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【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和と清水の若手選手に期待

▽昨日の15日はJ1の浦和対清水の試合を取材した。サッカー王国を自負し、かつてはリーグの覇を競ったこともある両チームだが、清水は4試合未勝利、浦和はやっと連勝で立て直してきたが、昨シーズンのACL王者の面影はない。 ▽試合は興梠の技ありのヘッド2発で浦和が逃げ切った。ただ、後半になって清水に1点を返されると、大槻監督は3-5-2から5-4-1の超守備的な布陣にシステムを変更。このため後半は清水のボールポゼッション率が高まったものの、攻撃は意思の疎通を欠いてチャンスらしいチャンスを作れず1-2で敗れた。 ▽興梠の2点目は右サイドのMF橋岡からのクロスに対し、最初はファーに流れるように動いてマーカーの意識を後ろに向けさせ、一瞬の動きでマーカーの前に走り込みヘッドで決めたもの。ストライカーらしい動きであり、基本的なプレーでもある。 ▽試合としては、浦和の超守備的なスタイルに彼らの苦しみを見た思いだった。昨シーズンはもちろん、開幕直後も結果こそ出なかったものの、ボールポジションで相手を圧倒するのが浦和スタイル。しかし、この日は宇賀神や平川を欠いていたこともあるが、かつての面影はまるでない。 ▽一方の清水もヤン・ヨンソン監督を招いて守備を再構築しているようだが、J2に降格したシーズンもショートパスを小気味よくつなぐパスサッカーだったのが、こちらも長身FWクリスランにロングボールを当てる攻撃で、かつてのスタイルは見る影もない。そんな試合で楽しめたのが、両チームの若手選手の存在だった。 ▽浦和の2点目をアシストした橋岡は浦和ユース出身の18歳で、本職は182センチの長身を生かしたCB(センターバック)である。この日は右アウトサイドMFに起用され、俊足を飛ばしてマーカーを寄せ付けず、興梠の2点目をアシストした。 ▽大槻監督いわく、「橋岡は走ります。前回の試合は30回スプリント。しかしポジションが悪いので10回は無駄なスプリントと本人に言った。クロスのアシストはトレーニングの成果が出たと思う」と期待の高さを伺わせた。CBもSB(サイドバック)にもできるのは大きな武器だけに、東京五輪の中心選手(現U-18日本代表)に成長することを期待したい。 ▽一方の清水では4-4-2の右SBに起用された立田に注目した。DFとして189センチの長身選手で、こちらもユース出身の本職はCBだ。現在U―21日本代表の19歳で、橋岡同様、東京五輪世代である。 ▽Jリーグは20歳前後の選手の成長を促すため、ルヴァン杯では1名の出場を義務づけている。とはいえ、なかなか世代交代が進まないのが現状でもある。そうした中で、橋岡や立田のような新たな発見はうれしい限りだし、東京五輪までケガなく成長して欲しいと思う。 ▽さらに清水には、この日ゴールを決めた金子という163センチと小柄なMFがいた。彼はJFAアカデミー福島出身のテクニシャンで、まだ22歳と若いだけに、さらなる成長を期待したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.16 21:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ハリル解任

▽ハリルホジッチ監督解任――4月9日、日本サッカー界に激震が走った。ワールドカップ(W杯)を2カ月後に控えての監督交代劇。1997年10月のフランスW杯アジア最終予選、カザフスタン戦でドローに終わったあとに、当時の長沼健JFA(日本サッカー協会)会長が、加茂周監督を更迭し、岡田武史コーチを監督に昇格させて以来のショッキングな監督交代劇だった。 ▽これまでも何度か書いてきたように、ハリルホジッチ監督はW杯でジャイアントキリングを起こすために招聘された監督だった。しかし3月のベルギー遠征では選手から縦パスばかりの攻撃に不満が漏れ出した。 ▽若手選手が多かったせいもあるが、ハリルホジッチ監督を招へいした霜田正浩 元技術委員長がいれば両者の意見を汲んで進むべきベクトルを合わせることもできただろう。裏返せば、それだけ西野朗 技術委員長と手倉森誠コーチら代表スタッフは機能していなかったことの証明でもある。 ▽元々、西野技術委員長は「勝負師タイプ」の監督である。技術委員長に就任した際も、「スーツよりジャージの方が似合っているし、室内にいるよりグラウンドにいた方が気楽だ」と話していた。また、ガンバ大阪の監督を辞めて浪人中も、「自分はマグロのようなもの。回遊魚なので止まったら死んでしまう。ピッチにいないと息苦しい」と本音を漏らしていた。 ▽そんな西野氏に、「技術委員長は慣れましたか」と聞くと、決まって「慣れるわけないだろう!」という返事が返ってきた。元々、技術委員長のタイプでなないのだ。JFAのミスマッチは、この時点で明白だった。 ▽さらに3月のベルギー遠征では、選手の不満をスポーツ紙に漏らしたスタッフがいたと聞いた。西野氏の代表監督就任により、あるコーチがスタッフから外れるのは偶然なのか疑問が残る。 ▽こうした齟齬の積み重ねがハリル・ジャパンを蝕んでいたことは想像に難くない。そして、本来であればハリルホジッチ監督を解任するのは西野技術委員長のはずである。にもかかわらず田嶋会長が「渦中の栗」を拾う格好で解任会見を開いた。田嶋会長にしては珍しいとも思ったが、さすがに西野技術委員長がハリルホジッチ監督の解任をメディアに伝えつつ、「自分が後任監督を務めます」と言うことはできない。解任せざるを得なかった責任の一端は、技術委員長にもあるからだ。 ▽先にも書いたように、西野技術委員長は「タイプ」ではない。勝負師である。そんな西野氏を技術委員長に起用した田嶋会長は、ハリルホジッチ監督の更迭も視野に入れて西野氏を抜擢したのではないかと疑いたくなってしまう。 ▽かつて加茂氏が日産時代に代表監督待望論があったように、西野氏も過去には「代表監督を日本人にするなら」と待望論があった。名古屋グランパスやヴィッセル神戸の監督で結果を残せなかったため、そうした声は霧消したものの、1996年のアトランタ五輪では西野監督、山本コーチ、田嶋技術委員という間柄でもあった。 ▽当時は優勝候補筆頭のブラジルを倒し、「マイアミの奇跡」と賞賛されたものの、グループリーグで敗退し、西野監督は批判にさらされた。その復権を田嶋会長が期待したとしても不思議ではない。12日に予定されている会見で西野監督は何を語るのか。2010年南アフリカW杯の岡田監督以来となる日本人監督だが、昨日、岡田氏がS級ライセンスを返上したことが明らかになったのは、単なる偶然なのだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.10 13:30 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】繰り返されるW杯キックオフ時間の変更。しわ寄せはいつも選手に

▽3月のベルギー遠征ではマリに1-1、ウクライナに1-2と低調な試合内容だったハリルホジッチ・ジャパン。試合後はかなりの逆風が吹いたものの、西野朗・技術委員長がハリルホジッチ監督の続投を明言したせいか、同氏への批判はピタリとやんだ。それだけ現在の日本代表は、議論するに値するほど期待されていないことの表れかもしれない。 ▽ベルギーで取材していて気になったのが、長友佑都の発言である。長友は過去2大会について、「10年の時は全然ダメ。でも(グループリーグを)突破できた。14年の時はポジティブだったけど結果を残せなかった。いまは1人1人が危機感を持っているし、いい形で進める。(不安要素を)逆転する要素が揃っている」と振り返っていた。 ▽長友が言う通り、2010年の岡田ジャパンは2月の東アジア選手権で韓国に1-3と完敗するなど岡田武史監督が辞任を示唆することもあった。その後もセルビアに0-3、韓国に0-2、イングランドに1-2、コートジボワールに0-2など4連敗を喫した。 ▽当時の日本代表は、右サイドハーフに誰を起用するか。絶対的なエースの中村俊輔と、台頭著しい本田が激しいポジション争いをしていた。結果的に中村は足首の負傷が癒えず、さらにテストマッチで結果が出ないことで、岡田監督は本田を0トップ、阿部勇樹をアンカーに置く守備的な布陣を採用。結果的に日本はベスト16に進出した。 ▽対照的に2014年は、直前の米国タンパでのテストマッチでコスタリカに3-1、ザンビアに4-3と快勝したものの、グループリーグで1勝もできず敗退した。選手はポゼッションによる「自分たちのサッカー」に自信を持って臨んだものの、それは幻想に過ぎないことを痛切に思い知らされた。日本が3-1で勝ったコスタリカがベスト8に進出し、準々決勝でオランダとPK戦にもつれ込む接戦を演じたのは皮肉な結果と言えよう。 ▽現状は10年のパターンだけに、本大会では予想を裏切る結果を期待したいものだが、他にも不安要素はある。それは2006年大会の再現だ。 ▽今回のベルギー遠征で、マリ戦は13時20分、ウクライナ戦は14時20分のキックオフだった。現地では25日が冬時間から夏時間(サマータイム)への切り替わりだったため、試合開始時間が1時間ずれたものの、日本では21時20分と視聴しやすい時間帯のキックオフだった。 ▽これは2試合とも日本が主催した大会のため、試合の開始時間をテレビ局の都合に合わせることが可能だった。そしてロシアW杯である。日本は初戦でコロンビアと対戦するが、当初は18時キックオフだった。しかし、日本のテレビ放映の都合によりポーランド対セネガル戦とキックオフ時間が入れ替わり、15時(日本時間22時)に変更された。 ▽ロシアの6月の平均気温は20度ほどだが、日中は気温の上昇も予想される。そして思い出されるのが06年のドイツ大会だ。キャンプ中は例年になく気温が低く、冬物の上着を購入しようとボンの街中を探し回ったほど。しかし大会が始まると気温が急上昇。初戦の日本対オーストラリア戦(当時はオセアニア代表だった)は今回と同様に15時キックオフで、猛暑の中での試合となった。 ▽日本は中村俊輔のFKで先制したものの、後半はオーストラリアの執拗な空中戦に根負けして、交代出場のケーヒルに2ゴールを奪われるなど1-3の逆転負けを喫した。果たして6月19日のサランクスの気温は何度なのか。視聴者のためには歓迎すべきキックオフ時間の変更だが、そのしわ寄せはいつも選手に来る。視聴率の高いW杯で、日本代表の繰り返される歴史でもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.04.02 17:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ハリルの苦悩と懸念材料

