明神引退と日韓W杯の思い出の原稿/六川亨の日本サッカーの歩み
2019.12.09 15:30 Mon
2019年のJ1リーグは残り2試合で首位に立った横浜FMが、最終戦でも2位のFC東京を3-0で退け、03年と04年の連覇以来15シーズンぶり4回目の優勝を飾った。試合後のセレモニーでは、今シーズン限りでの現役引退を発表していた元日本代表DF栗原勇蔵の引退セレモニーも行われた。
彼だけでなく2019年は、田中マルクス闘莉王(京都)や明神智和(長野)といった2010年南アW杯や2002年日韓W杯で日本のベスト16進出に貢献した名選手たちもユニホームを脱ぐことになった。
栗原や闘莉王に比べて明神は地味な印象が拭えない。ボランチの系譜としては現日本代表監督の森保一氏やオシム元監督に「水を運ぶ選手」と例えられた鈴木啓太氏の間に位置している。プロデビューとなった柏では初のナビスコ杯(現ルヴァン杯)獲得に貢献し、その後は移籍したG大阪で2008年のACL(アジアチャンピオンズリーグ)優勝や2014年のJ1リーグ制覇に貢献した。
J1での通算出場497試合は歴代9位。J2(G大阪)とJ3(長野)を含めると、リーグ戦やカップ戦などの公式戦の出場は通算723試合にも及ぶ。いかに息の長い選手だったのか、この数字からも分かるだろう。
代表ではU-23日本代表として2000年のシドニー五輪に出場してベスト8進出に貢献。当時のチームは中田英寿や中村俊輔ら“黄金世代"を擁し(小野伸二は予選での負傷により参加できず)、「史上最強」と言われたものだ。
こうして迎えた2002年の日韓W杯だが、初戦のベルギー戦のスタメンに明神の名前はなかった。当時のトルシエ監督は代名詞とも言える「フラット3」による3-5-2のシステムを採用していた。中盤の構成はダブルボランチに左右のウイングバック、そしてトップ下というシステムだ。トップ下には中田英が君臨し、ダブルボランチはフィジカルの強さを生かしボール奪取能力に長け、ハードワークを厭わない稲本潤一と戸田和幸という組み合わせ。稲本にはタテへの推進力もあるだけに、攻撃面での貢献も期待された。
そしてウイングバックは右が17歳と322日という史上最年少で代表デビューを果たした市川大祐か森島寛晃、左は日本国籍を取得したレフティーの三都主アレサンドロが有力候補だった。ところが、この選手起用では小野のポジションがなくなってしまう。すでに中村俊は代表メンバーから漏れていたが、日本代表が誇る天才的MFの中田英と小野を同時起用できないか。
そこでトルシエ監督が考案したのが小野の左ウイングバックでの起用だった。初戦のベルギー戦のMF陣は市川、小野、稲本、戸田、中田英のユニット。試合は鈴木隆行と稲本のゴールで2-2のドロー発進だった。そして2戦目のロシア戦からトルシエ監督は明神を右ウイングバックに起用する秘策に出た。
これまで書いたように、明神はボランチを本職とする選手だ。市川のようなタテへの突破力やスピード、森島のような得点嗅覚はない。それでも明神を右ウイングバックに起用した理由を、当時の山本昌邦コーチは次のように説明してくれた。
「日本のストロングポイントは左ウイングバックの小野です。彼と中田英から攻撃は始まります。しかし小野を左ウイングバックに起用した際は、彼の守備力がウィークポイントにもなり得る。そこで小野の左サイドは突破されても仕方がない。重要なのは、左サイドからのクロスが右サイドに流れた場合、いかにしてそのこぼれ球を拾えるか。このために明神を右ウイングバックに起用しました」ということだった。
その言葉を裏付けるように、明神はロシア戦とチュニジア戦、さらに敗れはしたが決勝トーナメント1回戦のトルコ戦にも出場している。彼のような選手、「水を運び」つつ、与えられたポジションで個性を発揮したオールラウンダーの選手は、注目を浴びることは少なかったものの、もっと評価されてもいいのではないかと思う。
昨年のプレスカンファレンスで会った時は、「チームからいらないと言われるまで現役を続けます」と現役続行に意欲を見せていた。しかし今シーズン終了後は「チームからは来年も選手契約のお話をいただいたのですが、プロサッカー選手として求められるものに応えられないと感じ、引退という決断に至りました」と明神はクラブを通してコメントした。それも明神らしい最終決断と思う。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
