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キリン杯誕生の秘話/六川亨の日本サッカーの歩み

▽10月12日、日本対パナマ戦の国歌斉唱の時のことだった。整列している選手の後ろのピッチ中央に「THE OFFICIAL PARTNER SINCE 1978」と書かれたフラッグがあった。「そうか。キリンカップがスタートして、もう40年になるのか」と感慨深いものがあった。 ▽キリンカップ(当時の名称はジャパンカップ)が始まったのはいまから40年前の1978年5月20日だった。当時のアジアにはマレーシアのムルデカ(マレー語とインドネシア語で独立の意味)大会、韓国の朴(当時の大統領)大統領杯などの招待大会があった。しかしジャパンカップはヨーロッパと南米の強豪クラブに、アジアの代表チームと日本代表を加えた豪華な大会としてスタートした。 ▽第1回大会は奥寺康彦さんが所属する1FCケルン(GKは西ドイツ代表のハラルド・シューマッハー)とボルシア・メンヘングラッドバッハ(GKウォルフガング・クレフとユップ・ハインケスは西ドイツ代表で、アラン・シモンセンはバロンドールを獲得したデンマークの伝説的な選手)、コベントリー・シティ(イングランド)、パルメイラス(ブラジル)の4クラブに、韓国代表、タイ代表、そして日本代表と日本選抜の8チームにより争われた。 ▽8チームを4チームずつ2組に分かれてリーグ戦を行い、上位2チームが準決勝に進む大会形式だった。当時の日本代表の主力選手は永井良和、金田喜稔、西野朗、加藤久らで、長らく代表を支えたメキシコ五輪組は一線を退いたものの、逆に代表チームは低迷期に突入していた。 ▽日本はコベントリー・Cに0-1、タイ代表に3-0、ケルンに1-1で準決勝進出は果たせなかった。ベスト4はいずれもヨーロッパと南米が占め、ボルシアMG対パルメイラスの決勝は1-1の引き分けに終わり両チーム優勝となった。 ▽当時のイングランド勢は代表チームもクラブチームもヘディングの強さは世界1と言っていいほど図抜けていた。このためケルン対コベントリー・C戦でのケルンは、空中戦を封じるためオフサイドトラップを積極的に仕掛けたが、最終ラインをセンターサークルまで上げたのは衝撃的だった。 ▽翌年の第2回大会にはイタリア代表のジャンカルロ・アントニョーニ率いるフィオレンティーナや、前年のアルゼンチンW杯で優勝したリカルド・ビジャ、オズワルド・アルディレス(後に清水の監督)を擁するトッテナム・ホットスパー(後に清水の監督に就任したスティーブ・ペリマンも来日してプレー)など8チームが参加(優勝はトッテナム)。W杯優勝チームの選手が来日したのは滅多にないことだった。 ▽このジャパンカップだが、JFA(日本サッカー協会) の長沼健(故人)専務理事が、まだ原宿にある岸記念体育館(日本のアマチュアスポーツの総本山)の3階にあったサッカー協会の部屋の窓からJR山手線の線路を挟んで建っていたキリンビールの本社ビル(現在は移転)を眺め「ああいう大きな会社に支援をお願いできないものか」と思案し、人伝に同社とアポを取り、キリンビールの小西秀次社長(当時)に直談判した結果、冠スポンサーを実現させたと言われている。 ▽2002年の日韓W杯終了後、2003年にJFAはW杯などで得た資金でお茶の水にある三洋電機からビルを購入。通称JFAハウスとしてサッカー協会とJリーグ、JFLなどの事務局を9月に移転した。地下には2002年のW杯を記念した日本サッカーミュージアムを12月22日に開設。オープニングイベントとして、サッカー関係者からサッカーにまつわる思い出のグッズを説明文つきで掲示する企画があり、その取材を手伝うことになった。 ▽ベルリン五輪のメンバーだった鴇田正憲さん(翌年没)、漫画家の望月三起也さん(故人)や奥寺康彦さんら40人近くの方々を電話や会って直接取材したが、その中の1人にキリングループの広報の方もいた。取材テーマは「ジャパンカップ誕生秘話」だったが、八丁堀にある本社を訪ねて広報の方を取材したものの、「ジャパンカップ誕生にまるわる資料は一切ありません」との返事。 ▽長沼さんがサッカー協会からキリンビールの本社を見てジャパンカップのスポンサーをお願いしたエピソードはもちろん知っていたが、それについては「都市伝説のようなものではないでしょうか。伝説は伝説として残しておこうとということで、肯定も否定もしません」との返事だった。 ▽現在キリンのホームページには「KIRINサッカー応援の歴史」というコーナーがあり、「支援のはじまり」では大会の誕生した経緯が、上で紹介したように長沼さんと小西社長との出会いがきっかけだったと書かれている。広報の方が言ったように「伝説は伝説として残して」あるのだ。 ▽実は長沼さんがJFA最高顧問の時に、ジャパンカップ誕生の真相を聞いたことがある。しかし「伝説は伝説として残しておく」ため、真相を書くことは控えたい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.16 14:00 Tue
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記録更新なるか。かつてない激戦の残留争い/六川亨の日本サッカーの歩み

▽J1リーグも10月7日で第29節を終了。代表ウィークのため2週間ほど中断されるが、今シーズンも残り5試合(札幌とC大阪、湘南、磐田は残り6試合。名古屋は7試合)となった。首位の川崎F対鹿島戦は0-0のドローだったが、2位の広島(勝点56)は柏に0-3と完敗。それでも両チームの勝点差は1しかない。数字上は8位のC大阪まで優勝の可能性を残しているものの、3位の鹿島(勝点46)と川崎F(勝点57)は11勝点差もあるだけに、優勝争いはほぼ2チームに絞られたと言っていいだろう。 ▽一方、下位に目を向けると勝点30で17位の鳥栖はフィッカデンティ監督の解任が決定的と見られているが、近年まれに見る大混戦となっている。現時点で自動降格圏を脱出しているのは4位のFC東京(勝点46)まで。オリジナル10でJ2に降格したことがない横浜FM(勝点38)も、まだ安全圏にいるとは限らない。 ▽J1リーグが現行の18チームになったのは2005年のこと。以来、最下位で降格したJ1チームの最多勝点は09年のジェフ千葉で、勝点は27だった(それに続くのが17年の大宮の25)。ところが今シーズンは、5試合を残してすでに最下位の長崎が勝点27とタイ記録に並んでいる。長崎が残り5試合で1勝でもすれば勝点は30台に乗り、すべてのチームが年間の勝点で30以上という、かつてないハイレベルな残留争いになる。 ▽こうした大混戦の原因は、他ならぬ長崎にあるだろう。これまでの降格パターンで多かったのが、J2昇格組が“1弱"ないしは“2弱"という状況から1シーズンでJ2に舞い戻ることだった。06年の京都(勝点22)、07年の横浜FC(同16)、08年の札幌(同18)、10年の京都(16)と湘南(19)、11年の山形(21)、13年の大分(14)、14年の徳島(14)がこのパターンだ。京都以外はどのクラブも親会社のないチームで、財政的に厳しい状況のため、J1に昇格しても大型補強ができずJ2降格の憂き目に遭っている。 ▽しかし長崎は初のJ1にもかかわらず清水、G大阪、柏、磐田、FC東京、仙台を倒し、名古屋からは2勝をあげているのは立派。残り5試合は磐田、鳥栖、横浜FM、G大阪、清水と前半戦で勝利をあげている“相性の良い相手"かもしれない。 ▽いずれにせよ、J1残留争いは最終節までもつれ込むことになるのではないだろうか。名古屋は消化試合が2試合少ないため、11月は3日と6日が中2日の連戦となるのがどう影響するのか。柏と湘南はルヴァン杯でベスト4に勝ち残っていて、準決勝で激突するためどちらか1チームは決勝戦に進出する。タイトルか残留かで両チームの指揮官も頭を痛めていることだろう。 ▽最後に08年は勝点37の東京Vが17位でJ2に降格した。10年はFC東京が36点の16位、12年は38点で17位のG大阪と、39点で16位の神戸がJ2行きを余儀なくされた。今シーズンはJ2降格の最多勝点記録を更新するのかどうかも見物だ。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.09 17:30 Tue
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コパ・アメリカは辞退か? /六川亨の日本サッカーの歩み

▽マレーシアで開催されているU-16アジア選手権で、日本は準々決勝でオマーンに2-1で競り勝ちベスト4に進出。来年ペルーで開催されるU-17W杯の出場権を獲得した。日本の出場は2大会連続9度目となる。 ▽そして今日は今月ジャカルタで開催されるU-19アジア選手権に臨む日本代表のメンバーが発表された。こちらは来年ポーランドで開催されるU-20W杯の出場を目指すが、久保建英(横浜FM)らの目標はポーランドでのW杯だけでなく、20年の東京五輪も視野に入っている。今後は8月のアジア大会に出場したメンバー(U-21日本)との競争になるが、切磋琢磨して五輪ではメダルを目指して欲しいものだ。 ▽そんな来年は、サッカー界にとってイベントが目白押しだ。まず1月にはUAEでアジアカップが開催される。森保ジャパンにとって初の公式大会で、目標は最多5度目となる優勝しかありえない。そしてアンダーカテゴリーのW杯に加え、6月にはなでしこジャパンがフランスで開催される女子W杯に臨む。 ▽問題は6月から7月にかけてブラジルで開催されるコパ・アメリカだ。日本は1999年と2011年の2回、同大会に招待されている。1910年に創設された世界最古の大会だが、2011年は東日本大震災のため参加を見送った。 ▽初参加の99年はトルシエ・ジャパンが参戦したものの、初戦でペルーに2-3と敗れると、続く地元パラグアイ戦は0-4の完敗。トルシエ監督が名波浩を名指しで「戦えない選手」と批判すれば、名波も記者陣にトルシエ監督への不満を表明するなど、チームは分解寸前。そして最終戦はボリビアと1-1で引き分け、最下位でグループステージを終えた。 ▽個の力、ドリブル突破によるカウンターに当時の日本は手も足も出なかった。パラグアイ戦の帰り道、地元ファンから「ジャパン ゼロ(0)、パラグアイ クワトロ(4)」と何度もからかわれた。初めてのコパ・アメリカで惨敗したことと、選手との求心力を失ったことで、トルシエ監督の解任論が噴出したものの、最後は岡野JFA会長がトルシエ監督の続投を決めたため、2002年の日韓W杯まで指揮を執ることになった。 ▽以来、20年ぶりのコパ・アメリカだが、日本が参加するかどうかJFAの関係者はいまもって未定だと言う。というのも、アジアカップと違ってコパ・アメリカには選手を招集するにあたり強制権がない。海外組はオフのため招集は難しいし、Jリーグの各クラブもシーズン中のため選手を出すことに二の足を踏む可能性が高いからだ。 ▽本来なら五輪代表の強化に最適だが、板倉(仙台)、立田(清水)、杉岡(湘南)、岩崎(京都)らは所属チームでレギュラーだ。アジア大会は1チーム1名という制約つきで招集したが、それでも参加を断ったクラブもある。だからといって大学選抜で臨んでは、相手にとって失礼だろう。 ▽日本以外の招待国はW杯開催を控えるカタールで、W杯をアピールする絶好の機会だけにベストメンバーを送り込んで来るだろう。南米連盟が日本を招待するメリットは、放映権料や場内の看板、大勢の報道陣やファン・サポーターなどがもたらすジャパンマネーだが、中途半端なチームではそれも期待できない。 ▽ここは残念だが、11年同様に参加を見送った方が賢明な判断と言えるのではないだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.10.02 18:30 Tue
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神戸とイニエスタの前途に期待すること/六川亨の日本サッカーの歩み

▽週末はJリーグの取材がルーティンとなっている。先週末の日曜は浦和対神戸の試合を取材した。往路、高速で事故渋滞に巻き込まれたため、埼玉スタジアムに着いたのは試合開始1時間を過ぎていたが、到着そうそう知り合いの記者から「イニエスタはベンチにも入っていないので、帰った記者もいますよ」と教えられた。さすがに帰りはしなかったものの、今シーズン最多となる5万5689人のファン・サポーターもがっかりしたことだろう。 ▽そして、それ以上にがっかりしたのが試合内容だった。8位神戸対9位浦和の試合だから仕方ないのかもしれないが、両チームともただパスを回すだけで、シュートまで持ち込むことができない。「今シーズン見た中で最低の試合内容だな」とつぶやくと、隣に座っていたサッカー専門誌の編集長も「そうですね」と同意してくれた。 ▽浦和はペトロヴィッチ監督が去り、柏木ら主力も高齢化したため、19歳の橋岡をスタメンで起用するなど若返りを図りつつ、オリヴェイラ監督の下カウンタースタイルへとモデルチェンジ中だ。それがハマったのが興梠の2点目であり、武藤の3点目だった。 ▽柏木のタテパス1本から興梠が抜け出し、GKの鼻先でコースを変えるシュートは興梠らしいゴールだった。そして武藤は、自陣ペナルティーエリア内で武藤を抜こうとした高橋からボールを奪うと、至近距離ながらGKの頭上を抜く鮮やかなループシュートを決めた。 ▽問題は神戸である。ボールポゼッションで浦和を上回ったが、それは浦和がブロックを作って守備を固め、カウンター狙いだったからに過ぎない。自分たちで「ボールを握った」のではなく、「持たされていた」に過ぎない。にもかかわらず、アバウトなパスミスでボールを失うなど、パスをつないでいても「どう崩すのか」という攻撃の意図がまるで見えない。 ▽イニエスタがいないため仕方がないのかもしれない。そのため前線に長沢とウェリントンという長身のストロングヘッダーを起用したのだから、シンプルにクロスを上げてもいいのだが、その精度が低い。ポドルスキは彼らの高さを生かすクロスを入れていたが、彼1人ではどうしようもない実力差を感じた試合だった。 ▽この試合を、就労ビザの関係でスタンドから三木谷オーナーと見守ったリージョ新監督も、自身の前途が多難だと思ったのではないだろうか。神戸がバルサ化を目指すのは理解できる。そのためのイニエスタでありリージョ監督であり、ピケの獲得も狙っていると噂されている。しかし数人のOBでバルサ化できるほどサッカーは簡単ではない。 ▽バルサがバルサなのは、メッシを始めほとんどの選手が各国の代表でもトップクラスというクオリティーの高さにある。翻って神戸の日本人選手に代表クラスは皆無である。正直、「このメンバーでよく8位にいるな」というのが久しぶりに神戸の試合を見て抱いた印象だった。 ▽ロシアW杯など短期決戦の大会では、ボールを保持するポゼッションサッカーよりもカウンターかセットプレーの方がゴールの確率は高まる傾向にある。しかし欧州の各国リーグではバルサやレアル、マンチェスター・C、バイエルンのようにポゼッションサッカーで相手を凌駕しているという事実もある。 ▽今後、神戸がどういうサッカーを選択するのか。イニエスタというビッグネームを獲得した効果は5万人を越える観客を動員したことでも証明された。本来ならダゾーンから優勝資金を得た川崎Fや、首都圏の浦和、FC東京、G大阪といった大企業がバックにあるクラブがビッグネームを獲得してリーグを活性化するべきだろう。 ▽かつてC大阪はフォルランというビッグネームを獲得しながら結果が伴わずに降格した例もある。神戸の、三木谷オーナーのチャレンジが成功することが、Jリーグの活性化につながることを期待しているのは私だけではないだろう。なんだかんだと言っても、目の離せないイニエスタであり神戸でもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.25 18:00 Tue
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安室さんの引退で思い出す98フランスW杯【六川亨の日本サッカーの歩み】

