【マラドーナの思い出②】全盛期に来日したマラドーナ

2020.12.01 19:55 Tue
Getty Images
ディエゴ・マラドーナは、「死んでもマラドーナだった」と言うべきだろうか。現役時代はスーパープレーでファンを魅了しただけでなく、数々のスキャンダルも巻き起こした。そして埋葬される際にはファンを自称する葬儀屋のアルバイトが、親指を立てたツーショット写真を撮影してSNSにアップするという、とんでもない問題を引き起こした。

さらには主治医が職務怠慢で死亡させたのではないかとの疑いから、捜査の対象になっているという。

CLを始めヨーロッパや南米のリーグでは試合前に黙祷を捧げてマラドーナの死を悼む一方、次から次にスキャンダラスな出来事が報じられる。これではマラドーナも落ち着いて永遠の眠りにつくことはできないだろう。と同時に、やはりマラドーナらしいと思わずにはいられなかった。

そんなマラドーナの全盛時代をアルゼンチン国民や南米のファンは見守り続けてきただろうが、彼らに次いでマラドーナの凄さを目の当たりにしたのが日本のファンと言っていいだろう。
1979年、日本で初めてワールドユース(現U-20W杯)が開催された。尾崎、水沼、風間、柱谷(兄)らを擁した日本は旧国立競技場でグループリーグ3試合を戦ったが、マラドーナ率いるアルゼンチンもグループリーグを大宮サッカー場(現NACK5スタジアム)で戦ったため、首都圏のファンは全試合を見ることが可能だった(ロメロ率いるパラグアイは神戸中央球技場=現ノエビアスタジアム、ルベン・パスのウルグアイは三ツ沢球技場=現ニッパツ三ツ沢)。

18歳当時のマラドーナを毎日新聞運動部の記者は「まるでゴムまりのようだ」と表現した。「しなやかでいて軽やか」に、そして弾むようにマーカーを次々と抜き去っていくプレーはまさに「ゴムまり」だった。

後年、マラドーナの自伝ビデオで10歳前後のプレーを見たが、自陣ペナルティーエリアからドリブルを始め、1人で10人を抜き、最後はGKも抜いてゴールを決めた。ボールを持ったら相手を抜くことを苦にしない少年時代だったようだ。

初めての国際大会で初優勝を飾ったマラドーナはうれしそうにトロフィーを掲げた。得点王はチームメイトのラモン・ディアス。Jリーグ元年に横浜Mでプレーし、初代得点王に輝いたFWだ。そして160センチと小柄な右ウイングのオズバルド・エスクデロは、91-92年に三菱(現浦和)でプレーし、甥のエスクデロ競飛王(せるひお)は浦和で活躍するなど日本国籍を取得し、現在は栃木SCでプレーしている。

話をマラドーナに戻すと、ゼロックス・スーパー・サッカーで3度の来日を果たしている。いまでこそFUJI XEROX SUPER CUPはJ1リーグ王者と天皇杯覇者が激突する大会として1994年にスタートして定着したが、前身となるゼロックス・スーパー・サッカーは1979年に始まり、日本代表と世界の有名クラブとの対戦が目玉だった。

第1回大会(79年)はフランツ・ベッケンバウアーやヨハン・ニースケンスらを擁したニューヨーク・コスモスで、翌80年はワシントン・ディプロマッツと北米リーグのチームが2年連続して来日したが、ディプロマッツではヨハン・クライフが初来日して日本ファンの前でプレーした。そして82年1月がボカ・ジュニアーズだった。

スペインW杯が開催される5ヶ月前であり初来日から3年後、まさに全盛期での来日だった。6月にはバルセロナへと移籍したため、この試合を見られた日本ファンはまさに僥倖と言えただろう。試合は国立競技場で2試合(1-1、1-0)、神戸中央で1試合(3-2)の計3試合を戦い、マラドーナは3ゴールを決めた。

神戸では、右からのグラウンダーのクロスに対し、ニアサイドに走り込みながらラボーナでゴールを決めた。

マークしていた都並さんによると、敵がドリブルしてきたら、いつもなら間合いを詰めつつ等間隔、同じスピードで下がりながら、味方がカバーに入る時間を稼ぐようにしていた。いわゆる「ディレイ」というプレーだ。しかしマラドーナのドリブルは通常の選手と違ってかなりのハイスピードだったため、ディレイそのものが間に合わなかったそうだ。

さらに都並さんは1対1で守る際はドリブラーの保持するボールではなく、相手の目を見て次のプレー、ドリブルのコースを予測していた。しかし「マラドーナは目線でもフェイントをかけてきた」ため逆を取られたと述懐していた。