▽ベルギーに遠征中の日本代表は、明日27日にウクライナと対戦する。といったところで、マリ戦は低調な内容だったため、スポーツ紙はかなり手厳しく批判したようだ。それも仕方のないことだろう。代表初招集の宇賀神友弥がスタメンで起用されただけでなく、大島僚太と宇佐美貴史も久しぶりのスタメンだ。 ▽これまでの実績と、昨年の選手起用からレギュラー当確と言えるのは長友佑都、槙野智章、長谷部誠、久保裕也、大迫勇也の5人しかいない。チームの半数以上が入れ替わっているのだから、若いマリ代表に苦戦したとしても不思議ではない。 ▽そうした試合で、前半9分のGKと1対1のピンチにアダマ・トラオレのシュートをブロックしたGK中村航輔、そして後半アディショナルに同点弾を決めた中島翔也と、リオ五輪世代が活躍したことは明るい材料と言っていい。今回の遠征には2人の他に、大島、久保(予選に出場も本大会の参加はクラブが拒否)、植田直通、遠藤航と6人のリオ五輪世代が招集された(予備登録メンバーを含めれば三竿健斗の7人)。やっと下からの突き上げがあったことは歓迎したい。 ▽その一方で、主力選手からはハリルホジッチ監督がロングボールを多用するよう指示したことで、戸惑いの声も漏れてきた。これにはちょっと意外な気もした。そもそもハリルホジッチ監督は、前技術委員長だった霜田正浩氏が、「ジャイアントキリング(番狂わせ)を起こせる監督」として招聘したからだ。 ▽ザッケローニ監督が構築した、プレーしている選手はもちろん、見ていても楽しいポゼッションのサッカーは、アジアでは頂点に立ったものの、W杯ではまるで通用しなかった。日本はポゼッションのサッカーを確立したとして、次のステップとしてアギーレ監督やハリルホジッチ監督を招聘したはずである。 ▽ハリルホジッチ監督は就任直後から「デュエル」や「タテに速い攻撃」、「ショートカウンター」などを強調してきた。それはW杯イヤーになっても変わらないはずだし、ベテランや若手に関係なく求め続けているだろう。 ▽そこで25日の練習後、本田が興味深い発言をしていた。 ▽「日本の一つの弱点は、歴史が浅いせいで“日本とはこれ"というサッカーがないこと。4年ごとに違うスタイルを模索しながらここまで来ている」とこれまでの経緯を振り返りつつ、「困ったとき、集団には原点回帰するものがあるけど、それが今の日本サッカーにはない。普通は簡単に立ち返る場所があるけど、そういう楽な道がない。どの国もそういうことをやってきて、歴史は築かれている」と日本代表の弱点を指摘した。 ▽まさに正鵠を射ている。そして、4年ごとに変わる代表のスタイルを、A代表からアンダーカテゴリーの代表まで同じコンセプトのスタイルで統一するため「強化指針」を作成したのが霜田氏であり、右腕の木村幸吉氏だった。しかし霜田氏はJ2山口の監督に就任し、木村氏は技術委員の任を解かれた。 ▽このため、選手とハリルホジッチ監督との間に齟齬があった場合、両者の橋渡しとなる人材がいないことも、意思の疎通を欠く原因になっているのではないだろうか。本来なら西野朗技術委員長の役割だが、ハリルホジッチ監督を招聘した経緯をどこまで理解しているのか心許ない。同じことは手倉森誠コーチにも当てはまるだろう。 ▽ハリルホジッチ監督が苦境に陥っても、サポートできるキーマンがいない。これば現在の日本代表が抱える一番の問題点ではないだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.03.26 19:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】中島翔哉のカットインシュートの秘密

▽日本代表は今日からベルギーへ移動して、マリ戦と(23日)とウクライナ戦(27日)に向けて合宿に入る。そこで凄いと感心したのは日刊スポーツ紙のY記者だ。先週のメンバー発表の際はポルトガルにいて、A代表初招集のポルティモネンセの中島翔哉に単独インタビューを敢行。さらにその後はキャンプ地のリエージュに入り、現地は極寒であるとレポートした。 ▽Y記者は昨年のベルギー遠征の際も、試合後はドルトムントに赴き、招集外だった香川に単独インタビューを敢行している。会社や上司の理解あってのことだろうが、目のつけどころが違うと大いに勉強になった。 ▽さて今週は、その中島について昔話を紹介しよう。彼の持ち味は左サイドから切れ味鋭いドリブルでカットインしてからのミドルシュートにある。2016年1月のリオ五輪予選を兼ねたAFC U-23選手権の準々決勝イラン戦ではニアとファーに鮮やかなシュートを突き刺した。 ▽そんな中島は、Uー23日本代表はもちろんのこと、当時所属していたFC東京でも全体練習終了後、必ず居残ってシュート練習を繰り返していた。サッカーが好きで、好きでたまらない「少年」といった印象を誰もが持ったことだろう。 ▽ニアへのインステップによる強シュート、右足インフロントに巻いてファーの上を狙ったシュートは中島の代名詞と言えるが、中島に話を聞いたところ「ゴールとGKの位置は確認して打っています」とのことだった。 ▽ただ、インパクトの瞬間はボールを見ていることは一目瞭然だ。そんな中島のプレーについて、若い頃に彼を指導した東京Vの元川勝監督は、「大黒に似ている」と話していた。元日本代表FWで、現在は栃木でプレーしているが、大黒のシュートはGKの肩口や脇の下など、普通なら止められそうなシュートでも決まってしまう。 ▽そのことを不思議に思った川勝監督が大黒に聞いたところ、「シュートの際にGKは見ていません。感覚でゴールの位置がわかるので」という返答を聞いて納得したという。 ▽J1クラスのGKになれば、FWの視線でシュートはどこを狙っているのか予想できるという。ところが大黒のようにGKやゴールの位置を確認しないで、視線を下に向けたままシュートを打たれると、体の近くに飛んできても反応が遅れてしまうそうだ。それが大黒の、ストライカーとしての本能的なプレーだったと川勝氏は驚いていた。 ▽そして中島である。彼もまた、カットインからシュートまでの動作は流れるようで、キックフェイントを交えながらどのタイミングでシュートを打つのかGKは判断しづらい。そしてインパクトの瞬間はボールに集中している。川勝氏は大黒同様に中島のシュートは予測しにくいと、彼がまだ若い頃から高く評価していた。 ▽そんな中島がマリ戦やウクライナ戦でゴールを決めるのか。ベルギーといえば「小便小僧」が有名だが、日本の「サッカー小僧」が世界へ羽ばたくのか、今から試合が楽しみでならない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.03.20 13:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】コバルトーレ女川と村田監督

▽昨日はJ3とJFL(ジャパンフットボールリーグ)の開幕日だった。そして3月11日といえば、7年前に東日本大震災で東北地方が甚大な被害を受けた日でもある。夢の島陸上競技場でのFC東京U-23対沼津のJ3を取材したが、2時キックオフの試合前には7年前の災害に黙祷が捧げられた。おそらくどの会場でも黙祷が捧げられたことだろう。 ▽そして静岡県浜松市都田サッカー場では昨シーズンのJFL覇者・ホンダFCと、今シーズンJFL昇格を決めたコバルトーレ女川が対戦した。試合は1-2で敗れて女川は初戦を飾ることはできなかったが、いまなお復興に取り組む被災地を励ましたことだろう。 ▽女川には震災前と震災後の2度訪れたが、女川湾の漁港を中心に扇状に家屋やビルが広がる風光明媚な町だった。それが最大15メートルの津波で跡形もなく消えていたのを目の当たりにした時は声を失ったものだ。 ▽コバルトーレ女川は将来のJリーグ入りを目指して06年に誕生した。最初は石巻市民リーグからスタートし、10年には東北社会人リーグ1部に昇格と順調に歩んできたものの、11年の震災で1年間の活動中止を余儀なくされた。それでもチームの再開を願う町内企業が選手の雇用を受け入れるなどの協力もあり、12年に東北社会人リーグ2部から再出発。1年で1部に復帰し、16年には初優勝を遂げる。そして昨シーズンは全国地域サッカーチャンピオンズリーグでも優勝し、初のJFL昇格を決めた。 ▽今年からチームを率いるのは東京ヴェルディや日テレ・ベレーザのコーチなどを歴任した村田達哉氏(45歳)。もともとは読売ユース出身で、読売ジュニオールでJSL(日本サッカーリーグ)2部にデビュー。その後はヴェルディ川崎や札幌、仙台などでプレーして、05年に指導者の道に転身した。 ▽彼の名前を覚えていたのは、読売ユースの時代に試合を取材したことがあるからだった。レフティーの左SB(サイドバック)で攻撃参加を得意とし、当時読売サッカークラブのコーチを務めていた松木安太郎氏(現解説者)が、「和製ロベカルです」と教えてくれたからだった。 ▽選手として大成することはなかったものの、現役引退後は仙台のフロント入りし、キエーボ・ヴェローナにコーチ留学するなど宮城県と縁があったから女川の監督に就任したのだろう。リーグ戦は第2、3節とアウェーが続くが、4月1日の第4節ではホームの石巻フットボール場に戻ってくる。きっと多くのファンが訪れることだろう。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.03.13 12:05 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和のジンクス