▽安室奈美恵さんが9月16日のコンサートを最後に歌手活動から引退した。彼女の引退に、感慨深い思いを抱いているサッカーファンもいるのではないだろうか。 ▽遡ること20年前、98年のフランス大会で日本は初めてワールドカップの出場を果たした。当時は多くの旅行代理店がフランスW杯のツアーを企画。身近なところでは親族が新婚旅行にとツアーに申し込んだ。 ▽しかし日本戦のチケットは入手が困難で、親族の申し込んだツアーは中止になり、新婚旅行も取りやめに。あるツアーでは、現地入りしたものの全員分のチケットを確保できず、仕方なくじゃんけんでチケットを争うという、笑うに笑えない話もあった。 ▽こうして迎えた6月14日、トゥールーズでの初戦、日本対アルゼンチン戦でのことだった。試合前、大会公式ソングの「カップ・オブ・ライフ」がスペイン語でスタジアムに流れた。リッキーマーティンの公式ソングは英語で歌われたが、元々はスペイン語版を英訳したもの。それをあえてスペイン語版で流したのは、アルゼンチンのサポーターに向けてのメッセージだったのだろう。 ▽そして次に流れたのは、安室奈美恵さんの「CAN YOU CELEBRATE?」だった。前年の97年のヒットソングだが、意表を突かれた選曲だった。この曲をスタジアムで聴き、涙したのはファン・サポーターだけではなかった。取材した記者、カメラマンも97年のW杯最終予選の苦しさを思い出しつつ、あたかも彼女が日本のW杯初出場を祝福してくれているようで、大いに涙腺が緩んだものだ。 ▽大会組織委員会の粋な計らいでもある。試合はバティストゥータの決勝点で0-1と敗れるなど、初めてのW杯は3戦全敗に終わった。あれから20年、フランスが再びW杯を制し、安室奈美恵さんは歌手活動から引退した。 ▽彼女の名曲を耳にするたびに、チケット騒動も含めて熱狂的だったフランスW杯を思い出す人も多いのではないだろうか。 ▽余談だが、16年リオ五輪のグループリーグ最終戦、日本対スウェーデン戦の前にはABBAの「ダンシング・クイーン」がスタジアムに流れた。ABBAはスウェーデンを代表する名バンドだ。そこで次は日本のどのミュージシャンの、どんな曲がかかるのか期待したが、試合前の音楽はABBAの1曲だけ。肩すかしを食らいがっかりしたのを覚えている。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.18 17:00 Tue
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繰り返される日本代表の世代交代【六川亨の日本サッカーの歩み】

▽9月10日、キリンチャレンジカップに臨む日本代表の森保一監督が、コスタリカ代表戦を控えて公式会見を行った。森保監督はコスタリカ戦について、「韓国代表戦(7日)から監督が代わり、システムも変わったので柔軟に対応したい。臨機応変に対応したい」とアジア大会でも選手に求めた“対応力"を強調。その上で、「攻撃的にやりたいが、試合の流れもあり、守るときは守り、速い攻めができるときは速く攻める」とチームコンセプトを説明した。 ▽北海道地震でチリ代表戦が中止となり、練習も十分とは言えない。そうした状況での初陣だけに、チームとしてどこまで機能するか、さらに“個の力"にしても代表の経験が浅い選手が多いだけに、どこまで発揮できるのか未知数の部分が多い。 ▽今回招集された22人(杉本は右足の負傷で離脱)のうち、二桁出場は槙野智章(33)、遠藤航(12)、小林悠(13)、浅野拓磨(17)の4人だけ。初招集は佐々木翔、冨安健洋、天野純、守田英正、伊藤達哉、堂安律の6人。さらに過去GKトレーニングで招集されたシュミット・ダニエルは1試合も出場経験がない。 ▽これだけフレッシュなメンバーになったのは、今回は海外組の招集を見送ったからだ。さらに2020年東京五輪を見据えて呼ばれたメンバーもいる。このため来年1月にUAEで開催されるアジアカップの予備軍と言えるだろう。 ▽長らくキャプテンとして日本を牽引してきた長谷部誠を始め、本田圭佑、酒井高徳らが代表からの引退を表明したことで、若返りと世代交代も森保監督に課せられた大きなテーマである。ただ、こうしたケースは今回が初めてではない。 ▽1997年のこと、ソウル五輪出場を逃した石井義信監督が退任し、横山謙三監督が就任した時も大幅な世代交代が行われた。それまで森ジャパンから石井ジャパンまで、長らくチームを牽引してきた加藤久、都並敏史、松木安太郎(読売クラブ)、松浦敏夫(日本鋼管)、原博実(三菱)らが代表のユニホームを脱いだ(都並はオフト・ジャパンで復帰)。 ▽彼らに代わって代表入りしたのが、DF井原正巳(筑波大)、信藤克義(マツダ)、望月聡(日本鋼管)、柱谷哲二(日産)、FW平川弘(日産)、浅岡朝泰(日本鋼管)、前田治(東海大)、菅野裕二(トヨタ)、草木克洋(ヤンマー)、だった。当時大学生だった井原と、国士舘大を卒業後、日産に入ったばかりの柱谷は、その後はオフト・ジャパン、ファルカン・ジャパン、加茂ジャパンでも主力として活躍し、井原は日本のW杯初出場に貢献した。 ▽横山ジャパンは、それまで4-3-3や4-4-2が主流だったチームに、当時としては斬新だったウイングバックを両サイドに置く3-5-2を採用した。しかし機能したとは言えず、90年イタリアW杯予選は1次リーグで敗退するなど好成績を残すことはできず、91年の日韓定期戦での敗戦により監督を退いた。 ▽彼に代わり日本の指揮を執ったのが初の外国人監督であるハンス・オフトだった。オフトは92年のアジアカップで初優勝を果たしたが、W杯アメリカ予選は最終のイラク戦でのドロー、俗に言う「ドーハの悲劇」でW杯出場を逃して監督を退任した。 ▽ドーハ組からはラモス瑠偉、都並敏史、武田修宏(V川崎)、中山雅史(磐田)らが代表から外れた。彼らの代わりに94年から指揮を執ったファルカン・ジャパンに呼ばれたのが、当時躍進著しい平塚の名塚善寛、岩本輝雄と台頭してきた若手の前園真聖(横浜F)、小倉隆史(名古屋)だったが、ケガなどもあり長く活躍することはできなかった。 ▽果たして今回招集されたメンバーでカタールにたどり着くのは誰なのか。その競争の第一歩となるのが明日のコスタリカ戦でもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.09.11 11:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】早川コンディショニングコーチの思い出

▽インドネシアで開催されているアジア大会で、UFA―21日本代表は準々決勝でサウジアラビアと対戦。岩崎(京都)の2ゴールによる活躍で2-1の勝利を収め、森保監督の目標だったベスト4のノルマをクリアした。準決勝は中1日の29日、UAE対北朝鮮の勝者と対戦する。また、なでしこジャパンも準々決勝で難敵・北朝鮮を2-1で下してベスト4に進出。今日28日、準決勝で韓国と対戦する。 ▽グループリーグ突破は想定内として、決勝トーナメント以降は苦戦が予想された森保ジャパン。しかし試合を重ねるごとに攻撃の形が明確になってきた。前線の前田(松本)、岩崎、旗手(順天堂大)とスピードを武器にする3人がロングパスやスルーパスに飛び出してサウジゴールを脅かした。その攻撃スタイルは、森保監督が広島を率いてリーグ優勝を果たしている時を彷彿させる。 ▽そしてベスト4に進出したことで、決勝戦か3位決定戦が9月1日にあるため、帰国は早くても9月2日となる。その日はJリーグの開催日で、翌3日にチリ戦とコスタリカ戦に臨む日本代表のメンバーが発表される予定だ。つまり、森保監督は、国内組はもちろん、海外組の選手も直近のコンディションを確認することなく選手の選考をしなければならない。 ▽果たしてどんなガイドラインで選手を選考したのか、当日のメンバー発表でのコメントに注目したい。 ▽さて、8月24日のこと、JFA(日本サッカー協会)は日本代表の手倉森コーチ、早川コンディショニングコーチ、浜野GKコーチとの契約満了を発表した。早川氏がアスレチックトレーナーとして日本代表と関わるようになったのは1999年のこと。以来、日本代表にはいつも同氏の姿があった。 ▽酷暑となる中東での試合では、体温を下げるために巨大なパリバケツに氷水を張り、ハーフタイムに選手はそこで身体を冷やしてから後半に臨むことにした。水温をどれくらいに保つか調整するため、前半の途中からロッカールームに引き上げたそうだ。 ▽アジア大会の男子マラソンで金メダルを取った井上は、ランニング中に水分補給はもちろんのこと、氷や保冷剤を使って体温の上昇を防いだことを新聞で読んだ。同じことをサッカー界は20年も前から実施していたのだ。その間、ハートレイモニターで心拍数を図ったり、GPSを装着して走行距離やスプリント回数のデータを取ったり、採尿と採血で疲労度をチェックしたりと、科学的・医学的なアプローチも進化した。 ▽そうしたデータがありながら、ザック・ジャパンやハリル・ジャパンの外国人フィジコはあまり活用していなかったと、JFA関係者からロシアW杯期間中に聞いた。データよりも自身の経験を優先したのかもしれない。その点、早川氏は選手とダイレクトにコミュニケーションを取れるため、西野監督にオフ日を提案するなど疲労回復に努めたのがベスト16進出の一因になったのかもしれない。 ▽そんな早川氏も、もう55歳。日本代表と五輪代表は森保監督のスタッフに譲り、9月2日から始まるUFA―19日本代表のメキシコ遠征に帯同する。日本代表の練習や試合で同氏の姿が見られないのは寂しいが、新たなステージで末永く活躍して欲しいと願わずにはいられない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.28 13:45 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】アジア大会の歴史

▽インドネシアで開催中のアジア大会・男子サッカーで、すでに決勝トーナメント進出を決めているU-21日本は、1次リーグ最終戦でベトナムに0-1で敗れた。この結果、D組2位になり、24日の決勝トーナメント1回戦でE組1位のマレーシアと対戦する。 ▽日本は試合開始直後の前半3分、GKオビがMF神谷に出したパスを奪われ先制点を許した。相手のプレッシャーが厳しいため大きく蹴っておけば防げた失点だけに、もったいない決勝点でもあった。ただ、相手のベトナムは今年1月のU―23アジア選手権で準優勝し、今大会ではOA(オーバーエイジ)枠も使った“本気で勝ちに来た"チーム。このため日本は序盤から相手の圧力にミスを連発するなど、実力差は明らかだった。 ▽果たして決勝トーナメントで日本はどこまで勝ち進むことができるのか。できるだけ多く試合を経験することで、選手の成長に期待したいところだ。 ▽といったところで、今週はアジア大会の歴史を簡単に振り返ってみたい。今大会は1951年に第1回大会がインドのニューデリーで開催された。この大会は、日本にとって記念すべき大会でもあった。というのも日本は、第二次世界大戦の影響でFIFA(国際サッカー連盟)から資格停止処分を受けていたが、50年のFIFA総会で日本とドイツの復帰が認められ、戦後初の国際大会がこのアジア大会だったからだ。 ▽6カ国が参加した第1回大会で、日本は1勝1分け1敗ながら3位に輝く。以後、このアジア大会は日本にとって、Jリーグが誕生するまでは五輪と並ぶビッグイベントになった。 ▽アジアのナンバー1を決めるのは、来年1月にUAEで開催されるアジアカップであることは周知の事実。日本は最多4回の優勝を誇るが、1956年に創設された同大会に日本が初参加したのは1988年のこと。しかもこの大会に日本は堀池(当時は順天堂大)ら大学生選抜で臨んだ。 ▽その理由として、アジア大会の日本は予選なしで本大会に参加できるのに対し、アジアカップは予選を勝ち抜かないと本大会には出られないこと。アジアカップは五輪と同じ年に開催されるため、五輪出場を第1と考えた日本は参加に消極的だったこと。さらに予選や本大会はJSL(日本サッカーリーグ)と日程が重なることなどの障害があったからだった。 ▽88年の大会に大学生選抜ではあるが初参加したのは、92年に広島でアジアカップを開催するからだった。そのアジアカップも2年後の94年に広島でアジア大会を開催するので、新設されたビッグアーチを使用するなど“プレ大会"の意味合いが強かった。Jリーグの開幕を1年後に控えても、まだ日本サッカーはアジア大会を優先していた。 ▽ところがオフト監督に率いられた日本は、フル代表として初参加にもかかわらず92年のアジアカップで優勝してしまった(アジア大会は準々決勝で韓国に敗退)。そしてJリーグ開幕である。自ずと日本の目標はそれまでのアジア大会からアジアカップへと移った。 ▽これは余談だが、Jリーグ開幕以前のアジア大会に参加した元日本代表選手は、「サッカーは開催期間が長いのに対し、大会序盤で早めに終わってしまう他競技もある。すると、解放感に満ちた女性アスリートが夜な夜な僕たちの泊まっている部屋のドアをノックしに来る。そこで『選手村にいては誘惑が多すぎる』との理由から、ホテルを借りることになった」というエピソードを教えてもらったこともある。 ▽話をアジア大会に戻そう。アジアカップはその後2000年(トルシエ監督)、2004年(ジーコ監督)、2011年(ザッケローニ監督)と優勝を重ねた。それまでは五輪と同じ年に開催されてきたが、2008年は北京五輪と開催時期が重なるため、AFC(アジアサッカー連盟)はベトナムなど4カ国で開催される大会を1年前倒しにして2007年に移した(オシム・ジャパンが参加)。以後、4年周期の開催は変わっていない。 ▽一方のアジア大会はというと、1998年のタイ・バンコク大会から男子サッカーは五輪と同じ形式に変更された。年齢制限が設けられ、原則として23歳以下で3人までのOA枠を認めるという形だ。そこでJFAは五輪代表の強化の一環と位置づけ、2年後の五輪代表の候補選手――アジア大会時には21歳以下の日本代表――で臨む方針を決め、今日までこのスタイルは踏襲されている。 ▽W杯後に開催されるアジア大会では、フル代表と同様に五輪代表の監督も代わり初陣となる。98年のバンコク大会ではトルシエ監督(U―20日本代表と3チームの監督を兼任)が指揮を執り、02年の釜山大会では山本ジャパンが銀メダルを獲得。06年カタール大会での反町ジャパンは結果を残すことはできなかったが、10年広州大会での関塚ジャパンは、村山や比嘉ら大学生が主体だったにもかかわらず初優勝を果たし、その後は東や大津、永井、清武らJクラブの若手を主体としたチーム編成でロンドン五輪ではベスト4に躍進した。 ▽直近の14年仁川大会に臨んだ手倉森ジャパンは、準々決勝で優勝した韓国にラスト2分でPKを献上し、これを現FC東京のチャン・ヒョンスに決められベスト4進出のノルマは達成できなかった。このときの韓国は兵役免除を狙った最強チームで、地元開催で見事4度目の優勝を飾り、イランの最多記録に並んだ。 ▽そして今回のジャカルタ大会である。大会史上初の連覇を狙う韓国は、フル代表のエースFWソン・フンミン(スパーズ)をはじめ、G大阪のFWファン・ウィジョ、GKチョ・ヒョヌ(大FC)とOA枠をフル活用。前回大会同様、兵役免除という目標もあり、優勝候補の一角と目されていた。 ▽ところがグループリーグでマレーシアにまさかの敗戦(1-2)。日本がベトナムに敗れてD組2位になったため、順当なら1位通過が予想された韓国と激突するのがマレーシアに変わった。これをラッキーととらえるかどうかは選手の奮闘次第だが、やはりアンダーカテゴリーの試合は何が起こるか分からない怖さがあるようだ。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.21 13:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ソウル五輪予選で日本を破った中国選手の息子がJ1で活躍

