実を結びつつあるのかもしれない。<hr>【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2019.02.16 08:30 Sat
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