▽J1リーグはまだ2試合を消化したに過ぎず、現在の順位はあくまで暫定に過ぎない。とはいえ今シーズンはちょっとした“異変”が起きているようだ。まず昨シーズンのアジア王者である浦和が、開幕2試合で1分け1敗の未勝利により13位と出遅れた。 ▽昨シーズンのメンバーがほとんど残り、ドリブラーのマルティノスと重量FWの武富を補強して、チームの完成度も高いと思われた。FC東京との開幕戦は後半早々に失点したものの、すぐに槙野が同点ゴールを決めるなど勝負強さを見せた。第2節の広島戦では先制しただけに、勝利は確実かと思われたが、予想外の逆転負け。開幕2戦で未勝利は08年以来10年ぶりで、当時のオジェック監督は前年にACLで優勝しながら、開幕2試合で解任された。 ▽浦和以外にも、Jリーグで優勝経験のある磐田とG大阪は2戦2敗で18位と17位に沈んでいる。代わって首位に立っているのが開幕2連勝の名古屋で、同じ勝点6で広島と仙台が続いている。 ▽正直、今シーズンの名古屋は降格候補と思っていた。というのも、2月10日に沖縄糸満市で行われたFC東京との練習試合では、DF陣が連係ミスから何度もボールを奪われたからだ。風間監督のスタイルなのだろうが、GKは必ずペナルティーエリアの外にいるDFにパスを出し、DF陣からのビルドアップにトライ。しかしFC東京のプレスに簡単にボールを失い、GKのランゲラックと1対1になるシーンが3回もあった。いずれもGKの好プレーで失点を免れたが、FC東京のGKやDFらのロングパス1本で簡単に裏を取られるシーンも多く、決勝点もそうしたプレーから生まれた。 ▽試合後の風間監督は「いまはやろうとしていることにトライしている。成功も失敗もあるが、たくさんトライすることが大事。背後を狙われたのもトライしているから。体のコンディション作りと頭を使うことをやってきたので、整理できて全員が1歩前進した」と収穫を口にした。ただ、川崎Fと比較すると「まだまだ」と風間スタイルの完成は道半ばであることを認めた。 ▽その試合のメンバーと第2節の磐田戦では4人が代わっていて、一番の違いは昨シーズンのブラジル・リーグ得点王でMVPのFWジョーの存在だろう。ただ、1人の選手の存在でチームが劇的に変わるとも思えない。ここしばらくは注目したい名古屋である。 ▽話は変わり、J1リーグは2005年より18チームになり、1シーズン制を2014年まで採用した。その後2年間は2シーズン制に戻し、再び17年から1シーズン制になった。その間の優勝チームは鹿島が3回、G大阪と広島が2回、川崎F、柏、名古屋、浦和が各1回となっている。 ▽そこで興味深いのが、開幕戦で浦和と対戦したチームのリーグ制覇が、開幕戦の勝敗に関係なく5回もあることだ。まず06年は浦和が優勝したので当然として(開幕戦は1-1G大阪)、09年は鹿島が浦和と対戦している(2-0浦和)。そして12年からは3年連続して広島(1-0浦和)、広島(1-2浦和)、G大阪(0-1浦和)と、優勝チームはいずれも開幕戦で浦和と対戦しているのだ。 ▽この法則でいくと18年はFC東京ということになるのだが、果たして結果はどうなるのか。ちなみに開幕戦で横浜FMは3回も浦和と対戦している(07、08、17年)が、残念ながらタイトルは取れなかった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.03.05 17:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】キング以外にも“鉄人”のいるJリーグ

▽26年目を迎えたJリーグが2月23日に開幕した。25日にはJ2もスタートし、26日で51歳になる三浦知良はベンチ入りこそしたものの出場の機会はなかった。昨年はリーグ戦における最年長選手のゴールを更新し、今年のキックオフカンファレンスではギネス記録の贈呈式も行われた。 ▽キングの記録を破る選手はそうそう出てこないだろうが、もっと注目してもいい選手がいる。それは横浜FMの中澤佑二だ。25日に40歳の誕生日を迎えた中澤は、J1出場572試合(2018年2月26日現在)という実績がある。カズより11歳年下とはいえ、カズのJ1(321)とJ2(237)の出場記録558試合をすでに凌駕していることはあまり知られていない。 ▽そんな中澤の上を行くのが名古屋のGK楢崎正剛(631試合/2018年2月26日現在)だが、昨シーズンは29試合に出場したものの、今シーズンの開幕戦はオーストラリア代表GKのランゲラックにポジションを譲り、ベンチ入りもできなかった。果たしてこのまま選手としてのキャリアを終えるのかどうかはわからないが、中澤は今シーズン限りでの引退を表明しているだけに、全試合に出場しても楢崎の記録を抜くことはできない。 ▽今年の天皇杯決勝でのプレーを見る限り、まだまだ現役を続行してもいいと思ったし、スピードこそ衰えたとはいえ空中戦の強さは健在だ。もしも現在負傷中の吉田麻也(サウサンプトン)のケガが長引き、ロシアW杯に間に合わないようであれば、彼の代わりに代表に呼んでもいいと思っている。 ▽そんな中澤の記録を追っているのが、現在38歳で、J1では569試合出場(2018年2月26日現在)を誇る遠藤保仁だ。今シーズンからトップ下にポジションを移し、名古屋との開幕戦は敗れたものの21年連続ゴールと自らの持つ連続記録を更新した。遠藤は鹿児島実業高校から横浜フリューゲルスに入団した1998年3月21日の開幕戦、対横浜マリノス戦でプロ初ゴールを決めて以来、移籍した京都やG大阪でも毎年欠かさずゴールを決めてきた。これはこれで凄い記録と言っていいだろう。 ▽まだ(?)38歳の遠藤が、今シーズンと来シーズンにフル出場すればJ1トータル637試合となって楢崎を抜く可能性もある。カズ以外にも“鉄人"がいるJ1リーグ、今年は中澤や遠藤のプレーにも注目してみてはいかがだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.02.26 22:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】鈴井コーチ誕生の経緯

▽今週は先週に引き続き、JFLから関東リーグに降格したブリオベッカ浦安のコーチに就任した鈴井智彦くんを紹介したい。今年で46歳になる彼の指導者としてのスタートは、09年にFC琉球のヘッドコーチから始まった。JFA(日本サッカー協会)公認A級コーチの資格を取得し、その後は秋田 U-18 監督やアカデミーダイレクター、栃木のスカウティング、大分U-18の監督などを歴任し、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。 ▽彼と初めて出会ったのは、東海大学を卒業する前だった。静岡学園、東海大とサッカーの名門校を歩み、大学時代はレギュラーではなかったものの、草サッカーでは群を抜いていた(当然ではあるが)。 ▽そんな彼が、当時務めていたサッカーダイジェストに入社を希望していると、部下だった金子達仁くんから相談を受けた。金子くんは、東海大のエースで、その後はGK大阪でプレーし、現在は宮大工をしている礒貝洋光くんと親交が深かったため、礒貝くんを通じて鈴井くんを紹介されたのだった。 ▽会ってみると、とても素直な好青年だった。そのまますんなり入社が決まったものの、サッカー一筋の人生だったため、記者・編集者としては金子くんや上司で現在はフリーの記者として活躍している戸塚啓くんから厳しい指導を受けた。 ▽そんな彼の転機となったのは、やはり金子くんの存在が大きかったのだろう。金子くんは95年の結婚を契機にダイジェストを退社し、憧れだったヨハン・クライフが監督を務めるバルセロナへ移住する。バルセロナには当時、専門誌の契約カメラマンが長く在住していたため、その縁もあって移住しやすかった。 ▽そんな金子くんを追って、同年には羽中田昌くんが指導者を目指してバルセロナへ旅立つ。さらに翌年、鈴井くんも「記者ではなくフォトグラファーになりたいんです」と相談を受け、ダイジェストを辞めた。 ▽その後、鈴井くんは08年までバルセロナに滞在し、フォトグラファーだけでなくスポーツライターとしてもナンバーなどで活躍。帰国後は金子くんが経営に関わっていたFC琉球の広報としてチームを支えていたが、いつのまにか指導者の道に転身し、J2の複数のチームを渡り歩き、今シーズンから浦安のヘッドコーチに就任した。 ▽思い起こせば金子くんの後を追ってバルセロナに渡った羽中田くんと鈴井くんが、同じチームで夢を追うのは当然のことかもしれない。2人とも指導者として成功を収めたとは言い切れないが、だからこそ浦安で頑張って欲しいと願わずにはいられない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.02.19 19:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】羽中田さんと鈴井コーチの巡り合わせ

