サッカーにまつわる“記念日”/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.12.17 10:50 Tue
韓国・釜山で開催されているE-1選手権も、残すは男女の1試合となった。昨日は男子の韓国対中国戦を取材したが、韓国がCKから奪った1点を守りきり1-0で中国を下した。これで韓国は自国開催の大会で初となる連勝を果たし、18日のグループリーグ最終戦で同じく連勝の日本と優勝をかけて激突する。
試合後、ナ・サンホ(FC東京)に日本戦について話を聞いたところ、「自国開催では優勝していないので、なんとしてでも優勝したいです」という前向きな答が返ってきた。ただ、続けて「FC東京のチームメイトである剛(渡辺)とマッチアップして勝つ自信はあるかな」とちょっと意地悪な質問をしたら、笑顔で質問をスルーされてしまった。
これはこれで、100パーセントの回答だと思う。
といったところで、本題に入ろう。試合は韓国の前線からのハイプレスに、中国は思うように自陣からビルドアップできない。「嫌韓症」と言われるように中国は韓国を苦手にしているが、逆に韓国は自信を持って試合を進め、チャンスを確実に決めていればあと2~3点は入ってもおかしくない試合だった。
中国はロングパス以外に攻め手はまるでなし。終盤は4-1-4-1か中盤の選手を上げて2トップの4-1-3-2にしたものの、効果的なパスが前線に入ることはなく完封負けを喫した。
そこで、「プロリーグができる前の日本は弱かったから。70年代は北朝鮮の平壌4・25(4.25体育団)や中国の八・一隊(ファースト・オブ・オーガスト)といったクラブチームにも歯が立たなかった」と言うと、納得してくれたのかどうかはわからないけど、次の質問はなかった。平壌4・25も八・一隊も軍隊のチームで、前者は朝鮮人民軍創建日、後者は中国人民解放軍の創設日を記念して名付けられたチーム名だった。
さて時代は進み、日本がソウル五輪の出場をかけて中国と争ったのは1987年のこと。アウェーの初戦は原博実(現Jリーグ副チェアマン)のヘッドであげた1点を守りきり、1-0の勝利を収めた。ホームでの試合は引き分ければ68年メキシコ五輪以来の出場が決まる。10月26日、小雨の降りしきる国立競技場で行われた試合は0-2で敗れ、五輪出場の夢は途絶えた。
当時、石井義信(故人)監督の率いるチームは、現在の中国以上に堅守からのカウンターしか攻め手はなかった。今大会で台湾女子代表の監督を務める越後和男(四日市中央工業高でインターハイ優勝、高校選手権は清水三羽ガラスの長谷川健太らがいた清水東に敗れて準優勝。卒業後は古河でプレーしリーグ優勝に貢献してJSL新人王を獲得)が日本代表にデビューしたのも石井ジャパンだった。
不思議な因縁もあるもので、2年前の10月26日は、メキシコW杯アジア最終予選で日本がホームに韓国を迎えた第1戦が行われた日でもあった。カウンターから韓国に2点を奪われたものの、木村和司が伝説の直接FKを決めた日でもある。オールドファンにとっては忘れたくても忘れられない“記念日”でもある。
その後は93年10月28日の「ドーハの悲劇」や97年11月16日の「ジョホールバルの歓喜」、最近では18年7月3日の「ロストフの悲劇」など、ファン・サポーターにとってはそれぞれ忘れられない“記念日”があることだろう。
記念日にまつわる忘れられない記憶を思い出すことも、サッカーの楽しみ方の1つではないだろうか。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
試合後、ナ・サンホ(FC東京)に日本戦について話を聞いたところ、「自国開催では優勝していないので、なんとしてでも優勝したいです」という前向きな答が返ってきた。ただ、続けて「FC東京のチームメイトである剛(渡辺)とマッチアップして勝つ自信はあるかな」とちょっと意地悪な質問をしたら、笑顔で質問をスルーされてしまった。
といったところで、本題に入ろう。試合は韓国の前線からのハイプレスに、中国は思うように自陣からビルドアップできない。「嫌韓症」と言われるように中国は韓国を苦手にしているが、逆に韓国は自信を持って試合を進め、チャンスを確実に決めていればあと2~3点は入ってもおかしくない試合だった。
中国はロングパス以外に攻め手はまるでなし。終盤は4-1-4-1か中盤の選手を上げて2トップの4-1-3-2にしたものの、効果的なパスが前線に入ることはなく完封負けを喫した。
試合後、ミックスゾーンに現れた中国の選手たちは、自国メディアの呼びかけに応じず無言で立ち去る選手も多かった。そんなシーンを見ながら韓国サッカーにとどまらず芸能関係にも詳しい友人のライターが、「なんでこんなに弱い中国に、日本はソウル五輪予選で負けてしまったんですかね」と素朴な疑問を口にした。
そこで、「プロリーグができる前の日本は弱かったから。70年代は北朝鮮の平壌4・25(4.25体育団)や中国の八・一隊(ファースト・オブ・オーガスト)といったクラブチームにも歯が立たなかった」と言うと、納得してくれたのかどうかはわからないけど、次の質問はなかった。平壌4・25も八・一隊も軍隊のチームで、前者は朝鮮人民軍創建日、後者は中国人民解放軍の創設日を記念して名付けられたチーム名だった。
さて時代は進み、日本がソウル五輪の出場をかけて中国と争ったのは1987年のこと。アウェーの初戦は原博実(現Jリーグ副チェアマン)のヘッドであげた1点を守りきり、1-0の勝利を収めた。ホームでの試合は引き分ければ68年メキシコ五輪以来の出場が決まる。10月26日、小雨の降りしきる国立競技場で行われた試合は0-2で敗れ、五輪出場の夢は途絶えた。
当時、石井義信(故人)監督の率いるチームは、現在の中国以上に堅守からのカウンターしか攻め手はなかった。今大会で台湾女子代表の監督を務める越後和男(四日市中央工業高でインターハイ優勝、高校選手権は清水三羽ガラスの長谷川健太らがいた清水東に敗れて準優勝。卒業後は古河でプレーしリーグ優勝に貢献してJSL新人王を獲得)が日本代表にデビューしたのも石井ジャパンだった。
不思議な因縁もあるもので、2年前の10月26日は、メキシコW杯アジア最終予選で日本がホームに韓国を迎えた第1戦が行われた日でもあった。カウンターから韓国に2点を奪われたものの、木村和司が伝説の直接FKを決めた日でもある。オールドファンにとっては忘れたくても忘れられない“記念日”でもある。
その後は93年10月28日の「ドーハの悲劇」や97年11月16日の「ジョホールバルの歓喜」、最近では18年7月3日の「ロストフの悲劇」など、ファン・サポーターにとってはそれぞれ忘れられない“記念日”があることだろう。
記念日にまつわる忘れられない記憶を思い出すことも、サッカーの楽しみ方の1つではないだろうか。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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