彼だけでなく2019年は、田中マルクス闘莉王(京都)や明神智和(長野)といった2010年南アW杯や2002年日韓W杯で日本のベスト16進出に貢献した名選手たちもユニホームを脱ぐことになった。
J1での通算出場497試合は歴代9位。J2(G大阪)とJ3(長野)を含めると、リーグ戦やカップ戦などの公式戦の出場は通算723試合にも及ぶ。いかに息の長い選手だったのか、この数字からも分かるだろう。
代表ではU-23日本代表として2000年のシドニー五輪に出場してベスト8進出に貢献。当時のチームは中田英寿や中村俊輔ら“黄金世代"を擁し(小野伸二は予選での負傷により参加できず)、「史上最強」と言われたものだ。
同年10月のアジアカップでは、中田英こそ招集できなかったものの、中村俊と名波浩らが中盤を制圧してグループリーグではサウジアラビアに4-1、ウズベキスタンに8-1で圧勝するなど圧倒的な強さを発揮して1992年の広島大会に続き2回目の優勝を果たした。この時の日本は、「アジアカップ史上最強のチーム」と言われたほど完成度が高かった。
こうして迎えた2002年の日韓W杯だが、初戦のベルギー戦のスタメンに明神の名前はなかった。当時のトルシエ監督は代名詞とも言える「フラット3」による3-5-2のシステムを採用していた。中盤の構成はダブルボランチに左右のウイングバック、そしてトップ下というシステムだ。トップ下には中田英が君臨し、ダブルボランチはフィジカルの強さを生かしボール奪取能力に長け、ハードワークを厭わない稲本潤一と戸田和幸という組み合わせ。稲本にはタテへの推進力もあるだけに、攻撃面での貢献も期待された。
そしてウイングバックは右が17歳と322日という史上最年少で代表デビューを果たした市川大祐か森島寛晃、左は日本国籍を取得したレフティーの三都主アレサンドロが有力候補だった。ところが、この選手起用では小野のポジションがなくなってしまう。すでに中村俊は代表メンバーから漏れていたが、日本代表が誇る天才的MFの中田英と小野を同時起用できないか。
そこでトルシエ監督が考案したのが小野の左ウイングバックでの起用だった。初戦のベルギー戦のMF陣は市川、小野、稲本、戸田、中田英のユニット。試合は鈴木隆行と稲本のゴールで2-2のドロー発進だった。そして2戦目のロシア戦からトルシエ監督は明神を右ウイングバックに起用する秘策に出た。
これまで書いたように、明神はボランチを本職とする選手だ。市川のようなタテへの突破力やスピード、森島のような得点嗅覚はない。それでも明神を右ウイングバックに起用した理由を、当時の山本昌邦コーチは次のように説明してくれた。
「日本のストロングポイントは左ウイングバックの小野です。彼と中田英から攻撃は始まります。しかし小野を左ウイングバックに起用した際は、彼の守備力がウィークポイントにもなり得る。そこで小野の左サイドは突破されても仕方がない。重要なのは、左サイドからのクロスが右サイドに流れた場合、いかにしてそのこぼれ球を拾えるか。このために明神を右ウイングバックに起用しました」ということだった。
その言葉を裏付けるように、明神はロシア戦とチュニジア戦、さらに敗れはしたが決勝トーナメント1回戦のトルコ戦にも出場している。彼のような選手、「水を運び」つつ、与えられたポジションで個性を発揮したオールラウンダーの選手は、注目を浴びることは少なかったものの、もっと評価されてもいいのではないかと思う。
昨年のプレスカンファレンスで会った時は、「チームからいらないと言われるまで現役を続けます」と現役続行に意欲を見せていた。しかし今シーズン終了後は「チームからは来年も選手契約のお話をいただいたのですが、プロサッカー選手として求められるものに応えられないと感じ、引退という決断に至りました」と明神はクラブを通してコメントした。それも明神らしい最終決断と思う。
【六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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