1993年のエポック④ドーハの悲劇/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.06.08 22:20 Mon
1993年の日本サッカーを振り返るコラムも今回が最終回だ。前年のアジアカップで初優勝、そしてJリーグの開幕により、悲願のワールドカップ初出場に期待がかかった。しかしオフト・ジャパンには不安もあった。左SB(サイドバック)の都並敏史(V川崎)がJリーグの試合で左足首を亀裂骨折してしまったからだ。
9月15日から始まったスペイン合宿でオフト監督は、初戦のレアル・ベティス戦で江尻篤彦(ジェフユナイテッド市原)をスタメン起用したものの、途中で勝矢寿延(横浜M)と交代させ試合も2-3で敗れた。続く第2戦のカディス戦と第3戦のヘレス戦は勝矢がスタメンでフル出場したが、1-2、1-2で敗れ、都並の代役探しはいよいよ深刻を極めた。
そこでオフト監督は都並をドーハに帯同させつつ、本来はMFの三浦泰年(清水エスパルス)を都並の代役に起用した。これまでメンバーを固定して戦ってきた弊害が、肝心なところで弱点として露呈することになった。
ところで話は最終予選前に遡る。当時の日本代表のユニホームはアディダス社、プーマ社、アシックス社の3社による持ち回り制だった。日本代表がアディダスなら、U-23日本代表はプーマ、そしてU-20日本代表はアシックスという形で、1年ごとに交代していく。現在のようにアディダスが日本代表のオフィシャルサプライヤーになったのは、1999年にナイジェリアで開催されたワールドユース(U-20W杯)以降のこと。実に21年もオフィシャルサプライヤーを務めてきた。
そしてドーハでの日本代表を担当したのはプーマだった。ところがプーマは、キャプテンの柱谷哲二(V川崎)にキャプテンマークを渡すことを忘れていた。このため、JFA(日本サッカー協会)には内緒で、大会を最後まで取材する金子達仁君にキャプテンマークを託し、無事に試合ができたというエピソードがある。
後のなくなったオフト・ジャパンだったが、ここから三浦知良(V川崎)が真骨頂を発揮する。北朝鮮戦では2ゴールを決めて3-0の勝利に貢献する(もう1点は中山)。続く韓国戦でも三浦知が決勝点を奪い1-0の勝利を収めた。
あとは最終戦、イラク戦に勝てば日本のアメリカW杯出場が決定する。この試合でも三浦知と中山のゴールで2-1とリードして迎えたロスタイム、オムラム・サムランのヘッドが決まって2-2のドローに持ち込まれてしまった。俗に言う「ドーハの悲劇」である。
後に都並氏は、ケガをしたのが敗退の原因だと自分自身を責めた。キャプテンの柱谷氏は、「相手の圧力が強いので、ラモス(瑠偉)にボランチまで下がって守備をしてくれと伝えた。しかし前線に残ってボールをキープしてもらった方が良かった」と悔やんだ。たぶん正解は誰にも分からないだろう。
帰国した選手には「よくやった」と賞賛するメディアもあれば、「オフトの限界」を厳しく指摘するメディアもあった。それでも凄いと思ったのは、敗戦に打ちひしがれているはずの選手が、再開されたJリーグでそれまでと変わらないプレーを見せたことだ。メンタルの強さを改めて感じた「ドーハの悲劇」だった。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
9月15日から始まったスペイン合宿でオフト監督は、初戦のレアル・ベティス戦で江尻篤彦(ジェフユナイテッド市原)をスタメン起用したものの、途中で勝矢寿延(横浜M)と交代させ試合も2-3で敗れた。続く第2戦のカディス戦と第3戦のヘレス戦は勝矢がスタメンでフル出場したが、1-2、1-2で敗れ、都並の代役探しはいよいよ深刻を極めた。
ところで話は最終予選前に遡る。当時の日本代表のユニホームはアディダス社、プーマ社、アシックス社の3社による持ち回り制だった。日本代表がアディダスなら、U-23日本代表はプーマ、そしてU-20日本代表はアシックスという形で、1年ごとに交代していく。現在のようにアディダスが日本代表のオフィシャルサプライヤーになったのは、1999年にナイジェリアで開催されたワールドユース(U-20W杯)以降のこと。実に21年もオフィシャルサプライヤーを務めてきた。
そしてドーハでの日本代表を担当したのはプーマだった。ところがプーマは、キャプテンの柱谷哲二(V川崎)にキャプテンマークを渡すことを忘れていた。このため、JFA(日本サッカー協会)には内緒で、大会を最後まで取材する金子達仁君にキャプテンマークを託し、無事に試合ができたというエピソードがある。
大会に話を戻すと日本は初戦でサウジアラビアと0-0のドロー発進。しか第2戦のイラン戦は1-2で落としてしまう。ただ、1点を返した交代出場の中山雅史(ヤマハ発動機)の、左ゴールラインぎりぎりから放ったシュートが決まったのは今でも奇跡としか思えない。
後のなくなったオフト・ジャパンだったが、ここから三浦知良(V川崎)が真骨頂を発揮する。北朝鮮戦では2ゴールを決めて3-0の勝利に貢献する(もう1点は中山)。続く韓国戦でも三浦知が決勝点を奪い1-0の勝利を収めた。
あとは最終戦、イラク戦に勝てば日本のアメリカW杯出場が決定する。この試合でも三浦知と中山のゴールで2-1とリードして迎えたロスタイム、オムラム・サムランのヘッドが決まって2-2のドローに持ち込まれてしまった。俗に言う「ドーハの悲劇」である。
後に都並氏は、ケガをしたのが敗退の原因だと自分自身を責めた。キャプテンの柱谷氏は、「相手の圧力が強いので、ラモス(瑠偉)にボランチまで下がって守備をしてくれと伝えた。しかし前線に残ってボールをキープしてもらった方が良かった」と悔やんだ。たぶん正解は誰にも分からないだろう。
帰国した選手には「よくやった」と賞賛するメディアもあれば、「オフトの限界」を厳しく指摘するメディアもあった。それでも凄いと思ったのは、敗戦に打ちひしがれているはずの選手が、再開されたJリーグでそれまでと変わらないプレーを見せたことだ。メンタルの強さを改めて感じた「ドーハの悲劇」だった。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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