▽今週は、ちょっと地味だが2016年にJFL(ジャパン・フットボールリーグ)に昇格したものの、2017年は年間15位で再び関東リーグに降格したブリオベッカ浦安について取り上げたい。元日本代表DF都並敏史さんの長男がプレーしていたクラブで、2014年には都並さんもテクニカルダイレクターに就任し、チームはJ3昇格を目指していた。 ▽監督の齋藤芳行さんは、都並さんが仙台やC大阪、横浜FCの監督を務めていた時のヘッドコーチで、都並さんの右腕とも言える参謀だった。しかし2017年は成績不振によりシーズン途中で解任される。後任には、都立石神井高校初のJリーガーで、松本山雅ユースのアドバイザーを務めていた柴田峡を招へいしたが、浮上のきっかけをつかめないまま契約満了で退任した。 ▽再び関東リーグでJFL昇格を狙うチームの監督を任されたのが、讃岐などの監督を歴任した羽中田昌(はちゅうだ まさし)さんだった。羽中田さんのプレーを初めて見たのは彼が韮崎高校1年の時の選手権だった。大宮サッカー場で行われた試合では、泥田のようなピッチコンディションでも足に吸い付くようなドリブルに度肝を抜かれた。羽中田さんと同学年の保坂孝さんもドリブルを得意とする大型ストライカーで、2人は将来を多いに嘱望されたものだ。 ▽残念ながら高校選手権ではベスト4が1回、準優勝が2回と頂点に立つことはできなかった。そして羽中田さんはバイクを運転中に転倒し、脊髄損傷で車椅子での生活を余儀なくされた。一度は山梨県庁に勤めたものの、1993年のJリーグ開幕に刺激を受けて指導者の道を志す。選んだのは憧れの選手ヨハン・クライフが指揮を執るバルセロナだった。 ▽1995年に行われたスペイン留学の送別会にはセルジオ越後氏も出席し、羽中田さんのことを「彼は僕のチェアー(椅子=車椅子)マンです」と、川淵チェアマンにひっかけて紹介したことを今でも覚えている。 ▽帰国後はたゆまぬ努力でS級ライセンスを取得。身体障害者としては史上初の快挙だった。その後は讃岐の監督や、関西1部リーグの奈良クラブ(現JFL)、東京23FC(関東リーグ)の監督を歴任し、東京23FCでは関東リーグで優勝したが(2016年)、地域CLは1次ラウンドで敗退してJFLの昇格はかなわなかった。 ▽そんな羽中田さんが、再び指導者として関東リーグのブリオベッカ浦安を率いてJFL昇格に挑戦する。讃岐時代は四国リーグで優勝し、奈良クラブでは関西1部リーグで2位までチームを躍進させた。東京23FCでも関東リーグで優勝したものの、いつもその先の“壁”を破れずにいるのは、羽中田さん自身が一番歯がゆく感じていることだろう。 ▽捲土重来がなるか。彼とは出会ってから40年近くが経ち、毎年交換している年賀状には近況報告と同時にいつも抱負が添えられている。思い返せば高校選手権から彼のサッカー人生は挫折の連続だった。高校選手権では、破れた試合後のロッカールームで悔し泣きしていている羽中田さんと保坂さんを3年間取材した(当時はロッカールームでの取材はフリーだった)。 ▽それでも何度となく立ち直り、新たな試練に挑んでいる。地域リーグやJFLの苦労を熟知しているだけに、ブリオベッカ浦安での成功を願わずにはいられない。 ▽そして羽中田監督を補佐するコーチに、鈴井智彦氏が就任したのにも驚かされた。彼は東海大学を卒業後、サッカーダイジェストへの入社を希望したため面接をし、編集部員として採用した。その後は紆余曲折を経ながらもサッカー界で仕事を続けたが、まさかブリオベッカ浦安のコーチとして羽中田監督をサポートするとは予想外の出来事だった。 ▽そんな鈴井氏についての話は長くなるので、来週のコラムで紹介したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.02.12 18:45 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】平昌五輪開幕、南北合同チーム結成で思い出す北朝鮮の3人枠

▽いよいよ今週金曜の9日から、平昌冬季五輪が開幕する。東アジアでの国際大会は時差を気にせず観戦できるのが一番の利点と言えるだろう。それは2年後の東京五輪にも当てはまるので、多くのファンが様々はオリンピック・パラリンピックを楽しむことになるだろう。 ▽そんな平昌五輪で、いまだ不透明なのが北朝鮮の参加だ。女子アイスホッケーの登録枠はどのように対処するのか。すでに決まっている韓国代表に北朝鮮の選手を加えたら、1ヶ国だけ大所帯になり不公平感は否めない。だからといって韓国の選手を削って北朝鮮の選手と入れ替えるのも、韓国のファンからすれば納得できない措置だろう。 ▽過去88年のソウル五輪、02年の日韓W杯の際も韓国は北朝鮮に合同チームの結成を呼びかけてきた。それは韓国で開催される国際大会を無事に開催するための、方便であったような気がする。融和ムードを提案しつつ、北朝鮮は参加を拒むだろうという推測での合同チーム結成だった。 ▽核開発を巡り対決姿勢を強めている北朝鮮だけに、これまで以上に頑なな態度で参加を拒否する――と思っていたところ、思惑が外れたような気がしてならない。雪不足に加えて強風も吹く、過去、最極寒の地で大なわれる平昌五輪。果たして大会は成功裏に終わるのだろうか。 ▽といったところで前置きが長くなってしまったが、今回はサッカー北朝鮮代表についてのトリビアを紹介しよう。昨年12月のEAFF E-1選手権での北朝鮮は、最下位に終わったものの讃岐所属のボランチ李榮直(リ・ヨンジン)の活躍が評価され、東京Vへの移籍を果たした。彼以外にも、町田DF金聖基(キム・ソンギ)、熊本FW安柄俊(アン・ビョンジュン)という3人の在日Jリーガー選手がいた。 ▽北朝鮮のサッカー事情詳しい知人が教えてくれたのだが、いつしか北朝鮮には「3人のJリーガー枠」というものができていたという。E-1選手権の日本戦でも、アウェーのゴール裏ではたぶん東京や大阪の朝鮮高級学級の生徒とおぼしい女性たちが、きれいなコーラスで声援を送っていた。日本で試合をする際に、母校のOBが代表チームにいれば応援にも熱が入るのだろう。 ▽そんな「Jリーガー枠」のピークが10年南アW杯の北朝鮮代表だった。MF安英学(アン・ヨンハ/当時は大宮)、MF梁勇基(リャン・ヨンギ/仙台)、FW鄭大世(チョン・テセ/川崎F)と3人の主力が母国を44年ぶりのW杯に導いた。 ▽では、いつから代表チームに「在日北朝鮮人枠」ができたのかというと、明確な記録はない。初めて在日朝鮮人でありながら代表チームに抜擢されて日本戦に出場したのは、85年メキシコW杯1次予選に出場した、当時は在日朝鮮蹴球団に所属していた金光浩(キム・ガンホ)さんだった。大型FWで、日本代表DF加藤久さんとは名勝負を繰り広げたものだ。 ▽ただ、当時は日本がW杯1次予選で北朝鮮を1勝1敗で下したものの、実力的には北朝鮮の方が上だったので、あえて日本在住の選手を起用する必要はなかっただろう。逆に言うと、それだけ金光浩さんは抜きん出た存在だったとも言える。 ▽その後もイタリアW杯予選ではキム・ジュソンさんやキム・シノンさんらが北朝鮮の代表チームで活躍するなど、その存在感を発揮し始める。そしてJリーグ誕生後は、年を重ねるごとに韓国代表もJリーグに参戦し、切磋琢磨して今日につながっている。 ▽スポーツが外交に寄与する時代は過ぎ、新たにドーピングという国際的な問題も持ち上がっている。平昌五輪は競技はもちろんのこと、運営やインフラ、ボランティア活動といったあらゆる面で無事に閉幕を迎えることができるのか。それはそのまま、20年の東京五輪の課題にもつながるだけに、競技を楽しみつつ注目したい。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.02.05 18:00 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】かつて“怪物"と呼ばれたストライカーが現役を引退

▽先週末のことだ。“怪物"と呼ばれたストライカーが現役生活に別れを告げた。仙台のFW平山相太である。彼のプレーを初めて見たときは衝撃的だった。第82回高校選手権で、平山や1年生ながら国見高校のエースとして活躍し、得点王となってチームを優勝に導いた。 ▽190センチの長身を利したヘディングの強さはもちろんのこと、リーチの長さを生かした突破からのシュートも正確だった。爆発的なスピードがあるわけではないが、ワンフェイク入れて外やタテに持ち出してのシュートは、リーチが長いためDFが足を出しても届かない。その長身を活用したプレーで、高校選手権で優勝2回と史上初となる2年連続(2002、2003年)の得点王、さらにインターハイや高円宮杯優勝と、高校時代はタイトルを総なめした。 ▽高校卒業後の2004年は筑波大学に進学。国見高校の小嶺監督は「相太は成績優秀だから、学力でも国公立大に進学できる」と話していたが、真偽のほどは分からない。筑波大学では、デビュー戦となった駒沢陸上競技場には数多くのメディアが詰めかけた。そうしたプレッシャーにも負けず、平山は決定力の高さを発揮して筑波大のリーグ優勝に貢献。その間には病気で離脱した高原直泰に代わりU-23日本代表の一員としてアテネ五輪も経験した。 ▽その後は筑波大学を中退してオランダに渡り、ヘラクレスで2シーズンほどプレーした後、FC東京への復帰を果たした。ヘディングが武器の平山だったが、当時の監督である原博実氏は、全体練習終了後に自ら手でボールを投げて、平山にヘディングの特訓を施していた。それは彼に対する期待の表れだったと言える。 ▽2010年は岡田ジャパンに招集され、デビュー戦となったイエメン戦ではハットトリックを達成。これは80年ぶりのタイ記録である。こうして順風満帆なサッカー人生を送ってきた平山だったが、2011年の4月10日の練習試合中に頸骨と腓骨を骨折する。ここから彼のケガとの戦いが始まった。 ▽2012年に復帰したものの、5月に腓骨と短腓骨筋を挫傷し再び離脱。この2シーズン初めて無得点に終わった。その後も指揮官が代わるなか、2人の外国人監督は平山の長身を高く評価するも、2014年に右足首を骨折すると、2015年は固定していた髄内釘を除去する手術に踏み切ったため、ケリハビリに明け暮れる毎日が続いた。 ▽すでに体調をベストに戻すことは難しかったが、2016年は可能な限り練習に参加してコンディションを維持し、交代出場が多かったものの15試合に出場して5ゴールを決めた。6月25日の第19節、横浜FM戦では試合終了間際の小川のFKから得意のヘッドで決勝弾を決め、5試合ぶりの勝利(1-0)をもたらした。 ▽試合後の平山は、「セットプレーはチームとしてDFもFWも練習しているので、それが結果につながった。(シュートは)一瞬、止められるかなと思ったけど、クロスのスピードがあったので相手GKの手を叩くことができた。勝利に近づけてうれしかった」と、気負うことなく話していた。 ▽2017年は心機一転、仙台への完全移籍を決断したものの、開幕直後に左足首を負傷して、再び長期離脱を余儀なくされる。そしてプロ入り後は初めてとなる公式戦に出場がないまま2017年を終了。クラブは契約を更新する予定でいたが、平山自身が引退を決意した。 ▽高校時代の強烈なイメージが強すぎるせいか、平山は、記録はもちろん記憶にも残りにくいプロサッカー選手としての人生だった。彼の引退の報を新聞で知ったとき、かつてのチームメイトだった石川直宏を思い出した。まだまだ現役を続けたいものの、自分の体が思うように動いてくれないもどかしさは、本人が一番感じていることだろう。 ▽できれば、もう1シーズン、J1に初昇格となる長崎で平山のプレーを見たかったというファンも多いのではないだろうか。ともあれ、平山は引退を決意した。彼のセカンドキャリアを暖かく見守りたいと思う。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.29 17:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】卓球界を始めとする早熟の天才児たちに期待