▽先週末10日のJ1リーグ、今シーズンから導入された「フライデーナイトJリーグ」のG大阪対FC東京戦で、懐かしい名前を久々に聞いた。試合はG大阪がファビオのゴールで先制すれば、FC東京もディエゴ・オリヴェイラが個人技による突破から同点に追いつく。そして迎えた後半アディショナルタイムの95分、G大阪は高宇洋(こう たかひろ)のアシストからアデミウソンが決勝点を決めて9試合ぶりの、宮本監督になってからは初の勝利をあげた。 ▽試合後、解説を務めた水沼貴史さんは決勝点をアシストした高をヒーローインタビューしたが、そこで「僕もお父さんと試合をしたことがあるんですよ」と高に話しかけたのでピンと来た。 ▽調べたところ高は川崎Fの下部組織出身で、ユースに昇格できたものの市立船橋高に進み、高校3年時にはインターハイで優勝している。そして市立船橋高に在学中に日本国籍を取得した。ボランチとしてJの複数クラブから声がかかり、G大阪に入団したのが昨シーズンのこと。昨夏にはA契約を結んだのだから、将来を嘱望される選手なのだろう。 ▽さて彼の父親である。水沼さんが「試合をしたことがある」のは、忘れもしない87年のソウル五輪アジア最終予選の中国戦だ。日本はアウェー広州での試合を原博実のゴールにより1-0の勝利を収めた。あとは日本でのホームゲームで引き分ければ20年ぶりの五輪出場が決まる。しかしホームで0-2と敗れ、五輪出場の夢を断たれた。 ▽そのときの中国DFが高の父親である高升(こう しょう)だった。当時の中国には後にG大阪入りするストッパー賈秀全や、馬林、柳海光といった大型ストライカーを擁し、1948年のロンドン五輪以来40年ぶりの五輪出場を果たした。 ▽なぜ高升の名前を覚えていたかというと、その後は沈祥福、呂洪祥ら中国代表のチームメイトから誘われ、富士通(現川崎F)でプレーしたからだった(当時の富士通はJSL2部)。当時の富士通は中国に進出するため、中国人選手を獲得したという噂も流れた。日本での現役生活は91年から95年の4年間と短かったものの、その間に日本人女性と結婚し、06年には川崎Fの指導者を務めたこともある。 ▽さらに岡田武史氏が中国スーパーリーグの杭州緑城の監督を務めた際は、アシスタントコーチとして同氏を支えるなど、日本との縁も深い。現役時代の水沼氏にとっては五輪出場を阻まれたライバルでもある高升。ひょんなところから懐かしい名前が飛び出したものだと感心せずにはいられなかった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.14 13:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】東京五輪の公式ソングを歌うのは?

▽まだ2年先の話ではあるが、2020年東京五輪・パラリンピックの開閉会式を演出する総合統括に、狂言師の野村萬斎さんが就任した。そして五輪統括には映画監督の山崎貴さん、パラリンピック統括には広告クリエーティブディレクターの佐々木宏さんが就任した。五輪は野村さんと山崎さん、パラリンピックは野村さんと佐々木さんが中心となって具体的な演出と企画をする。 ▽狂言師の野村さんに加え、山崎さんは映画「ALWAYS三丁目の夕日」や「永遠の0」で日本アカデミー賞最優秀監督賞を2度受賞。佐々木さんは、16年リオ五輪・パラリンピックのハンドオーバーセレモニー(東京大会への引き継ぎ式)の演出チームとして活躍した。いずれも現在の日本を代表するクリエーターだけに、どんな開閉会式になるのか楽しみだ。 ▽こうした国際的なイベントに欠かせないのが「大会公式ソング」だろう。54年前の東京五輪では三波春夫さんが和服姿で「東京五輪音頭」を歌っていた。当時小学1年生だった僕は、オリンピックという国際的なイベントと夏祭りで踊っていた「音頭」の組み合わせに違和感を覚え、子供心に気恥ずかしさを感じてしまった。 ▽いま振り返ると、当時はニューミュージックもJポップもない時代であり、歌謡曲や演歌が全盛だっただけに、国民的な歌手である三波さんが歌ったのは当然のことだったのだろう。 ▽さて2年後の東京五輪である。もしも公式ソングを作るとして、歌うのは幅広い層のファンを持つサザンオールスターズか。あるいはEXILEやテノール歌手の秋川雅史さんあたりが候補になるのだろうか。 ▽そこで個人的な提案である。W杯では98年フランス大会から公式テーマソングが採用された。リッキーマーティンが歌ったノリノリの曲を覚えている読者も多いことだろう。しかし02年日韓大会や06年ドイツ大会はどうも印象が薄い。むしろ10年南ア大会で女性シンガーのシャキーラ(バルセロナのピケと結婚)が歌った「Waka Waka」はいまも耳に残っているし、なぜかロシアW杯でも流れていた。 ▽その後のブラジルはもちろん、ロシアでもFIFAの公式テーマソングはあったが、スタジアムで耳にした記憶はない。そんなロシアのスタジアムでいつも流れていたのは「トロイカ」であり「カリンカ」だった。いずれもロシア民謡として50代以上の年齢層には聞き覚えのあるメロディーだ。 ▽ちなみに日本のサポーター集団であるウルトラスもロシア大会ではこの「トロイカ」を応援ソングに採用した(98年フランス大会はフランスの歌手ミッシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」、06年のドイツ大会は西ドイツの音楽グループ、ジンギスカンの「ジンギスカン」を採用)。 ▽日本対コロンビア戦の2日後、JFA主催の懇親会で田嶋会長と飲んだ時も、同世代ということもあり、スタジアムで流れている「トロイカ」は「小学生の頃に音楽の時間に歌った記憶がある」ということで意見が一致した。 ▽話を20年東京五輪に戻そう。大会公式テーマソングを作るのもいいが、海外から訪れる多くの観客や選手、関係者に対し、ロシアW杯で採用した「トロイカ」ように誰もが知っている馴染みの曲を使うのも1つの方法ではないだろうか。 ▽と提案したところで、世界的にヒットした日本の歌はというと、坂本九さんの「スキヤキ」か由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」くらいしか思いつかない。もしかしたら若い世代にはアニメソングの方が有名かもしれない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.08.06 19:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】大迫のブレーメン移籍で思い出す奥寺氏への愚問

▽29日のことだ。ブンデスリーガ1部のヴェルダー・ブレーメンに移籍した大迫勇也が、ドイツ北部のブレーメンの本拠地で入団会見に応じた。前所属の1FCケルンは2部に降格したための移籍だが、ケルンからブレーメンへの移籍といえば、誰もが思い出すのが日本人プロ第1号の奥寺康彦氏だろう。 ▽奥寺氏は77-78シーズンにJSL(日本サッカーリーグ)の古河からケルンへ移籍し、同シーズンにはリーグ優勝とドイツカップ優勝の2冠に輝いた。当時の奥寺氏は強烈な左足のシュートを武器にした左ウイングで、ケルンというチーム自体もバイエルン・ミュンヘン、ボルシア・メンヘングラッドバッハと優勝を争う名門クラブだった。 ▽奥寺氏はその後、同リーグ2部のヘルタ・ベルリンを経て1部に昇格したブレーメンへと移籍を果たす。当時のブレーメン監督オットー・レーハーゲル氏(2004年にポルトガルで開催されたEUROではギリシャを率いて初優勝を遂げる)は、奥寺氏をウイングから3-5-2の左ウイングバックに起用。そこで同氏は労を惜しまぬ豊富な運動量と、堅実で安定した守備からレーハーゲル監督にも高く評価され、地元メディアも「東洋のコンピューター」と賞賛した。 ▽そんな奥寺氏は78年の第1回ジャパンカップ(現キリンカップ)にケルンの一員として、82年のジャパンカップ・キリンワールドサッカーと、86年のキリンカップサッカーではブレーメンの一員として3度の凱旋帰国を果たしている。 ▽その中で82年はスペインW杯の開催された年だが、この年にサッカー専門誌に入社した若造は、無謀にも奥寺氏にインタビューを申し込んだ。当時はJFA(日本サッカー協会)にも広報担当者はいなかったため、帰国した奥寺氏に対し、たぶんブレーメン付きのJFA職員を通じてインタビュー取材をお願いしたのだと思う。もちろんノーギャラだった。 ▽奥寺氏に指定されたのは宿泊先である東京プリンスホテル1階にある喫茶店だった。そこで移籍の経緯や現地での苦労話を聞きつつ、「プロとアマチュアの差はなんですか」という愚問をぶつけた記憶がある。すると奥寺氏は人差し指と親指で示しつつ、「1人1人の差は小さいけれど、それが10人になるとものすごく大きな差になるんだよ」と両手を広げながら教えてくれた。 ▽しかし大学を出たての新米記者にはその真意が理解できず、奥寺氏のコメントをそのまま原稿にした恥ずかしい記憶がある。 ▽きっと奥寺氏は、選手個々人の瞬時の判断スピード、戦術理解度、ボールを止めて蹴るといったプレースピードやパススピードなどの差がチームとして積み重なった時に、プロとアマチュアでは大きな差になると言いたかったのだろう。その言葉通り、ブレーメンは4試合で15ゴールを奪う攻撃力で初優勝を果たした。 ▽この年のキリンワールドサッカーは2年後のロス五輪出場を目指す森ジャパンのスタートとなった年でもあった。エースストライカーの尾崎加寿夫がフェイエノールト戦で4ゴールを奪う活躍で5-2と大勝するなど2位に躍進し、ブレーメンのテスト生として来日した19歳のフランク・ノイバートと得点王に輝いたことも明るい話題だった。 ▽話を大迫に戻そう。奥寺氏がブレーメンで活躍したのは82-83シーズンから85-86シーズンまでの5シーズンだった。あれから30年以上が過ぎ、当時は10歳だった少年も不惑の40代を迎えている。それでも奥寺氏の活躍を覚えていれば、それを大迫に重ねて声援を送ってくれるのではないだろうか。 ▽奥寺氏が移籍して以来、チームは1度も2部に降格したことがないだけでなく、優勝争いを演じる強豪へと成長した時代もあった。かつての栄光を再び取り戻すことができるのか。今シーズンもブレーメンを始め、ブンデスリーガからは目が離せそうにない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.31 12:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ロシアW杯総括

