試合前に知ったルーケの訃報/六川亨の日本サッカー見聞録
2021.03.27 21:45 Sat
昨日26日に行われた国際親善試合、U-24日本代表対Uー24アルゼンチン代表戦のことである。アルゼンチンの選手がタテ1列になって入場してくると、全員が「セレステ・イ・ブランコ」のユニホームを着ているのは当然だが(GKも)、全員が「背番号10」のユニホームを着ていた。
その意味は誰でもすぐにわかっただろう。昨年11月25日に60歳で亡くなったアルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナを追悼する行為である。
国歌の演奏と集合写真の撮影後、キックオフ前に選手たちはセンターサークルに並んだ。しかし、何のアナウンスもない。不審に思っているところ、ちょっと遅れてアナウンスと電光掲示板に3人の映像が映し出された。
中央はもちろん見慣れたマラドーナだ。そして左には年配の人物、右隣には口ひげを生やしたユニホーム姿の選手。まだ若い頃の姿で、確かに見たことがある。そしてアナウンスにより2人の名前を聞き、往時を思い出した。
年配の人物はアレハンドロ・サベーラ(66歳)で、14年ブラジルW杯ではアルゼンチン代表の監督としてチームを決勝まで導いた。決勝ではドイツに0-1で敗れたものの、MVPに輝いたリオネル・メッシがW杯で最も優勝に近づいた大会であり、マラドーナを擁した90年イタリアW杯以来24年ぶりの決勝進出というのも何かの縁かもしれない。昨年の12月に他界したことを知った。
アルゼンチン大会は、オランドとの決勝戦で延長に入りゴールを決め、通算6ゴールで得点王に輝いたマリオ・ケンペスがあまりに有名だ。バレンシア時代の79年には日本を訪れ、東京ドームになる前の後楽園球場で試合をしたことがある。
余談になるが、前座試合では日本リーグ選抜とFCアムステルダムが対戦。日本リーグ選抜はジョージ与那城とラモス・ソブリーニョ(日本国籍を取得する前)の読売クラブやカルバリオ(フジタ)らブラジル勢に加え、御大・釜本邦茂が参加。ブラジルらしい細かいパス交換から最後は釜本が豪快なボレーシュートを突き刺すなど、日本代表より強いチームであることは間違いなかった。
そのケンペスに次いで有名なのは清水などで監督を務めたオズワルド・アルディレスになるだろう。残念ながらルーケはヨーロッパに渡ることはなく、来日すらしたことはないので、アルゼンチンW杯での活躍しか日本人は知らない。
それでも母国のW杯では4ゴールを奪い、初優勝に貢献した。ケンペスとの長身(だったと記憶している)コンビに加え、ロン毛に口ひげでピチピチのサッカーパンツを履いていた姿はいまでも鮮明に思い出せる。
先月15日、新型コロナウイルス感染症による合併症で71歳の生涯に幕を閉じた。アルゼンチンのメディアは、試合よりも黙祷の1分間を取り上げていたようだが、改めて安らかな眠りを祈らずにはいられない。
【文・六川亨】
その意味は誰でもすぐにわかっただろう。昨年11月25日に60歳で亡くなったアルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナを追悼する行為である。
中央はもちろん見慣れたマラドーナだ。そして左には年配の人物、右隣には口ひげを生やしたユニホーム姿の選手。まだ若い頃の姿で、確かに見たことがある。そしてアナウンスにより2人の名前を聞き、往時を思い出した。
年配の人物はアレハンドロ・サベーラ(66歳)で、14年ブラジルW杯ではアルゼンチン代表の監督としてチームを決勝まで導いた。決勝ではドイツに0-1で敗れたものの、MVPに輝いたリオネル・メッシがW杯で最も優勝に近づいた大会であり、マラドーナを擁した90年イタリアW杯以来24年ぶりの決勝進出というのも何かの縁かもしれない。昨年の12月に他界したことを知った。
そしてもう1人の選手は、オールドファンには懐かしい選手である。78年に地元アルゼンチンで開催されたW杯で、母国を初優勝に導いたストライカーのレオポルド・ルーケである。
アルゼンチン大会は、オランドとの決勝戦で延長に入りゴールを決め、通算6ゴールで得点王に輝いたマリオ・ケンペスがあまりに有名だ。バレンシア時代の79年には日本を訪れ、東京ドームになる前の後楽園球場で試合をしたことがある。
余談になるが、前座試合では日本リーグ選抜とFCアムステルダムが対戦。日本リーグ選抜はジョージ与那城とラモス・ソブリーニョ(日本国籍を取得する前)の読売クラブやカルバリオ(フジタ)らブラジル勢に加え、御大・釜本邦茂が参加。ブラジルらしい細かいパス交換から最後は釜本が豪快なボレーシュートを突き刺すなど、日本代表より強いチームであることは間違いなかった。
そのケンペスに次いで有名なのは清水などで監督を務めたオズワルド・アルディレスになるだろう。残念ながらルーケはヨーロッパに渡ることはなく、来日すらしたことはないので、アルゼンチンW杯での活躍しか日本人は知らない。
それでも母国のW杯では4ゴールを奪い、初優勝に貢献した。ケンペスとの長身(だったと記憶している)コンビに加え、ロン毛に口ひげでピチピチのサッカーパンツを履いていた姿はいまでも鮮明に思い出せる。
先月15日、新型コロナウイルス感染症による合併症で71歳の生涯に幕を閉じた。アルゼンチンのメディアは、試合よりも黙祷の1分間を取り上げていたようだが、改めて安らかな眠りを祈らずにはいられない。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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