【2022年カタールへ期待の選手vol.60】内田篤人以来の鹿島高卒新人開幕戦出場を勝ち取った男。U-19代表から一気に飛躍を!/荒木遼太郎(鹿島アントラーズ/MF)
2021.01.01 12:05 Fri
「(東福岡から)鹿島に入る前は、こんなに出れるとは思ってなかったですけど、試合に出た中で100%のパフォーマンスを出せないことが多くて、自分としては悔しい年になったかなと。ドリブルは結構出せたし、通用したなと思いましたし、試合を重ねていくうちに自信にはなった。でも、チームが勢いを出したい時に役割を果たせなかった。そういう選手にならなきゃいけないですね」
プロ1年目をこう回顧するのは、ザーゴ新体制の2020年鹿島アントラーズでJ1・26試合出場2ゴールと、高卒新人としてまずまずの数字を残した荒木遼太郎だ。
高校サッカーの名門・東福岡高校から今季加入し、2月23日のJ1開幕・サンフレッチェ広島戦から早速登場。2006年の内田篤人(JFAロールモデルコーチ)以来の高卒新人開幕デビューを果たした。その後、コロナ禍による4カ月の中断を経て、7月4日にリーグ戦が再開された後も、主にジョーカーとして起用され続けた。8月16日のヴィッセル神戸戦ではプロ初ゴールを奪い、9月5日の名古屋グランパス戦では値千金の決勝点をゲット。「近未来の黄金世代を担うアタッカー」として脚光を浴びた。
実際、「26試合2得点」という数字は、プロ1年目だった柳沢敦(鹿島ユースコーチ)や小笠原満男(アカデミーアドバイザー)といった先人たちをはるかに超えている。それでも、本人の中では前述の通り、不完全燃焼感が非常に強かったという。
「最初の頃はドリブルで自由にやらせてもらっていたんですけど、だんだん分析されるようになり、途中から相手の当たりが強くなって、思い通りにプレーさせてもらえなくなった」と悔しさをにじませる通り、鹿島が勝ち始めた10月後半から出番が減っている。そのあたりからゴールを固め取りした上田綺世などは自信を持って2020シーズンを終えられたが、荒木は「プロの壁」にぶつかったというのが正直なところなのだろう。
今季始動時から引退試合となった8月23日のガンバ大阪戦までは同じ選手、その後はU-19のコーチとして身近なところにいてくれた偉大な人物に言われた言葉を荒木は胸に刻み付けている。
「選手だった時から結構アドバイスをもらいました。U-19の活動中は『右サイドでボールを受けた時、どういう優先順位でプレーするかをしっかり考えるように』と言われています。ドリブルに関しても『ミスを恐れずどんどん持ち味を出していけ』『仕掛けていけ』と言われているので、思い切って100%の力で行くことを考えるようになりました」
内田コーチが19歳だった頃もセンの細さゆえに相手の激しいマークを受け、思うようにならない場面にしばしば直面していた。それでも彼は積極果敢な攻め上がりを続けたし、ゴール前に鋭いクロスを蹴っていた。そのアグレッシブさはU-20、U-23、A代表とカテゴリーが上がっても変わらなかったし、シャルケに移籍してからはより鋭さに磨きがかかった印象だ。
荒木はサイドバックの内田より前目のアタッカー。だからこそ、より攻撃姿勢を鮮明にしなければならない。「今の年齢が世界のトップに行けるか否かの分かれ目」であることを、数々の修羅場をくぐってきた先輩は伝えたかったのだろう。
残念ながら、12月24日に国際サッカー連盟(FIFA)が2021年U-20ワールドカップ(インドネシア)中止という決定を下したため、荒木はケガで棒に振った2019年U-17ワールドカップ(ブラジル)に続いて、またしても世界の大舞台への参戦が叶わなくなってしまった。それでも、2002年生まれの彼には2024年パリ五輪出場資格がある。そこを見据えて地道にコツコツとレベルアップしていくしかない。
加えて言うと、鹿島でコンスタントに活躍していれば、その前に海外移籍の道も開けてくる可能性も少なくない。現に同じU-19日本代表の斉藤光毅(横浜FC)が年明けからベルギー2部・ロンメルへ赴くことになっている。西川潤(C大阪)もバルセロナから熱視線を送られていると言われるなど、海外クラブによる日本の20歳前後の注目度は年々高まる一方だ。
常勝軍団で高卒1年目からピッチに立っている荒木なら当然その資格があるはず。プロ2年目は今後のキャリアを左右する勝負のシーズンになるかもしれないのだ。
「自分も将来的には海外も考えています。まずは鹿島でしっかり結果を残して、代表でもメンバーに選ばれることを考えているので、光毅には負けてられないです」