▽ロシアW杯の決勝から10日あまり。次期日本代表の監督は森保氏の就任が濃厚だが、ロシアW杯における日本代表を総括した話は一切聞こえてこない。西野前監督が短期間にもかかわらずベスト16に進出したことで、これまであった「主力選手がヨーロッパで活躍しているのだから、監督もヨーロッパで実績のある外国人を起用すべき」といった意見はなし崩しに霧消したようだ。 ▽そんなロシアW杯で、フランス対クロアチアの決勝戦は今大会を象徴するようなゴールが生まれた。まず前半18分、それまで守勢一方だったフランスは右FKからマンジュキッチのOGで先制する。それまで1本もシュートを放っていないフランスが先制したのはちょっとした驚きだった。 ▽決勝戦が見応えのある好ゲームになったのは、3試合連続して延長戦を闘ったクロアチアが、守備を固めてカウンターを狙うのではなく攻撃的なサッカーを展開したからだ。前半28分の同点ゴールもFKからの流れで生まれた。 ▽そしてフランスの勝ち越しゴールは今大会から採用されたVARによるPKからのもの。賛否両論のあるVARだが、PKの判定が下されるまで3分ほどの中断期間があったのは正直興ざめした。決勝戦に限らず、オフサイドの判定もラインズマンが旗をあげるタイミングが遅いのもVAR導入の影響だったが、今後も改善の余地は多々あるように感じた。 ▽そのフランスの追加点は攻勢に出たクロアチアの隙をついたカウンターからだった。近年のW杯はボールを奪ってから15秒以内のカウンターとセットプレーからゴールが生まれる傾向があると指摘されてきたが、ロシアW杯はさらにセットプレーからのゴール、とりわけヘディングによるゴールが増えた印象が強い(特にイングランド)。 ▽各国とも代表はームは強化する時間は限られている。そこで短期決戦を乗り切るには「個の力」によるカウンターとセットプレーがカギになることを示したのがロシアW杯だった。フランスのムバッペ、イングランドのスターリング、そしてベルギーのE・アザールやデ・ブライネらベスト4に進出したチームにはいずれも俊足のアタッカーを擁していた。 ▽そうした中で大会MVPを獲得したクロアチアのモドリッチは、「クラシカルなセントラルMF」だけに、貴重な存在でもある。彼をMVPに選出したFIFA(国際サッカー連盟)のテクニカルスタッフも、モドリッチのファンタジーあふれるプレーに、ヨハン・クライフらかつての名選手に通じるノスタルジーを感じたのかもしれない。 ▽翻って日本である。失点は大会前のテストマッチからカウンターとセットプレーが多いと指摘されてきた。それが本大会でも続いたわけだが、それは日本に限ったことではないことがW杯でも証明された。こちらに関しては、技術委員会がどのようなレポートを作成するのか注目したい。 ▽最後に、ロシアW杯の期間中は多くのロシア人から「日本のファンになった」と声を掛けられた。夜行の寝台車で同席したポーランドのサポーターからも「日本はいいチームだ」と言われた。知人の記者はカザフスタンのファンから「ずっと日本を応援していた。なぜならアジアの代表だから」と言われたそうだ(カザフスタンはヨーロッパに所属しているにもかかわらず)。 ▽こんなことは、ベスト16に進出した02年日韓W杯や10年南アW杯でも言われた記憶がない。それだけコロンビア戦の勝利、ポーランド戦の時間稼ぎ、そしてベルギー戦の奮闘が多くの人々の印象に残ったからだろう。 ▽ただ、冷静に振り返ってみれば、西野監督はグループステージを1勝1分け1敗で通過した。トルシエ・ジャパンは2勝1分け、岡田ジャパンは2勝1敗でベスト16に進んでいる。数字的にはギリギリのグループステージ突破だったが。ポーランド戦以外はゴールを目指した攻撃的なサッカーが他国のファンを魅了したのだろう。 ▽記録としてはたいしたことはないものの、記憶に残る闘いを演じたのがロシアW杯の日本代表と言える。 ▽6月上旬に日本のベースキャンプ地であるカザン入りしてから6週間を現地で過ごした。カザンでは「ワールドカップ」と言っても話は通じず、現地の人々からは「チャンピオンシップね」と訂正された。それだけ認識のズレがあったのだろう。 ▽しかし大会が進むにつれて「ワールドカップ」は浸透し、ヴォルゴグラードで知り合った女性記者は「ワールドカップって、スタジアムに人々が集うだけじゃないのね。街の中心街にある広場やレストラン、夜にはバーにも世界各地から来た人々でいっぱい。こんなことは今までのロシアにはなかったことだわ」と興奮気味に話していた。 ▽南ア、ブラジル、ロシアと3大会連続して広大な大陸を取材したが、いつも勝者は開催国かもしれない。新たなマーケットの開発と獲得というFIFAの深謀遠慮を改めて感じたW杯。そして次は初めて中東・カタールでの開催だ。大会期間中の7月11日からカタールは、大会PRのためのブースをモスクワ川に面したゴーリキーパークに設置した。さらに市内中心部の、赤の広場に面した高級デパート「グム」や繁華街でもPRイベントを実施した。 ▽こちらも関係者を取材したので、別の機会に紹介したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.24 18:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】やはり3決はテンションが上がらず再考が必要か

▽長かったロシアW杯も、7月15日の決勝戦でフランスがクロアチアを4-2で下し、20年ぶり2回目の優勝で幕を閉じた。正直な感想は、「やはり、そう簡単に新たなW杯優勝国は出現しないな」というものだった。 ▽それでもクロアチアはよく頑張ったと思う。3試合連続して延長戦を戦った後での決勝戦。にもかかわらず、守備を固めてカウンターを狙うのではなく、試合開始から積極的に攻撃を仕掛けた。彼らのそうした姿勢が、ともすれば“ガチンコ勝負”で退屈な試合になりがちな決勝戦を盛り上げたのだと思う。 ▽これでW杯は4大会連続してヨーロッパ勢が制覇した。ブラジルをはじめアルゼンチンやウルグアイといった南米ビッグ3がこれほど早い段階で姿を消したのは、組み合わせのせいだけではないだろう。 ▽そうした大会全体の総括や決勝戦のレビューについては今週木曜のコラムに譲るとして、今回は3位決定戦について考察してみた。 ▽大会前のイングランドは、けして下馬評の高いチームではなかった。ダイア-、スターリング、ケインら若返りに成功したとはいえ、得点力不足に課題を抱えていた。グループステージではパナマに6-1と大勝するなど2位でラウンド16に進出し、コロンビア(PK戦)とスウェーデンを連破したことで52年ぶりのベスト4に進出した。 ▽しかし準決勝でクロアチアの前に延長戦で力尽きて3位決定戦に回った。それでもイングランドにとっては66年イングランド大会の優勝に次ぐ最高成績を残すチャンスだった。それは対戦相手のベルギーも同様で、86年メキシコ大会の4位(3決でフランスに敗退)を上回る絶好の機会だ。このため好ゲームを期待したのだが……。 ▽イングランドにとって、クロアチアとの延長戦に加え中2日(ベルギーは中3日)の日程は体力的に厳しかったのかもしれない。さらに、ベルギーはイングランドの長所を見事に消してきた。 ▽今大会のイングランドの基本システムは3-5-2で、3バックの前に攻守のつなぎ役としてヘンダーソンを置き、インサイドハーフは右リンガード、左アリで、左右のウイングバックにトリッピアーとヤングを配し、ケインとスターリングの2トップというフォーメーション。 ▽左右のウイングバックは守備時にDFラインまで下がり5バックとなるが、特徴的だったのはマイボールになると左右に大きく開いていたことだ。ボールを持ってカットインすることも、ダイアゴナルランでゴール前に飛び込むこともほとんどない。コンパクト&スモールフィールドが常識の現代サッカーにおいて、異質とも言えるスタイルだった。 ▽左右に大きく開くことで、サイドチェンジは有効になる。しかしDFトリッピアーとヤングに与えられた役割は、2トップと彼らとの間にオープンスペースを作ることだった。意図的に味方の選手と距離を取ることで、相手DF陣をワイドに広げる。そしてできたスペースにインサイドハーフのリンガードやアリが侵入して3トップや4トップを形成する。準々決勝で対戦したスウェーデンは彼らを捕まえきれずに苦戦した。 ▽ところが3位決定戦のベルギーは、いつもの3バックに加え、サイドハーフのムニエとシャドリが戻り5バック気味にしてスペースを消したことと、イングランドはリンガードとアリ、ヤングをベンチスタートにしたため前半の攻撃は手詰まり状態が続いた。 ▽なんとか後半は選手交代から攻撃は活性化したものの、決定機は後半25分にワンツーからダイア-が抜け出しGKと1対1になったシーンのみ。体力、技術、戦術ともベルギーが1枚上手だった。スコアこそ0-2だったものの、ベルギーの完勝と言える。 ▽正直、試合内容は期待を裏切られた。イングランドの実力からすれば、それも仕方ないかもしれないが、両チームとも勝つか負けるかで「天国と地獄」というヒリヒリするような緊張感は、残念ながら今回の3位決定戦にもなかった。 ▽そして表彰式では、敗れたイングランドの選手は表彰されるベルギーの選手をピッチで見守るだけで、セレモニーが終わると静かにピッチを後にした。敗者が残る必要があるのか疑問の残るセレモニーである。 ▽敗者はもちろんのこと、勝者にも笑顔のない3位決定戦。6万を越える大観衆を集め、興業的には大成功かもしれないが、改めて存在意義を見直す必要があるのではないだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.17 14:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】寝台車が1時間も早く逆方向へ出発

▽ロシアW杯は、7月9日はレストデーということでつかの間の休息。残すは10日、11日の準決勝2試合と、14日、15日の3位決定戦と決勝戦のみとなった。ここまで来ると、長丁場のW杯も「あっという間だったな」というのがいつもの感想だ。 ▽今回のW杯はヨーロッパで開催されたため、国内移動に飛行機は一度も使わず、すべて寝台車を利用した。順を追って紹介すると以下のようになる。 ▽6月18日 カザン→サランスク 00:54発 翌日09:54着 8時間 6月22日 カザン→エカテリンブルグ 20:08発 翌日10:22着 14時間14分 6月25日 エカテリンブルグ→カザン 08:12発 21:37着 13時間25分 6月26日 カザン→ヴォルゴグラード 12:21発 翌日11:48着 23時間27分 6月29日 ヴォルゴグラード→モスクワ 10:20発 翌日10:38着 24時間18分 7月1日 モスクワ→ロストフ 12:20発 翌日11:19着 23時間 7月3日 ロストフ→モスクワ 14:30発 翌日07:35着 17時間5分 7月5日 モスクワ→カザン 23:08発 翌日10:45着 11時間37分 7月8日 サマラ→モスクワ 03 :42発 22:25着 18時間17分 ▽これにあと2日、モスクワ-サンクトペテルブルクの2往復があるが、こちらは近距離のため乗車時間はそれほど長くない。上記の移動時間を合計すると、6日と9時間18分ほどを寝台車で過ごした計算になる。車中では、同乗者がいなければコンパートメント(上下2段ベッドの4人乗り)の机で仕事ができるが、同乗者がいればそうはいかない。さらに停車した駅以外ではネットがまったく通じないため、ほとんどの時間を寝るか本を読んで過ごすしかなかった。 ▽車中ではロシアやポーランドのサポーターと同室になることも多く、彼らは一様にコロンビア戦の勝利やセネガル戦の引き分けを讃えてくれた。そんな寝台車の移動で、一度だけトラブルに見舞われたので、恥を承知で公開したい。 ▽寝台車に乗る際は、乗り場で乗車券(A4の予約表)とパスポートを提示し、係員がリストと照合してからになる。忘れもしない6月19日、いつものように早めに駅に着くと、目的の列車が発車するプラットフォームを確認。すでに列車が到着しているので、乗車券とパスポートを係員の女性に提示すると、「コンパートメントは1号ね」と親切に教えてくれた。 ▽今回の移動はカザンのアパートを引き払い、モスクワのアパートに移り住むため大型と小型のスーツケース2個を持参だ。このため早めにスーツケースをコンパートメントに運び込み、駅のホールに戻って水と昼食用の菓子パンを買って自分のソファー(兼ベッド)に戻って一息ついた。 ▽すると、出発まで、あだ1時間はあるのに、突然列車が動き出したからビックリ。この寝台車には記者仲間も乗るため、急きょ出発が早まったなら連絡しないといけない。そう思いつつ目の前のロシア人夫婦に「モスクワ行きですよね」と確認すると、なんと返ってきた答は「ソチ行きだよ」という。 ▽寝台車を乗り間違えた! 1本前の列車だった。その瞬間、頭の中は真っ白。「取りあえずヴォルゴグラード1駅に戻らないといけない」――そう思い乗務員に次の停車駅と時間を聞くと、「今夜の0時過ぎにソチに止まるまで、ノンストップよ」と言われてしまった。さらに、「ソチから寝台車でモスクワに行くなら到着は7月3日の深夜1時になるわ」と言いつつ紙に書いてだめ押しの一撃。これでは2日の日本対ベルギー戦に間に合わない。 ▽モスクワにスーツケースを置いてからロフトスへ移動するのが本来の目的だ。そうした事情を知らずに集まってきた女性乗務員たちは、口々に「日本の次の試合会場はロストフでしょ」とか、「なんで直接ロストフ行きの列車に乗らなかったの」と(たぶん)言ってくる。もうお手上げ状態だ。 ▽するとそこへ、乗車の際にパスポートと乗車券をチェックした英語の話せる女性乗務員が顔を出したので、持っている乗車券を見せると自分の間違いに気づいたようで、右手を額に当て「Oh、No」といった(かどうかは分からないが)感じで顔を曇らせる。 ▽そこで、ヴォルゴグラードからモスクワへ行き、さらにモスクワからロストフへ行く予定であることを、予約してある乗車券を示して説明しつつ、スーツケースをモスクワでドロップすることを伝えた。彼女も理解してくれたようで、一度姿を消して待つこと10分。戻って来た彼女は「次の駅で停車するので、そこで降りて。そこからバスかエレクトリック・トレインでヴォルゴグラード1駅に戻りなさい。列車を降りたら駅員にこの紙を見せて」と、破ったノートにロシア語で走り書きしてくれた。 ▽あとでロシア語を読めるカメラマンに訳してもらったところ、そこには「私はヴォルゴグラード1駅に戻る必要があります」と書いてあるとのことだった。 ▽止まるはずのない駅で降りると、すでに降車口には2人の駅員が待機していて、スーツケーを駅舎まで運んでくれる。そして駅舎に入ると女性が待ち受けていて、パスポートとIDを確認しながら英語とロシア語の氏名を書き写すと事務所へと消えた。その間、待つこと5分、スマホで顔写真も撮影された。 ▽やがて戻って来た女性は、次の電車の最後尾に乗るよう身振り手振りで示してくれる。乗ったら乗ったで、車内の添乗員が「スーツケースは出口に置いておいていいから、こちらのシートに座って」と同じく身振り手振りで示してくれた。 ▽初めて乗ってみて気づいたのだが、これはガイドブックで紹介されていた市内近郊を走るエレクトリーチカ(電気電車)という電車で、長距離の寝台車が止まる駅ではない。間違いに気づいた女性乗務員は、間抜けな日本人のために寝台車を急きょヴォルゴグラード1駅に戻れる駅に緊急停車し、その後のフォローを駅の乗務員に託してくれたのだった。 ▽無事、ヴォルゴグラード1駅に戻ると、ここでも降車口に3人のボランティアが待っていた。リーダーらしき女性に付き従い切符売り場に案内されると、「新たに乗車券を買う必要があるけど買いますか」と言うので「ダー(イエス)、ダー」と連呼。すると彼女は番号札を引き抜き窓口に行って係員と一言二言かわすと、いきなりデジタル表示がいま引き抜いたばかりの番号に変わり、待つことなく乗車券を買えた。 ▽当初の乗車券はヴォルゴグラード10時20分発でモスクワ到着は翌日の10時38分だった。新たに購入した乗車券は3等列車のため6人乗りの寝台車と狭かったものの、15時30分発なのに、モスクワには翌朝の7時過ぎに到着する。8時間近い短縮だ。 ▽無事にモスクワ行きの寝台車に乗れて、改めて彼女の機転とその後のフォローには感謝せずにはいられない。列車を降りるたびに駅員やボランティアが待ち受けていて、先導して案内してくれる。ちょっとVIPになった気分もしたが、むしろ1人で初めて海外旅行する小学生を、行く先々でキャビンアテンダントがフォローしたと言った方が正しいかもしれない。 ▽彼女、彼らには別れ際に何度も「スパシーバ(ありがとう)」と繰り返したのは言うまでもない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.10 20:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ポーランド戦のパス回しとロシアの勝利