▽昨日は、珍しくテレビで卓球の全日本選手権に見入ってしまった。こんな経験は小学生以来かもしれない。女子シングルス決勝では17歳の伊藤美誠が同学年のライバル、平野美宇を下して3冠を達成。そして男子シングルでは14歳の張本が、王者・水谷の5連覇を阻み、史上最年少で日本の頂点に君臨した。 ▽かつては21点制で2ゲーム先取するシステムだったが、現在は11点制で4ゲーム先取すると勝利が決定する。そんなシステム変更を知らないほど、卓球とは疎遠になっていた。子供の頃は町中に卓球場やビリヤード場があってよく通ったが、いまはほとんど見かけない。大型の複合娯楽施設にでも行かないとできないのかもしれない。 ▽彼らの視線の先には20年東京五輪での金メダル獲得という目標があるのは間違いない。来月からは平昌五輪が始まるが、そこでも女子スキージャンプの高梨や、男子フィギュアスケートの宇野ら若い世代の台頭は著しい。何とも羨ましい限りだが、男子サッカーも負けてはいない。 ▽東京五輪を目指してスタートした森保ジャパンは 中国で開催されたAFC U-23選手権中国2018で、グループリーグを3連勝で通過した。残念ながら準々決勝でウズベキスタンに0-4と大敗したが、やはり2歳の年齢差は連戦になればなるほど大きかったのかもしれない(ベトナムのベスト4進出には驚かされた)。 ▽ただ、森保監督によると、今回は疲労を考慮して招集を見送った久保や平川らを3月のパラグアイ遠征に帯同させるという。日本の誇る“天才児”がどのような刺激をチームに与えるのか楽しみなところだ。 ▽その久保だが、いまさら彼のプレーの特長を紹介する必要はないだろう。久保を取材して驚かされるのは、技術的なことよりも、サッカーに対する洞察力の深さだ。昨年5月6日のJ3リーグの琉球戦でのこと。後半に40メートル近くもドリブルで突破してゴールに迫った。そのプレーについて久保は、「早い時間に退場者が出て(前半18分で小川が警告2回で退場)、後半も1人少なく厳しい試合になりました。1人少ないので、攻撃は個でやるしかないと思いました。何回かは個を出せたかな」と自身の判断でプレーを変えたことを明かした。当時はまだ15歳。にもかかわらず冷静に試合の状況を把握していた。 ▽そしてFC東京の石川と徳永のラストマッチ(石川は引退、徳永は長崎へ移籍)となった12月2日のJ1リーグの G大阪戦では、後半35分に東と交代で出場すると、後半アディショナルタムに右からのカットインで左足を振り抜き決定的なシュートを放った。ゴール左上を襲った一撃はGK東口の好セーブに阻まれ得点には結びつかなかった。 ▽試合後の久保は「短い時間の中でチームの力になれるよう、自分なりに頑張りました。チームとしては(石川と徳永を)勝利で送り出したかったのが本音です。(シュートは)残り時間が少なかったので、0-0を動かせればよかったのですが、あそこは(GKに)読まれていました」と淡々と振り返った。 ▽普通の選手なら悔しがるところだろう。まして10代の選手なら、日本代表GKに阻まれてもシュートまで持ち込んだことに手応えを感じてもおかしくない。しかし久保はあくまで冷静だ。 ▽彼が10代の無邪気な一面を見せたのは1回しか遭遇していない。プロ契約した11月、トップチームの練習とファンサービスを終えてクラブハウスへ引き上げる際のことだ。これからナイターの練習に向かうFC東京U-18のチームメイトか後輩に向かい、笑顔で手にしていたマジックペンを振って「サインしてやろうか」とおどけていた。 ▽彼もまた、東京五輪で注目される選手の1人であることは間違いないだろう。唯一の気がかりは、2年後の6月には18歳になっているということ。すでに現在もヨーロッパのビッククラブから高額のオファーが届いており、そのためクラブは早めにプロ契約に踏み切ったと聞く。ここら当たりが久保裕也の例を出すまでもなく、他の競技と違う五輪サッカーの難しさでもある。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.23 19:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】高校選手権の隠れたドラマ。初めて大阪に優勝旗を持ち帰った監督

▽第96回全国高校サッカー選手権は、前橋育英の初優勝で幕を閉じた。流経大柏との決勝戦は、両チームとも高い集中力による好守が光り、1点を争う緊迫した試合だった。ただ、地力に勝る前橋育英はほとんどの時間帯でボールを支配し、決定的なシーンを何度も作っていただけに、優勝は順当な結果とも言える。 ▽今大会に限ったことではないが、年々全国の格差が縮まっていることを痛感させられた高校選手権でもあった。それは、過去に優勝経験のある清水桜が丘(旧清水商)、秋田商(はるか昔だが)、広島皆実、山梨学院の4校が姿を消し、2回戦でも星陵、滝川二、東福岡が敗退する波乱があった。 ▽そして日本文理や明秀日立、米子北が初のベスト8に進出し、上田西は長野県勢として初のベスト4に進出した。組み合わせに恵まれたとはいえ、米子北はプレミアリーグで揉まれているし、上田西には元横浜MのDFで、日本代表にも選出された鈴木正治氏のサッカースクール「シュートFC」の教え子がいるなど、確実にチーム力は上がっている。もはや高校選手権に“波乱”という言葉は当てはまらないのかもしれない。 ▽そんな高校選手権を取材して、「おや」と思ったことがあった。2回戦から登場した大阪桐蔭が、羽黒との試合で選手全員が喪章を巻いていた。その理由を試合後に永野監督は、恩師である元初芝高校監督の田中勝緒氏が昨年12月16日に75歳で亡くなったことを明かした。直接指導を受けたことはないものの、「いつも合宿や遠征では声をかけてくれた」そうで、昭和48年の高校選手権で同校が初優勝したDVDは、移動のバスのなかで選手に見せていたと言う。 ▽「おや」と思ったのは、永野監督が「最初に大阪に優勝旗を持ち帰られた監督」と話したことだった。高校選手権は1976年(昭和51年)から首都圏開催となって現在に至っているが、それまでは長居競技場や靱(うつぼ)球技場など大阪開催だったはず。なので「大阪に持ち帰る」という表現に違和感を覚えたのだった。 ▽そこで古い資料を探したところ、昭和48年当時は西宮球技場と神戸中央球技場がメイン会場として使用され、西宮球技場は関西において「フットボールのメッカ」だったことが分かった。両競技場とも所在地は兵庫県。隣県とはいえ、「最初に大阪に優勝旗を持ち帰った監督」というのは間違いではなかったのだ。 ▽高校選手権の黎明期は御影師範や神戸一中といった兵庫県勢が全盛期を迎えていた。そうれだけに、「最初に大阪に持ち帰った」という田中監督の偉業を大阪の指導者の方々は忘れずにいるのだろう。これも永い歴史を誇る高校選手権の、隠れたドラマの一つではないだろうか。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.09 07:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】親子で天皇杯制覇の偉業達成