持ち前のスピードある突破に磨きをかけるだけでなく、得点という目に見える数字を残し、チームを勝たせられる存在になれれば、鬼に金棒だ。ここから一気に成長曲線を引き上げてほしいものである。
【文・元川悦子】
長野県松本市生まれ。千葉大学卒業後、夕刊紙記者などを経て、94年からフリーのサッカーライターとなる。Jリーグ、日本代表、海外まで幅広くフォローし、日本代表は特に精力的な取材を行い、アウェイでもほぼ毎試合足を運んでいる。積極的な選手とのコミュニケーションを活かして、選手の生の声を伝える。
プロ1年目をこう回顧するのは、ザーゴ新体制の2020年鹿島アントラーズでJ1・26試合出場2ゴールと、高卒新人としてまずまずの数字を残した荒木遼太郎だ。
実際、「26試合2得点」という数字は、プロ1年目だった柳沢敦(鹿島ユースコーチ)や小笠原満男(アカデミーアドバイザー)といった先人たちをはるかに超えている。それでも、本人の中では前述の通り、不完全燃焼感が非常に強かったという。
「最初の頃はドリブルで自由にやらせてもらっていたんですけど、だんだん分析されるようになり、途中から相手の当たりが強くなって、思い通りにプレーさせてもらえなくなった」と悔しさをにじませる通り、鹿島が勝ち始めた10月後半から出番が減っている。そのあたりからゴールを固め取りした上田綺世などは自信を持って2020シーズンを終えられたが、荒木は「プロの壁」にぶつかったというのが正直なところなのだろう。
苦しみもがいた期間には、さまざまな先輩から参考になる声掛けをしてもらった。その1人が8月に引退した内田篤人コーチだ。
今季始動時から引退試合となった8月23日のガンバ大阪戦までは同じ選手、その後はU-19のコーチとして身近なところにいてくれた偉大な人物に言われた言葉を荒木は胸に刻み付けている。
「選手だった時から結構アドバイスをもらいました。U-19の活動中は『右サイドでボールを受けた時、どういう優先順位でプレーするかをしっかり考えるように』と言われています。ドリブルに関しても『ミスを恐れずどんどん持ち味を出していけ』『仕掛けていけ』と言われているので、思い切って100%の力で行くことを考えるようになりました」
内田コーチが19歳だった頃もセンの細さゆえに相手の激しいマークを受け、思うようにならない場面にしばしば直面していた。それでも彼は積極果敢な攻め上がりを続けたし、ゴール前に鋭いクロスを蹴っていた。そのアグレッシブさはU-20、U-23、A代表とカテゴリーが上がっても変わらなかったし、シャルケに移籍してからはより鋭さに磨きがかかった印象だ。
荒木はサイドバックの内田より前目のアタッカー。だからこそ、より攻撃姿勢を鮮明にしなければならない。「今の年齢が世界のトップに行けるか否かの分かれ目」であることを、数々の修羅場をくぐってきた先輩は伝えたかったのだろう。
残念ながら、12月24日に国際サッカー連盟(FIFA)が2021年U-20ワールドカップ(インドネシア)中止という決定を下したため、荒木はケガで棒に振った2019年U-17ワールドカップ(ブラジル)に続いて、またしても世界の大舞台への参戦が叶わなくなってしまった。それでも、2002年生まれの彼には2024年パリ五輪出場資格がある。そこを見据えて地道にコツコツとレベルアップしていくしかない。
加えて言うと、鹿島でコンスタントに活躍していれば、その前に海外移籍の道も開けてくる可能性も少なくない。現に同じU-19日本代表の斉藤光毅(横浜FC)が年明けからベルギー2部・ロンメルへ赴くことになっている。西川潤(C大阪)もバルセロナから熱視線を送られていると言われるなど、海外クラブによる日本の20歳前後の注目度は年々高まる一方だ。
常勝軍団で高卒1年目からピッチに立っている荒木なら当然その資格があるはず。プロ2年目は今後のキャリアを左右する勝負のシーズンになるかもしれないのだ。
「自分も将来的には海外も考えています。まずは鹿島でしっかり結果を残して、代表でもメンバーに選ばれることを考えているので、光毅には負けてられないです」
持ち前のスピードある突破に磨きをかけるだけでなく、得点という目に見える数字を残し、チームを勝たせられる存在になれれば、鬼に金棒だ。ここから一気に成長曲線を引き上げてほしいものである。
【文・元川悦子】
長野県松本市生まれ。千葉大学卒業後、夕刊紙記者などを経て、94年からフリーのサッカーライターとなる。Jリーグ、日本代表、海外まで幅広くフォローし、日本代表は特に精力的な取材を行い、アウェイでもほぼ毎試合足を運んでいる。積極的な選手とのコミュニケーションを活かして、選手の生の声を伝える。
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