▽この原稿を書いているのは7月1日の午後20時近く。モスクワからロストフへの寝台列車の中だ。今日17時から始まったラウンド16のロシア対スペインは、ロシア人サポーターがiPadで観戦中だったので、客室にお邪魔して一緒に見させてもらった(ビールも奢ってくれた)。 ▽FKからOGでスペインに先制を許すと、「仕方ない」といった表情で口数が少なくなる。彼らにしても、グループステージを通過すればスペインかポルトガルが待ち受けていただけに、あまり多くを期待していなかったのかもしれない。 ▽さて本題である。日本対ポーランド戦の後半40分過ぎからの日本のパス回し。0-1で負けているにもかかわらず、2位セネガルがコロンビアにリードを許したため3位に転落し、日本が2位に浮上したから西野監督も指示したのだが、これについて賛否両論が出た。 ▽それはそれで健全な証拠だと思う。グループステージ最終戦で前回優勝国のドイツを倒した韓国からすれば、溜飲を下げつつもグループステージで敗退しただけに、ベスト16に進んだライバル日本に対し「潔くない」と批判の意見が出るのは十分に予想できた。 ▽他にも世界各国から賛否両論の意見が出た。例えば、大会のレギュレーションに従えば2位以内に入るのがグループステージの戦い方であり、日本が批判されるのは見当違いだという好意的な意見もあれば、W杯と日本の価値を貶める行為と非難する声もあった。 ▽個人的には、どちらも当てはまらないと思う。なぜなら、あのメンバーではポーランドからゴールを奪うことは不可能と思えたからだ。セネガルの失点は僥倖のようなもの。西野監督としては残り時間を耐えて、あとは運を天に任せるしか選択肢はなかっただろう。 ▽6人のメンバーを入れ替えた理由を西野監督は主力の疲労によるものと説明した。それは理解できる。しかし、宇佐美貴史は攻守とも貢献したシーンは皆無に近い。なぜ西野監督が選んだのか不思議でもある。酒井高徳は必死に酒井宏樹に攻撃のスペースを作ろうとしたが、慣れないポジションのためか効果はなかった。槙野智章はやはり守備に不安があり、すぐに手を使う癖は抜けていない。 ▽西野監督は負傷の岡崎慎司に代え大迫勇也、宇佐美に代え乾貴士を投入した。残り1枚のカードは守備固めに長谷部誠を使ったが、例え香川真司か本田圭佑を起用しても、あのメンバーではゴールの匂いがまったく感じられなかった。 ▽裏返せば、日本の選手層はかなり薄いことをポーランド戦では露呈した。だから、「あのメンバー」では1点のビハインドでもボールを回すしかなく、セネガルの失点と、ポーランドの消極的な試合運びという二重の幸運も日本に味方した。 ▽もしも、日本がドローを目指して攻撃に出る、あるいはブーイングに怖じ気づいてロングキックに逃げる――実際、コロンビア戦やセネガル戦ではそうした時間帯もあったが――ことこそ恐れた。 ▽なぜなら日本は、過去にW杯出場まであと数十秒と迫りながらカウンターを食らい、アディショナルタイム(当時はロスタイム)にCKから同点ゴールを許してW杯初出場を逃した苦い経験があるからだ。こうした過去を踏まえて、今回のポーランド戦の日本のプレーを解説した欧州や南米のメディアはない。そこまでは知る由もないだろうから、気にする必要もない。 (C)Toru Rokukawa▽といったところで、通路から歓声が上がり、大騒ぎしているようだ。通路に出てみると、ロシア人サポーターが重なり合うように、iPadのある客車に群がっている。どうやらロシアがスペインを下したようだ(1-1の延長からPK戦を4-3で下す)。ホストカントリーが勝ち上がれば、それだけ大会も盛り上がるので、今後の快進撃を期待したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.07.02 21:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】VARの功罪とは

▽6月14日のロシア対サウジアラビアで開幕したW杯も12日が過ぎ、各グループとも2試合を終え、今週からは最終戦を迎える。すでにグループステージ突破を決めた国、敗退の決まった国もいるが、ドイツやアルゼンチン、ブラジルら、どちらかというと下馬評の高かった国の苦戦が目立つ。 ▽そんななか、大会序盤から話題を呼んだのが、今大会から導入された「ビデオ・アシスタント・レフェリーシステム」、いわゆるVARシステムである。幸いにもというべきか、日本はまだ新システムによる“被害”も“恩恵”も受けていない。 ▽このVAR、個人的には反対派だ。まず試合の流れが止まり、緊迫感が薄れること著しい。そして、例えばテニスでは選手が要求すれば高速スローの映像で、選手、審判、コートの観客はもちろん、TV視聴者にもジャッジの正誤がわかる。しかしVARでは、問題のシーンはスタジアムとTVで繰り返されても、具体的にどのプレーを主審はファウルと判断したのか分かりづらい。 ▽大会序盤、VARで増えたのがPKの数である。正当なファウルと主審が判断してプレーオンにしても、このVARで判定が覆ってPKとなるシーンをかなり見た。それだけ主審はPKを見逃してきたのか。あるいはVAR導入により、試験的にPKをなるべく取らないようにしているのか。こちらは大会後の総括で明かされるだろう。 ▽これまでペナルティーエリア内で攻撃側の選手が倒されてもPKにならないシーンがあった。攻撃側の反則、いわゆるシミュレーションである。近年のFIFA(国際サッカー連盟)は特にシミュレーションを厳密に取るよう通達してきた。 ▽ところが今大会はシミュレーションによる警告やFKが少ないような気がする。ドリブルを仕掛けてペナルティーエリアに入る。その一瞬、攻撃側の選手がファウルを誘ったり、自らダイブしたりしたかどうか。その判断は前後のプレーも含め、瞬時に決めなければならない。 ▽これなどは、VARでの判定はかなり難しいのではないだろうか。最新の映像技術で繰り返し問題のシーンを見直しても、選手の内面までは映し出すことはできないからだ。「現場の空気感」、あるいは「主審の直感」が選手の精神状態を把握できるのかもしれない。もちろん、触れていないのにダイブするような選手は、もはやファン・サポーターに笑われ者であることは言うまでもない。 ▽VAR導入で増えた見苦しいプレーもある。それはファウルを受けたと主張する選手が、主審同様に両手でボックスのジェスチャーをしてVAR判定を求めることだ。アクチュアルプレイングタイムを増やすためにも、不必要なアピールには口頭で注意を与えるなど試合のスピードアップに努めて欲しい。 ▽いずれにしても、VARについては問題となったシーンや大会後に総括として触れざるを得ないと思っている。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.06.26 14:30 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】意外と多い前回優勝国の初戦敗戦

▽ロシアに来て12日が過ぎた。昨日は深夜0時55分カザン2駅発の夜行寝台列車でサランスクへ移動した。サランスクに着いたのは午前9時45分。約9時間の道のりである。距離にしては400キロくらいだが、途中で何度も停車して時間を調節するあたり、東京駅発のバスによるスキーツアーと似たような感じだ。 ▽サランスクに着いてまず感じたのは「暑い!」ということ。カザンより涼しいと聞いていたが、昼過ぎにはTシャツ1枚で過ごせる。ここらあたり、先週木曜のコラムでも書いた06年ドイツW杯の悪夢が頭をよぎる。西野ジャパンはカザン入りしてからコンディション調整の練習が多く、走り込みなどのハードな練習はしていない。いまさらながら心配のタネは尽きない。 ▽さてサランスクである。この街の人はとても親切だ。カザンでは道を聞こうとしてもロシア語しか話さないため敬遠されがち。このため大学生でないと英語は通じない。しかしサランスクでは、道で立ち止まっていると寄ってきて、ロシア語で話しかけてくる。こちらがカタコトの英語で答えると、わざわざ英語の話せる若者を探して手助けしてくれるのだ。白タクを拾って行き先と料金を決めてくれたり、ホテルの近くまで遠回りでも案内したりしてくれた。 ▽さてW杯である。昨日は前回優勝国のドイツがメキシコに0-1で敗れる大波乱があった。同じく優勝候補のブラジルがスイスと1-1で引き分けるなど、W杯ならではの初戦の難しさがある。それはコロンビアのペケルマン監督も前日会見で語っていた。 ▽W杯が24カ国に増えた82年スペイン大会以降、前回優勝国が敗れたのは10大会中5回と意外に多い。まず82年スペイン大会では初出場のマラドーナが反則すれすれのラフプレーに苦しめられ、開幕戦でベルギーに0-1で敗れた。 ▽90年のイタリア大会でも前回優勝のアルゼンチンはカメルーンに0-1で敗退。しかしマラドーナに率いられたセレステ・イ・ブランコはブラジルや開催国イタリアを倒して決勝まで進出したのはさすがだった。 ▽新しいところでは、02年の日韓大会でフランスがセネガルに0-1で敗れ、グループリーグ敗退という屈辱を味わう。エースのジダンが負傷していたせいもあるが、当時は前回優勝国が予選を免除されたことで、厳しい試合をする機会が減少したことがその理由の1つと考えられた。 ▽06年ドイツ大会を最後に前回優勝国の予選免除は廃止され、10年南ア大会は予選を突破したイタリアだったが、開幕戦でパラグアイに1-1で引き分けるなどグループリーグ最下位で南アを後にした。 ▽そして14年ブラジル大会ではスペインが開幕戦でオランダに1-5と大敗し、これまたグループリーグで敗退した。フランスとスペインはともに初優勝後のW杯ということもあり、結果を出したチームにありがちな新陳代謝に失敗したと見る向きもある。 ▽しかしドイツは若返りを図ってEUROを制し、どこにもスキはないと思っていた。メキシコの、ドイツの焦りを誘う試合展開も見事だったが、これで初のベスト4進出を果たせるか。 ▽そして明日は日本がコロンビアに挑む。メキシコの再現を多くの日本人サポーターは着たいしていることだろう。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.06.19 12:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】W杯の開幕を静かに待つカザン

▽日本代表のキャンプ地であるカザンに来て6日が過ぎた。22時過ぎに空港についたものの、出口のゲートには中学生らしきボランティアが出迎えてくれるあたり、そろそろW杯ムードが高まりつつあるようだ。 ▽ここカザンは地下鉄が1路線しかなく、市民の移動の足はもっぱら自家用車かバス、トラム、トロリーバス、乗り合いタクシーの5つ。まずはともあれIDカードをピックアップしなければ始まらない。そこで昨年のうちに予約したアパートの大家に、カザン・アレナとキャンプ地であるルビン・カザンへの行き方を聞いたところ、「アレナには33番か62番のバス、ルビン・カザンには、そこから60番のバスに乗ればいい」と教えてくれた。▽ちなみに大家はロシア語しか話せない。「ロシアでは英語が通じない」と言われていて、携帯とポケットWiFiのSIMを買ったショップでも英語は通じなかった。そこで頼りになったのが、日本で購入した翻訳機「ポケトーク」だ。普段はWiFiで使用するが、専用のSIMを購入すると2年間はWiFi環境でなくても使用できる優れものだ。 ▽バスでの移動で困るのは、降りるバス停の名前が分からないこと。そこで外の景色で確認することになる。ただ、カザン・アレナは巨大なスタジアムのため、遠目にもすぐ分かる。アレナにいたボランティアにアクレディテーション・センターを聞くと(さすがに英語が通じた)、「スタジアムの真裏にある、青くて大きなビルだ」と教えてくれた。▽確かに大きなビルだが、巨大なスタジアムを大回りするため、徒歩で15分近くかかった。これは08年の北京五輪を取材した時にも感じたことだが、広い国土を持つ国の建造物はいずれも大きいため、目で見えていても辿り着くのにかなりの時間がかかる。アレナの外周に飾りつけるオブジェはまだ完成しておらず、作業員が黙々と仕事を進めていた。 ▽IDカードは空いていたため20分ほどで取得。今度はルビン・カザンに行くため来た道を引き返すと、スタジアムをバックにレポートしている韓国のTVクルーと遭遇した。彼らは27日にここでドイツと対戦する。それまでに勝点を何点積み上げられるか。隣国のライバルであるだけに、気にかかるところだ。▽アレナからバスで約25分、だいたいの位置はグーグルマップで調べておいたので、照明灯が見えたところで下車し、バス停にいた軍人に確認すると、ルビン・カザンで間違いはなかった。せっかく来たのだから、中を撮影したいと伝えると、5分くらい待たされ「残念だが、日本協会の広報の●●さんのレターがないと入れられない。14日からは日本協会の許可が必要になる」と断られてしまった。▽柵越しに写真を撮り、市内へ戻る方向のバス停の上にある表示板を見ると33番と62番がある。待つこと10分、33番のバスで無事にアパートへ帰宅できた。帰りがけに近くのハイパーマーケットという、これまた巨大なショッピングセンターをのぞいて見た。スポーツショップには大会のロゴをあしらったTシャツやバッグ、大会マスコットのザギトワ(フィギュアスケートの選手)、ならぬザビワカ(オオカミ)のグッズなどが売られていた。 ▽街が盛り上がるのは16日のフランス対オーストラリア戦が始まってからだろう。その前に、13日の夜には日本代表がインスブルックから移動してくる。サムライ・ブルーにとっても、取材するメディアにとっても、ロシアW杯の始まりだ。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.06.11 23:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】岡田元監督のトークセッション② 岡田武史さんの哲学

