ユベントスが全てを勝ち取ったロッシ氏を追悼「古いポスターを見つけたら貼ってください」
2020.12.10 22:11 Thu
ユベントスが64歳で他界したレジェンド、パオロ・ロッシ氏を追悼した。
11月にはアルゼンチンのレジェンドであるディエゴ・マラドーナ氏が亡くなったばかりだったが、今度はイタリアのレジェンドが他界。サッカー界がまた1人、貴重な人間を失った。
ロッシ氏は、セリエAで214試合に出場し82ゴールを記録。ユベントス時代には、セリエAを2度、コッパ・イタリアを1度、ヨーロピアンカップ(現在のチャンピオンズリーグ)を1度制していた。
また、イタリア代表としては1982年のスペイン・ワールドカップで優勝。2次リーグのブラジル代表戦ではトリプレッタ(イタリア語でハットトリック)の活躍。準決勝のポーランド代表戦で2ゴールを記録すると、決勝の西ドイツ代表戦でも1ゴールを記録し、大会得点王に輝くとともに、同年のバロンドールを受賞していた。
「パオロ・ロッシ、“パブリート”は去りました。国全体にとって、忘れられない世界的な男であり、我々にとって、彼はそれ以上のものでした」
「パオロは、毎週テレビの前で喜んだ全国のユベントスファンにとって象徴的な存在でした。そして、テレビはカラーになりアクションを表現し始めましたが、彼との栄光の瞬間は我々にとってはビアンコネロ(白黒)のままでした」
「子どの頃の寝室やロフトを見ると、おそらく信じられないほどのユベントスの古いポスターが見つかるでしょう。パオロが偉大なゴールを決めるために所属した1981年から1985年は文字通り全てを勝ち取ったチームです」
「彼はユベントスで生まれ変わり、困難な時期を過ごし、1982年のその爽やかな夏に全てのイタリアの街の広場や噴水で祝福された選手となりました」
「1973年から1975年の間に、ユベントスのユースレベルでプレーし、コッパ・イタリアに3度出場したパオロのビアンコネリでの“本当の”キャリアは、1981年に始まりました」
「彼はそのシーズン、セリエAで3回しか出場できませんでした。しかし、この3回の出場は、イタリア代表のエンツォ・ベアルゾット監督がスペインに連れていくことを決めるのに十分でした」
「スペインでは、素晴らしい試合で素晴らしいゴールを決め、忘れられない大会となったワールドカップの後に帰国しました」
「彼の努力は1982年の終わりにバロンドールで報われ、彼は地球上で最高の選手として認められました」
「パオロは、ユニークな身体的な特徴を有効活用し、あらゆるタイプのゴールを決めました。『ロッシに気をつけろ』とゴールキーパーは言いますが、ディフェンダーが自分の居場所を確認する前に、パオロはすでに背後でボールを持ち、ネットを揺らしました」
「彼はユベントスで44のゴールを記録し、チームが2度のスクデット、1つのコッパ・イタリア、3つのヨーロッパのトロフィー(カップウィナーズ・カップ、ヨーロッパスーパーカップ、ヨーロピアンカップ)を獲得するのに貢献しました」
「おそらく、最も象徴的なパオロのゴールは、1984年にユベントスをカップウィナーズ・カップ決勝に導いた、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦で記録したものでした」
「マンチェスターでのアウェーレグで1-1と引き分けた後、ユベントスはトリノに戻って、90分間を1-1で終えようとしていました。時間が刻々と過ぎていく中、エリアの端からガエターノ・シレアがシュートを放つと、ユナイテッドの選手に当たったものの、最も早く反応したのはパオロでした」
「パオロはルーズボールに飛び込み、GKを颯爽と通り過ぎるシュートを決めました。彼が祝福する前に、ファンが熱狂しました」
「その古いユベントスのポスターを見つけることができたなら、それを貼ってください。その偉大なるNo.9に別れを告げてください。彼のような人はあまり存在しません」
「チャオ、パブリート」
