最多得点記録と日章旗の関係/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.12.31 22:40 Tue
令和元年、最後の代表戦でU-22日本代表はU-22ジャマイカ代表に9-0で圧勝した。来夏に開催される東京五輪に向けて、選手をテストする試合としては、なんともお粗末な相手であり、本当に役に立ったのか疑問だ。
それでも2ゴールを決めただけでなく、前線からの効果的なプレスを見せた旗手怜央、CBながら正確なタテパスで攻撃をビルドアップした岡崎慎、ボランチとして堅実なプレーが光った松本泰志が1月にタイで開催されるU-23アジア選手権のメンバーに選出されたところを見ると、少しは役に立ったのだろう。
さて、9-0の大勝で気になるのが、過去の日本代表の“大勝記録"である。こちらは今でも1967年9月27日のメキシコ五輪予選初戦の、フィリピンに15-0と大勝した試合が歴代最多得点試合として記録に残っている。
旧国立競技場での試合は、開始4分に杉山隆一(元ヤマハ監督)のゴールで先制すると、釜本邦茂(元G大阪監督)がダブルハットトリックの6ゴール、宮本輝紀(元新日鉄監督で現役時代はテクニシャンのゲームメーカー。故人)が4ゴールと89分まで攻撃の手を緩めずゴールを重ねた。
ただ、この最多得点試合が重要な意味を持つのは予選の最終戦であることはあまり語り継がれていない。日本は第2戦で香港のプロ選手主体の台湾に4-0、第3戦のレバノンには3-1で勝った。そして第4戦、因縁のライバルである韓国とは互いに全勝のまま激突。
最終戦の相手は日本が南ベトナム(当時は南北のベトナムがあった)、韓国はフィリピンだった。得失点差では日本がリードしている。このため韓国は最終戦で大量点を奪わなければならなかった。
そこで韓国チームの首脳が日本を上回る「18点を取る」と言ったことで、フィリピンの闘争心に火を付けた。フィリピンはFW1人を前線に残しただけで、全員がペナルティーエリア付近で守りを固める超守備的なサッカーで韓国攻撃陣に対抗した。開催国の日本に敬意を表した戦いでもあった。
試合は韓国の5-0の勝利で終わる。そして日本は南ベトナムの抵抗に苦しみながらも、レバノン戦で左肩を亜脱臼し、その後は痛み止めの注射を打って出場していた杉山の決勝点で1-0の勝利を収めた。
試合後の日本は、選手全員が大きな日の丸を掲げて国立競技場の場内をビクトリーランした。長沼健監督(元JFA最高顧問。故人)が密かに用意していたと言われている。
フィリピン戦の大勝と、彼らの韓国への対抗心がなければ、メキシコ五輪での銅メダルもなかったことになる。
残念ながらメキシコ五輪後、日本サッカーは、五輪はもちろんW杯でも世界に行くことはできなかった。唯一世界に近づいたのが1985年のメキシコW杯アジア最終予選だった。10月26日のホームを1-2で落とすと、11月3日のアウェーも0-1で敗れた。
アウェーでの韓国戦、日本がW杯に出場できるチャンスは限りなく少ない。それでもJFA(日本サッカー協会)の広報で、チームマネージャーを務めていたK氏は、選手に内緒で日の丸をベンチに隠し持っていた。万が一を考えていたのである。
その日章旗は日の目を見ることはなかったが、11年後のアトランタ五輪アジア最終予選の準決勝で日本はサウジアラビアを2-1で破り、28年振りの五輪出場を決めた。試合後はエースの前園真聖が日の丸を背負っていたのが印象的だった。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
それでも2ゴールを決めただけでなく、前線からの効果的なプレスを見せた旗手怜央、CBながら正確なタテパスで攻撃をビルドアップした岡崎慎、ボランチとして堅実なプレーが光った松本泰志が1月にタイで開催されるU-23アジア選手権のメンバーに選出されたところを見ると、少しは役に立ったのだろう。
旧国立競技場での試合は、開始4分に杉山隆一(元ヤマハ監督)のゴールで先制すると、釜本邦茂(元G大阪監督)がダブルハットトリックの6ゴール、宮本輝紀(元新日鉄監督で現役時代はテクニシャンのゲームメーカー。故人)が4ゴールと89分まで攻撃の手を緩めずゴールを重ねた。
ただ、この最多得点試合が重要な意味を持つのは予選の最終戦であることはあまり語り継がれていない。日本は第2戦で香港のプロ選手主体の台湾に4-0、第3戦のレバノンには3-1で勝った。そして第4戦、因縁のライバルである韓国とは互いに全勝のまま激突。
試合は宮本と杉山のゴールで2点を先行しながら追いつかれ、釜本が勝ち越し点を決めたが2分後に同点に追いつかれるというシーソーゲームを演じた。そして終了直前、韓国選手の放ったロングシュートがGK横山謙三の頭上を越えた。決まっていれば韓国がメキシコ五輪出場に大きく近づく一撃だったが、クロスバーを叩いて試合は3-3のドローに終わった。
最終戦の相手は日本が南ベトナム(当時は南北のベトナムがあった)、韓国はフィリピンだった。得失点差では日本がリードしている。このため韓国は最終戦で大量点を奪わなければならなかった。
そこで韓国チームの首脳が日本を上回る「18点を取る」と言ったことで、フィリピンの闘争心に火を付けた。フィリピンはFW1人を前線に残しただけで、全員がペナルティーエリア付近で守りを固める超守備的なサッカーで韓国攻撃陣に対抗した。開催国の日本に敬意を表した戦いでもあった。
試合は韓国の5-0の勝利で終わる。そして日本は南ベトナムの抵抗に苦しみながらも、レバノン戦で左肩を亜脱臼し、その後は痛み止めの注射を打って出場していた杉山の決勝点で1-0の勝利を収めた。
試合後の日本は、選手全員が大きな日の丸を掲げて国立競技場の場内をビクトリーランした。長沼健監督(元JFA最高顧問。故人)が密かに用意していたと言われている。
フィリピン戦の大勝と、彼らの韓国への対抗心がなければ、メキシコ五輪での銅メダルもなかったことになる。
残念ながらメキシコ五輪後、日本サッカーは、五輪はもちろんW杯でも世界に行くことはできなかった。唯一世界に近づいたのが1985年のメキシコW杯アジア最終予選だった。10月26日のホームを1-2で落とすと、11月3日のアウェーも0-1で敗れた。
アウェーでの韓国戦、日本がW杯に出場できるチャンスは限りなく少ない。それでもJFA(日本サッカー協会)の広報で、チームマネージャーを務めていたK氏は、選手に内緒で日の丸をベンチに隠し持っていた。万が一を考えていたのである。
その日章旗は日の目を見ることはなかったが、11年後のアトランタ五輪アジア最終予選の準決勝で日本はサウジアラビアを2-1で破り、28年振りの五輪出場を決めた。試合後はエースの前園真聖が日の丸を背負っていたのが印象的だった。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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