▽今週は先週に引き続き、スカパー!「サッカーおやじ会」でのトークイベントに出演した岡田武史・元日本代表監督のエピソードを紹介しよう。西野ジャパンのメンバー選考について問われると、自身の経験を踏まえ「めちゃくちゃ苦しみますよ。日本人監督はチーム作りに苦労する」と話し、「日本の指導者はチーム作りと采配を比べると、チーム作りに執着する。相手を研究して采配で勝つことは邪道だと思っている人が多い。チーム作りで勝つのが美学と思っている」と苦言を呈した。 ▽岡田さん自身、監督としては前者のタイプだ。そして南アW杯ではベスト16に進出したものの、阿部勇樹をアンカーに、本田圭佑の0トップによる“采配”を批判されたのかもしれない。続けて「僕の場合はあらゆることをシミュレーションしている。メンバーを決める時も試合の展開をずっと妄想する」とし、南アのメンバー選考についてはこんなエピソードを紹介した。 ▽「2010年のW杯で矢野貴章を入れたら“えっ”という人がけっこういた。もし試合に勝っていて、残り10分くらいを守りたい。でもセットプレーでやられたら背の高い選手が欲しい。でもDFを代えるのはリスクがある。前線で追い回せて、セットプレーの時にヘディングで競れる奴が欲しい。そうなったら“貴章”だなとなった。そして本当にカメルーン戦で想定していた場面が来た」 ▽このため「メンバーを決める時も上から23人、上手い奴を選べばいいわけじゃない」と選考の難しさを語った。 ▽さらに岡田さんは日本人指導者の傾向として「美学を持つのはいいが、それを勝負への言い訳にしている。例えばクライフが言った“美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え”。この言葉を一番好きなのが日本人。オランダ人は負けるのが嫌。これを言う人は勝ったときには絶対に言わない。負けた時の言い訳として使う。ところが日本人は好き。例えば点が入らない。あとは決定力だけ。“決定力さえあれば”とよく言うが、それは“そこまでのサッカーは素晴らしい”といった美学を持って言っている。点を入れなかったら勝てないのに、そこまでの美学で満足している。あとは決定力と言うけど、そこが一番大事」と持論を展開した。 ▽リアリストの監督だった岡田さんらしいサッカー哲学だ。もうS級ライセンスは返上したため監督復帰の可能性がないのが残念でもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.06.04 19:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】岡田元監督のトークセッション① W杯は化ける選手が必要

▽5月21日から千葉県内で始まった日本代表の合宿。西野監督は27日まで練習を公開したため、日に日に観戦するファンが増え、27日は日曜日とあってメインスタンドは立錐の余地もない大盛況。ゴール裏やタッチライン際にも鈴なりの人だかりとなった。 ▽オシム・ジャパン以降、歴代の代表監督は非公開にすることが多く、ファンと代表チームの距離感に温度差を感じていただけに、今回の練習公開は大いに歓迎したい。ちびっ子ファンから声をかけられた長友や乾が手を上げて応えていた。これが本来あるべき代表選手とファンの間柄だろう。 ▽戦術練習やセットプレーなどは非公開にすることもやむを得ないだろう。しかし日本でサッカーは、マイナーからは脱却したかもしれないが、欧州や南米のようにまだまだナンバー1スポーツではない。こうしたファンサービスは今後も継続すべきだろう。 ▽さて先週はイニエスタの来日会見でサッカー界は沸いた。その同じ日に、スカパーが会見を開いて来シーズンのブンデスリーガとポルトガルリーグ、ベルギーリーグなどの独占放映権・配信権を獲得したことを発表。そのイベントとして「サッカーおやじ会」に岡田武史元日本代表監督が番組MCの八塚氏とトークセッションを行った。 ▽冒頭、ロシアW杯の監督オファーがあったかどうか聞かれた岡田氏は「ない、ない。考えたこともない」と即座に否定。話題になったS級ライセンスの返上についても、「前々からS級は返上するつもりだった。お金を払わなければ自動的に失効すると思っていたが、自分の場合は引き落としだったので返上の手続きが必要だった。返上して1ヶ月後に親しい記者が聞きに来て答えたところ、翌日の新聞で1面になっていたのは驚いた。ハリルの解任とたまたまタイミングがあって騒動になった」と真相を語っていた。 ▽ロシアW杯に関しては、ポーランドやセネガルを警戒しつつ「どっちしても初戦が大事。客観的に見るとコロンビアの方が日本より実力は上。そうすると力をそのまま出し合ってぶつかるんじゃなくて、自分たちの力以上のものを出すような勢いが必要になる。勢いをつける方法は色々とあるし、人それぞれ。それは精神的なものかもしれない。そこで、“えっ、こんなことまでしちゃうの?”というような化ける選手が出てくることが必要かなと思う」と10年南アW杯での自身の経験を振り返った。 ▽ここで言う“化ける選手”とは、本田圭佑であり長友佑都のことを指していると感じた。岡田氏は「僕は代えることに悩んで、最後の1試合で決断した」とも語った。おそらくキャンプ地であるジョージでのテストマッチで、中村俊輔の起用を断念し、ゼロトップに本田を起用し、中盤のアンカーに阿部勇樹を置く4-1-4-1のシステムを採用したことを指しているのだろう。 ▽そんな“化ける選手”の1人である長友に、代表キャンプ中に岡田氏の話を伝えたところ、「僕も岡田さんに化けさせてもらって、成長させてもらいましたし、まだまだ化けないといけないと思っています」と爽やかな笑顔で答えてくれた。 ▽果たしてロシアで“化ける”選手が出てくるのか。ブラジルW杯では香川真司や大迫勇也が化け損ねただけに、彼らの奮起にも期待したい。 ▽ちなみに早稲田大学の先輩である西野監督については、「(時間がないのは)分かっているから監督を引き受けた。時間があろうがなかろうが、結果を出さないといけないのは西野さんもハリルも同じこと。相談されたことはない」とリアリストの岡田さんらしい見解を述べていた。 ▽その他にも岡田さんは日本人指導者の陥りやすいサッカー哲学を、ヨハン・クライフを例に出して話したり、試合へのアプローチの違いを自身の経験を元に解説したりしたが、それは次週のコラムで紹介したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.28 22:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】代表練習で感じた変わらぬ本田の姿勢

▽5月30日にキリンチャレンジカップでガーナと対戦する日本代表のキャンプが21日にスタート。この日はすでに帰国している海外組の岡崎慎司、本田圭佑、吉田麻也、香川真司、大迫勇也、酒井高徳、原口元気、宇佐美貴史、武藤嘉紀、浅野拓磨の10選手が1時間10分ほどの練習で汗を流した。 ▽ただし、岡崎だけは終始別メニューで、ランニングやサイドステップ、バックステップ、ストレッチなどの軽めの練習。2月上旬に膝を、4月には足首を傷めて実戦から遠ざかっていたが、走り方にもぎこちなさを感じさせ、全力でプレーできる状態ではなかった。30日のガーナ戦に間に合うのかどうか疑問であり、6月19日のコロンビア戦までに万全の状態に回復すると判断できなければメンバー外となる可能性もあるかもしれない。 ▽練習終了後は西野監督が囲み取材に応じ、本田について質問されると「非常にいいパフォーマンス。彼らしいスタイルで入ってきたかな」と高く評価していた。その本田、9分間のフリーランニング後、早川コンディショニングコーチから「テンポを上げて6分間」と指示が出て5分が経過し「そろそろダウン」と言われても、浅野と競うようにランニングのペースを上げて酒井高を追い抜くなどアグレッシブに練習に取り組んでいた。 ▽ただし、練習終了後のミックスゾーンでは、他の選手が報道陣の取材に応じているのに、本田だけは「お疲れ様」と言って足早に通り過ぎた。この日のミックスゾーンの目玉は本田、岡崎、香川の“ビッグ3"だっただけに、報道陣は肩すかしを食らった格好だ。ただ、それも本田らしいと思った。 ▽思い出されるのは8年前、南アW杯前にスイスのサースフェーで行われた事前合宿だ。当時のエースは中村俊輔だったが、持病の足首痛に悩まされ、早川コンディショニングコーチが付きっきりで1人別メニューの練習を続けていた。当時のシステムは4-4-2で右MFが中村俊の定位置だった。もしも中村俊が間に合わなければ、そのポジションは同じレフティーの本田が起用される可能性が高かった。 ▽中村俊はなかなか取材できないため、必然的に練習後の報道陣は本田にコメントを求めた。当初は取材に応じていた本田だったが、ある日のこと、囲んだ報道陣に対して自分から口を開き、「毎日毎日、質問されても同じ練習をしているので答えようがない。これが試合後や試合前には違ったことを話せるかもしれない。なので、これからは自分から話すことがあったら話します」といった趣旨のコメントで報道陣の理解を求めた。 ▽その時の本田は24歳で、まだチームの中心選手とは言えなかった。それでも当時の状況から本音を語ったことに、報道陣を無視した中田英寿との違いに感銘を受けたものだ(スポーツ紙は反発したが)。 ▽たぶん中村俊のコンディションが良ければ、毎日の取材の取材に応じ、今日の練習の目的や自分の役割、チームメイトのエピソードなど日替わりで話題を提供しただろう。それだけリップサービスのできる余裕があった。 ▽パーソナリティーの違いと言ってしまえばそれまでだが、本田は8年経ってもストイックな姿勢は変わらないことを再確認した21日の練習取材でもあった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.22 15:20 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】J開幕から25年。もう一度聞きたいチアホーン

▽昨日14日は、ロシアW杯に臨む選手35名の予備登録が行われた。ただ、これはFIFA(国際サッカー連盟)に提出する必要があるだけのため、JFA(日本サッカー協会)はリストを公表しないし、チームにも連絡はないそうだ。明日はルヴァン杯があるし、週末にはJ1リーグの試合があり、代表チームの活動は週明けとなる。このため、あえて公表する必要はないと判断したのだろう。FIFAもJFAの意向を受けて公式サイトでの公表を控えている。 ▽昨日、取材に応じた西野監督は香川や岡崎、本田の招集を示唆したようだが、18日にはキリン杯に臨む28名を発表する予定だ。当然35名の中から絞られた28名のため、予備登録の35名を発表する必然性はない。そして18日に発表される28名から、5名が篩いにかけられる。先週末のJ1リーグの報道は、試合の結果より代表候補の選手のプレーがクローズアップされていた。おそらく今週末のJ1リーグでは、その傾向にますます拍車がかかるだろう。 ▽といったところで、今日5月15日はJリーグが誕生して25年の節目を迎えた。25年前の今日、国立競技場でヴェルディ川崎vs横浜マリノスの開幕戦が行われたことは周知の事実。そして翌16日に残りの4試合が行われ、カシマスタジアムでは鹿島が名古屋に5-0と圧勝。ジーコはハットトリック第1号の活躍でチームを牽引し、サントリーシリーズの覇者となった ▽そのジーコが25周年記念のイベントのため来日しているが、Jリーグの村井チェアマンは派手な記念イベントを開催する気はないようだ。14日はJリーグが「社会と連携していく未来を探る」ためのワークショップを開催するにとどめた。過去を振り返るのではなく、あくまで未来志向の村井チェアマンらしい発想によるイベントだった。 ▽話は変わり、海外ではユベントスが7連覇を達成し、バルセロナやバイエルンなど「いつもの」チームが順当にリーグを制覇している。ところがJリーグは、首都圏のビッグクラブが毎年優勝争いを演じることの少ない、珍しいリーグでもある。 ▽記念すべきJリーグの開幕戦に登場し、初代の王者となったヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)は2009年にJ2リーグに降格して以来、1度もJ1に復帰できずに低迷が続いている。毎年のように主力選手を放出しては、クラブの存続に懸命の努力を続けている。 ▽同じことは「オリジナル10」の仲間であるジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド千葉)にも当てはまり、こちらは1年遅れの2010年にJ2に降格してから、昇格プレーオフに進んだこともあったが、最後の壁を突破できずJ2に甘んじている。 ▽ジェフは元々、JSL(日本サッカーリーグ)の名門・古河とJR東日本がタッグを組んだ最強チームのはずだった。しかし両社の関係は必ずしも良好とは言えず、先週、味の素スタジアムで会った元強化部長の川本氏は「もう古河OBは1人も残っていません」と言うように、川淵、小倉の元JFA会長や現会長の田嶋氏ら、多くの優秀な人材が流出した。25年も経てば、古河サッカー部の関係者の多くは定年を迎えている。そして現チームの主導権はJR東日本の関係者が握っているだけに、近年の低迷も致し方ないのかもしれない。 ▽そんなチームでも川本氏は愛着があるのか、「1度でいいから岡ちゃん(岡田武史・元日本代表監督)にジェフの監督をやってもらいたかった」と漏らした。もしかしたら岡田監督なら、低迷するチームを立て直すことができたかもしれないと思わずにはいられない。 ▽いまでは考えられないかもしれないが、25年前はジェフの試合でも国立競技場が満員の観客で埋まり、「カテゴリー1」というJリーグのオフィシャルショップで売られていたチアホーンの甲高い音がスタジアムにこだましていた。 ▽チームカラーで塗装したチアホーンは、一時は品切れになるほど爆発的に売れた。しかしスタジアム近隣の住民による騒音の苦情からチアホーンの販売は中止され、各チームもファン・サポーターに使用の自粛を求めたことで、短期間でチアホーンは姿を消した。あのチアホーンはどこにいったのか。いまとなっては懐かし、Jリーグ開幕の熱狂を想起させる、もう1度聞きたい音色でもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.15 19:20 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】元日本代表監督の石井氏とのエピソード