▽第97回天皇杯の決勝が1月1日に埼玉スタジアム2002で行われ、C大阪としては初、前身のヤンマー時代を含めれば43大会ぶり4度目の優勝を果たした。天皇杯にまつわる昔話は先週も紹介したが、今回は珍記録が誕生したので振れておきたい。 ▽試合は柏との準決勝で負傷した扇原を欠きながらも、横浜FMが得意のカウンターで先制した。開始8分、下平のタテパスに伊藤が抜け出しGKとの1対1から冷静に流し込んだ。これに対しC大阪は後半20分、水沼のシュートのこぼれ球から、最後は山村が押し込んで同点に追いつく。その後は両者とも譲らず試合は延長戦に突入した。 ▽すると延長前半5分、山村の左クロスを水沼が頭で押し込んで決勝点を奪ったのだった。 ▽水沼と尹晶煥監督は鳥栖時代からの師弟関係にあり、尹晶煥監督が「水沼は僕のことを知り尽くしているので気をつける必要がある」と記者を笑わせながらも、「2017年の1年を順調にいけたのは水沼がいたおかげ。なぜなら僕の考えを選手に伝えてくれて、僕のできない仕事を陰でやってくれた」と感謝の言葉を述べた。 ▽水沼は2016シーズン、鳥栖から城福監督の誘いに応じてFC東京に移籍した。しかし右MFには阿部や河野、東らライバルが多く、なかなかレギュラーに定着できなかった。心機一転、尹晶煥がC大阪の監督に就任するタイミングで2017年にレンタル移籍すると、正確なクロスで攻撃陣をリード。その結果、ルヴァン杯に続き天皇杯と自身初となる2冠に輝いた。 ▽で珍記録というと、もうわかった読者もいるかもしれないが、今回の優勝で水沼宏太は“親子”で天皇杯を獲得したことになった。これまでも“兄弟”で天皇杯を制した例はある。1988年度の第68回大会で優勝した、横浜FMの前身である日産では、柱谷幸一と哲二の兄弟が天皇杯を獲得した。1996年度の第76回大会で優勝したV川崎(現東京V)では、三浦泰年とカズ(知良)の兄弟が天皇杯を制している。 ▽しかし“親子”となると、なかなかいない。恐らく97回の歴史を振り返っても初となる記録ではないだろうか。ちなみに父親である水沼貴史氏は、1993年度の第63回大会で初優勝を果たして以来、1992年度の第72回大会まで通算6度の天皇杯優勝に貢献している。これはこれで、凄い記録でもある。 ▽そして水沼貴史氏が初優勝した第63回大会で対戦した相手は、今回と同じヤンマーだったことにも因縁を感じてしまう。思い出深いのは、この試合が不世出のストライカーと言われた釜本氏のラストゲームでもあったことだ。釜本氏は監督兼任でチームを率いていたが、1982年に右アキレス腱を断裂。1983年11月に復帰したが、すでに39歳ということもあり、天皇杯で勝ち進むにつれ元旦で現役を引退することが濃厚だった。 ▽9年ぶり4度目の優勝を目指した釜本ヤンマーだったが、23歳の水沼貴史や22歳の柱谷幸一ら有望な新戦力を補強した日産に0-2と敗れタイトル獲得は果たせなかった。そのリベンジを34大会ぶりに水沼がC大阪で成し遂げた。対戦相手がジュニアユース時代から世話になり、17歳でプロデビューを飾った横浜FMということにも見えない糸を感じてならない天皇杯だった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2018.01.02 07:00 Tue
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【六川亨の日本サッカーの歩み】天皇杯こぼれ話

▽天皇杯の準決勝2試合が12月23日に行われ、延長戦の末にC大阪と横浜FMが元旦の決勝に駒を進めた。ベスト8が出揃った時点で作成された公式プログラムによると、C大阪は出場49回で3回の優勝、横浜FMは出場40回で7回の優勝とあるが、これには違和感を覚えるファンもいるだろう。 ▽今シーズンはルヴァン杯でC大阪が、J1リーグは川崎Fが初めて優勝を飾った。ところが天皇杯は、Jリーグ誕生以前の企業チーム時代の優勝回数がカウントされているため、C大阪は優勝3回となる。実際のところ、C大阪になってからは2001年と2003年に決勝へ進んだものの、いずれも清水と磐田の静岡勢に優勝を阻まれている。前身のヤンマーが天皇杯に優勝したのは1964年、1970年、1974年と遠い昔の出来事なので、優勝3回と紹介されてもピンとこない。 ▽同じことは横浜FMにも当てはまり、2013年に優勝しているが、1983年から1991年までの優勝5回は日産自動車、そして1992年は日産FC横浜マリノスというチーム名での優勝だった。来年の元旦決勝で優勝すれば、優勝回数は8となり、戦前、戦中、戦後に最多記録を作った慶應BRBと並ぶことになる。長い歴史を誇る天皇杯ならではのレコードだが、やはり違和感を覚えずにはいられない。 ▽そんな天皇杯で印象に残っているのが、5回目の優勝を果たした1991年の決勝だ。日産は1983年に初優勝を果たすと、1991年まで、9年間で戦後最多となる5回の優勝を達成しているが、残り3回は読売クラブが優勝し、あとの1回は松下電器といった具合に、当時は日産と読売クラブの2強が図抜けた強さを誇っていた。 ▽9年間で決勝進出は日産が6回、読売クラブが4回と独占していたことからもわかるように、2強の黄金時代でもあった。そして決勝進出回数が9年間で10回となっているのは、1991年は両チームが初めて決勝で激突したからだった。2強にとって、まさに「絶対に負けられない戦い」だったが、思わぬ発言が日産の闘争心に火をつけた。 ▽テレビのスポーツニュースに武田修宏(現スポーツコメンテーター)とともに出演した藤吉信次(現東京Vトップチームのコーチ)は、ひょうきんなキャラクターが持ち味で、決勝の相手である日産を「おっさん自動車」と揶揄した。これが日産の選手を怒らせ、特に33歳のベテラン木村和司の激怒を買った。 ▽試合は日産がエバートンのゴールで先制したが、読売クラブも後半に武田のゴールで追いつき延長戦にもつれこんだ。そして延長前半14分、水沼貴史(現サッカー解説者。C大阪の水沼宏太は同氏の長男)の左クロスをレナトが競ってゴール前にこぼれるところ、木村が豪快な右足ボレーで決勝点を叩き込んだ。日産はその後もカウンターからルーキー山田隆裕とレナトが追加点を奪い、初の頂上決戦を4-1で制したのだった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.12.25 16:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】日韓戦で記録的な大敗

▽東アジアE-1選手権の最終日が12月16日に行われ、日本は韓国に1-4の惨敗を喫した。試合についてのレビューは木曜のコラムに譲るとして、今回は1-4というスコアにフォーカスしたい。 ▽日本が韓国にホームで4点も取られたのは今回が2回目だ。ライバルとはいえ通算成績ではいまだに韓国が41勝23分け14敗と圧倒的にリードしている。ただ、Jリーグ誕生後は日本の7勝10分け8敗と拮抗した成績を残し、2010年からは2勝3分けと7年間無敗を保ってきた。 ▽にもかかわらず1-4の惨敗。これは1954年3月のスイスW杯アジア予選で1-5と敗れて以来のホームでの大敗でもある。その一戦は、第2次世界大戦後、韓国が独立を取り戻して初めて行われた日韓戦でもあった。本来はホーム&アウェーで行われる予定だったが、韓国は北朝鮮との朝鮮戦争の内乱直後で政情も不安だったこともあり、李承晩大統領は日本チームの来韓を拒絶。このため2試合とも日本の明治神宮競技場で行われた。 ▽初めての日韓戦は、日本が長沼健(元JFA最高顧問)のゴールで先制する。これが日韓戦の長い歴史におけるファーストゴールだった。しかしその後は韓国の猛攻に遭い、1-5で大敗。1週間後の第2戦は2-2で引き分けたため、韓国のW杯初出場が決まった。 ▽それから63年ぶりとなるホームでの大敗が、16日の東アジアE-1選手権での韓国戦だった。長い歴史のある日韓戦ではあるが、Jリーグ誕生以前も日本は押し込まれながらもスコア的には接戦を演じてきた。その原因の一つに、日本は優れたMFを輩出してきたのに対し、韓国は屈強なストライカーを産出してきた。にもかかわらず、決定機にシュートを上に外すなどミスが多かったことが指摘できる。 ▽ところが今回の対戦では、韓国はチャンスを確実に決めてきた。その象徴が2点目の鄭又榮(チョン・ウヨン)のFKだった。彼はJリーグの京都や神戸に在籍時代からミドルレンジのシュートを得意にしたとはいえ、ハリルホジッチ監督が「ワールドクラス」と評したほど鮮やかな一撃だった。無回転で右に曲がりながら落ちて、クロスバーすれすれに決まった。まさに攻撃は“ハマった”韓国と言える。その理由は木曜のコラムに譲るとして、日本にも大敗の原因はあった。 ▽日本が過去、韓国に4点を奪われたのはスイスW杯予選を除いて2回しかない。1954年後は1978年にマレーシアのクアラルンプールで開催されたムルデカ大会で0-4、翌79年にソウルで開催された第8回日韓定期戦(1-4)だ。 ▽当時の日本代表は、“暗黒の時代”でもあった。釜本らメキシコ五輪組が去り、新たなチーム作りに二宮監督(78年)や下村監督(79年)は腐心した。当時のメンバーはDF斉藤、落合、藤口の三菱勢を始め、攻撃陣は永井、碓井、西野ら、個々のタレントでは見劣りしないかもしれないが、チームとしての完成度は低かった。 ▽今回の日韓戦も、試合をしている選手自身がボールを持つと「次はどうしたらいいの」といった具合に迷いが感じられた。チームとしての完成度以前に、“チーム”になっていなかった。これでは勝負になるはずもない。そんな試合を東アジアE-1選手権で久しぶりに見た。 ▽過去の大敗は、日韓両国の実力差を如実に表していただけに、救いようがなかった。現実を受け止めるしかないと言える。しかし近年は拮抗した試合ができた。にもかかわらず今回は惨敗した。その理由として、日本は韓国以上に海外組に依存したチームであると同時に、国内組の突き上げ、レベルアップが停滞していると痛感せずにはいられない。 ▽歴史は繰り返すと言われるものの、これほど残念な試合はない。日本のサッカーが1970年代に逆戻りしたとは思いたくないが、日本代表の歴史に残す汚点でもあった。それを払拭するには、ロシアW杯での成功=ベスト16進出しかない。その反発力が、11月のヨーロッパ遠征からは妙に自チームに優しくなった指揮官にあるのかどうか。個人的にはその方が気になっている。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.12.18 12:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】石川直宏の引退試合に思うこと