その後マラドーナはメキシコW杯後の87年1月には南米選抜のキャプテンとして来日し(監督はビラルド)、JSL(日本リーグ)選抜と対戦。JSL選抜は西ドイツから帰国した奥寺や、まだブラジル国籍だったラモス瑠偉らがいたため日本代表よりも豪華な顔ぶれだった。

そして4度目の来日となったのが88年8月のゼロックス・スーパー・サッカーだった。ナポリでセリエA初優勝(86-87年)と得点王(87―88年)を獲得するなど、まさに絶頂期での来日だった。

チームメイトにはチロ・フェラーラ、デ・ナポリ、アレモン、カレッカなど代表クラスが揃う豪華メンバーで、日本代表とのたった1試合だけの“真夏の夜の夢"でもあった(2-0でナポリの勝利)。

マラドーナといえば、履いているサッカーシューズはワールドユース時代からプーマ一筋。そしてヒモの結び方も独特だった。足の甲で交差するヒモがシューズより表に出ないよう工夫されていた。これも微妙なボールタッチを優先するためだったのだろうか。機会があったらシューズにも注目して欲しい。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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久しぶりに見たカンフーサッカー/六川亨の日本サッカー見聞録

3月6日に行われたACLの準々決勝第1戦で、敵地に乗り込んだ横浜F・マリノスはFWアンデルソン・ロペスとヤン・マテウスのゴールで山東泰山に2-1の勝利を収めた。試合は立ち上がりからホームの4万人を超える大観衆の後押しを受けた山東が押し気味に進めた。これに対して横浜FMもカウンターで対抗し、前半7分にはアンデルソン・ロペスがゴール前のこぼれ球を拾って貴重な先制点をゲットした。 その後も両チームは一進一退の攻防を展開したが、両チームのGKによる好セーブもあり、横浜FMが1-0とリードして前半を折り返した。 ところが後半は、時間の経過とともに山東のラフプレーが目立つようになる。MF渡辺皓太が抜群のタイミングとポジショニングでパスを出し入れして山東の焦りを誘ったことも大きかった。すると山東の選手は、抜かれそうになったらラグビーのようなタックルで突破を阻止したり、足を高く上げたりして進路を阻むなど、かつて揶揄された「カンフーサッカー」を彷彿させるプレーが続出した。 その結果、後半だけで6分にポン・シンリー、12分にジャジソン、19分ガオ・チュンイー(横浜FMは7分に渡邊泰基)がイエローカード。そして極めつけは19分にCB上島拓巳がパスを出したあと、明らかにアフターでリー・ユェンイーが身体ごと突っ込んできて上島を吹っ飛ばした。 ヨルダン人のマハドメ主審は山東の選手の抗議にも冷静さと威厳を保ち、さらに2枚目のイエローや一発レッドで試合を壊さないよう苦慮していたと思う。34分には山東のスタッフにイエローカードを出したが、ピッチに戻ろうと背中を向けた瞬間、そのスタッフは主審に向けて水をかけたのだ。幸い水は主審まで届かなかったが、気付いていれば当然レッドカードだっただろう。 この前代未聞のシーンについて、AFCはどのような見解なり判断を下すのか興味深いところである。 さらに後半アディショナルタイムの45+3分、スローインの判定をめぐって山東ベンチが猛抗議。ピッチに入ってマハドメ主審に抗議したスタッフにはレッドカードが、ボールを持っていたMF喜田拓也に詰め寄る相手スタッフから守ろうとした横浜FMのスタッフにもレッドカード。そして最後はチェ・ガンヒ監督も警告を受け、ラウンド16の川崎Fとの第2戦でもイエローだったため、累積2枚で13日の横浜FMとの試合は出場停止となった。 こうしたシーン以外にも、後半アディショナルタイムには両手でハイクロスをキャッチして無防備のGKポープ・ウィリアムに対し、攻撃参加していたCBジャジソンが遅れて体当たりを食らわせるなど、ひいき目に見ても酷いプレーが多く、ケガ人が出なくてよかったというのが正直な印象だ。果たしてこの試合を、アジアカップ決勝で笛を吹いたマー・ニン主審が担当したら、どんなジャッジで、山東の選手とスタッフはどのようなリアクションをするのか、ちょっぴり気になった次第である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】横浜FMがアウェイで勝利も荒れに荒れた試合に…</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="ezMMp___P40";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.03.07 21:15 Thu