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10日、現役時代はイタリア代表やユベントスなどで活躍したロッシ氏の訃報が舞い込んだ。ロッシ氏は、セリエAで214試合に出場し82ゴールを記録。ユベントス時代には、セリエAを2度、コッパ・イタリアを1度、ヨーロピアンカップ(現在のチャンピオンズリーグ)を1度制していた。
また、イタリア代表としては1982年のスペイン・ワールドカップで優勝。2次リーグのブラジル代表戦ではトリプレッタ(イタリア語でハットトリック)の活躍。準決勝のポーランド代表戦で2ゴールを記録すると、決勝の西ドイツ代表戦でも1ゴールを記録し、大会得点王に輝くとともに、同年のバロンドールを受賞していた。
クラブに数々のタイトルをもたらしたロッシ氏について、ユベントスが追悼の声明を発表。偉大なストライカーの氏を偲んだ。
「パオロ・ロッシ、“パブリート”は去りました。国全体にとって、忘れられない世界的な男であり、我々にとって、彼はそれ以上のものでした」
「パオロは、毎週テレビの前で喜んだ全国のユベントスファンにとって象徴的な存在でした。そして、テレビはカラーになりアクションを表現し始めましたが、彼との栄光の瞬間は我々にとってはビアンコネロ(白黒)のままでした」
「子どの頃の寝室やロフトを見ると、おそらく信じられないほどのユベントスの古いポスターが見つかるでしょう。パオロが偉大なゴールを決めるために所属した1981年から1985年は文字通り全てを勝ち取ったチームです」
「彼はユベントスで生まれ変わり、困難な時期を過ごし、1982年のその爽やかな夏に全てのイタリアの街の広場や噴水で祝福された選手となりました」
「1973年から1975年の間に、ユベントスのユースレベルでプレーし、コッパ・イタリアに3度出場したパオロのビアンコネリでの“本当の”キャリアは、1981年に始まりました」
「彼はそのシーズン、セリエAで3回しか出場できませんでした。しかし、この3回の出場は、イタリア代表のエンツォ・ベアルゾット監督がスペインに連れていくことを決めるのに十分でした」
「スペインでは、素晴らしい試合で素晴らしいゴールを決め、忘れられない大会となったワールドカップの後に帰国しました」
「彼の努力は1982年の終わりにバロンドールで報われ、彼は地球上で最高の選手として認められました」
「パオロは、ユニークな身体的な特徴を有効活用し、あらゆるタイプのゴールを決めました。『ロッシに気をつけろ』とゴールキーパーは言いますが、ディフェンダーが自分の居場所を確認する前に、パオロはすでに背後でボールを持ち、ネットを揺らしました」
「彼はユベントスで44のゴールを記録し、チームが2度のスクデット、1つのコッパ・イタリア、3つのヨーロッパのトロフィー(カップウィナーズ・カップ、ヨーロッパスーパーカップ、ヨーロピアンカップ)を獲得するのに貢献しました」
「おそらく、最も象徴的なパオロのゴールは、1984年にユベントスをカップウィナーズ・カップ決勝に導いた、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦で記録したものでした」
「マンチェスターでのアウェーレグで1-1と引き分けた後、ユベントスはトリノに戻って、90分間を1-1で終えようとしていました。時間が刻々と過ぎていく中、エリアの端からガエターノ・シレアがシュートを放つと、ユナイテッドの選手に当たったものの、最も早く反応したのはパオロでした」
「パオロはルーズボールに飛び込み、GKを颯爽と通り過ぎるシュートを決めました。彼が祝福する前に、ファンが熱狂しました」
「その古いユベントスのポスターを見つけることができたなら、それを貼ってください。その偉大なるNo.9に別れを告げてください。彼のような人はあまり存在しません」
「チャオ、パブリート」
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