▽先週末は慌ただしい日々が続いた。まず1日深夜、ロシアW杯の組分け抽選会があり、日本はコロンビア、セネガル、ポーランドとグループリーグを戦うことが決まった。第4シードということもあり、どこのグループに入っても苦戦は免れないものの、ベストではないがベターなグループだと思う。こちらについては、また別の機会に感想を書きたい。 ▽そして2日はJ1リーグの最終戦。川崎Fが大宮に5-0と大勝し、鹿島が磐田と引き分けたため、川崎Fのリーグ初優勝が決まった。これまでシルバーコレクターに甘んじていた川崎Fがタイトルを獲得したことで、ルヴァン杯を制したC大阪も含め、Jリーグには新しい風が吹いてきたことが予感される。 ▽そして3日はJ1昇格プレーオフで名古屋が福岡と引き分け、1年でのJ1昇格を決めた。J3でも秋田が初優勝を飾り、2位の栃木がJ2復帰を果たすなど、全国各地で様々なドラマがあった。そうした中で、2日と3日はFC東京の石川直宏の引退試合を取材した。 ▽石川が横浜FMからFC東京に移籍したのは2002年のことだった。小学6年生の時に開幕したJリーグを国立で観戦し、「選手は何を考え、どんな思いでプレーしているのか知りたくなった」ことでプロのサッカー選手になることが夢になったという。その夢を叶えたものの、当時の横浜FMでは出番も限られていた。 ▽そんな石川に声を掛けたのが、2001年にアルゼンチンで開催されたワールドユースを視察した原博実だった。原はFC東京の監督に就任すると石川にオファーを出す。迷っている石川の背中を押したのが、チームメイトの松田直樹(故人)だった。「東京でいまのプレーを続けていたらチームの顔になれる。チームの象徴として戦うことができる」と言われたため、完全移籍を決断した。 ▽そして移籍した3日後の2002年4月27日、駒沢で行われたナビスコ杯初戦の清水戦で、44分にケリーのゴールをアシストする。 ▽それから16年、FC東京一筋にプレーを続けたが、右膝前十字靭帯、椎間板ヘルニア、左膝前十字靭帯と相次ぐ負傷に見舞われ、日常生活で階段の上り下りにも苦労する生活を強いられた。「朝、起きてみないと膝の状態はわからない」という毎日ながら、ここ2年間はリハビリの日々を続け、ようやく昨シーズン、J3の試合に2試合ほど交代出場できるまで復活した。 ▽そんな石川が現役引退を決断したのは今年の8月2日、奇しくも2年前のフランクフルト戦で左膝を負傷した日であり、奥さんの誕生日でもあった。引退試合はJ1最終節、12月2日のG大阪戦と、翌日のJ3C大阪戦。G大阪戦にはスタメンで出場し57分プレーした。不思議に「朝起きたら膝に痛みはなかった」と言う。そして「憧れのピッチにいるが、こんなに素晴しい、パワーのある場所とは知らなかった。全力でプレーできたことは誇りに思います」と、幼い頃からの夢を叶えてプロになれたことの感慨を口にした。 ▽さらに翌3日のC大阪戦では後半37分から試合に出場。対戦相手のリザーブには「負けたくない1人だったし、本当に嫌な相手だった。彼の良さはポテンシャルを感じたし、ずる賢さ、クレバーなところ。本当に嫌な相手だった」という、かつてのチームメイトの茂庭がいた。 ▽石川がピッチに入っても、C大阪ベンチに動きはない。するとFC東京のサポーターから「茂庭コール」が起こった。その雰囲気は、サッカー場といよりプロレス会場に近い。そして41分、茂庭がピッチに入った。 ▽試合は43分に石川の左CKからFC東京が追加点を奪い、これが決勝点となって2-1と有終の美を飾った。試合後のセレモニーで石川は、「駒沢のアシストで始まり、駒沢のアシストで終われた」と自身のサッカー人生を振り返った。これも何かの縁なのだろう。 ▽川崎Fの劇的な初優勝の陰で、1人のサッカー選手が注目を集めることなく引退したが、最後の勇姿を見られたことは幸せだった。駒沢には田中隼磨、塩田、権田、阿部らかつてのチームメイトや友人が駆けつけたことからも、石川の人柄を物語っていると言えよう。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.12.04 15:30 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】浦和のACL優勝で思い出した古河優勝のスクープ

▽浦和が10年ぶりにアジアの頂点に立った! ACL決勝でアル・ヒラル(サウジアラビア)との第1戦を1-1で引き分けた浦和は、11月25日のホーム第2戦で勝つかゴールレスで引き分ければ優勝という状況で、試合終了2分前に、第1戦に続いてラファエル・シルバが値千金の決勝点を奪取。2試合合計1勝1分けの堂々たる成績で2度目の優勝を果たし、12月7日から始まるクラブW杯では、アルジャジーラvsオークランドの勝者と9日に対戦し、勝てば準決勝でレアルと激突する。 ▽このACLだが、2002-2003年シーズンにアジアクラブ選手権、アジアカップウィナーズカップ、アジアスーパーカップを統合し、アジアのチャンピオンを決める大会としてリニューアルされた。日本からは浦和とG大阪が過去に制しており、最多優勝は韓国クラブの5回。日本は今回の浦和の優勝で3回目となり単独2位に浮上した。 ▽それ以前の前身であるアジアクラブ選手権では磐田、読売クラブ(現東京V)、古河(現ジェフ千葉)の3クラブがアジアの頂点に立っていることは以前にも紹介した。一方のアル・ヒラルは2年連続して古河と読売クラブの後塵を拝し、今回で3回目のランナーズアップと、なかなか勝てない。 ▽浦和との対戦では、主力選手のブラジル人MFカルロス・エドゥアルドが第1戦で左足十字靭帯を傷め、第2戦でも宇賀神のチャージにエースストライカーのオマル・フリビンが負傷するなど運にも見離されたと言っていいだろう。 ▽このアジアクラブ選手権で忘れられないのが1986年末に初優勝を遂げた古河だ。日本人プロ第1号の奥寺さんが西ドイツから凱旋帰国して古河に復帰すると同大会でも快進撃を続け、12月の決勝大会に進出。アジアクラブ選手権に出るためには天皇杯を欠場するしかない。過去にも現在も、天皇杯を棄権したのはこの時の古河しか記憶にない。 ▽サウジアラビアで、リーグ戦形式で行われた86年の大会を取材するため現地を訪れたメディアは皆無だった。年末に遠く中東で行われた大会だけに、それも当然だった。にもかかわらず、サッカーダイジェストだけはモノクロのページながら写真つきでアル・ヒラル戦の模様を紹介した。 ▽自費で取材に行った、わけではない。当時、古河のチームドクターを務めていた森本氏と、マッサーの妻木氏は、森ジャパンでもコンビを組んでいた。日本代表の取材を通じて知己となった両者は、カメラが趣味でもあった。そこで2人に、オフタイムや試合中にベンチから写真撮影をお願いすると、「可能だったら」という条件付きながら快諾してくれた。 ▽新宿駅西口のバスターミナルが集合場所で、そこから成田空港に向かうため、モノクロフィルム10本ほどを手渡した。帰国後、元旦の天皇杯決勝の前に古河は優勝トロフィーを披露したが、そこで撮影済みのフィルムを受け取り、祈るような気持ちで現像のあがるのを待った。プロのカメラマンではないため望遠レンズにも限りがあり、アップのプレー写真こそなかったが、しっかり写っていた。こうして古河の優勝を誌面に反映できたのだった。 ▽最後に、ACLの勝者が出場するクラブW杯は2019年まで現行のスタイルで開催されることが決まっているものの、FIFAは2020年以降を未定としつつ、2021年でコンフェデ杯を終了させ、クラブW杯と入れ替える計画だそうだ。4年に1回、6月開催で、当初は24チーム参加の大会を計画しているものの、どのように決定するかはまだ未定とのことだ。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.11.27 16:03 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】クラブ・ブルージュの思い出

▽11月14日、ベルギー戦の行われたブルージュは、運河に囲まれた古都。ここをホームにするクラブ・ブルージュは、今年で創立126年を迎える古豪クラブでもある。日本戦が行われたヤン・ブレイデル・スタジアムは1975年に建設されただけに、記者席だけでなく、一般の観客席もかなり狭い。大柄なベルギー人は、冬場というもともあり厚着をしているため、ビール片手に“押しくらまんじゅう”をしながら観戦しているようだった。 ▽その点、ブラジル戦の行われたリールのスタッド・ピエール・モーロワは、ハリルホジッチ監督も建設に一役買っただけに2012年創立と近代的なスタジアムだった。記者席はもちろん観客席もゆったりして、快適に観戦できる。地下1階には専用のミックスゾーンがあり、2階にあるワーキングルームには食事を提供するカウンターもある。ブラジル戦はJFA(日本サッカー協会)の主催だったため、野菜やチーズをふんだんに使ったお弁当や飲みもの、デザートなどがふんだんに振る舞われた。 ▽話をブルージュに戻そう。リーグ優勝14回、ベルギー・カップ優勝11回、スーパーカップ優勝14回と、アンデルレヒト、スタンダール・リエージュと並ぶベルギーを代表するクラブでもある。しかしながらアンデルレヒトが旧UEFAカップやカップウィナーズ・カップで優勝しているのに比べ、ブルージュは旧チャンピオンズ・カップ、旧UEFAカップとも準優勝止まりで、欧州でのタイトルを獲得できずにいる。唯一の国際的(?)なタイトルが、1981年に獲得した「キリンカップ」だった。 ▽森孝慈(故人)監督の初陣となった81年のキリンカップは、前年に6回目のリーグ優勝を果たしたブルージュ、イングランドのエバートン、イタリアのインテル・ミラノ、中国代表、天皇杯優勝の三菱、そして若返った森ジャパンの6チームで争われた(インテルの試合が西が丘で行われる時代でもあった)。ブルージュはベルギーから来日した初めてのチームで、DFエリック・ゲレツやMFヤン・クーレマンスなど代表選手を擁した好チームだった。彼らにFWシーフォやGKプファフが加わったベルギー代表は、1986年のメキシコW杯でベスト4という過去最高の成績を残すことになる。▽キリンカップは決勝でインテル・ミラノを2-0で下したブルージュが初優勝を果たした。大型MFのヤン・クーレマンスが、うれしそうに花瓶型の青色の七宝焼きの優勝トロフィーを抱いていたのが印象に残っている。伝統的な黒と青の縦縞のユニフォームだが、スタジアムに隣接されたオフィシャル・ファンショップをのぞいたところ、胸のスポンサーが「DAIKIN」だったのは意外な発見だった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.11.20 13:19 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ブラジルが日本戦で見せた古き良き時代の攻撃パターン