▽去る4月26日、元日本代表監督の石井義信氏(享年79歳)がご逝去され、通夜が5月1日に催された。石井氏は広島県生まれで、高校卒業後に一般試験で東洋工業(現マツダ)に入社。サッカーは高校時代に始めたが、東洋工業蹴球部(現サンフレッチェ広島)でレギュラーに定着すると、1965年に創設されたJSL(日本サッカーリーグ)では67年まで3連覇を達成すると、65年と67年の天皇杯優勝にも貢献した。 ▽1975年にはフジタ工業サッカー部(現湘南ベルマーレ)の監督に就任し、マリーニョやカルバリオらを擁して攻撃的なサッカーで、77年と79年にリーグタイトルと天皇杯の2冠獲得を達成した。そしてフジタの監督を退いた1980年からはJSLの常任運営委員に就任し、後のJリーグ創設にも貢献した。 ▽そんな石井氏が1986年に日本代表の監督に抜擢される。前任の森孝慈監督(故人)は85年10月26日のメキシコW杯アジア最終予選の第1戦に続き、11月3日の第2戦でも韓国に敗れ、W杯出場の夢を断たれる。森監督は強化のためにはプロ化が急務と考え、まず監督のプロ化の必要性を訴えたもののJFA(日本サッカー協会)は時期尚早と判断。森氏は代表監督から退いたため、石井氏に白羽の矢が立った。 ▽通夜にはフジタ時代の主力選手だったマリーニョさんや、日本代表の一員としてソウル五輪予選を戦った奥寺康彦さん、都並敏史さん、水沼貴史さん、金子久さんと谷中治さん、前田治さんら帝京高校OBなど懐かしい顔が揃い、故人を偲んでいた。 ▽そんな石井氏にとって忘れられない出来事がある。日本代表の監督時代はフジタの攻撃的なサッカーから一変、守備的なサッカーを採用した。ライバルの韓国は予選に参加していないものの、それでも日本の実力はかなり低いと判断したからだ。 ▽当時はセネガルに2-2で引き分けたり、広州市、広東省、上海市ともドローを繰り返したりしていた。監督に就任して強化の時間も少なかったが、ラモスやレナト・ガウショらブラジル人選手のいる日本リーグ選抜に0-1、韓国のクラブチームである大宇に1-2で敗れるなど低調な試合が続いた。 ▽そこで当時務めていたサッカー専門誌で石井ジャパンに批判的な記事を書いたところ、西が丘での練習後の囲み取材で質問したら一切無視された。普段は柔和な石井監督が質問を無視したのだから、よほど批判が気に入らなかったのだろう。 ▽それでも石井ジャパンはソウル五輪予選を勝ち上がり、中国との最終予選に進出した。第1戦は87年10月4日、アウェー広州での試合だった。この試合を水沼のアシストから原博実のゴールで1-0と逃げきる。 ▽6万人の大観衆が詰めかけた試合では、中国代表は東北部の遼寧省の長身選手が主力だったが、南部の広州での試合とあって、遼寧省の選手がボールを持つと中国ファンから大ブーイング。そして広州の小柄な選手がボールを持つと大声援という応援スタイルに、他民族国家の複雑さと同時に、サッカーの応援スタイルではヨーロッパに近く、「日本よりもファン、サポーターは先進的だ」と痛感したものだ。 ▽そして試合翌日、日本代表は朝6時のバスでホテルを発ち、日本に帰国する。そんな彼らを見送ろうと、寝起きの短パンTシャツ姿でバスの前で待っていると、石井監督は近寄ってきて握手を求めてきた。批判的な記事を書いてきただけに嫌われていると思っていたので意外だったが、それだけ石井監督にとっても会心の勝利だったのだろう。正直、うれしかった。 ▽ホームでの第2戦は引き分けさえすれば20年ぶりの五輪出場が決まる。霧雨の降る試合だったと記憶している国立競技場。開始直後に手塚聡が絶好のシュートチャンスを迎えたものの、ピッチの窪地に足を取られて外してしまう。そして試合は0-2で敗れ、石井ジャパンの挑戦は終わった。 ▽試合後の記者会見では、どこから紛れ込んだのか1人のファンが最前列で嗚咽をもらしていた。メキシコW杯に続くソウル五輪の最終予選での敗退。奇しくもその日は2年前のメキシコW杯アジア最終予選が行われた10月26日。オールドファンにとっては忘れられない忌まわしい10・26でもある。 ▽その後、石井氏は1999年に東京ガスの顧問に就任し、FC東京の創設とJリーグ参入に尽力した。練習場の小平や味の素スタジアムでは、いつもの柔和な顔で孫に近い選手を見守っていた。通夜では読経の前に弟さんが「サッカーに関われて幸せな人生だった」と故人の生前の声を伝えた。改めて石井さんのご冥福をお祈りします。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.05.07 22:25 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】過去にもあった代表監督解任に歴代JFA会長は…

▽4月7日に解任された元日本代表監督のハリルホジッチ氏が、4月27日に記者会見を開いた。同氏は約1時間20分にわたって熱弁を振るったが、内容は志半ばでの解任による悔しさと、解任理由がコミュニケーション不足であったことに疑問を呈した。そして、なぜ田嶋会長や西野技術委員長が「ハリル、問題が起こっているようだがどうなんだ」と一声相談するなり、フォローがなかったことに失望の念を表した。 ▽コミュニケーション不足を解任の理由に挙げられては、ハリルホジッチ氏も納得できないだろう。なぜならキャンプ中は毎晩、午後9時から15分間隔で、GK陣、DF陣、MF陣、FW陣とミーティングを開いていたからだ。海外組とも現地で試合を視察したり、電話などで連絡を取り合ったりしていた。 ▽一部の選手からは「ハリルではW杯を戦えない」という声も上がったそうだ。しかし、試合で使ってもらえない選手から不満が出るのは万国共通のはず。そのために西野技術委員長がいたはずだが、どうやらうまく機能していなかったようだ。 ▽JFAが代表監督を任期途中で解任するのは、これで2度目だ。最初の解任は97年10月4日、フランスW杯のアジア最終予選でカザフスタンと引き分けたため、当時の加茂監督が更迭された。その伏線は95年の暮れに遡る。フランスW杯のアジア予選に向け、加藤久技術委員長や田嶋技術委員らは、「加茂氏ではW杯予選を勝ち抜けない」と判断し、ネルシーニョ氏を次期代表監督に推薦した。 ▽しかし、年俸があまりに高額のため長沼会長(故人)はネルシーニョ氏の招聘を断念。いわゆる「腐ったミカン事件」である。これは後に判明したことだが、どうやら契約書が当初のものと書き換えられていたようで、それを長沼会長は「知らなかった」と後に述懐していた。 ▽加茂監督の続投は決まった。しかしながら記者から「もしもW杯の出場権を逃したらどう責任を取るのか」という質問に、長沼会長は決然と「加茂でフランスに行けなかったら、私が会長を辞める」と断言した。 ▽結果的に、加茂監督は任期途中で更迭された。その決断を下したのは、他ならぬ長沼会長だった。加茂ジャパンをサポートしつつも、最終的には苦渋の決断をしなければならなかった。長沼氏の責任を問う声に対しては、「任期満了をもって責任を全うする。それがサッカー界におけるやり方だ」と反論し、W杯後に会長職を岡野氏(故人)に譲った。 ▽そして4年後にも代表監督解任の危機はあった。トルシエ監督は99年のコパ・アメリカで惨敗を喫する。その他にも決定力不足や強化推進本部とのコミュニケーション不足、エキセントリックな性格からくる選手やメディアとの軋轢など様々な問題を抱えていた。 ▽強化推進本部の7人による投票の結果は、4対3でトルシエ監督の解任を決定。一般紙にも「トルシエ監督解任、W杯はベンゲル監督」と報じられた。ただ、最終的な結論は岡野会長に一任されたことで状況は変わる。強化推進本部に監督解任の決定権はなく、あくまで理事会の承認が必要だったからだ。 ▽そして岡野会長はトルシエ監督の留任を決定し、同氏に万全のサポート態勢を約束した。留任の理由については自著の「雲を抜けて、太陽へ!」で次のように説明している。 ▽「私自身はトルシエ氏の欠点を知っていたが、世界ユース選手権で日本を初めて準優勝に導いただけでなく、大会中に選手を孤児院に訪問させるなど、サッカー以外の体験をさせる指導方針を評価していた。また、オリンピック関係の会議でフランス人役員の絶対に謝らない気質を知っていたし、かつてのドイツのデットマール・クラマーの来日当初、通訳を務めた経験上、外国人コーチの孤立感を理解できた」 ▽コミュニケーション不足や選手との対立は、トルシエ監督の時代が最も激しかった。それをサポートしたのが現場では山本コーチであり、岡野会長だった。「フランス人気質と外国人コーチの孤立感」を理解したからこそ下せた決断である。 ▽長沼会長と岡野会長には、日本サッカーの将来を見据えた揺るぎない決断と、無限の包容力を感じるのは私だけではないだろう。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.30 16:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】日曜のJ2取材は町田で多くの新鮮な発見

▽22日は、J2のFC町田ゼルビアvsレノファ山口FCの試合を取材した。今シーズンから山口の監督に就任した霜田正浩氏は旧知の間柄ながら、なかなか山口まで取材に行くことは難しい。そこで町田ならと取材を思い立った。 ▽カードとしても上位争いをしている2チームだけに悪くはない。といったところで、ヴァイッド・ハリルホジッチ元監督が来日し、27日に記者会見を開くという。霜田氏は技術委員時代にハリルホジッチ元監督を招へいした当事者だ。このためJ2にしては異例とも言えるスポーツ紙の記者が集結した。誰もがハリルホジッチ元監督について霜田監督からコメントを引き出したかったのだろう。 ▽残念ながら試合後の記者会見では、町田の広報から「質問は今日の試合に関してのみお願いします」というガードがあり、帰り際に「ハリルとは電話で話しました」と聞くのが限界だった。 ▽さて、町田である。埼玉に近い板橋区から車で約2時間弱。やはり遠い。中央高速の府中インターまで、空いていれば40分もかからないが、インターを降りてからの一般道が長い。一度、神奈川県に入り、再び東京都に入る。電車なら小田急線の鶴川駅からバスかタクシーと、アクセスに悩まされるスタジアムでもある。 ▽しかしながら時間に余裕を持って到着したため、町田名物のピリ辛と甘い豚角煮のトッピングされた「YASS(ヤッス)カレー」を堪能した。2012年のJリーグ・スタジアムグルメ大賞に輝いた一品だ。そして晴天のグルメ広場では、カレーを食べながら特設ステージで地元・町田出身の7人組のコーラスグループ、『Machida Girls′Choir(まちだガールズクワイア)』の歌声も楽しめた。オリジナル曲もあれば、懐かしいキャンディーズや松田聖子の歌もある。 ▽ステージ後方では町田のユニホームを着た男性サポーターが熱い声援を送り、ステージ終了後はグッズを購入したファンと記念撮影に興じている。これはこれで、町田にJリーグが根付いていることを感じたし、関係者の努力の賜物でもあるだろう。 ▽試合は前半の町田の猛攻をしのいだ山口が先制。しかし後半立ち上がりに町田のFW杉森考起が同点弾を冷静に決める。しかし山口は後半25分にPKから再びリードを奪い、その後の町田の猛攻を跳ね返して2-1の勝利を収めた。 ▽といったところで、町田の同点ゴールを決めた杉森の名前を覚えているファンは少ないのではないだろうか。名古屋グランパスの下部組織出身で、17歳でプロ契約を結んだのはクラブ史上初。それよりも、14年ブラジル・ワールドカップ(W杯)でトレーニーとして参加した選手と紹介した方が「ああ、そんな選手もいたね」と思い出すかもしれない。 ▽ブラジルW杯では坂井大将(現アルビレックス新潟)とともにトレーニングパートナーに選ばれ、大会直前合宿から本大会まで帯同。イトゥーのキャンプ地では紅白戦要員に借り出されたり、チームの全体練習終了後は霜田技術委員とマンツーマンで指導を受けたりしていた。 ▽W杯のトレーニングパートナーに選ばれるのだから、将来を嘱望された選手でもあるだろう。しかし彼らがその後、アンダーカテゴリーの代表チームに名を連ねたものの、日本代表の一員になることはなく現在に至っている。ここらあたりもサッカーというチームスポーツの難しさかもしれない。指導者との出会い、チームとの出会いで環境は激変するからだ。 ▽霜田監督に会うのが目的の取材だったが、現場には様々な驚きや新鮮な発見がある。やはり試合はライブで見るに限る。そう、改めて感じたJ2取材の日曜日だった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.24 10:30 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和と清水の若手選手に期待

▽昨日の15日はJ1の浦和対清水の試合を取材した。サッカー王国を自負し、かつてはリーグの覇を競ったこともある両チームだが、清水は4試合未勝利、浦和はやっと連勝で立て直してきたが、昨シーズンのACL王者の面影はない。 ▽試合は興梠の技ありのヘッド2発で浦和が逃げ切った。ただ、後半になって清水に1点を返されると、大槻監督は3-5-2から5-4-1の超守備的な布陣にシステムを変更。このため後半は清水のボールポゼッション率が高まったものの、攻撃は意思の疎通を欠いてチャンスらしいチャンスを作れず1-2で敗れた。 ▽興梠の2点目は右サイドのMF橋岡からのクロスに対し、最初はファーに流れるように動いてマーカーの意識を後ろに向けさせ、一瞬の動きでマーカーの前に走り込みヘッドで決めたもの。ストライカーらしい動きであり、基本的なプレーでもある。 ▽試合としては、浦和の超守備的なスタイルに彼らの苦しみを見た思いだった。昨シーズンはもちろん、開幕直後も結果こそ出なかったものの、ボールポジションで相手を圧倒するのが浦和スタイル。しかし、この日は宇賀神や平川を欠いていたこともあるが、かつての面影はまるでない。 ▽一方の清水もヤン・ヨンソン監督を招いて守備を再構築しているようだが、J2に降格したシーズンもショートパスを小気味よくつなぐパスサッカーだったのが、こちらも長身FWクリスランにロングボールを当てる攻撃で、かつてのスタイルは見る影もない。そんな試合で楽しめたのが、両チームの若手選手の存在だった。 ▽浦和の2点目をアシストした橋岡は浦和ユース出身の18歳で、本職は182センチの長身を生かしたCB(センターバック)である。この日は右アウトサイドMFに起用され、俊足を飛ばしてマーカーを寄せ付けず、興梠の2点目をアシストした。 ▽大槻監督いわく、「橋岡は走ります。前回の試合は30回スプリント。しかしポジションが悪いので10回は無駄なスプリントと本人に言った。クロスのアシストはトレーニングの成果が出たと思う」と期待の高さを伺わせた。CBもSB(サイドバック)にもできるのは大きな武器だけに、東京五輪の中心選手(現U-18日本代表)に成長することを期待したい。 ▽一方の清水では4-4-2の右SBに起用された立田に注目した。DFとして189センチの長身選手で、こちらもユース出身の本職はCBだ。現在U―21日本代表の19歳で、橋岡同様、東京五輪世代である。 ▽Jリーグは20歳前後の選手の成長を促すため、ルヴァン杯では1名の出場を義務づけている。とはいえ、なかなか世代交代が進まないのが現状でもある。そうした中で、橋岡や立田のような新たな発見はうれしい限りだし、東京五輪までケガなく成長して欲しいと思う。 ▽さらに清水には、この日ゴールを決めた金子という163センチと小柄なMFがいた。彼はJFAアカデミー福島出身のテクニシャンで、まだ22歳と若いだけに、さらなる成長を期待したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.16 21:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ハリル解任