フェアだった北朝鮮の選手たち/六川亨の日本サッカー見聞録

なでしこジャパンが朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を2-1で退け、パリ五輪の出場権を獲得したのはご存知の通り。前回東京大会に続いての出場で(2大会連続6回目)、予選を突破しての出場は12年ロンドン五輪以来となる。 今回の予選は、アジア2次予選を首位通過した日本、北朝鮮、オーストラリアに加え、成績上位の2位ウズベキスタンを加えた4チームがホーム&アウェーで対戦。日本は北朝鮮との最終予選でアウェーの第1戦を0-0で引分け、ホームでの第2戦を2-1で制した(オーストラリアはウズベキスタンに2試合合計13-0で勝利。ウズベキスタンの監督は本田美登里さんだったがチームをパリに連れて行くことはできなかった)。 2016年のリオ五輪予選は日本、オーストラリア、北朝鮮、韓国、中国、ベトナムの6チームが1回戦総当たりで対戦し、上位2チームが出場権を獲得できるという「狭き門」だった。そして日本は初戦でオーストラリアに1-3で敗れると、続く韓国戦は1-1のドロー。さらに第3戦の中国戦も1-2で敗れ、オーストラリアと中国の後塵を拝したのだった(ベトナムに6-1、北朝鮮には1-0)。 2011年のドイツW杯で優勝し、12年ロンドン五輪では銀メダル、さらに15年のカナダW杯出も準優勝とリオでもメダルを期待されたなでしこジャパン(FIFAランク4位)だったが、エース澤穂希の引退に加え、世代交代が遅れたことも日本が失速した一因だった。 しかしその後のなでしこジャパンはアンダーカテゴリーの選手の台頭と活躍もあり、高倉麻子前監督と池田太監督は世代交代にも積極的に取り組んできた。 試合に関しては多くのメディアが詳報しているので割愛するが、3BKというよりは5BKの5-4-1の北朝鮮とのミラーゲームは、先に失点するわけにはいかないし、延長戦やPK戦もあるだけに当然の選択だっただろう。4-3-3でキャプテンの熊谷紗希をボランチに起用しても、無難なパスワークに終始して効果的とは言い難い。やはり彼女は最終ラインに入ってカバーリング能力を発揮した方が安心して見ていられる。 スタメンで起用された左サイドの北川ひかるは得意の左足でのキックから先制点の起点になったし、上野真実もポジションチェンジから攻撃を活性化しようと奮闘した。ただ、宮沢ひなたのスピードや、遠藤純の安定感と比べると見劣りしてしまうのは仕方のないところ。WEリーグでの活躍から彼女らを抜擢した池田監督の決断も勇気のいることだっただろう。 昨年12月3日のブラジル戦で足首を骨折して手術した宮沢はパリ五輪に間に合うのかどうか。すでに左膝前十字じん帯を損傷した猶本光と遠藤は出場が絶望的なだけに、宮沢の回復具合が気になるところだ。 最後に、試合後のリ・ユイル監督は「山下の1ミリ」や熊谷のハンドについて自ら言及することなく、「フェアプレーの指導」について質問されると次のように答えた。 「アスリートのみならず、一般的にも道徳的にも、倫理的にもルールを守ることは非常に重要です。選手たちには常日頃のトレーニングからルールを守るように徹底しているし、そのなかでフェアプレー精神を身につけ、心がけるように指導している」 そして主審のジャッジに関しても淡々と答えた。 「オーストラリア出身の主審の判断はもちろん尊重します。しかしアウェーだった今日に関しては、ホームの日本にやや偏ったような判定が少し見受けられたのではないか。ゲストである我々をもう少し尊重するような判定があってもよかったのではないか。ある意味で釈然としないものがあるなかで、我々はあくまでも主審の判断にのっとって、最後までフェアプレーを心がけました」 北朝鮮といえば、昨年10月の杭州でのアジア大会準々決勝の日本戦で判定を不服として、試合後に数人の選手が主審を追いかけ回したし、試合中の給水タイムでは日本の水を強奪したばかりか殴りかかるジェスチャーまでする選手がいた。そうしたイメージが強かっただけに、女子の選手だからか判定に抗議してイエローカードを受けたものの、男子と違って激高することなく冷静に、そしてひたむきにプレーしていた。 スピードがあり、体幹の強さは北朝鮮の伝統と言える。さらに22名の平均年齢が21・8歳(日本は24・9歳)と若いだけに、次回2027年のW杯(今年5月のFIFA総会で開催地は決定)予選でも日本のライバルとして立ちはだかるかもしれない。 そして39歳のリ・ユイル監督は理路整然と試合を振り返り、同胞へのメッセージを求められると涙するなど人情味のあふれるキャラクターの持ち主であることを知れたのも、今回の取材の収穫だった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.01 12:30 Fri

Jはアジアの審判のレベルアップに貢献してほしい/六川亨の日本サッカー見聞録

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