▽11月5日から欧州遠征中の日本代表は、10日にフランスのリールでブラジルと対戦し、PKなどの失点から1-3で敗れた。この結果、過去の対戦成績は2分け10敗と、依然として“サッカー王国”は日本にとって高い壁として立ちはだかっている。 ▽試合は開始早々にPKから天敵のネイマールに先制点を許すと、さらにPKからの失点こそ防いだものの、左CKのこぼれ球をマルセロに強烈に叩き込まれ、前半で0-3の大差をつけられた。試合前、どの選手も守備の重要性を口にしていたが、その守備が崩壊しての大量失点だった。 ▽先制点につながる反則を犯した吉田は「僕に非があります」と反省しながら、「嵌め方が明確ではなかった」とゲームプランが明確ではなかったことを明かした。それでも相手が選手を入れ替えてきた後半は日本も反撃に転じ、槙野が1点を返す。その他にも吉田のFKがバーを叩き、杉本のゴールはオフサイドと惜しいシーンも作った。 ▽交代出場の乾も「後半はだいぶ嵌まったし、(ブラジルは)上手いけれど、ミスするところはミスしていた」と自信を深めていた。 ▽そのブラジルだが、日本は狙いとするカウンターを1回も仕掛けられなかったのに比べて、ブラジルは自陣でのCKやFKでは、チャンスがあれば虎視眈々とカウンターを狙っていた。36分の3点目はその典型だ。右からカットインした久保にシュートコースを与えず、2人がかりでボールを奪うと素早いカウンターを仕掛けた。 ▽そして右サイドでウィリアンがタメを作ると、すかさずダニーロが外側をオーバーラップしてパスを受け、ジェズスにラストパスを送って3点目を演出した。2点目も、PKを獲得したプレーは右サイド崩してのカウンターだった。 ▽ブラジルというと、ネイマールに代表されるように華麗な個人技をイメージしがちだが、けしてカウンターが下手なわけではない。1970年のメキシコW杯で3度目の優勝を果たしたものの、その後は5大会連続して決勝にすら進めなかった。そこで1994年の米国W杯でマリオ・ザガロ総監督は、カウンターのチームを送り込んできた。ロマ-リオとベベートの強力2トップにより、ブラジルは24年ぶりに世界チャンピオンに輝く。しかしブラジル人は、優勝してもそうしたサッカーを認めなかった。 ▽1982年スペインW杯で、ジーコやファルカンら“黄金の4人”による華麗なサッカースタイルが忘れられなかったのだろう。ブラジルは2002年もフェリペ監督によるカウンタースタイルで5度目の優勝を果たす。このときは、いわゆる“3R”、リバウド、ロナウド、ロナウジーニョと、94年を上回る「フェーノーメノ(怪物)」が前線に揃っていた。 ▽現ブラジル代表は、直近3試合の日本戦から、02年のチームと同等か、それ以上の破壊力を秘めている可能性が高い。カウンターはより洗練され、攻撃に無駄がない。ワンツーによる中央突破もスピードアップしていたため、日本のDF陣は対応が後手に回った。もはやブラジルに“遅攻”という形容はあてはまらないのかもしれない。 ▽そんなブラジルが意図的にスピードダウンしたのが3点目につながったウィリアンのプレーで、ダニーロが攻撃参加する時間を作った。このプレーはブラジル伝統の攻撃パターンで、初めて目にしたのは82年のスペインW杯だった。2次リーグのイタリア戦では、ファルカンの外側をオーバーラップしたソクラテスがドリブルで突進し、GKゾフのニアを抜いて1-1の同点ゴールを決めた記憶がある(試合はロッシのハットトリックでイタリアが3-2の勝利)。 ▽このプレーをブラジル人は、攻撃の方法が2パターンあることから「2列の廊下」と呼んでいるそうだ。現代サッカーを採り入れつつ、古き良き伝統は継承する。これもブラジルがサッカー王国でいられる理由の一つだろう。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.11.13 19:09 Mon
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【六川亨の日本サッカーの歩み】ルヴァンカップ優勝から思い出されるC大阪・12年前の挫折

▽2017年のルヴァン杯はC大阪対川崎Fという、どちらが勝っても初優勝という新鮮な顔合わせだった。試合は開始47秒にC大阪が左サイド丸橋のスローインを柿谷が頭でつなぐと、川崎Fのエドゥアルドがバウンドボールをクリアしようとしたが空振り。ボールは裏に抜け、フリーとなった杉本が右足で豪快に先制点を決めた。 ▽その後は川崎Fがボールを支配して攻め続けたものの、ことごとくマテイ・ヨニッチに阻まれる。川崎Fの攻撃には“緩から急”への変化が見られなかったこともあり、C大阪のゴールを割ることができなかった。 ▽すると後半アディショナルタム2分にカウンターから清武が右サイドを攻め上がり、水沼、ソウザとつなぐと、ソウザはGKチョン・ソンリョンもかわしてダメ押しの追加点を決めて勝利を確実なものにした。 ▽試合後の会見で尹晶煥監督は「川崎Fといえば、17年前のことを思い出します。優勝を目の前にして逃してしまった、その記憶が僕に残っています。それを17年経って、今日やり返すことができたと思います。歴史というものは、こういうふうに結果が出て、歴史は書けると思っています。僕自身の歴史にも、新しい歴史が始まったと思います」と喜びを語った。 ▽17年前の2000年J1リーグ・サントリーステージ、当時はC大阪の選手だった尹晶煥は、首位で最終節の川崎F戦を迎えたものの、延長戦の末に1-2で敗れてステージ優勝を逃し、2位に甘んじた。その時のことを、よく覚えていたなと感心せざるを得なかった。 ▽優勝を逃したといえば、個人的に印象深いのが2005年のJ1リーグだ。この年のJ1リーグは1996年以来の1シーズン制に戻された。C大阪は開幕から神戸、横浜FM、大宮に3連敗で、早くも小林監督(現清水監督)の進退が囁かれた。第3節のアウェイ大宮戦を0-1で落とした後、たまたま取材していたので現役時代から親交のあった元日本代表選手で、当時はC大阪のGMを務めていた西村昭宏氏を元気づけるため、地元の鮨屋に誘った。 ▽チームは浜松町のホテルに宿泊していたが、山手線の終電間近までサッカー談義に花を咲かせて元気づけた。するとチームは第4節から8試合負けなしで順位を上げ、第12節でG大阪に2-4と敗れたものの、その後も好調は続き、16試合無敗(当時。10勝6分け)のJ1新記録を更新するなど最終戦を残して首位に躍り出た。 ▽西村GMからは、「験直しのおかげでここまで来られました。最終戦は是非、取材に来て下さい」と電話を受けた。当時の状況は、首位のC大阪(勝点58)、2位のG大阪(同57)、3位から5位の鹿島、浦和、千葉(同56)まで5チームに優勝の可能性があった。最終戦の組み合わせはC大阪対FC東京、川崎F対G大阪、新潟対浦和、鹿島対柏、千葉対名古屋。近場の取材なら川崎F対G大阪を選択したいところだが、西村GMから電話があった以上、長居に取材に行かないわけにはいかない。 ▽試合後の祝杯を約束して長居行きを決意した。 ▽驚かされたのは、長居スタジアムの雰囲気だ。ビッグスタジアムは代表戦ではないにもかかわらず超満員。これほどC大阪ファン・サポーターがいたのかと思うほど、多くの観客で埋まっていた。 ▽試合は前半が終わった時点で2-0とリードした浦和が得失点差で首位に立った。しかし後半、西澤のゴールで2-1と勝ち越したC大阪が再び首位に立つ。ところがタイムアップ直前の89分、CKからFC東京の今野が予想外のゴールで2-2のタイスコアに戻した。 ▽結果は、川崎Fを4-2で下したG大阪がリーグ初優勝、2位は新潟を4-0で下した浦和、3位は柏を4-0で圧勝した鹿島、4位は名古屋を2-1でかわした千葉で、C大阪は2位の浦和や鹿島、千葉と同勝点ながら得失点差で一気に5位へと後退した。 ▽試合後、選手を労う西村GMと話をする機会はなかった。ミックスゾーンで遠くから挨拶を交わして大阪を後にした。 ▽あれから12年、J2陥落の危機を乗り越えて初めてのタイトルを獲得したことに感慨深いものがある。もちろん川崎Fの“悲劇”を見てきたこともあり、正直複雑な心境だ。川崎Fにはリーグ戦で頑張って欲しいと願わずにはいられない。 ▽ルヴァン杯決勝を記者席で並んで取材したサッカージャーナリストの湯浅氏は、川崎Fの攻撃的なサッカーを評価しつつ、攻撃的なサッカーができるのに、リードしたら守備を固める鹿島のスタイルが日本のサッカーを停滞させていると批判していた。これも同感である。 ▽C大阪も川崎Fも、様々な大会でランナーズアップに甘んじてきた。今回はC大阪が勝者になったものの、両チームとも新風を吹き込んでくれた今年のルヴァン杯。サッカーの楽しさを違うスタイルで表現した両チームには、リーグ戦でもさらなる目標があるだけに、再開後のJリーグに期待せずにはいられない。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。 2017.11.06 12:30 Mon
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