▽ハリルホジッチ監督解任――4月9日、日本サッカー界に激震が走った。ワールドカップ(W杯)を2カ月後に控えての監督交代劇。1997年10月のフランスW杯アジア最終予選、カザフスタン戦でドローに終わったあとに、当時の長沼健JFA(日本サッカー協会)会長が、加茂周監督を更迭し、岡田武史コーチを監督に昇格させて以来のショッキングな監督交代劇だった。 ▽これまでも何度か書いてきたように、ハリルホジッチ監督はW杯でジャイアントキリングを起こすために招聘された監督だった。しかし3月のベルギー遠征では選手から縦パスばかりの攻撃に不満が漏れ出した。 ▽若手選手が多かったせいもあるが、ハリルホジッチ監督を招へいした霜田正浩 元技術委員長がいれば両者の意見を汲んで進むべきベクトルを合わせることもできただろう。裏返せば、それだけ西野朗 技術委員長と手倉森誠コーチら代表スタッフは機能していなかったことの証明でもある。 ▽元々、西野技術委員長は「勝負師タイプ」の監督である。技術委員長に就任した際も、「スーツよりジャージの方が似合っているし、室内にいるよりグラウンドにいた方が気楽だ」と話していた。また、ガンバ大阪の監督を辞めて浪人中も、「自分はマグロのようなもの。回遊魚なので止まったら死んでしまう。ピッチにいないと息苦しい」と本音を漏らしていた。 ▽そんな西野氏に、「技術委員長は慣れましたか」と聞くと、決まって「慣れるわけないだろう!」という返事が返ってきた。元々、技術委員長のタイプでなないのだ。JFAのミスマッチは、この時点で明白だった。 ▽さらに3月のベルギー遠征では、選手の不満をスポーツ紙に漏らしたスタッフがいたと聞いた。西野氏の代表監督就任により、あるコーチがスタッフから外れるのは偶然なのか疑問が残る。 ▽こうした齟齬の積み重ねがハリル・ジャパンを蝕んでいたことは想像に難くない。そして、本来であればハリルホジッチ監督を解任するのは西野技術委員長のはずである。にもかかわらず田嶋会長が「渦中の栗」を拾う格好で解任会見を開いた。田嶋会長にしては珍しいとも思ったが、さすがに西野技術委員長がハリルホジッチ監督の解任をメディアに伝えつつ、「自分が後任監督を務めます」と言うことはできない。解任せざるを得なかった責任の一端は、技術委員長にもあるからだ。 ▽先にも書いたように、西野技術委員長は「タイプ」ではない。勝負師である。そんな西野氏を技術委員長に起用した田嶋会長は、ハリルホジッチ監督の更迭も視野に入れて西野氏を抜擢したのではないかと疑いたくなってしまう。 ▽かつて加茂氏が日産時代に代表監督待望論があったように、西野氏も過去には「代表監督を日本人にするなら」と待望論があった。名古屋グランパスやヴィッセル神戸の監督で結果を残せなかったため、そうした声は霧消したものの、1996年のアトランタ五輪では西野監督、山本コーチ、田嶋技術委員という間柄でもあった。 ▽当時は優勝候補筆頭のブラジルを倒し、「マイアミの奇跡」と賞賛されたものの、グループリーグで敗退し、西野監督は批判にさらされた。その復権を田嶋会長が期待したとしても不思議ではない。12日に予定されている会見で西野監督は何を語るのか。2010年南アフリカW杯の岡田監督以来となる日本人監督だが、昨日、岡田氏がS級ライセンスを返上したことが明らかになったのは、単なる偶然なのだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.10 13:30 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】繰り返されるW杯キックオフ時間の変更。しわ寄せはいつも選手に

▽3月のベルギー遠征ではマリに1-1、ウクライナに1-2と低調な試合内容だったハリルホジッチ・ジャパン。試合後はかなりの逆風が吹いたものの、西野朗・技術委員長がハリルホジッチ監督の続投を明言したせいか、同氏への批判はピタリとやんだ。それだけ現在の日本代表は、議論するに値するほど期待されていないことの表れかもしれない。 ▽ベルギーで取材していて気になったのが、長友佑都の発言である。長友は過去2大会について、「10年の時は全然ダメ。でも(グループリーグを)突破できた。14年の時はポジティブだったけど結果を残せなかった。いまは1人1人が危機感を持っているし、いい形で進める。(不安要素を)逆転する要素が揃っている」と振り返っていた。 ▽長友が言う通り、2010年の岡田ジャパンは2月の東アジア選手権で韓国に1-3と完敗するなど岡田武史監督が辞任を示唆することもあった。その後もセルビアに0-3、韓国に0-2、イングランドに1-2、コートジボワールに0-2など4連敗を喫した。 ▽当時の日本代表は、右サイドハーフに誰を起用するか。絶対的なエースの中村俊輔と、台頭著しい本田が激しいポジション争いをしていた。結果的に中村は足首の負傷が癒えず、さらにテストマッチで結果が出ないことで、岡田監督は本田を0トップ、阿部勇樹をアンカーに置く守備的な布陣を採用。結果的に日本はベスト16に進出した。 ▽対照的に2014年は、直前の米国タンパでのテストマッチでコスタリカに3-1、ザンビアに4-3と快勝したものの、グループリーグで1勝もできず敗退した。選手はポゼッションによる「自分たちのサッカー」に自信を持って臨んだものの、それは幻想に過ぎないことを痛切に思い知らされた。日本が3-1で勝ったコスタリカがベスト8に進出し、準々決勝でオランダとPK戦にもつれ込む接戦を演じたのは皮肉な結果と言えよう。 ▽現状は10年のパターンだけに、本大会では予想を裏切る結果を期待したいものだが、他にも不安要素はある。それは2006年大会の再現だ。 ▽今回のベルギー遠征で、マリ戦は13時20分、ウクライナ戦は14時20分のキックオフだった。現地では25日が冬時間から夏時間(サマータイム)への切り替わりだったため、試合開始時間が1時間ずれたものの、日本では21時20分と視聴しやすい時間帯のキックオフだった。 ▽これは2試合とも日本が主催した大会のため、試合の開始時間をテレビ局の都合に合わせることが可能だった。そしてロシアW杯である。日本は初戦でコロンビアと対戦するが、当初は18時キックオフだった。しかし、日本のテレビ放映の都合によりポーランド対セネガル戦とキックオフ時間が入れ替わり、15時(日本時間22時)に変更された。 ▽ロシアの6月の平均気温は20度ほどだが、日中は気温の上昇も予想される。そして思い出されるのが06年のドイツ大会だ。キャンプ中は例年になく気温が低く、冬物の上着を購入しようとボンの街中を探し回ったほど。しかし大会が始まると気温が急上昇。初戦の日本対オーストラリア戦(当時はオセアニア代表だった)は今回と同様に15時キックオフで、猛暑の中での試合となった。 ▽日本は中村俊輔のFKで先制したものの、後半はオーストラリアの執拗な空中戦に根負けして、交代出場のケーヒルに2ゴールを奪われるなど1-3の逆転負けを喫した。果たして6月19日のサランクスの気温は何度なのか。視聴者のためには歓迎すべきキックオフ時間の変更だが、そのしわ寄せはいつも選手に来る。視聴率の高いW杯で、日本代表の繰り返される歴史でもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.02 17:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ハリルの苦悩と懸念材料

▽ベルギーに遠征中の日本代表は、明日27日にウクライナと対戦する。といったところで、マリ戦は低調な内容だったため、スポーツ紙はかなり手厳しく批判したようだ。それも仕方のないことだろう。代表初招集の宇賀神友弥がスタメンで起用されただけでなく、大島僚太と宇佐美貴史も久しぶりのスタメンだ。 ▽これまでの実績と、昨年の選手起用からレギュラー当確と言えるのは長友佑都、槙野智章、長谷部誠、久保裕也、大迫勇也の5人しかいない。チームの半数以上が入れ替わっているのだから、若いマリ代表に苦戦したとしても不思議ではない。 ▽そうした試合で、前半9分のGKと1対1のピンチにアダマ・トラオレのシュートをブロックしたGK中村航輔、そして後半アディショナルに同点弾を決めた中島翔也と、リオ五輪世代が活躍したことは明るい材料と言っていい。今回の遠征には2人の他に、大島、久保(予選に出場も本大会の参加はクラブが拒否)、植田直通、遠藤航と6人のリオ五輪世代が招集された(予備登録メンバーを含めれば三竿健斗の7人)。やっと下からの突き上げがあったことは歓迎したい。 ▽その一方で、主力選手からはハリルホジッチ監督がロングボールを多用するよう指示したことで、戸惑いの声も漏れてきた。これにはちょっと意外な気もした。そもそもハリルホジッチ監督は、前技術委員長だった霜田正浩氏が、「ジャイアントキリング(番狂わせ)を起こせる監督」として招聘したからだ。 ▽ザッケローニ監督が構築した、プレーしている選手はもちろん、見ていても楽しいポゼッションのサッカーは、アジアでは頂点に立ったものの、W杯ではまるで通用しなかった。日本はポゼッションのサッカーを確立したとして、次のステップとしてアギーレ監督やハリルホジッチ監督を招聘したはずである。 ▽ハリルホジッチ監督は就任直後から「デュエル」や「タテに速い攻撃」、「ショートカウンター」などを強調してきた。それはW杯イヤーになっても変わらないはずだし、ベテランや若手に関係なく求め続けているだろう。 ▽そこで25日の練習後、本田が興味深い発言をしていた。 ▽「日本の一つの弱点は、歴史が浅いせいで“日本とはこれ"というサッカーがないこと。4年ごとに違うスタイルを模索しながらここまで来ている」とこれまでの経緯を振り返りつつ、「困ったとき、集団には原点回帰するものがあるけど、それが今の日本サッカーにはない。普通は簡単に立ち返る場所があるけど、そういう楽な道がない。どの国もそういうことをやってきて、歴史は築かれている」と日本代表の弱点を指摘した。 ▽まさに正鵠を射ている。そして、4年ごとに変わる代表のスタイルを、A代表からアンダーカテゴリーの代表まで同じコンセプトのスタイルで統一するため「強化指針」を作成したのが霜田氏であり、右腕の木村幸吉氏だった。しかし霜田氏はJ2山口の監督に就任し、木村氏は技術委員の任を解かれた。 ▽このため、選手とハリルホジッチ監督との間に齟齬があった場合、両者の橋渡しとなる人材がいないことも、意思の疎通を欠く原因になっているのではないだろうか。本来なら西野朗技術委員長の役割だが、ハリルホジッチ監督を招聘した経緯をどこまで理解しているのか心許ない。同じことは手倉森誠コーチにも当てはまるだろう。 ▽ハリルホジッチ監督が苦境に陥っても、サポートできるキーマンがいない。これば現在の日本代表が抱える一番の問題点ではないだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.03.26 19:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】中島翔哉のカットインシュートの秘密

▽日本代表は今日からベルギーへ移動して、マリ戦と(23日)とウクライナ戦(27日)に向けて合宿に入る。そこで凄いと感心したのは日刊スポーツ紙のY記者だ。先週のメンバー発表の際はポルトガルにいて、A代表初招集のポルティモネンセの中島翔哉に単独インタビューを敢行。さらにその後はキャンプ地のリエージュに入り、現地は極寒であるとレポートした。 ▽Y記者は昨年のベルギー遠征の際も、試合後はドルトムントに赴き、招集外だった香川に単独インタビューを敢行している。会社や上司の理解あってのことだろうが、目のつけどころが違うと大いに勉強になった。 ▽さて今週は、その中島について昔話を紹介しよう。彼の持ち味は左サイドから切れ味鋭いドリブルでカットインしてからのミドルシュートにある。2016年1月のリオ五輪予選を兼ねたAFC U-23選手権の準々決勝イラン戦ではニアとファーに鮮やかなシュートを突き刺した。 ▽そんな中島は、Uー23日本代表はもちろんのこと、当時所属していたFC東京でも全体練習終了後、必ず居残ってシュート練習を繰り返していた。サッカーが好きで、好きでたまらない「少年」といった印象を誰もが持ったことだろう。 ▽ニアへのインステップによる強シュート、右足インフロントに巻いてファーの上を狙ったシュートは中島の代名詞と言えるが、中島に話を聞いたところ「ゴールとGKの位置は確認して打っています」とのことだった。 ▽ただ、インパクトの瞬間はボールを見ていることは一目瞭然だ。そんな中島のプレーについて、若い頃に彼を指導した東京Vの元川勝監督は、「大黒に似ている」と話していた。元日本代表FWで、現在は栃木でプレーしているが、大黒のシュートはGKの肩口や脇の下など、普通なら止められそうなシュートでも決まってしまう。 ▽そのことを不思議に思った川勝監督が大黒に聞いたところ、「シュートの際にGKは見ていません。感覚でゴールの位置がわかるので」という返答を聞いて納得したという。 ▽J1クラスのGKになれば、FWの視線でシュートはどこを狙っているのか予想できるという。ところが大黒のようにGKやゴールの位置を確認しないで、視線を下に向けたままシュートを打たれると、体の近くに飛んできても反応が遅れてしまうそうだ。それが大黒の、ストライカーとしての本能的なプレーだったと川勝氏は驚いていた。 ▽そして中島である。彼もまた、カットインからシュートまでの動作は流れるようで、キックフェイントを交えながらどのタイミングでシュートを打つのかGKは判断しづらい。そしてインパクトの瞬間はボールに集中している。川勝氏は大黒同様に中島のシュートは予測しにくいと、彼がまだ若い頃から高く評価していた。 ▽そんな中島がマリ戦やウクライナ戦でゴールを決めるのか。ベルギーといえば「小便小僧」が有名だが、日本の「サッカー小僧」が世界へ羽ばたくのか、今から試合が楽しみでならない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.03.20 13:00 Tue
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